2008年3月5日水曜日

アレントによる根源的な「個人心理学」批判

現代では人々のつながりが失われつつあると人々は嘆きます。企業人も家庭人も教育者も「コミュニケーション能力」が大切だと口々に訴えます。

しかしその「コミュニケーション能力」も少なくとも言語学や応用言語学の主流では、個人の枠組みの中でしか考えられていません。コミュニケーションとは「心」(mind/brain)の作用であり、それを可能にする能力は個人の「心」の中に求められるべきだと考えます。Chomsky (1986, p. 3) はこのような発想を「個人心理学」 (individual psychology) と呼び、この枠組みを自らの研究の立場としています。

ですが、コミュニケーションとは本来、人と人の間にあるものであり、一人の人間の心の中の働きだけには還元できないはずです。コミュニケーションは、いわば定義上、個人心理学のテーマではなく、社会的次元を考慮した学問のテーマであると言えましょう。

私はこの「社会」という概念の重要性をルーマンの著作に教えられましたが、先日たまたま読んだアレント『政治の約束』(筑摩書房、翻訳は高橋勇夫)の一節も、この社会性の重要性と、個人心理学的発想の危険性を、見事に表現しているように思えました。

もちろん個人心理学の発想がまったく不要だとか間違いだという極端なことを私は言おうとしているのではありません。ただ、コミュニケーションとか教育とかいうことは、本来社会的次元で考えられるべきではないのか、それらを個人心理学の枠組みだけで考えるのは偏った思考法ではないのかという危惧だけは表明したく思います。

アレントは人間を、単独的存在 (Man)ではなく、複数的存在(men)として捉えます(これが性差別的表現かどうかということはひとまずおかせてください)。彼女は人間の「複数性」(plurality)を、人間が人間であるための大切な条件として考えます。人々が共に行動し、語り合い、差異を認め合う空間こそが、人間の住む世界だと彼女は考えます。この意味で「世界」とは物理的空間として考えるよりは、社会的空間として考えられるべきです。そしてその社会的空間はコミュニケーションによって構成されるとはルーマンの主張です。

コミュニケーションや教育が、人間の住む「世界」のためのものだとしたら、私たちはアレントの以下の「個人心理学批判」を看過できないと私は思います。きちんとした翻訳は前述の高橋先生の翻訳書に示されていますので、ここではかなり意訳した拙訳と原文を示します。拙訳の[ ]は私が補った部分です。 “Judge”は『精神の生活』、 “suffer”は『人間の条件』で扱われている用語、 “condemn”は『イェルサレムのアイヒマン』で扱われているテーマに関した言葉かと推測し、かなり補った訳をしています。

まあ拙訳の出来具合はともかく、私たちは「個人心理学」の発想に慣れ親しむあまり、社会的次元で考え行動することにいつのまにか疎くなってしまっているのではないかという疑いは、このアレントの引用とともに表明したいと思います。

各々が心を閉ざし自足していると信じている個々人の物理的な集まりは社会でも世界でもありません。

私たちはもっと社会的に、つまりは多元的に考え、社会的に、つまりは他人とのコミュニケーションを前提として発言し、社会的に、つまりは自らの正義を不問の前提とせずに行動すべきではないでしょうか。社会という、誰もがその結末を予想できない複雑な流れに身をゆだねる勇気こそが、「私」という人間の人間らしさを、他人との差異の中で教えてくれるのではないでしょうか。そして人間らしい人間が増えてこそ私たちの世界は豊かになるのではないでしょうか。

現代において、世界が喪失しつつあること、つまり、人々の「間(あいだ)」にあるものすべてが衰弱しつつあることを喩えて、砂漠が拡がっている、と表現することができるだろう。私たちは砂漠化した世界に暮らしている、という認識は、ニーチェによって最初にもたらされた。だがニーチェは、その状況診断において最初の決定的な間違いもした。ニーチェ以降の人間もたいていがそう思い込んでしまったのだが、ニーチェは、砂漠は私たち[の心の中]にあると信じていた。そうして自らを砂漠の住人と自覚した最初の人間だと公言した。さらにはその間違った思い込みによって、自らをその[砂漠の心という]痛ましい幻想に痛めつけられている犠牲者だと世に触れ回ったのだ。[このようなイメージが近代の心理学の底にある:ドイツ語のみにある文]現代心理学は砂漠の心理学である。私たちが判断する能力を失い、[自ら世界の中で活動し、その予期せぬ結末を]受難することもなく、[私たちが罰することも許すこともできない「根源悪」を見極め、それを] 糾弾することもなくなってしまった時、私たちは砂漠の人生の条件下で生きることができないとしたら、それは自分たちに問題があるのだと考えてしまう。[だが] 心理学が私たちを「助ける」のは、私たちがその砂漠の人生の条件に「適応」することを助けるだけである。[しかし] そのことによって心理学は私たちの唯一の希望を捨て去ってしまっている。つまり心理学は、私たちは砂漠に住んでいるにしても、本来は砂漠の民ではなく、私たちは砂漠を人間の世界に変えることができるのだという希望を打ち捨ててしまうのだ。心理学はすべてを転倒させてしまう。私たちが砂漠の条件の受難に耐え [ながらも生き続け、世界を創り出そうとす] るからこそ、私たちは依然として人間であり続け、まだ蝕まれていないと言えるのだ。[人間にとっての真の] 危機とは、本当の砂漠の住人になってしまい、砂漠に慣れきってしまうことである。


The modern growth of worldlessness, the withering away of everything between us, can also be described as the spread of the desert. That we live and move in a desert-world was first recognized by Nietzsche, and it was also Nietzsche who made the first decisive mistake in diagnosing it. Like almost all who came after himself, he believed that the desert is in ourselves, thereby revealing himself not only as one of the earliest conscious inhabitants of the desert but also, by the same token, as the victim of its most terrible illusion. Modern psychology is desert psychology: when we lose the faculty to judge – to suffer and condemn – we begin to think that there is something wrong with us if we cannot live under the conditions of desert life. Insofar as psychology tries to “help” us, it helps us “adjust” to those conditions, taking away our only hope, namely that we, who are not of the desert though we live in it, are able to transform it into a human world. Psychology turns everything topsy-turvy: precisely because we suffer under desert conditions we are still human and still intact; the danger lies in becoming true inhabitants of the desert and feeling at home in it. (p. 201)


Was wir beobachtet haben, kann auch als das Anwachsen von Weltlosigkeit, das Verdorren des Zwisschen beschireben werden. Dies ist die Ausbreitung der Wüste, und die Wüste ist die Welt, unter deren Bedingungen wir uns bewegen.
Diese Wüste ist zuerst von Nietzsche erkannt worden, und er war es auch, der bei der Diagnose und Beschreibeung den ersten entscheidenden Fehler machte: In uns selbst befände sich der Wüste, glaubte er – hierin so gut wie allen gleich, die nach ihm kamen. Mit eben dieser Diagnose enthülte er sich seinerseits als einer der ersten bewußten Bewohner der Wüste.
Diese Vorstellung liegt der modernen Psychologie zugrunde. Sie ist die Psychlogie der Wüste und gleichermaßen das Opfer der schrecklichstern Illusion in der Wüste, daß wir nämlich zu denken beginnen, mit uns stimme etwas nicht – und dies, weil wir unter den Bedingungen des Wüstenlebens nicht leben können und deshalb die Fähigkeit zu urteilen, zu leiden und zu verdammen verlieren. Insofern Psychologie versucht, Menschen zu »helfen«, hilft sie ihnen, sich den Bedingungen des Wüstenlebens »anzupassen«. Dies nimmt uns unsere einzige Hoffnung, und zwar die Hoffnung, daß wir, die wir nicht der Wüste entstammen, aber in ihr leben, in der Lage sind, die Wüste in eine menschliche Welt zu verwandeln. Die Psychologie stellt die Dinge auf den Kopf; denn genau deshalb, weil wir unter den Wüstenbedingungen leiden, sind wir noch menschlich, sind wir noch intakt. Die Gefahr liegt darin, daß wir wirkliche Bewohner der Wüste werden und uns in ihr zu Hause fühlen. (181)


私たちが観察してきたことは、世界喪失の進行、[人と人の]間が干からびてきたこととしても記述できる。これは砂漠の拡大であり、私たちは砂漠の条件の下で動き回っている。

この砂漠は最初にニーチェによって認識された。彼はまた、その診断と記述によって最初に明らかな誤りを犯した者でもあった。私たち自身の中に砂漠は見つけられると彼は信じた。ここにおいてニーチェは、彼の後に来た者たち全てと同じであった。まさにその診断で、彼としては彼が、最初の意識的な砂漠の住人の一人として姿を現した。

この考えが近代の心理学の底にある。近代の心理学は砂漠の心理学であり、それと同じ程度に、砂漠の中のもっとも怖ろしい幻想の犠牲者である。つまり幻想の中で私たちは、私たちの何かがおかしいと考え始めた。そして、それは私たちが砂漠の生活の条件の下では生きてゆけないからであり、それゆえに私たちは判断する能力、苦しむ能力、非難する能力を失ってしまったのだと思い込んだ。心理学が人間を「助けよう」とするのは、心理学は人間が砂漠の条件に「順応する」ことを助けているのである。これは私たちの唯一の希望を取り去ってしまう。その希望とは、私たちは砂漠から生まれた存在ではなく、砂漠に住んでいるだけであり、砂漠を人間的な世界に変えてしまう状況にあるという希望である。近代の心理学は物事を逆さまにしてしまう。私たちが砂漠の条件の下で苦しむという理由ゆえにこそ、私たちはまだ人間的であるのであり、私たちはまだ損なわれていないのだ。危険なのは、私たちが本当に砂漠の住人となってしまい、砂漠を自分たちの住まいのように感じてしまうことだ。


Arendt, H. (2005). The promise of politics. New York: Schocken Books.
Hannah Arendt (1993) Was ist Politik? Piper Verlag GmbH, München
Chomsky, N. (1986). Knowledge of Language. New York: Praeger
アレント著、高橋勇夫訳 (2008) 『政治の約束』 筑摩書房
アレント著、佐藤和夫訳 (2004) 『政治とは何か』 岩波書店


追記1
アレントは「社会」という言葉を常に肯定的には使っていませんので注意が必要です。

追記2
この小文を書いていて思い出したのですが、数年前に読んだ小沢牧子(2002)『「心の専門家」はいらない』(洋泉社新書)は面白い本でした。以下、数カ所引用します。

「ほんとうの自分さがし」の流行には、人間が相互の関係のなかで生きているという観点が欠落している。カウンセリングが「ほんとうの自分」を発見させてくれるという幻想的な自分観は根強い。もっともその種の考え方にイラついて、「ほんとうの自分?あなたはそこにいるじゃない、それ以上でも以下でもないよ」と、その場で突っかかった学生もいたけれども。(41ページ)

必要に迫られ考えることで、わたしたちは自分たちの暮らしの足場、つまり現実を作っていく。生きていくための力を手にすると言い換えてもよい。さまざまな課題・問題を日々考えることの積み重ねをとおして人は「手持ちのやり方」をしだいに身につけ、ようやく自信と呼ばれる感覚を得ていく。(144ページ)

しかし進行する消費・情報社会は、次のようなメッセージを絶えず送ってくる。「考えなくてもいい、そんな面倒なことは。代わりに売ってあげる、教えてあげる、解決してあげる」。さらに「自分でやろうとするな、依存せよ、購入せよ」と。金銭・メディア情報、専門家への依存が奨励される。(145ページ)



追記3 (2008/03/06)

上の記事に関してある方から私信をいただきました。ここに許可を得て、その文章を転載します。


チョムスキー自身は「言語機能」の生得性・領域固有性とその発現系の多様性を見極めることに関心があり、コミュニケーションについてはその見極めに必要な限りで関心があります。したがって、彼の「発想」そのものに問題があるわけではないという点を明確にしておきたいと思います。

また、これは釈迦に説法ですが、「コミュニケーション」という曖昧模糊とした概念を多少とも明示化しようとすると、個の中での情報のやりとり(「思考」)もその中に含まれる、というか、むしろ、その本質的な部分を占めると考えるのがチョムスキー流です。


趣旨は、(1)チョムスキーの発想は、コミュニケーションを考察するためのものでなく、彼の発想自体に問題があるわけではない、(2)コミュニケーションには「思考」といったやっかいな主題が含まれる、といったところかと私は理解しました。両方共に賛同します。

しかし、私としてはその賛同に以下のようなコメントを付け加えたく思います。

(1)' 英語教育を「個人心理学」の発想だけで研究しようとすることには構造的といってもいいぐらいの限界・問題点がある。英語教育界は社会的な考察の発想ももっと導入しなければならない。

(2)' コミュニケーションは(少なくとも現時点では)自然科学として研究することはできないが、英語教育を研究する者が忠誠を誓うべきは自然科学ではなく、英語教育の現場である。したがって自然科学としては耐えられない「曖昧模糊」さも考察の対象としなければならない。つまり英語教育研究といった臨床的・応用的・現実的な探究では、方法より対象に忠誠を誓うべきである。

いずれにせよコメントを下さった方には感謝します。ありがとうございました。

追記4  (2008/03/27)
ドイツ語原文を補いました。なおこの部分の翻訳は上記『政治とは何か』の152-153ページにあります。

追記5 (2008/04/07)
ドイツ語原文からの訳出を試み、訳文をドイツ語の後に追加しました。

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