実は既に、Zoltan Dornyei と Tim Murphey による Group Dynamics in the Language Classroom (Cambridge University Press)といった本も公刊されているようですが、多くの動機づけ (motivation) 研究は、個々人を対象としたものかと思います(私は動機づけ理論には詳しくありませんので誤りがあれば正してください)。
ですが、多くの現場教師は、「学習集団づくり」、「学級づくり」、「学年づくり」、「学校づくり」といった集団を対象にも動機づけを行っています。いや、実際のところは「学習集団づくり」こそは教師、特に担任教師の最優先課題かもしれません。
この集団対象の動機づけは、個人対象の動機づけ、もしくは個人対象の動機づけを人数分繰り返したものとは異なります。学習集団は、独自の社会的関係をもつものであり、社会的関係は、個々人の特質には還元されません。個々人の特質を超えたものが、社会的次元では創発するからです。この意味で、個人的な動機づけ理論とは異なる、社会的な動機づけ理論が必要だといえるでしょう(動機づけは心理学的だけでなく、社会学的にも考察されなければならないとも言えましょうか。それともキーワードは「動機づけ」ではなく「集団力学」(group dynamics)なのだと言うべきでしょうか)。
ですが現実には、「習熟度別編成」にも見られるように、教育現場でも学習集団をできるだけ均質なものにする発想が根強いように思えます。
できるだけ均質で差が少ない集団を理想とする発想には、学習とは本来個人的なものであるという考えが背後に控えているかと思います。ここではクラスという社会集団は、おそらく個人教授をする財政的余裕はないから、という否定的な理由でしかとらえられていません(この発想の延長上には、スタンドアローンのCALLは個々人にとって理想の学習機会を提供し、教師の人件費も省ける理想の教育手段であるという発想が待ち受けているのかもしれません)。これには心理学や言語学、あるいは言語習得研究や言語コミュニケーション力論の大半が個人を対象とした研究の枠組みしか持っていないことも関連しているのかもしれません。
ですが、優れた実践を見ていますと、クラスの中の「差」(例えばfast learnerとslow learnerの差、ペア学習における差 – 学力においても、意欲においても、性格においても – )をうまく活かしていることがわかります。「差」から生じるコミュニケーションによって、ばらばらの子どもたちの集まりを、学習という目的に向かう集団に変化させてゆきます。教室という文化から逸脱しようとする子どもも、学習集団に統合されるようにしてゆきます。この観点からしますと、私たちにとっての社会的な理論は、集団の中に生じる個々人の違いとその違いが生み出す効果に注目したものでなければなりません。
この意味で、社会的関係を、主に「差」(「差異」)の観点からとらえているルーマンの社会システム論は注目に値します。特に『公式組織の機能とその派生的問題』などの問題意識で、学習集団づくりというテーマを、上述のESLでの動機づけの書などと絡めながら考察してゆきたいと私は考えています(いつ時間が取れるかは定かではありませんし、この目論見が全くの見当外れであるという可能性もありますが 泣)。
とまあ、私が現在夢中になっているルーマンを出すまでもなく、教育という営みは定義上、社会的なものです。ですが私たちはもっぱら個人主義的な学習ばかり考え、社会的な考察を驚くぐらいに怠っています。私たちは改めて「社会的関係」、「社会的次元」といった社会の理論について理解を深める必要があると私は考えます。(すみません、すっかりルーマンにかぶれています 笑)。
追記
『公式組織の機能とその派生的問題』でちょっとググったら、次のようなサイトが見つかりました。ネットって便利ね。
http://www.rku.ac.jp/~sawaya/system/sys6organisation.htm
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/formal_org_note.html
http://mtlab.ecn.fpu.ac.jp/responsibility.html
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