2007年7月30日月曜日

尹雄大(ユン・ウンデ)著『FLOW──韓氏意拳の哲学』冬弓舎 7/7

6 あらためて学問・科学とは

私たちは、「学問」という概念についても、しばしば通俗概念に流され、「正解の集積」とでも考えがちです。その「正解」には過去の事例からの統計的・確率的な結果も含まれます。しかし韓氏意拳は、「学問」をそういった通俗概念よりは、はるかに深いものとして捉えた上で、自らを学問・科学であると称します。

意拳が学問である以上、確率的な そうなるかもしれないといった偶然ではすまされない。

王が意拳を武学、拳学と称したことと、韓星橋師が「意拳は科学的でないといけない」と強調したことは符合する。ここでいう科学は、いわゆる科学の概念とは異なる。現代科学が結果を達成点として求めることに重きをおくなら、韓氏意拳は「進化する過程」に注目し、「あることを行って正しいと思ったなら、なぜそれが正しいか検証してみる。検証して再現性があるかどうか試みるが、結果に束縛されず次の結果を見出していく。それが重要」とするものだ。(111ページ)

ここでの学問・科学は固定された再現可能な結果でなく、絶えず深化する過程として捉えられています。ですから「学」も次のように定義されます。

学というのは破綻のない論理としてではなく、普遍性についての問いが絶えず書き加えられる体系を指す。(110ページ)

こうしてみますといわゆる「英語教育学」にしても、それは、実践者に過去から得られた正解の集積を伝えることではなく、実践者に絶えず、個別事例を通じて、到達できない普遍性に近づくための問いかけを教えることではないかと思えてきます。「英語教育学者」にしても「達人教師」にせよ「英語の熟達した話者」にせよ、大切なのは彼/彼女らが、初心者より多くのことを知っているということではなく、初心者に問いかけすることを教えようとしているということではないでしょうか。

教える者が学ぶ者よりも知っているのは、問うとは探し求める過程それ自体であることで、そこではより深い問いが立つかどうかが重要だ。だから学ぶ者が教える者を追いかけるとき、そこに芽生えるのは、「私の知らない問いかけが存在する」という謎への誘惑で、両者に格差はありながら、道への問いかけを行う上では共通している。(126ページ)

韓氏意拳を通じて、英語教育の研究と実践のあり方を考え直そうという試みは、今回もこのように捻じれ、歪み、飛躍したものとなってしまいました。本来はもっとじっくりと考えて文章を何度も練り直し、捨てて、また書き直すべきなのでしょう。しかし私はかなりの愚者で、自らの愚かさを公然のものとしなければそれを痛感することができないので、このように文章を公開する次第です。ここまでおつきあいいただいてありがとうございました。

出版社(冬弓舎)ホームページ

http://thought.ne.jp/html/adv/flow/index.html

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追記

日本韓氏意拳学会のホームページに「韓競辰導師拳学論文」として二つの短い文章が掲載されていますが、深いことを簡潔に書いた文章だと思います。特に「『根本法』と『具体法』」という文章は、若手教師が、自らの師あるいは流派を見出して、教授技術を向上させてゆきながらも、その師あるいは流派に囚われてしまってはならないこと、と読み替えたら、学校教師にとっても非常に有益な文章であるように思えますがいかがでしょう。

http://www.hsyq-j.com/kannroushironnbunn.html

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