「客観的であれ」という声が聞こえれば、現代人のほとんどが「それはその通り」と頷くだろう。では「客観的」とは何かと問えば、辞書は「個々の主観の恣意を離れて,普遍妥当性をもっているさま。 ←→ 主観的」と解説する(大辞林 第三版)(ちなみに現在通用している「客観(的)」ということばは、明治以降の訳語に過ぎない(『小学館日本語大辞典第四巻』)。しかし、私たちが一人の人間として、他の人間(あるいは人間一般)、さらには自分自身のことを語るとき、私たちは主観を排することができるのだろうか。また主観は常に恣意でしかないのだろうか。
「然り」とまっさきに答えるのは、脱身体的 (disembodied) 認識論である「客観主義」(Objectivism) を信奉する人びとだろう。しかしマーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』(紀伊国屋書店)やジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店などが明らかにするように、私たちの理解は私たちの身体・身体的経験およびそこからの想像力の働き(隠喩的投射など)に基づいている。ここで、身体・身体的経験さらには想像力は決して「恣意」として軽侮されるものではないことを想起しておきたい。私たちは身体・身体的経験を共有し、また言語で隠喩的投射などの想像力の働きも共有しているからだ。これらの共有は、決して恣意ではない。
そうなると私たちが「客観的」との対比から、「主観的」として私たちがしばしば蔑視する表現も、単なる恣意ではなく、多くの人の(ひいては身体と言語を共有する限りの万人の)理解に開かれた表現であることとなる。むしろレイコフやジョンソンなどが批判する意味での教条的な「客観主義」を信奉する人びとの脱身体的・超言語的な「客観」こそが、私たちの営み・この世界でのあり方の多くを欠損させてしまう偏り歪んだ見方となるだろう。
私たちが「主観」と呼んでいる表現をすべて教条的に排除してしまうのではなく、むしろ私たちの「主観」 ― 私たちが身体・身体的経験を基盤として、それを言語を媒介とした想像力の働きで主体的に表現した世界の見え方 ― を積極的に、しかし思慮深く、用いることの方が、私たちの世界理解そして自他理解をより十全にするのではないか。
「いや私たちとて主観を排除しているわけではないのです」と英語教育学の善男善女は言うかもしれない。「実際、動機づけ理論などは、心の有り様を研究しているわけですから」と善男善女は続ける。しかし私からすれば、心の有り様を幾つかの凡庸な形容詞や命題で代表させて、それらへの同意・不同意を五段階で答えさせるやり方(よくある「まったくそう思う」から「まったくそう思わない」の五件法のことだ)のがさつさあるいは荒っぽさの方が気になる。そもそもある一つのことばとて、背景、状況、文脈、人物、語り方などなどが異なれば、多種多彩の意味を表現するではないか。それを十把一絡げにしておいて、数万人ならともかくも数十人程度の「データ」として奉り、あとはソフトウェアにまかせて高度な統計的裏付けをしたと胸をはる神経は、少なくとも私には度し難い。そんなやり方は主観を大いに歪曲し損ねているとはいえないか。それで教育をまともに語っていると言えるのだろうか。しかも、ことばの教育を。
主観(主体)と客観(客体)の問題は、あるいは真理や人間科学の問題は、それほど単純なものではない。少なくとも私たちが、人と人との関わりである教育、人びとと世界をつなぐことばを研究しているなら、丁寧に多面的に、開かれたやり方で主観性・主体性を検討しなければならないのではないか。ちょっとでも主観性・主体性を見出したら、殺虫剤をふりかけるようにしてそれを忌避することはやめるべきだ。
そういう意味で、「客観主義」の信徒がもっとも嫌いそうな詩について、英語教育ももちろん含んだことばの教育の関係者がきちんと考えておくことは必要だろう。
だが私もあまり偉そうなことは言えない。私は小さい頃から比喩表現は好きだったが、その好みは料理のスパイスを好むようなものであり、あくまでも周縁的・例外的表現として好きなだけだった。比喩表現ばかりの詩を私はむしろ苦手としていた。
だが ― いつ頃からなのだろうか ― 私にも、通用している直接的な表現では決して表せないことがあることがわかってきた。詩人は、通俗的な意味で明確な文章が書けないから詩を書いているわけではない。むしろ詩人は通俗的な明確さを探求し尽くした上で、的確なことばを見出だせず、苦しみながら我が身から紡ぎだすようにして、あるいは僥倖で世界から天啓をいただくようにして、詩を書いてきたのだろう。
宮沢賢治の『春と修羅』の有名な一節は、傲慢さを偉さと混同していた若い時代の私には理解不能であった。
わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
これらの表現が、私がすべてと信じて疑わない私の見出す世界の何に対応しているか、私にはわからなかった(私は私の狭い世界に見当たらないことを語っている奴は馬鹿に違いないと自分の知性を過信したがっていた)。「わたくし」も当時の私には自明過ぎるものだった。「『私』は『私』であること以上の自明性があろうか。なぜその自明な存在を『青い照明』やら『あらゆる透明な幽霊の複合体』などと呼ばなければならないのだ」と一人口を尖らせていた。私はあまりにも愚かであり、実は不幸だったのだが、愚かさゆえに自分は幸せだと思っていた(その偽りの不全感に気づく感性も閉ざしたままに)。
宮沢賢治が、彼の最大の理解者でもあった妹(とし子)を失った詩(「オホーツク挽歌」)の一節に次がある。
海がこんなに青いのに
わたくしがまだとし子のことを考へてゐると
なぜおまへはそんなひとりばかりの妹を
悼んでゐるかと遠いひとびとの表情が言ひ
またわたくしのなかでいふ
ここで客観主義の善男善女を登場させれば、「『とおいひとびとの表情』が『言ひ』とは主観的な思い込みに過ぎない、ましてや『とおいひとびと』が『わたくしのなかでいふ』とは幻想、自分で作り出している幻覚に過ぎない、目を覚ませ!」と賢治を正そうとするだろう。
しかし賢治が見ているこの評定、聞いているこの声は、現実世界にまったく根拠をもたないものではない。実際、多くの人が賢治の悼み方を怪訝に思った。そしてそれは極めて「常識的」な態度であり、賢治は確かに「非常識」だった ― 私はここで「常識」「非常識」ということばから、できるだけ通俗的価値判断を抜こうとしている ―。賢治は確かに日常生活の中で他人からの否定的な視線もことばもあびたのだろう。だから賢治の表現はまったくの妄想ではなかった。
見田宗介は、上記の詩について次のように言う。
わたくしととし子の関わりのとざされかたを批判する<遠いひとびと>の声はたしかに、賢治自身の意識の投影でもあるけれども、この自己意識はまたそれ自体、現実の<遠いひとびと>の表情の中にその根をもっている。
このようにして<遠いひとびと> ― 直接的な関係性からの<外からの声>は、直接的な関係性を批判する客観性として、ある種の<倫理性>ともいうべき奥行きのある空間を、自我の内部に存立せしめてしまうことになる。
このようにして、自我はひとつの複合体である。<わたくしという現象>は、あの黒いかわいい幽霊たちもふくめて、あらゆる透明な声やまなざしの複合体である。(75ページ)
この詩は言うまでもなく賢治の主観的表現だが、しかしその主観とはあらゆる「客観」(= 全世界 マイナス 賢治の主観)とつながりをもたない純粋な恣意ではない。賢治の主観は、その内部に<遠いひとびと>という「対象」をもつ(「対象」とはもちろん「客観」と並ぶ "object" の訳語である)。賢治の主観とは、<遠いひとびと>という対象(客観)を含み、それと対話する。
では対象(客観)と対話をしている主観がいわば純粋な主観で、対象(客観)と純粋主観を含んだ主観は純粋でない主観なのかと言われれば、答えに窮する。私たちはその中に何ら対象(客観)をもたない純粋主観を想像することすら難しい。視覚も聴覚も触覚も嗅覚も味覚もなく、さらにはその内に何の思考対象ももたない「純粋主観」は全くの闇なのだろうか。それとも全くの光なのだろうか ― いずれにせよ私たちはそれを認識することはできないだろう。
「私」は、私が目にするもの、耳にするもの、体で感じるもの、舌で味わうもの、心の中に思い浮かべるものとの関係でのみ「私」でありうる(繰り返すが「私」は全くの闇でも全くの光でもない)。
「いや、つまらぬ理屈を言うな。『私』とはこの<身体>に他ならない」と自分の身体を指さして反論する者もあるだろう。だが「『私』とはこの<身体>だ」と断言し指差す存在は、その<身体>に含まれているのではないだろうか。一面で私たちは人間を単なる一つの生物システムとして捉えることができるが、私たちの日常的な(そして倫理的な)人間観とは、人間を単なる生物システム(生理学的マシン)として捉えることを拒む。私たちは、生物システムは生物学システムでも、自分自身と関係をもつ生物システム、つまりは自己言及的な生物システムを人間理解の前提としていないだろうか。
自己言及という作動で、言及される自己と言及する自己が生じる(「言及」ということばが奇異に聞こえるなら「指示」と言い換えてもいい)。自己言及の作動は(たとえわずかではあれ)時間を要求する。さらにそこには言及者と被言及者の関係性がある。だから「私」は時間的存在であり、関係的存在である。
人間はそれぞれが「私」という自覚をもつ限りにおいて時間的存在であり、関係的存在である。客観主義によれば、人間も、無時間的(つまりは静的・固定的)、かつ、その人間の観察者(研究者)の主観とは独立に、つまりは無関係的に捉えられることになる。だがそうか。人間とは、どんな作動も伴わない無時間的で、どんな対象ともかかわりをもたない無関係的な存在なのか。仮にそうだと言いはるにせよ、そういった客観主義的人間観は、日常的でありかつ倫理的でもなければならない教育の営みにおける人間観たりえるのだろうか。
見田は<遠いひとびと>の目について次のようにも語る。
これらのうらめしい目の数々は、もちろん賢治の自我から世界に投影(プロジェクト)された幻影に他ならないが、他ならぬこのような目の幻影を投影する自我の構造は、それじたいまた、この自我のありかを結節点とする関係の客観性の、投影に他ならないのだ。だからこれらの目とはたしかにそれじたいとして客観的にあるものではないが、とはいえたんなる主観ではなく、主観をとおして純化された客観性にほかならないのだ。
そして<詩人>とは、このように客観性を純化する濾過装置である。(89ページ)
賢治が自らの心のなかにありありと想像する他者の目は、たしかに物理的に実在する特定の人間の目ではない。しかし賢治にとって、その目が痛々しいほどに突き刺さってくる対象(ということは客観)である以上、賢治の心とは、まずもってこの対象との関係性で語られなければならない。賢治にせよ誰にせよ、(この時点の)賢治を語ろうとすれば、この他者の目という「主観的な対象(客観)」 ― 矛盾語法 (oxymoron) を許されたい ― との関係性が重要となる。賢治という人間の理解には、賢治の「主観をとおして純化された客観性」であるこの詩の表現をそのままに受け入れることが大切なのだ。
ここで注意しておきたいのは、私たちが自分や他人について何でも勝手に思い込んで、それをことばで表現したら、そのことばが特権的な事実になるというのではないことだ。私たちは自分でも後で馬鹿げていたと嘆く思い違いを多くする。自分や他人を表現することばは、公の空間で吟味されなければならない。「そう言えるのか。そうしか言えないのか。他のようには言えないのか。そう言い切っていいのか」 ― こういった問いかけによって鍛えあげられないことばは、仮にある瞬間の自分の思いの衝動的な表出ではあっても、それはそれこそ「恣意」ということばが相応しい、軽いことば、無責任なことばに過ぎない。
私たちは使うことばを吟味しなければならない(これが言語使用の倫理の一つだろう)。そして、詩作がことばの吟味の一つの方法であるとすれば、詩人とはたしかに人間の「客観性を純化する濾過装置」であろう。詩人は私たちの存在を明晰にする。
見田は賢治の明晰について次のように述べている。
賢治の明晰の特質は、それが世界へと向けられているばかりでなく、さらに徹底して自己自身へも向けられていることにあった。そしてこの自己自身へと向けられた明晰はまた、自己をくりかえし矛盾として客観化すると同時に、この矛盾を痛みとして主体化する運動でもあった。このように自己を客観化し、かつ主体化するダイナミズムの帰結こそ<修羅>の自意識に他ならなかった。(108ページ)
「<修羅>の自意識」とは、もちろん、「春と修羅」の表現を指す。
いかりのにがさまた青さ
四月の気層のひかりの底を
唾 (つばき) し はぎしりゆききする
おれはひとりの修羅なのだ
(風景はなみだにゆすれ)
詩作は賢治自身の客観化であると同時に、賢治という人間の主体化でもあった。詩作という客観化により、賢治は自らの主体性を獲得する。客観主義者の誤解を恐れずこの「主体」を「主観」と言い換えるなら、「客観」は「主観」と不即不離であり、世界・他者・自己の「客観化」は、そのままそれらの「主観化」である。私たちはこの「客観」と「主観」の関係性の中で、つまりは「客観化」と「主観化」の一見矛盾的 ―やはり「弁証法的」ということばを使いたい― な動きの中で生きている。私たちの生は、関係的で動的に、時間の中で展開している。
となれば私たちの関係性、動態性、時間性を可能な限り表現することこそが、人間理解のためにとるべき途とはならないか。そうなれば「客観主義」の記述・説明が、生きた人間の理解として適切なものとは思えなくなってしまう。
「詩の客観性」とは噴飯物の表現に聞こえたかもしれないが、私たちはむしろ飯を噴き出す自らの前提を問い直し、静かに私たちのありようを観察するべきではないのか。そして恣意的なことばの表出を自ら禁じ、「客観的」な(ということは同時に「主観的」な)詩や文学的表現を愛するべきではないだろうか。
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