2012年2月24日金曜日

飼い犬に芸を教えるように、私たちは自分のからだに新しい動きを教える






■和田玲先生からのお返事


前回の記事をきっかけに敬愛する先生にメールを出して、その先生からいただいたお返事は前回の記事末尾に掲載した通りですが、実はもう一人の敬愛する先生である和田玲先生(参考記事:その1その2)にもひさしぶりにもメールを出しました。その和田先生からもお返事をいただけました。この文章も私だけで読むにはもったいないので、ここに先生の許可を得た上で転載します。



「動き」というものは、生得的なものではないから、きちんと訓練し、その動きに習熟しなければなりません。このあたりは、理屈を理解(Input)し、しっかり習熟(Intake)するという英語教育の流れと変わらないものですよね。

別の例で言えば、僕らがテコンドーの試合に出る前には、対戦相手の動きや癖を知って、こちらがどのような場面を生みだし(僕はよく「ストーリー展開」と言う言い方をしています)、そこでどのような「動き」をしたら、相手を仕留められるかを理解し、その体系を体に覚え込ませる訳です。が、その時点では「意識」が主なんですね。まだ「練習」ですから。

しかし、それを何度も何度も繰り返し「習熟」度を深めていくと、やがて体はある場面に対して反射的に動き出すものです(Output)。意識を体が上回るような感覚にさえなります。

ちなみに僕が自分のコンディションを測る時には、「意識」がとらえる瞬間スピードと「体」が勝手に動きだす瞬間スピードのどちらが早いかで認識していました。格闘家には皆、そんなところがあるのではないでしょうか?調子が悪いときには「意識」が先行し、体がそれに遅れてついてくる感覚です。あるいは意識も体も同時にある対象をとらえながらも、体が求める速度でついてきてくれなかったりするわけです。そういう場合には、相手に打撃を加えることはできず、逆にカウンターを受けやすくなり、こちらが窮地に立たされたりしまいます。

全国大会・準決勝以上のレベルでは、「意識」と「動き」のコンディションは皆、相当高いレベルで整えてきているものなので、次は相手をひっかける「思考」の上下で勝負は決まります(思考のプロセスは、「①観察→②分析→③原則を導く抽象作業→④戦略」という感じです。デカルトみたいですが、これがない選手は絶対にチャンピオンにはなれません。一流の選手達は、この思考作業の鋭さを「センス」と呼びます。僕と同年のある選手は169センチの小柄な体系であったにもかかわらず、このセンスの鋭さでライト・ミドル・ヘビーの三階級を制覇してしまいました。この点は、優れた画家や音楽家や小説家、そして教育家も同じだろうと思います)。

結局、教育実践、とりわけテンポの良い、優れた授業実践者というのは、この「観察・分析・総合」というデカルト的思考を持っていて、そこから導かれた戦略(授業プランにあたるものでしょうか?)を体に覚え込ませていきます(リハーサルor経験値によって)。したがって、授業者が意識を越えた領域で勝負できないようでは、結局、あまり良い成果をあげることはできないということを僕は教壇に立つようになってから、すごくよくわかりました。先生方は概してこういったことをあまり意識されていないようにも思えます。

公開(実験)授業に臨むやけに緊張している先生方や研究授業前の教育実習生などは、そのための習熟作業ができていない時点で、「予選敗退」という所なのではないかと僕はいつも思っています(習熟作業が済んでいる実践家は、通常「緊張」などしません。むしろ自分がイメージした通りにストーリーを展開していくだけなのですから)。実践に習熟している授業者には、迷う間もなく、勝手に(=「自然の力に任せて」)教室内に必要な指示やインストラクションを投げかけていくものなのではないかと思います。

教育実践にもこの「習熟作業」がとても大切なのだということを示唆する意味で、僕は先日の柳瀬先生のブログはとても意義深いものだと感じました。あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)。




■私なりの論点整理

蛇足的に、私なりに上の文章のポイントをまとめるとしたら次のようになりますでしょうか。



(1) 新しい動きをからだに教える時には、私たちは意識を使う。

(2) しかし習熟すれば、からだの始動(非自覚的な状況認識と運動開始)の方が、意識の始動(自覚的な状況認知と自由意志の発動)より早くなる(=気がついた時にはからだの方が動いている)。

(3) 熟達者は皆、意識よりもからだの方が先に動くようになっているので、熟達者同士で勝負をする際には、からだのレベルではなく、観察・分析・思考による戦略のレベルで勝敗が決ることが多い。

(4) 授業においても優れた教師は、教育的技術(「技」)においても意識よりもからだの方が先に動くまで習熟をなし、かつ、これまでの観察・分析・思考から、戦略(「授業プラン」)をもって授業に立っている。

(5) 熟達教師は、たいていの行動を、意識する以前に開始させている(=「意識を越えた領域で勝負」できている)。だがその一方で、大局的な授業プランは忘れていない。意識は、細々とした行動のコントロールのために常時使われるのではなく、大局観の整理・検討のために時折使われるだけである。

(6) 初心者教師は、往々にしてからだの「習熟」が不十分なまま、頭の中の意識的な「授業プラン」だけで勝負しようとするが、実際は細々とした教育技術の執行に意識を取られてしまい、やがては大局観を失い、失敗する。教育実践でも教育的技術の「習熟作業」が重要である。

(7) 熟達者とは、多くの行動を、意識を使わずに、からだにいわば自律的に動いてもらって行う。熟達者は、意識をせいぜい時折思考レベルの大局観の整理・検討に使うぐらいであり、ほとんどの行動を、ただ端的に行なっている。





■意識とからだの間接的な関係

授業論として大切なポイントは何より(5)と(6)ですが、私としては(2)について注目したいと思います(この(2)について、私が和田先生の意図を誤解しているのでなければいいのですが)。

よく「自動化」などの習熟は、意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになることだ、などと言います。

しかし、この時に注意しておきたいのは、習熟させる新しい動きは、意識による教示に促されて学ばれるとはいうものの、「意識による教示」は「からだが覚える動き」と質の異なるもの、あるいはカテゴリーを異にするものだということです。

前回の記事でも意識とからだの関係を、「象使いの少年と象」や「飼い主と犬」にたとえる神経科学や神経倫理学の考え方を紹介しましたが、意識がからだに新しい動きを教えるのは、象使いの少年が象に新しい動きを教えるようなもの、あるいは飼い主が犬に新しい芸を教えるようなもので、象使い・飼い主の人間言語と、象・犬の言語(というより思考回路・神経回路)は異なると私は考えます。

象や犬は、象使いや飼い主の教示意図をある程度は理解できるのでしょうが、象使いや飼い主の人間言語をそのまま自分の身体に適用して新しい動きを覚えるわけではありません。象・犬は、不可解な人間の言語の意図をぼんやりと理解し、象・犬なりに新しい動きを試しては新たに象使い・飼い主からのフィードバック(例「よし、それでいい」という褒美や、「違う」という罰など ―ちなみに、褒美や罰などの身体的フィードバックは、人間言語と違って象や犬にもよくわかる原始的レベルのものです―)を得て新しい動きを自得・体得するとは言えませんでしょうか。

この関係は、実は意識と(自分の)からだの間にも成立しているのではないか、というのが私の論点です。意識はそれなりに自分のからだを思う通りに動かそうと指示を与えます(指示を明瞭なものにするために指示はしばしば言語化されます)。しかし、新しい動きを成立させるのは、その意識のことばではなく、あくまでもからだの動きです。

意識のことば(=自分自身への指令)とからだの動きは、もちろん関係しています。ですが、思うようにからだが動かない例からよくわかるように、意識と身体は直結していません(直結しているように思えるのは、習熟した動きの場合です。しかしその場合は意識よりもむしろからだの方が先に動くのは上で確認した通りです)。

意識は、あたかも象使いや飼い主が、象や犬に辛抱強く新しい動きを教えるように、短気を起こさずに、身体が身体自身の能力で意識が意図したように動いてくれるようになるのを待つ、あるいはそのように動くように環境を整備してやる、ことぐらいしかできないと考えるべきなのではないでしょうか。意識とからだは関連しているしつながっているが、直結していない ― 意識のことばを身体はうまく理解できないし、身体のことばを意識はぼんやりとしか理解できない ― と考えておいた方が何かとうまく説明ができるのではないか、というのが私の考えですし、anomalous monismについてきちんと理解しておきたいと思う所以です。

私の初歩レベルの武術稽古にしても、今は「まずは右足を出して」などと意識で動きを確認しながら新しい技を繰り返し練習していますが、おそらく私のからだは「まずは右足を出して」といった意識のことばを理解しているのではなく、意識のことばとは別種類の、いわば神経回路言語を理解しているのではないかと思います。つまり私の意識が「まずは右足を出して」などと言っている間に、私のからだは自然とその時の私と相手の身体構造の関係からして、重力の流れを断たない最小抵抗の動きを感知しそれを学習しているのではないかと思います。意識のことばと、からだのことばは違うというのがここの(比喩的)論点です。さもなければ、思わぬ時に意識も間に合わない瞬時にからだの方が勝手に動いて、最適の動きをできるようにはなりません。再度たとえを使いますなら、飼い主は飼い主の思考と言語で話し、犬は犬の思考と言語で自己理解しているとでも言えましょうか。


■自動化で意識がなくなるのではない

上で自動化を「意識的に行なっていたことを、意識しなくても(=無意識に)できるようになること」と簡単に定義しましたが、これまでの議論からすると、「意識的に行なっていたこと」とは<からだへの間接的な指示>であり、「意識しなくても(=無意識に)できるようになること」とは<からだが自分でできるようになったこと>となります。後者が達成されると、<からだへの間接的な指示>という前者の意識の働きは不要になりますが、このことは意識の働きが消える・消えなくてはならないことを必ずしも意味するわけではありません。意識は、おそらくは本来の仕事であるはずの、思考レベルで明らかになった大局観と現状が齟齬をきたしていないかをチェックする高次レベルのことのために使われるはずです。

読者の皆さんの中には、「何をそんなに細かなことを議論しているのだ」と思われている方もいらっしゃるかもしれませんが、私は、意識の働きとからだの働きをきちんと理解していないと、技能習得において意識を過剰あるいは過少に働かせたり、からだを過少あるいは過剰に働かせたりという、理に合わないことをしてしまうのではないかと考えていますので、このような考察をとりあえずはブログを使って行なっています。

意識とからだの関係を考える際には、武術でもスポーツでも、音楽でも芸術でも、とにかく心と身体をまるごとに使っている経験があると、その経験を基盤に考えることができますので、便利です。和田先生もメールの最後に「あとは、体育会系的な比喩が言語教育の実践をきちんと説明し得ていることを、読者や学生さんたちがどの程度「実感」をもって理解できるかにかかっていますね。こういうところが、案外難しいものなんですよね(笑)」と書いていらっしゃいますが、このような説明は、(大げさに言うなら)心身一如(あるいは心身一如を目指したこと)の経験がある人にはすぐわかるし、そんな経験などまったくない頭でっかちで、無味乾燥の記号操作が知性だと信じているような方には、まるで何を言っているのかわからないものなのかもしれません。この意味で、私は子ども時代に、子どもが強いられてではなくて、自発的に何かに熱中することの重要性を強く感じますが、それはまた別稿で。



追記

私は約20年前、英語教育の世界で哲学(ウィトゲンシュタイン)の話をし始めた当初、ずいぶん冷たい扱いを受けました(世間には「私はそんなことわからない」と誇らしげに語り、その理解できない事を話す人間を悪し様に言い、さらには冷たい仕打ちをする方もいらっしゃるものだということをその時に学び、今日に至っています)。

現在では「英語教育にも哲学は必要ですね」と言い始める方は何人か出現しましたが、身体論についてはそのような方はまだ数える程です。私の被害妄想でなければいいのですが、こういった身体論もしばらくはそのような扱いを受けるでしょう。しかし、広い世間にはきっとわかってくださる方がいらっしゃいますから、私はそういった一握りの方々のために文章を書きます(そして自分の錯誤を正してゆきます)。「身体論などわからない」と豪語される方、具体的な疑問や反論はお受けします。しかし具体的な論点が一切わからないのなら、せめて邪魔だけはしないでください。







追追記

「意識とからだは別のことばをしゃべっている」ことに関して別の例をあげますなら、私が大学1年生の時に、英語のRの音を訓練したときのことを思い出します。意識の方では発音教本に基づき「日本語の時のように、舌で上顎を弾かないようにして、舌を巻いて上顎に接触させないままに息を出す」などということばをしゃべっておりましたが、その通りに口舌をなかなか動かせない(私は少なくとも数ヶ月ぐらいしないとこのように口舌を動かすことができませんでした)からだのことばは、(意識のことばからすれば)「うーぁーぉー」ぐらいにしか聞こえない新しい身体感覚(身体マップ)の獲得への試みでした。私の意識は「舌を巻いて上顎に・・・」などと語りつつつ、私のからだは「うーぁーぉー」などと語っていたように思います。





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