「ポストモダン」という言葉は、日本語の文脈ではどこか空疎に聞こえます。80年代の流行語に過ぎないようです。「グローバル」という言葉も、日本の英語教育界では掛け声だけのようにも聞こえます。これまた80年代の「国際化」と同じような語られ方をしているに過ぎないことが多いからです。
しかし私が今回参加したSymposium on Second Language Writing(名古屋学院大学)のような国際会議に出ると、"postmodern", "global"という言葉はまさに現実を表現する言葉であることを実感します。"Modern"の枠組みで作られてきた世界が、全地球化しようとし、その結果、西洋発祥の"modern"を超えた世界のあり方が、逆流するように(元)西洋に、乱流するように(元)東洋に浸透している現実が"global"に現れつつあるということです。
もちろん「グローバル化」とは「アメリカ化」に過ぎないという意見もあります。しかしそのアメリカ自体が異種混交化をさらに加速しているとすればどうでしょうか。今回の学会の基調講演者のLourdes Ortegaさん(University of Hawai'i)、Jun Liuさん(University of Arizona)、Miyuki Sasakiさん(名古屋学院大学)、あるいは実行委員長のPaul K. Matsudaさん(Arizona State University)にしても、少なくとも大学教育まではそれぞれ祖国で祖国の言葉で過ごした人たちです(Matsudaさんは高校まで)。その後、彼女/彼らは、アメリカに知的活動の拠点を置き、 TESOL(Teachers of English to Speakers of Other Languages)を代表する人物として活躍しています。関係者の話によると、このシンポジウムは、アメリカで行われていたTESOL関係の学会が、アメリカ以外に進出したものとして評価されているそうです。そしてこのシンポジウムで聞かれた発表は、日本以上にESLではなくEFL、つまり英語が「外国語」としてしか使われていないアジア諸国の社会文化状況を捉えようとしたものでした。もはやこのような学会は、20年前に私が感じていたようにアメリカのESLだけに関する学会でなく、グローバルにESLとEFLを語る学会になっているといえるのかもしれません。ほとんど日本にしかいない私が、アメリカ発の学会での環太平洋圏各国の研究者からの発表に、日本の英語教育学会の日本人による発表以上のリアリティを感じたのは不思議な感覚でした。英語での言説は、グローバル化し、世界のさまざまな社会文化を取り込みうる懐の深いものになりつつあるのかもしれません。
なんだかメジャーリーグを思い起こすような話です。以前は白人だけだったメジャーリーグも、最初はアメリカ国内の黒人を取り込み、そして現在、急速に世界各国からのプレーヤーを取り込んでいます。取り込むだけではなく、メジャーリーグも積極的にアメリカ国外に出ようとしています。好むと好まざるにかかわらず、日本の野球ももはやメジャーリーグを無視しては語れません。「助っ人」としてメジャーリーガーに頼るだけではなく、優秀な日本人選手はメジャーリーグでプレーすることを選び、その何人かはもはや「日本人選手」としてというよりは「メジャーリーガー」として認知され尊敬を受けています。日本のテレビも時に日本のプロ野球以上にメジャーリーグを特集したりします。メジャーリーグはグローバル化しようとし、アメリカ発のメジャーリーグが、世界各地のプレーヤーとファンを取り込み、そして同時に彼らに取り込まれています。昔の枠組みなら「異種」に過ぎなかったものが混交し、それが新しい現実を作り上げているようです。その新しい現実は、これまでの枠組みでの「現実」よりも、より私たちの日常感覚に近づき始めているとは言えませんでしょうか。
私はこれまで日本の英語教育の現実を捉えるためには、日本語で書かれた英語教育の文献を読んでいたほうがいいと思っていました。「輸入学問」で、日本の現実を無理やり外国の枠組みで捉えることに強い警戒感をもっていました。しかし、もはや日本の英語教育を考えるためにも、英語での文献をこれまで以上に読むべきなのかもしれません。これまで以上に、自分も英語での言説に参加し、「異種混交」のプロセスに身をおく必要があるのかもしれません。「メジャーリーグと日本野球」、「英米の英語教育研究と日本の英語教育研究」などというこれまでの二項対立を、相互排他ではなく、相互浸透の関係で捉えることが必要なのでしょう。
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