2013年1月10日木曜日

音や声の響きが伝えること ― 吉本隆明 (1996) 『宮沢賢治』(ちくま学芸文庫) を読んで





熊倉伸宏 (2012)『肯定の心理学 空海から芭蕉まで』のまとめで、私は思い切って次のように書いてみた。

声とは、身体・物体、すなわち自然の動きであり、その響きが物事の名前となる。自然の動きである声の響きこそが物事の名前であり、それはこの世界の実体を示している。

短く言うなら、声こそが私たちの世界の実体を表している。


もちろんここでの「声」とは響きを伴った音である。それが人から出されようとも、世界から出されようとも「声」の響き、あるいは音の質感こそが、世界のありようを示している、というのが上記の考え方だ。


とはいえ、音の質感についても私が目覚めるのは遅かった。父の死をきっかけに一気にクラッシック音楽にはまってずいぶんCDを買っても、私はラジカセしかもっていなかった。「オーディオにこだわるよりも、一枚でも多くCDを買って自分の音楽世界を広げたい」と私は思っていた。

音の質感にあまりこだわらなかった背景には私の音楽の好みがあるかもしれない。私は何より音楽の構造性が好きだった(今でも好きだけど)。だからバッハやブルックナーなどの対位法的表現に喜びを感じていた。逆に言うと、響きを主とする音楽 ― ここでドビュッシーをあげてもいいだろうか ― は得意でなかった。

バルトークにはそれなりに構造感があるから、響きだけの音楽というわけでは決してないのだけれど(何より彼の音楽には生命力がある)、バルトークの弦楽四重奏曲集のCDは私は当初楽しめなかった。「ほんとうに、これがベートーベンに並ぶぐらいの弦楽四重奏曲集なのかなぁ」といぶかしがっていた。でもある時、生演奏で聞いたら ― ラジカセとは比べ物にならない音の質感を体験したら ― いっきにこれらの曲の虜になった。バルトークが言いたかったことが一気に理解できたように思えた(もちろんその理解は非言語的なものだけど)。

音楽の構造でもハーモニーでもメロディーでもリズムでもない、音楽以前の音の質感というものはあることが私にもわかったのだろう。以来、私はオーディオ装置をきちんとしようとし、一時はマニアックになったが、今はまあそれなりに落ち着いている(それなりにw)。

ことばの音と意味については、ソシュール言語学を学ぶときに、私たちはそれらの関係は恣意的なものに過ぎないと習う。しかし最近の研究は、音と意味はまったくの無関係ではないことを明らかにしている。詳細を思い出せないのだが、有名な実験の一つは、言語の違いを超えて多くの人に鋭角的なイメージを与える音と、柔らかなイメージを与える音があることを実証した。

言われてみれば当たり前だ。そうでなければ擬態語など成立するわけはない。

いや、もちろん言語学だって擬態語の存在は認めていた。ただし例外として。でもそう考えるべきだろうか。擬態語でしか、つまりは音の響きでしか伝えられないことはあるのではないだろうか(羯諦羯諦)。

井上ひさしも言うように、宮沢賢治の文学には擬態語があふれている。音の響きがそれこそどっとこどっとこ意味の世界を作りあげている(その巧拙はともかく、私は今、なぜ、そしてどのように「どっとこどっとこ」ということばを思いついたのだろう。そして私はこのことばで何を意味しているのだろう。あなたは何を理解するのだろう ― 私のこの試みを鼻で笑わなければの話であるが ―)。

吉本隆明も賢治の擬態語(擬音語)に注目する。

宮沢賢治ほど擬音のつくり方を工夫し、たくさん詩や童話に使った表現者は、ほかにみあたらない。目にうつる事象のうごきを、さかんに音の変化や流れにうつしかえようとした。はんたいにぴったりした語音があると、すぐにかたちの像(イメージ)に転写できる資質も、なみはずれていたとおもえる。たとえば「オツペルと象」で稲こき機械のまわる音を「のんのんのんのんのん」とあらわす。わたしたちが回転音にふつう与えている「ぶんぶんぶん」といった擬音とどんなにへだたっていることか。のん、のんというのはたんに回転音をじっさいの音に近づけただけでなく、まわっている突起のある円筒のかたちがあざやかにうかぶ気がしてくる。だれもこんなふうに、語音とその物のイメージをむすびつけた擬音をつくったものはない。(331ページ)


吉本によれば、擬音とは、一方で、分節化して意味をもったことばを乳児や動物の声のように未分化的にとらえることであり、他方で、乳児や動物はおろか無生物や天然の現象を擬人化しそれに半ば意味を与えることでもある(335ページ)。擬音語は、近代言語学ではあくまでも周縁的・例外的存在であるが、賢治は擬音語を他の「ふつうの」ことばと区別していなかったと吉本は考える。

宮沢賢治のなかでは、わたしたちがここで擬音とみているものは、意味と像の機能としてふつうの言葉と区別されていなかったのではないか。そうみられるふしがある。かれにはある普遍的な言語の像があり、擬音は分節された言葉とおなじように、この言語の像をめざしたといった方がいいかもしれなかった。 (336ページ)


吉本の考えを敷衍して、私は、むしろ賢治は擬音の方を本質的で普遍的な言語ととらえていたのではないかとも考える。擬音はもちろん言語によって異なる(例えば「コケコッコー」と "cock-a-doodle-doo")。だが賢治は、擬音がそんな習俗に引きづられることを避けようとしていた(だからこそ彼の擬音は独創的なのだ)。吉本は言う。

宮沢賢治は擬音が習俗にちかづくことをまっこうから避けようとした。それなら擬音は何に近づけばかれにはよかったのか。そしてそのばあい習俗のかわりに何を基準としようとしたのか。かれには擬音が事象そのものの実体の像にできるだけ近づくことのほかに、基準はなかった。事象そのものの実体は普遍的なものだ。 (339ページ)


ここで私は熊倉伸宏 (2012)『肯定の心理学 空海から芭蕉まで』を思い出す。そして『モモ』の「星の声」を。 あるいは小坂忠さんの歌声を。さらには綾屋紗月さんが痛いぐらいに感じている世界の響きを ― 考えてみると、綾屋紗月さんの感覚世界について学んだことが私の一つの転換点になったのかもしれない。それも結構大きな―。


音や声の響きでしか伝えられないこと、あるいは音や声の響きこそがもっともよく伝えることはあるのではないか。


毎日新聞では、ここ最近、擬音語・擬態語について書いたエッセイが続いた。

一つは福音館書店の創業者である松居直(まつい・ただし)氏の述懐である。

幼稚園の頃、寝る時に母が北原白秋の「アメフリ」を読んでくれた時のことをはっきり記憶しています。「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」という言葉の響きに驚きました。一瞬、外国語だと思ったのです。翌朝、目を覚ました私が布団の上で「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」と踊っていたという話を姉がしてくれました。中山晋平が作曲した童謡ができる2年ほど前のことです。言葉と語り手の気持ちが私の心の中に入ってきて踊り出してしまったのでしょうね。それが言葉の力なのです。母が読んでくれた時、私の人生は決まってしまったのかもしれません。

松居直「生きる力 言葉から」『毎日新聞』(2012/12/19)


幼い日の松居氏は、何より「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」という音の響きに心踊らされた(いや、正確に言うなら、絵本を読んでくれた母親の「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」の声にだろう)。この音あるいは声の響きは、松居氏の身体の中の何かを喚起した。その喚起の力は、翌朝の氏を踊らせるぐらいのものであった。氏はこの擬音にまちがいなく意味を見出していた(他のことばに翻訳しにくい意味ではあるが)。これが「言葉の力」と氏は言う。

もう一つは、作家の西内ミナミ氏のエッセイである。彼女は父親が買ってきた児童向け雑誌に掲載されていた草野心平の「山猫ビーブリ」についての思い出である(それにしても「ビーブリ」なんて、かっこいい名前だなぁ)。彼女はこの作品との出会いが、彼女が作家を志すきっかけとなったと言う。

しかし脳裏に残ったのはストーリーよりも「がわごわあ ががあ がわわらあん」というジャングルの闇の中で幼い山猫が聞いたライオンの雄たけび。詩人・草野が表現した不思議な擬音でした。

この雄たけびは、声の主のわからない子どもたちをはらはらさせる擬音ですが、里心ついた山猫にとっては、故郷アフリカの象徴。音(おん)と共に、ことばが紡ぎ出す不思議な力と強く感じたようです。

西内ミナミ 「ことばが紡ぐ 不思議な力」『毎日新聞』 (2013/1/7)



「このブログも、ずいぶん英語教育から離れてきたよなぁ」と思う読者もいらっしゃるかもしれない。だが私は必ずしもそう思っていない。英語教師も、ことばの教師である以上、このような音そして声の響きの力を覚える感性が不可欠だと思うからだ。「標準的」な発音(構音)はもとより大切だが、それだけでは人間の声にはならない。

英語教師は、日本語はもとより、英語でも、音そして声の響きに対して鋭敏でなければならないと私は考える。そうでなければ構音的に「正しい」音読はできても、思わず人を引き込む人間の声の「朗読」はできない。それ以前に児童・生徒・学生の心と身体にきちんと届く人間の声が出せない。

そして今の子どもはそんな人間の声に飢えているのではないか。

かなり切実に。

私たちは教育の場に、人間の声を取り戻さなければならない(体罰に伴う罵声が教育の場につきものだなどとは決して考えたくない)。教育の場とは、声の響きに耳を澄ませることができる場であるべきだろう。



そうして耳を澄ませば ―ここで私は村上春樹の表現を借りる― 私たちは風の歌も聴くことができるだろう。そうすれば「星の声」も聴こえてくるかもしれない。



風の歌を聴き、星の声を聴く人にあるのは穏やかな顔だろう。


私は穏やかな顔に会いたい。










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