2013年1月9日水曜日

熊倉伸宏 (2012)『肯定の心理学 空海から芭蕉まで』新興医学出版社





妙に気になる本というものはあるものだ(それが数ヶ月、数年に一度あるかないかのものにせよ)。

最近の私にとってのそんな本が、この『肯定の心理学-空海から芭蕉まで』だった。この本について最初に知ったのは、村上陽一郎氏による書評(毎日新聞10月21日)を読んでのことだった。しかし、既にあまりにも多くの本を未読のままに散乱させ、それ以上にあまりにも多くの仕事を未完にしている以上、本ばかり買うわけにはいけない。だがこの本は毎日新聞の年間書評でもさらに取り上げられた。そこで再び気になりアマゾンで再度チェックしたら、すでに中古でしか手に入らない状態だった(追記:他のオンライン書店、例えば紀伊國屋書店では、この本は新品で購入できるようだ)。だから思い切って購入した。買ってよかった。一気に読み終えた。私はこの本との出会いを喜ぶ。



安直に語ってはいけない内容を、著者がぎりぎりのところで書いた本書を軽々しく紹介することは、非倫理的ですらある。だが、この本のことを少しでも伝えたく思い、私としては本書第I部第3章「『共感』の心理学 空海『声字実相義』を読む」について少しだけ書くことにする。



精神科医である著者は、ヒカリ(仮名)という患者に出会う。彼女は親友の死と幼児期の母子葛藤の記憶から生きることに苦痛をもつ、鋭敏な感性と知性をもった女性だった。彼女は自死願望さえ口にした。そんなヒカリは言う。

やさしい言葉は私を救ってくれない。

やさしい人は私を救ってくれる。(後略) (56ページ)


ヒカリはかつて、「あなたがいるから私は生きてゆける」とまで思っていた親友を失い、苦しむ。だが、苦しみの一つは、生前の親友に対するヒカリの思いが本当のものであったにもかかわらず、ヒカリは親友の死後も生きているという事実だった。ヒカリにとって生きることは苦痛であった。だからヒカリに与えられてきた「あなたの命はかかがえのない貴重なものだから、死んではいけない」や「あなたを愛している人が悲しむから死んではいけない」という「やさしい言葉」は、むしろヒカリを傷つけていた。


著者は述べる。

「やさしい言葉」は孤独な心が他者と交わることの不可能性を露わにした。そして他者への飢餓感を引き起こした。そして「生きる」ことがさらに苦痛であることを明らかにした。自分は他者に理解されない孤独な存在であること。その孤独は他者の理解を超えること。しかも、その孤独には、もう一つの感情、他者を求める心が異物として秘められていること。「やさしい言葉」はその苦痛を知らずして語られる。それゆえに孤独な心をさらに孤独にする。人と人の「隔たり」を露わにする。(61ページ)


しかし言葉はまったく無力だというわけではない。人びとの間を「隔てる言葉」もあれば「つなぐ言葉」もある。となれば、両者の違いは何か。語彙選択か。統語構造か。修辞法か。何が隔絶された人の心に架橋するという不可能を可能にするのか。


ヒカリについて著者は語る。

まったく同じ言葉、記号、シンタックスで話しても、人を生かすか、死なせるか、を決定するものが背後で作動している。それは何か。「やさしい言葉」ではなくて、「やさしい人」だとヒカリは言う。それでは「やさしい人」とは誰か。その人が語る言葉は何か。その人はどのように不可能を可能にするのか。彼女はいったい何を語ったのか。 (63-64ページ)


ここで著者は空海の言語論である『声字実相義』をよすがに考えを深める。だがこの思考は、著者の思いを「著名な他者」の言葉によって飾り、そのことによって読者の心を遠ざけてしまう「引用文献的思考」(64ページ)ではない。また人びとの間で使われてきた言葉の生態を自分勝手に改造してしまう「操作主義的思考」(65ページ)でもない。著者は自らの空海理解の乏しさを第一に告白しながら自らの思いを文章にしてゆく。



空海の『声字実相義』については、このブログでは『空海コレクション 2 (ちくま学芸文庫)』から引用することとする。(なおエンサイクロメディア空海では、 北尾克三郎氏による現代語訳を読むことができる)


空海は題名の『声字実相義』(しょうじじっそうぎ)の「声」「字」「実相」「義」を次のように解説(釈名)している。

初めに、釈名とは、内外(ないげ)の風気纔(わずか)に発すれば、必ず響くを名づけて声(しょう)と曰うなり。響(ひびき)は、必ず声に由る。声は、即ち響の本(もと)なり。声発(おこ)って虚しからず、必ず物の名を表するを号して字と曰うなり。名は必ず体を招く、之を実相と名づく。声・字・実相の三種(さんじゅ)、区(まちまち)に別れたるを義と名づく。

また四大(しだい)相触れて、音響必ず応ずるを、名づけて声と曰うなり。 (137ページ)


『空海コレクション 2』の北尾隆心氏はこの箇所を次のように訳している。

(人の)体内にある気息と、口外にある空気が少しでもぶつかりあえば、必ず響く(音響)を名づけて、「声」という。すなわち、響きは、かならず声によっており、声は、響きの本体である。声がおこると、無意味ではありえず、かならず物事の名義名跡をあらわすことを「字」と呼ぶ。名は、かならず実体を示し、このことを「実相」と名づける。「声」・「字」・「実相」の三種が、それぞれに区別されているのを「義」と名づけるのである。

また、四種の存在要素(四大)がそれぞれ接触すると、必ず音響が生じることを呼んで「声」というのである。 (138-139ページ)


これを私なりにまとめると次のようになる(このように浅薄な理解で物事を曲解することは、およそ愚かなことなのだが、私は自分の愚かさを、一つ一つ目の前に出してゆかないと、前に進めないから、ここに愚かさを書き連ねる)。

(1) 「声」とは、人の呼吸、もしくは、世界の四大要素(地=固体、水=液体、火=エネルギー、風=気体)の相互作用が、響きとなったものである。(注:四大要素の解釈は、オンライン翻訳北尾克三郎氏にしたがっている)

(2) 「字」とは、声の有意味性を表す。声は物事の名であり、声は必ず何かの物事を意味する。

(3) 「実相」とは、声が示す名が、必ず実体を示していることである。

(4) 「義」とは、「声」・「字」・「実相」の区別のことである。


これをさらに集約すると次のようになる。

声とは、身体・物体、すなわち自然の動きであり、その響きが物事の名前となる。自然の動きである声の響きこそが物事の名前であり、それはこの世界の実体を示している。

短く言うなら、声こそが私たちの世界の実体を表している。


重ねて言うが、このように安直な要約はまともな研究者ならやってはいけないことである。だが、私は野口三千三氏や竹内敏晴氏の言語論『モモ』の「星の声」を総括できる枠組みがここにあるかもしれないという誘惑に負けて、今このような要約をしている。





以上の空海の言語論を踏まえた上でヒカリの話に戻る。著者は専門家でもありながら(あるいは専門家であるがゆえ)、ヒカリが発する言葉に虚心坦懐に耳を傾けることの困難さを告白する。

自然が発する「響き」に言葉の真実がある。響きを聴きさえすれば良い。それは世の人が誰でも行なっていることであった。それは余りに日常的で当然にすぎることであった。それほどに日常的な行為がなぜ困難なのか。「響き」を虚心に聴くことは恐ろしいことだからだ。死の恐怖にさらされた者の語りは尚更であった。 (78ページ)


小賢しい断言(「あっ、そりゃ、○○だね」)、あるいは役割演技的な同意(「ウン、ウン、大変だったね」)は、人の自然 (human nature) の動きである声の響きを消してしまう。私たちは理屈や理論で、語る人の存在を抑圧してはならない。

だがそれは時に恐ろしいほどに困難だ。だから私たちは常日頃、惰性的で頽落的な通用表現でお互いをごまかしている。相手にも自分にも、自然な声を出させずに、世間の理屈や理論でよいとされている平板な語りを続ける。そして身体のかすかな動きを声に出そうとする者を抑圧する。そうして私たちは自らの「個別的自我」を守り、この世界に生きるということを、個別的自我間の損得勘定ゲームに変えてしまう。

だが、身体の奥深いところから発せられる声の響きは、そんな個別的自我を圧倒する。自然の響きである声は、個別的自我などをはるかに超えた開けた世界での共鳴を欲する。

響きは個別的自我に自然への従属を要求する。「私はこう考えた」、「彼はこう考えた」と分析している間は、そこで語られる言葉は個別であり真実を含まない。言葉が人と人の間で響き合うとき、はじめて言葉は自他を超え、合理を超え、言葉自体を超える。響きの前では人は言葉に従うことしかできない。理屈付け、理論化は後から来る。解釈の言葉が共感を産むのではない。共感はまずは「響き」として意外性をもって現れる。響きは自然の語りであり、そこから個別的な思考が作動するに過ぎない。 (80ページ)


私の推測に過ぎないが、ヒカリの声はとてもかすかで繊細な肌理の響きを有していたのだろう。しかしその微細な身体の動きを、ヒカリは自ら止めることはできない。もし止めてしまえば、ヒカリは生きながらえながら死んでしまうだろう。だが世俗世界の人びとは、ヒカリにも誰にも、そのような声で生活すること(とりわけ仕事をすること)を許さない。ヒカリはもはや世俗世界で自らの自然を表現できなかった。つまりは自分であることができなかった。ヒカリの声をその響きのままに聴く存在は精神科医の著者だけとなった。

しかしそこでヒカリはつぶやく。「死にたい」と。



私たちはどうすればいいのだろうか。「いや、生きていればきっといいことが・・・」や「自殺はいけない。なぜならば・・・」といった、のっぺりとして無神経な声の助言は、ヒカリをさらに苦しめるだけであることは先程確認したとおりだ。私たちはどうしたらいいのだろう。(いや「私たち」という表現で自分をごまかしてはいけない。私はどうしたらいいのだろう)。


ヒカリの言葉を受けての著者の行動についてはぜひ本書を読んでいただきたい。もったいぶって言わないのではない。著者の行動が安易なマニュアルのようにパターン化され一般化されることを恐れるからだ。


ただ、ヒカリは「やさしい人」に出会えたことだけはここでも告げておく。しかしその「やさしい人」の正体は、おそらくこれをお読みの皆さんが想像している人とは異なるはずだ(少なくとも私が予想していた人ではなかった)。その具体的な人物を特定せずに、ここでは筆者のまとめを引用しよう。

さて、「やさしい人」とは誰だろうか。

響きを聴き、それに、もっとも素朴に呼応する人。もっとも普通のことを普通に感じることのできる人。感じることから目を逸らさない人。もっともウブな心をもった人。真に自然な人。その人の心には膨大な自然があるにちがいない。その人の心には誰でもが住みつく空間が用意されているにちがいない。自分が生まれる遥か以前の過去、自分が生きている世界、これから生きていく者たち、誰でもが住みつくことが出来る自然な空間がそこにある。 (83ページ)




本書は、著者の表現を借りるならば「奇書の部類に属する」(149ページ)のかもしれない。だが私たちはすでに世間で権勢を誇る言説に辟易としていないだろうか。真善美の追求たるべき言説も、傲慢な「正しい言葉」、佞奸な「得する言葉」、あるいはせいぜい鈍感な「やさしい言葉」ばかりで埋められていないだろうか。


臨床医であり精神医学研究者でもある著者は「エピローグ」でこう述懐する。

大切なものは、何時も、研究室ではなくて、日常の些細なことから生まれて来た。答えは、何時も、日々の営みの中にあった。私の頭脳が成果を計算しない時にのみ、有効性とか、効率とか、業績や出世を考えない時、無欲の時、人に助けられた時、患者から学ぶ時、つまり、自己主張を捨てた時、私の頭脳が黙する時、全き受動性に自分を委ねた時にのみ、私に創造が与えられた。それが私の方法であった。 (145-146ページ)


方法論のハンドブックやマニュアルが流行する中、およそ世間受けしないような「方法」である(いやそもそも「方法」とは呼ぶべきではないのかもしれない)。ただ私はこのような生き方に憧れる。このような生き方を示している人びとを敬愛する。自然を愛したい。愛せていないから愛したい。そして自然に愛されたい。
















2 件のコメント:

  1. 本書評を読んで、ぜひ読んでみたいと思いコメントを書かせて頂きます。

    ヒカリについての記述(本書を読んでおらず部分的引用ですが)を読んでいると、高校時代の頃のある体験を思い出しました。彼女はヒカリと同じようなことを僕によく言って来ました。そのことについてあまり詳しく書くことはここではしませんが、「死にたい」という言葉を前にして自分がとても無力であることを思い知りました。
    当時の自分の発想は「どんな言葉なら彼女を救えただろう」でした。よくうつ病の方に「頑張れ」と言ってはいけないと言われますが、ある言葉はある状況で言えば同じような効果を持つ、と思い込んでいました。
    しかし、最近コミュニケーション論について授業を受けたり、大学で多くの人に出会ったりする中で、必ずしもそうではないのだという考えに変わってきました。そしてヒカリの

    やさしい言葉は私を救ってくれない。

    やさしい人は私を救ってくれる。(後略) (56ページ)

    という箇所で改めて思いました。ある1回のコミュニケーションの場面を想定しても、その2者の関係が以前からあれば効果も変わってくることは容易に見当がつきます。
    そう考えると、自分の友人に対して「どの言葉を選べばよかったか」ではなく「どう接していればよかったか」と考えられると思います。

    このように不思議な言葉について、より勉強を重ねたり日常の自分達の言語使用を見つめなおして、より深く理解できたらと思いました。そして、この本を読んでみようと思いました。

    長文駄文失礼しました。

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  2. mochiさん、
    コメントをありがとうございました。
    私たちはとかく、言語とは自律的に存在するもので、
    私たちの手を離れてもその力を失わないと考えがちですが、そうかなぁと最近思い始めました。

    私たちの存在があって、そこからことばが生まれます。
    (あるいはそこにことばの種が羽毛に乗って降りてきます)。

    私たちのあり方を問わない言語論の限界を感じます。

    少なくとも教育といった臨床の場では、人間存在を十分考慮した言語論が必要だと思います。

    ・・・といった考えは、非常に論文として採択されない
    のですが(苦笑)、学問は立身出世のためでなく、
    世のために行うもので、私は既にもったいないほどの
    立場を与えられていますから、これからもきちんと
    学び、学んだことは勇気をもって世に問いたいと
    考えています。

    これからもよろしく。

    2013/01/10
    柳瀬陽介

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