5 能力とは
私たちはしばしば能力とは恒常的な力で、それを持つ者は常に同じように問題解決ができると思いがちです。しかし、ひょっとしたら能力とは、恒常的でもなく、標準化されるものでもなく、常に世界の中で新たにあり続けることなのかもしれません。韓氏意拳は能力の反復性や再現可能性に対してむしろ懐疑的です。
王は立会いで、相手の攻撃を迎え撃ったところ、相手は大きく跳ね飛んだ。男は驚くと同時に感動し、「いまの技をもう一度!」と願い出た。が、王はこう答えたという。
「私は自分がどう動いたかを知らない。だから再現することはできない」
あらゆることが情報に還元できると信じられている現代にあっては、物事には反復性があると思い込まれている。
だから「なぜ同じ結果を再現できないのか?」とその逸話に対して思いがちだが、むしろこう問うべきなのだ。「なぜ同じ動きを再現できるのだ?」と。(142ページ)
能力が同一性の反復でないとすれば、それは絶えざる問いかけと問い直しと捉えるべきなのかもしれません。能力とは既知とのつき合い方でなく、未知とのつき合い方ではないでしょうか。現実を過去の認識と同じものとして確認し、それに対処しようとするのでなく、現実を常に未知のものとして体認し、そこに動きをもって応えようとすること、さらには常によりよい応え方をしようとすることが能力であるとはいえないでしょうか。
未知とは、可能性の別称である。わからないことが、わからないにもかかわらず、この先の運動の中に展開し、次々と生起してくるのだから。それは予想を超えた働きであって、だから認識の不可能性とは運動の可能性にほかならない。そしてこの運動のことを、人は「生きる」と呼ぶ。いま生きていることは、認識に還元できない。だから人は、ただ生きる。
知り得ないことは、絶望ではない。認識や実感が得られないことは絶望を意味しない。それらを得ることは、希望でもない。それらは求めるべき答えではなく、未知に向けられたヒントであり、問いなのだ。韓氏意拳で求めるべきは答えではない。真、すなわち原理原則を問うことが求められるのだ。(201ページ)
こうしてみると能力開発とは、標準化された解法を装備することではなく、常に問いかけることを学ぶことだとも思えてきそうです。そしてそれは深い意味での「学問」につながりそうです。
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