現代社会における英語教育の人間形成について
―社会哲学的考察―
―社会哲学的考察―
柳瀬陽介 (広島大学)
この資料は、全国英語教育学会(於 昭和女子大学 2008年8月9日)の問題別討論会(「学習者の成長欲求に英語教育はどのように応えるか―より効果的に英語力を養うために」)のパワーポイントによる発表の理解を助けるためのものです。
大会で配られる要綱の原稿と内容は同じですが、こちらの方が若干わかりやすい表現になっています。
関連資料はhttp://yanaseyosuke.blogspot.com/2008/05/blog-post_10.html およびそれ以前の5つの記事に掲載されています。
1 はじめに
英語教育を「現代社会における人間の営み」として考えることは必要である。説明責任などによる合理化が進む一方で、「誰でもよかった」という暴力が続発する現代日本は、人々がもっぱら「誰でもかまわない・誰でもない」生産者・納税者として扱われようとしている社会になっているのではないかという危惧さえ感じられる。そんな中、英語教育が人間形成に関わるとすれば、それはどういうことなのかということを、個人的な価値観や世俗的な通念の押しつけや、学術用語の濫用にはならないようにしながら社会哲学的に考察したい。
2 人間概念の再検討
日本の英語教育は「西洋化」「グローバリゼーション」という世界史的潮流の中での出来事である以上、「西洋」「グローバル社会」における「人間」のとらえ方をまとめておくことは重要である。
西洋は、科学と啓蒙の地であったはずなのだが、二つの世界大戦、原爆・ホロコーストなどの大量虐殺、全体主義を生み出してしまった。この一因を、アレントは西洋の学問が人間を単数性でしか考えなかったことに求めた。「神」あるいは理想化された人間像という単一のイメージを他者に拡張しようとする考えは、複数の異なる人間が共存しなければならないという「人間の条件」に反している。「人間」を考える場合に私達は、その複数性と差異を第一に考慮しなければならない。
グローバル社会においては人間の複数性と差異はさらに増大する。そこにおいては、合意がコミュニケーションの前提(ハーバマス)ではなく、差異がコミュニケーションの前提(ルーマン、デリダ)とされる方が現実的である。コミュニケーションという接続が社会という関係を創り出す。それは一致による合意というよりは、接続における差異を動因として、コミュニケーションの世界を編み上げる。どこかで何かがどのようにかしてつながっている現代において、社会とは究極的にはグローバル社会に他ならない。
グローバル社会(あるいは<帝国>(ネグリ・ハート))を構成しているのは、「単一の同一性には決して縮減できない無数の内的差異」、つまり「一にして多、多にして一」の「マルチチュード」(multitude)である。ある国民国家の「国民」(the nation)、「一般意志」(ルソー)を共有するとされる「人民」(people)、まとめてコントロールされる「大衆」(mass)などの概念は、グローバル社会を考える上で単純すぎる概念である。「『日本人』あるいは『日本』のための英語教育」といった表現も、現在日本に住む多種多様な人々(マルチチュード)の差異を覆い隠してしまう危険を持っている。
「西洋化」と「グローバリゼーション」の帰結は、複数の異なる人間が共存し、その共存のために、差異を前提とするコミュニケーションによってマルチチュードが多種多様に接続されることである。そうするならば現代社会における英語教育の人間形成は、「英語を数多くの手段の一つとして、差異を前提としたコミュニケーションを接続できる人間を育てる」ということになろう。
3 目的概念の再検討
しかし上記のような指針は曖昧すぎて目的たり得ないという批判があるかもしれない。だが、「計測可能性」、「具体的実証性」、「短期的実現可能性」を重視するのは「目的合理性」の発想にすぎない。現代はその目的合理性のみが跋扈しがちであるという点で、科学と技術のあり方が現代社会の隠れたイデオロギーになっている(ハーバマス)と言えるかもしれない。
目的概念と異なるものとして目標概念がある。「目的」(Zweck, end) とは、単一の視点からの計測が可能で、具体的・短期的に終結されるべきもので「科学・技術」的発想と親和性が高い。一方「目標」(Ziel, goal, guideline, orientation)は、複数の視点から長期的に吟味され、抽象的・長期的に私達を方向づけるものである。目標は、「差異を有する複数の人間の共存と結合に取り組む」(アレント)という意味で「政治」的なものである。単一の視点からの目的合理性の暴走が、複数の人間の差異を破壊しかねないことは歴史の教訓である。英語教育においても目の前の「目的」の発想ばかりに埋没して、大きな「目標」を見失うことは危険である。
そもそも目的概念は、システム(例、教室、学校)においても、システムの存続のための一変数に過ぎない。古典的組織科学は、組織をもっぱら目的追求の観点から合理的にとらえようとしたが、これは単純すぎる見方である。ルーマンによるなら現実のシステムは、当面追求している目的の発想ではとらえきれない外部要因(環境(Umwelt, environment))から常に影響を受けている。教室や学校という「学力向上」を取りあえずの目的とするシステムも、学習者・保護者・教職員一人一人ミクロの心理的・社会的状況、マクロな政治的・経済的変動、といった膨大な「複合性」(Komplexität, complexity)を有した「環境」の影響下にある。優秀な教師はこれらのシステムと環境の差異を鋭敏に感知し、この外と内の差異を安定化させるようにシステム(教室や学校)の自己変革をもたらす。
目的追求はシステム崩壊の危険を冒してまで行われてはいけない。目的設定の機能もやはりシステムの環境における複合性と変動性の吸収にある。システムの目的がシステムの存在を破壊してはいけない。「上からの」目的要求によって、システムが破壊されることは、単純な知性による暴力であり、私達はその暴力に対して抵抗しなければならない。
4 まとめ
英語教育は現実の営みとして、数々の「目的」を達成しようとし、「説明責任」を果たそうとする。しかしその目的合理性だけの発想にとらわれて、英語教育が複数の異なる視点から長期的に吟味されるべき人間形成という「目標」を忘れてしまってはいけない。仮に現代社会における英語教育の人間形成を「英語を数多くの手段の一つとして、差異を前提としたコミュニケーションを接続できる人間を育てる」と解釈するにせよ、この「目標」は、いくつかの「目的」行動に還元し尽くせるものでもなく、また英語という教科の枠組の内だけで管理できるものでもないだろう。さらにこれは「能力」を「個人に帰属させるもの」「標準化されるべきもの」とする近代的テスト理論の考え方にもそぐわない。だがこれらは「目標」を忘却する理由にはならない。「目的」管理がますます強化される教育界は、「目的」概念で「目標」概念を駆逐してはいけない。ましてや「目的」の追求が、一人一人の学習者あるいは教職員およびその他の関係者を深く損ねることがあってはいけない。社会が単純な目的合理性に乗っ取られ、現実社会の複合性、人間社会の複数性と差異を無視しようとする時に悲劇は(再び)起こるだろう。英語教育は「人間」の営みである。
追記:8/7に若干の修正を加えました。
追追記(2008/9/2)
上記の問題別討論会で使用した私のパワーポイントスライドを公開します。下記の要領に従って、「080809全国問題別討論会(柳瀬)」を選択してください。
(1) http://www.filebank.co.jp/guest/yosukeyanase/dp/public にアクセスしてください。
(2)下の情報を入力してください。
1.招待されたゲストフォルダ設定場所:ディスクプランフォルダ
2.招待されたゲストフォルダのID : yosukeyanase
3.招待されたゲストフォルダのゲストフォルダ名:public
4.招待されたゲストフォルダのパスワード:public
(3)「ゲスト環境設定」のアイコンをクリックして、「ブラウザーモード」を選択してください。
(4)ダウンロードしたいファイルにチェック印を入れてください(PRファイルは無視してください)。
(5)「ダウンロード」のアイコンをクリックして、「各駅ダウンロード」を選択してください。
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