2014年2月27日木曜日

3月15日(土)言語文化教育研究会 シンポジウム 「言語教育の目的と実践研究」

以下、お知らせです。

3月15日(土)言語文化教育研究会 研究集会シンポジウム
大会テーマ:実践研究の新しい地平(早稲田大学11号館)

シンポジウムテーマ:言語教育の目的と実践研究
難波博孝(広島大学)国語教育
柳瀬陽介(広島大学)英語教育
塩谷奈緒子(東京電機大学)日本語教育
細川英雄(早稲田大学)言語文化教育 コーディネート・司会





シンポジウム開催趣旨 
細川英雄
(言語文化教育研究所、早稲田大学)

このシンポジウムでは、言語教育の目的と実践研究の関係について討論する。
2013年10月27日(日)に第125回全国大学国語教育学会(広島大学)で行われたラウンドテーブル「言語教育と生きること」の議論において、言語教育の目的とは何かという課題に到達した。

*言語教育(英語、国語、日本語教育)のめざすものは?
・これまでの言語教育で失われたものを取り戻すため?
・生きる主体性を取り戻すため?
・生き延びるため?
・救いのため?
・「ことばの市民」として生きるため?
(当日の発表レジュメより)

このシンポジウムでは、この課題をさらに進展させ、それぞれの言語教育の目的と実践研究の関係について議論を展開したい。

まずそれぞれの立場から話題提供をいただき、討論の場を形成する。国語・英語・日本語の教育世界で、それぞれに行われている実践研究について紹介いただくとともに、その実践研究が言語教育の目的とどのような関係にあるかについて、これからの言語教育の方向性を視野に入れつつ考えていく。

そのうえで、今後の言語教育のあるべき方向性について、それぞれの立場からの提言をいただき、言語教育学としての未来像を構築したい。




生きることについて考える、生きる活動としての日本語教育実践研究

塩谷 奈緒子
(東京電機大学)

1.日本語教育界における実践研究

日本語教育界において実践研究への本格的な取り組みが始まったのは1990年代のことである。しかし、未だ教育実践と直接関わる研究は少なく、実践と研究は切り離されたものとして扱われることが多い。あるいは、教育実践を扱ったように見える研究でも、そこでは既成の「理論の実践化」や「実践の典型化」(佐藤, 1998)、「関連する科学理論の試行」(石黒, 2004)等が行われていることも多い。そして、これらの背後には、個体能力主義的な学習観や、応用・効率主義的な教育観が潜んでいると言える。


2.実践研究の捉え直し

2-1.「考え方」としての実践研究

 このような中、細川(2010)は、実践=研究という立場を打ち出し、実践研究とは「教育活動の設計・実施・振り返りのプロセス」を作り、「自らの教室設計とその設計を支える教育観」を問い直し、「教育を社会にひらく」行為であると述べる。また、舘岡(2010)は、それは「一連の動きの繰り返しの中で、ある程度、普遍的な「理論(原則)を生成」していくことでもあり、「現場で起きていることを解釈したり理解したりするプロセスそのもの」でもあると言う。もっとも、これらは実践研究の「考え方」であるため、それを具体的にどう捉え、どう構築するかは、一人一人の実践研究者の課題となる。

2-2.私にとっての実践研究

まず、私は教育実践を、日常的な生活実践と同じく、様々な人や物や概念等の人工物
(コール, 2002, p.168)に媒介され、それらと活動主体が相互作用、相互行為をする過程で生じる動的で関係的で全体的な現象/活動システム―それ自体が他の社会を包み、包まれる、複雑で豊かな一つの社会―として捉える(塩谷, 2008)。

次に、私にとっての実践研究は、以下のような様々な事項を様々な人との間で考え、行動していく一連の営みである:自分はどんな思想や価値観(言語・文化・社会・学習・教育・世界・人間・自己観等)を持ち、なぜ日本語教育を行うのか(日本語教育観、日本語教育の目的、問題意識等);自分が関わる個々の実践とそれを取り巻く社会状況(実践参加者、使用可能なリソース、共に実践する教員、その他教職員、教育機関、さらにそれらをまた取り巻く社会等)をどう捉え、自分の日本語教育の目的との関係性において、それぞれの実践をどう設計(実践の目標設定および人工物の構築)するのか;自分がそれぞれの実践にどう参加し(相互行為)、それを参加者たちとどう作り、作りかえていくのか(人工物・相互行為の再構築);上記の一連の考えと行動をどう辿り、解釈し直すのか(授業記録の確認/録音データの文字化・分析/開示・議論等);振り返りの結果をどう次の/他の実践に還元するのか。

これらの営みは、教室内外を問わず、実践参加者や他の日本語教師、その他教職員や友人知人、見知らぬ人(研究論文講読や情報検索等)等、様々な人との間で行われる。そして、これらは、上記の個々の営みやプロセス全体、また、自分の実践や実践を取り巻く社会や他者や自分自身への見方、働きかけ方を変え、その結果、自分自身や相手・対象も変わっていく。そして、この試みを繰り返し行うことによって、個々の問題および教育実践そのものがより「全体性」、「具体性」(茂呂,2003, p.37-42)を帯びたものとして再構成されていく。


3.実践研究と日本語教育の目的

私にとっての実践研究とは、実践研究者として、人として、他者との対話を通して、教育実践や参加者について考え、日本語学習や教育や教師について考え、言語や文化や社会について考え、ひいては、人間について、世界について、自分について、生きることについて考える日々の営みである。それは同時に、実践研究者として、人として、言葉を介して他者と共に、教育実践やその他の日常実践を生き、それらを作り、言葉や文化や社会を作り、自己を作り、作りかえていく日常の生きる営みである。同じことは、私が行う日本語教育でもなされるし(そこでは、学習者が他者との対話を通して他者や世界や自分や生きることについて考え、言葉を介して他者と社会を作り共に生きる経験ができるよう、教育実践環境を作る)、教師養成のための教育実践(塩谷, 2013)でも同じである。

日本語教師がそれぞれの豊かな経験をもとに、日本語教育と自分との関係(私はなぜこの教育実践を行うのか、私は日本語教育で何がしたいのか)、ひいては、それらを行う自分(私はどのように生きていきたいのか)について考え、自立的かつ協働的に、自由にしかし責任を持って実践研究を行っていくなら、より豊かな教室社会、教育機関社会、日本語教育の世界がひらけるのではないかと私は思う。





人間と言語の全体性を回復するための実践研究

柳瀬陽介
(広島大学)

 教育の目的が人と社会の成長である(デューイ)ことからするならば、言語教育の目的とは、言語を通じて人と社会の成長を図ることになる。ここで、言語とは、人の「からだ」(非意識・無意識)、「こころ」(中核意識)、「あたま」(拡張意識)の間をつなぎ、さらに人間を外界の人や物にも内界の人や物にもつなぐ媒体であると考える [下図参照]と、言語教育とは、言語により、人の「からだ」「こころ」「あたま」をつなぎ、外界と内界の人や物ともつなぐことによって、人と社会の成長を十全なものにすることを目指すべきとなる。








 ダマシオなどの論によれば言語の基盤は、「からだ」(非意識)の情動 (emotion) が、「こころ」(中核意識)で感情 (feeling) として感知されることである。その情動・感情に、他者とのコミュニケーションから言語の表現が与えられる。「あたま」(拡張意識)は、習得した言語を整理し、言語コミュニケーションの可能性を広げる。

 さらに言語は、人間が自らの外部に知覚する物理対象の外界についてだけでなく、自らの内部にイメージとして知覚する内界についても用いられる。言語は、現時点の外界の物理対象だけではなく、内界で自由に想像される現在・過去・未来の可能的対象に対しても表現をもち、なおかつその表現が統語的組み合わせと比喩的組み合わせを経て創造的に文が生成される。人間が知覚する世界は物理世界よりもはるかに多元的で豊かなものになる。

 ところが、資本主義的発想と合理主義に基づく現代社会の中で、マークシート試験といった正解を一つに収束する制度が言語教育の基盤となることにより、「からだ」と内界が抑圧されがちになる。資本主義的発想は質を捨象し量を基盤とする思考法であるが、合理主義はさらに「割り切れないこと」 (the irrational) 、つまりは数字や言語で画定しきれないことを考察の外に置く。「からだ」の情動は、一元的に言語化しがたいもので、繊細で多義的な言語で表現せざるを得ないが、そういった「割り切れない」表現は、マークシート試験得点をものさしとする現代の言語教育では軽視される。内界の自由な知覚対象は、外界の物理的知覚対象と異なり、第三者的同定が困難なものであるが、それがゆえに「客観的な」採点には適しないとして打ち捨てられる。今や資本主義的競争のために合理的に執行される言語教育は、人間と言語の全体性を損ない、その歪みを維持・増長し、人間を抑圧しかねない制度となりつつあるのかもしれない。

 この抑圧は学習者だけでなく、教師にまで及ぶ。言語教育の実践研究は、この抑圧による歪みから回復するため、「あたま」と外界だけに関する実証主義的な言説だけでなく、「からだ」と内界も重視する言説をも目指さなければならない。本発表では、過去の実際の実践研究から、「からだ」と内界を重視した事例を紹介し、人間と言語の全体性を回復するための実践研究がどうあるべきかを考察する。





臨床国語教育への誘い

難波博孝
(広島大学)

 私は、「臨床国語教育」の実践と研究を行っていました。最近、細川英雄先生のお仕事を知り、日本語教育で同じような仕事をされていることを知り、かなり感激しています。まずは、自分が考えている「臨床国語教育」について、以前書いた文章を紹介することで、その導入としたいと考えます。以下は、難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社「はじめに」の一部です。

 「国語教育」は変わった領域だと思う。教科教育、つまり、学校のさまざまな教科の教育について考え実行する分野の一つを形成する分野が、国語教育には確かにある(この分野を、「国語科教育」ということがある)。

ところが、国語を学ぶ時間は、国語科の授業だけに終わるわけではない。国語科以外の教科の時間も、特別活動でも、総合的な学習の時間でも、学習者は国語を使い新たな言葉を知っている。国語科よりもはるかに多い時間で、学習者は国語を学んでいるのである。となると、「国語教育」は、学校教育全ての活動における、国語を学ぶこと、となる。

ところが、学習者は、学校を出ても、国語 ―もうこの語は学校を出ると変なので「日本語」という語を使うことにする― 日本語をずっと聞き続け、使い続ける。つまり生活の場面で日本語を使って生きている。そこでは学校では学ばない膨大なことを学んでいるだろう。学習者は、生きている限り、日本語の中にいる。つまり、ずっと「国語教育」(論理的には「日本語教育」といった方がいいのだが、この語は第2言語としての日本語の教育に専用使用されているので、再び「国語」の語が戻ってくる)の中で、中に、生きているのである。この位置に立つと、「学習者」という概念が既に拡張されていることがわかる。「学習者」は、第一言語としての日本語を使用する全ての人、ということになる(子どもも、大人も、もちろん教師も)。

「国語教育」を実践することは、生きることとほぼ同義であり、「国語教育」を研究することは、人生を研究することとほぼ同義なのである。しかし、これではあまりに壮大で漠然としてしまう。

そこで、多くの「国語教育」関係者(実践者・研究者)は、大体の場合、国語科に照準を合わせ、国語科の授業実践や授業研究・それに類した研究を行っている。(中略)

けれども、国語教育関係者でも、忘れがちになる。ついつい自分が直面している、国語科、あるいは、その中のさらに狭い部分に限定して、実践したり研究したりしている、と、つい思ってしまう。

忘れないようにしなくてはいけない。教室で授業している学習者と教師の向こうには、国語教室を出て生活している彼らがいることを。だからこそ国語教室を充実させなくてはいけないことを。

私は、「国語教育」が本来持っている、国語科以外の教科・学校場面・そのほか全ての生活場面における国語(日本語)の教育についての実践と考察、という核心を、「国語教育」関係者やその他の関係者が忘れないようにするために、はっきり記銘するために、「臨床」という言葉を、あえて「国語教育」に冠しようと思う。ここの「床」は、したがって、さまざまな国語(日本語)教育の場面全て(例えば子どもが母に叱られるとき、その子どもがテレビを視聴するとき、その子どもが友達と喧嘩するとき・・・・)をも指している。つまり生きている場面全てである。

「臨床国語教育」は、「国語教育」のことである。(後略)


【関連文献】
石黒広昭(2004)「フィールド学としての日本語教育実践研究」『日本語教育』120、pp. 1-12.
コール, M(2002)『文化心理学 発達・認知・活動への文化』(天野清訳)新曜社.
佐藤学(1998)「教師の実践的思考の中の心理学」佐伯胖・宮崎清隆・佐藤学・石黒広昭著『心理学と教育実践の間で』pp.9-56、東京大学出版会.
塩谷奈緒子(2008)『教室文化と日本語教育』明石書店.
     (2013)「11年後の私の言語文化教育―大学院における「言語文化教育研究」の実践から」『言語文化教育研究』11、pp. 13-67.http://gbkk.jpn.org/vol11.html#shioya
舘岡洋子(2010)「【緒言】「実践研究」は何をめざすか」『早稲田日本語教育学』7、pp. i-v.
細川英雄(2010)「実践研究は日本語教育に何をもたらすか」『早稲田日本語教育学』7、pp.69-81.
茂呂雄二(2001)「具体性と実践の抽出」『実践のエスノグラフィ』pp.22-58、金子書房.
難波博孝編(2006)『臨床国語教育を学ぶ人のために』世界思想社




追記

研究会事務局が録画・公開しているシンポジウム記録動画を下に貼り付けておきます。








付記

先日の「C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社」の記事でこのシンポジウムについて言及しましたところ、総合マネジメント事務所 Espace MUSE(http://www.espacemuse.com)代表の名島様より以下のメールをいただきました。私も内容に共感しましたので、その方の同意を得た上で、そのメールの一部をここに転載します



*****
(前略)
現在の日本の教育(者)は、より細分化され、分断され、おかしなことに人生とも乖離している側面が強くあるように思います。

「教育とは根本のところで全人的な関わりであるという思いを私は強くしています。特にさまざまな問題を抱えた児童・生徒・学生は、ある瞬間に、教師にごまかしのない全人的な態度 ―建前や一般論をいったん取り払った上での向き合い― を求めます。ですから、教師は少なくとも時折は深いレベルで、この言語教育という営み、そして人間についての洞察を得る必要があると思っています。」という先生のご意見は、まさにわたくしも思うところです。

私は日仏の文化関連の仕事をしております。

この仕事を通して、たとえフランス語がある程度できる日本人でも「グローバル人材」になかなかなれないのは、日本人に根付いてしまっている深刻で根本的な問題が原因であると考えるようになりました。

それは、日本人のどんな職業の人も往々にそうなのですが、人生に対する個としての姿勢や軸、哲学がないことです。

大卒でも非常に細分化された知識しかなく、国内では”自分には関係ない”と目を閉じてもすんできた問題が、フランスでは個としての意見と行動を求められることにストレスを感じ、またそれがなかなかできない日本人は多くいます。

政治、芸術、語学、歴史、科学、宗教、文化といった様々なテーマは、フランスではあくまで人間のためにあるのであり、個々人が自己を実現するために各自しっかりと学んでいます。

学問のための学問、政治家のための政治、といった分離は、フランスにおいて教育を受けた人材になればなるほど、自身の生に関わるテーマを切り捨てて発言する人物、人生と乖離して専門にとじこもる人物が信用されるのは難しいでしょう。

日本人ではこうした態度が教育を受けた者の中にもかなり見られること、そしてこの人生観や認識の仕方は、外国に行った日本人が単に辞書のように語学が脳内で変換できるようになるだけでは通用しない問題であることを、あまり日本の教育者が認識していないように思っておりましたので非常に憂慮しておりました。

このため、柳瀬先生をはじめとする先生方のみなさまのシンポジウムの趣旨を読み、共感した次第です。

Albert Jacquardというフランスの集団遺伝学の学者は、「教育の最終目的は“邂逅の知恵”を学生に授けることであることを決して忘れてはいけない」と言っております。

Jacquardのいう“邂逅の知恵”とは、“生きることの支えになるような感動的な(人に限らず本や芸術等も含めた)出会い”につながる知恵・知識です。

「感動」というと情動の問題、「出会い」というと運命論的な問題のように考えられがちですが、生きる支えとなり、力となるような感動的な出会いを個人が内部に落とし込むためには、世界を認識するための基礎を養う教育、それにより脳内に構成される豊かな世界観・人生観、世界への幅広い理解が必要不可欠です。本当の意味での感動的な出会いは、必ずしも即席で感じ取れるものばかりではないと考えます。IQを高める教育よりも、個人主体にとって生きる力となる教育は、私の理想とする教育のあり方です。

認識の枠をわざわざ狭めるような日本の教育の在り方は、最近の国内の政治および社会を見ていると如実に悪影響が出ていることを感じます。

政府主導の怪しい雰囲気になってきているにもかかわらず、それを止めるジャーナリスト、インテリ、そして国民が不在しています。

結局、各自が「考える力」をつけるような真の教育が日本の学校及び家庭でなされなかった結果であると言わざるを得ないと考えております。

非人間的行為を各自が見極め判断できるようになること、そしてそれに断固闘う意思をもつこと、日本が民主主義の国家でありたいならば、これらを各自が当たり前のようにできるようにならなければならず、これは教育の重要な役割であると考えます。

現在、私は自分の理想とする教育を実現したく、自分たちのグループでやれることをやっていこう、発信していこうとプロジェクトを考えているところです。

柳瀬先生は哲学を愛されているからでしょうか、思想に非常にフランスの風も感じました。

フランスはじめ欧州の学者は、19世紀末の量子力学の誕生による衝撃が日本よりも強かったのでしょうか、ニューサイエンスは行き詰ったと昨今言われているものの、日本に比べるとはるかにホーリスティックな思想で科学に取り組んでいる人々が多いようです。

何よりも、職業のためや肩書きのためではなく、「好きで好きで仕方がない」、「このテーマは自分の人生の必然だ」という感じで研究に励んでいる学者がフランスには多くおり、そうした人との出会いによって私も感動し、学び始めた学問も多くあります。

たまにブログから伺える柳瀬先生のご苦労は、きっとフランスのような雰囲気があるならば もっと気持ちよく進められるだろうなぁと勝手ながら考えたりもしておりました。

*****

第一回柳瀬ゼミ合同合宿を開催しました。




2014年2月22日(土曜)- 23日(日曜)に休暇村 帝釈峡、私のゼミとしては初めての合同合宿(学部3年生から修士課程2年までに、卒業生の一人も加わっての参加)を行いました。皆さんも予想以上に楽しんでくれましたし、私も本当に楽しかったです。発案・企画・運営などにかかわってくれたゼミ生、参加してくれたゼミ生ありがとうございます。何人かのゼミ生は所用で参加できませんでしたが、楽しかったので、ぜひ次はご参加ください。

合宿行事の中心は、参加者それぞれによる「自分が好きなこと」に関するプレゼンテーションです(質疑応答を入れて30分)。これは全員、時間が足りなくなるぐらい面白いものでした。やはり人は自分が好きなことについては喜びをもって語れます。そうなると聴衆も、仮に話題の一部が専門的すぎてわかりにくいところがあったとしても、どんどん引き込まれてゆきます。とにかく楽しかったです。

話題は多岐にわたりました。「ワイン」「写真」「スラムダンク(漫画)」「指輪物語(小説)」「コーヒー」「リーガルハイ(TVドラマ)」「ギター奏法」「麻雀」「バドミントン」「岡山県」「オーケストラ」です(ゼミに入ったばかりの3年生は自己紹介でしたが、これもかなり面白かった)。どれも独自の感性の働きや知的分析があり、おざなりなものは一つもありませんでした。

私は特別に時間をいただきまして、第一日目の最初の二時間で、私がシンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」(2014/3/9 早稲田大学)で話す予定の内容を、ワークショップ形式でペア討議・意見共有・討論なども加えながらお話しました。

二日目の最後の二時間では、「『もののけ姫』のユング的解釈」をこれまたワークショップ形式でお話しました(この話の内容は、いつか英語教育研究系以外の媒体に書ければと思っていますが、どうなるかわかりません。発表ではスライドももちろん使いましたが、ここでは公開しません。自分にとって大切な話を中途半端な形では示したくありませんので)。

このお話は、私がこれまで行ってきた講演の中でも一番自分では意義深く感じられたものでした(もっとも私の心に忠実な話でした)。これをゼミ生がとても熱心に聞いてくれたのは私にとっての心からの喜びでした。合宿からは三台の車に分乗して帰ったのですが、一台の車の中ではiPodで映画『もののけ姫』を再生しながら帰ったそうです(もちろん前方座席の人は音を聞くだけだったのですが)。大学到着前に、名残惜しくなってみんなで大学近くの中華料理屋で夕食を一緒にすることになったのですが、その車が中華料理屋にまさに到着する時に映画は終わったそうです。私はこういった意義深い偶然を大切に思います。

もちろん、合宿では座ってばかりいたわけでなく、一日目の夕方には、体育館企画があり、ドッジボールなどのレクリエーションを楽しみました。また、夜はトランプを楽しみました(ウィンクキラーは特に楽しかった!)。

二日目のお楽しみ企画は「貿易ゲーム」でしたが、これもみんな本気になって楽しみました。

なぜこれほど楽しかったかと私なりに振り返ってみますと、ゼミ生も私もみんな自分らしさを素直に出せたからかとも思います。もちろんそれと表裏一体になっているのは、みんながお互いの個性を自然に受け入れることができたことです。

自分が自分らしくあることを他人が自然に受け止めてくれたら、心が静かな喜びに満たされ、何をやっても楽しくなります。そして自分とは違う他人の個性がとても魅力的で大切なものに感じられます。そんな時空は本当にかけがえのないものです。そんな時空でお互いが素直に自分の素顔を出しあえて、お互いをより自然に受け入れられて、お互いの個性がどんどん発揮できたのは本当によかったです。

来年もまたやろうということになりました。これから楽しみです。改めてゼミ生の皆さんに感謝します。











付記

私はご存知の方も多いように仕事中毒人間で、その依存症からなかなか脱することができないのですが、ゼミ生による今回の合宿は、私にそこからの解放のドアを開けてくれたのかもしれません。学生を助けるのが教師のはずなのですが、実は教師は学生に助けられているということを痛感します。



追記

私のゼミ生が撮ってくれた写真の一枚です。感謝。














2014年2月24日月曜日

シンポジウム「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」(2014/3/9 早稲田大学)予稿の公開



3月9日(日)に行われる「言語教育エキスポ2014」(案内(PDF))で、「文学指導は学習者をどのように動機づけるか」 (9:00-10:30) というシンポジウムに登壇させていただきます。ここではそのシンポジウムの趣旨と、各登壇者の予稿を紹介させていただきます(予稿は発表順に並べます)。

私は現代日本の(英語)教育界では、もっともっと文学や芸術そして広く身体の重要性を訴えるべきだと考えていますので、今後はこういった企画には積極的に参加しようと思っております。

なおこのシンポジウムは2013年5月25日に日本英文学会で行ったシンポジウム(「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感 ― 大学の英文学教育は中高英語教員に何ができるのか )の流れをくむものであることを申し添えておきます(そのシンポジウムの報告と資料掲載はこちらをクリック)。





シンポジウム全体趣旨


今日英語 教育では実用技能の向上を目指した授業が多いが,高校生,大学生に,人生や人間の真実を思考させなくてよいのだろうか。そこで文学教材の意義を問い直したい。文学教材の扱い方次第では,英語の技能向上にも寄与しつつ,学習者が自己拡大を感じることで積極的な学習姿勢の構築,動機づけ,が可能になるのではないか。これらの点を中心に,高校,大学での実践,英文学,英語教育の連携,を探るべく五人の論者で発表を行う。





文学的な「声」の力で「からだ」と内界を取り戻す
―からだ・こころ・あたま と 外界・内界をつなぐことば―
柳瀬陽介 (広島大学)


要旨:ことばは、人間の「からだ」(非意識・無意識)、「こころ」(中核意識)、「あたま」(拡張意識)の間をつなぎ、さらに人間を外界にも内界にもつなぐ媒体である。だが、資本主義的発想が支配的な現代社会では、「からだ」と内的世界は抑圧されがちである。言語教育は、からだにも内界にもことばの通路を拓く必要がある。広義の文学的教材(歌)を実際の「声」で学習者の「からだ」にも直接訴えかける授業を本発表は提案する。

キーワード:身体論、意識論、歌の使用、マルクス、ユング、ダマシオ、エンデ



1 近代社会とは
近代社会を根底的に規定しているのはやはり資本主義的生活様式であろうが、そこでは「質」が軽視され万事が「量」で測られようとする(マルクス)。加えて西洋合理主義(「客観主義」)は、人間の「割り切れない」 (irrational) 部分を切り捨て、可視的・可触的で数量化可能な外界ばかりに人間の目を向けさせる。結果、人間の内界(異なる現実の想像・過去想起・未来空想など)は社会に抑圧される(ユング)。学校もますますグローバル資本主義体制への対応のための準備機関とみなされている。不登校・無気力や、いじめあるいは親による虐待なども近代社会の歪みの忠実な反映なのかもしれない。

2 英語教育の課題
そういった現状を踏まえ、ことばの教育としての英語教育は何をするべきか。まずはことばの本質を再認識しておきたい。ダマシオの神経科学的意識論の枠組(非意識・中核意識・拡張意識)を、日常語に翻訳するなら「からだ」・「こころ」・「あたま」と表現できるだろう。ことばは、「からだ」の内から生まれた情動 (emotion) が感じられ「こころ」となったところに、コミュニケーションを通じて他者から与えられるものである。「あたま」は、そのことばを整理はするものの、ことばの根源は「からだ」であり「こころ」である。人間のことばは、「からだ」・「こころ」・「あたま」をつなぎ、それらの中を自由に行き来することにより十全な働きを示す。

またことばは、エンデの『はてしない物語』が端的に示すように、外界と内界の間の往復を可能にする媒体でもある。エンデにしたがうなら、人間は内界への旅を失った時に活力を失い、外界への帰還を怠った時に生存の可能性を大きく損なう。

だが現代の英語教育は、非意識(無意識)的な「からだ」を抑圧し、身体を単に意識で操作・制御しなければならない対象としてしか捉えない。また「実用英語」の名の下に、外界に関する英語ならおよそ浅薄な内容でも称揚し、内界に関する英語(文学はその典型である)ならどんなに深い内容でも軽視しようとする。英語教育は現代社会の歪みを反映し、「からだ」と内界を抑圧し、英語ということばを「あたま」と外界だけの記号としてしまっている。結果、「こころ」は引き裂かれ、統合的存在としての人間が本来備えているやる気が損なわれてしまう。英語教育は「からだ」と内界を取り戻さなければならない。

3 英語の歌の可能性
本発表では、学習者の「からだ」に直接的に訴えかけ、内界への旅を誘う文学的な内容をもった歌 (Nick Cave and the Bad Seeds Wonderful Life)を使った実践の可能性について提案する。こういった歌は、現代社会の歪みをとりわけ鋭敏に感じている学習者にとってのよい教材となるかもしれない。




歌詞はこちらに掲載されていますが、私としては特に以下の部分を使うつもりです。


Come on, admit it, babe
It's a wonderful life
If you can find it
If you can find it
If you can find it
It's a wonderful life that you bring
Ooh it's a wonderful thing




注:ただし、流れによっては、The BeatlesのShe's leaving homeを題材に使うかもしれません。




その際は、発問例として以下などをあげます。発問のねらいは、イメージを喚起することによって、歌詞をメロディー・伴奏と共に味わうことです。

英語教育実践では歌うことが最後に付け加えられることが多いですが、私は感情を豊かに(そして繊細に)込めて歌うのは難しいと思うので、その時間があれば何度も歌を聞いて、イメージをより具体的に自分の心のなかに浮かべることの方が大切だと思っています。

もし、さらに時間があれば、歌詞を感情を込めて(歌うのではなく)朗読することや、自分で納得できる日本語に翻訳する活動を加えたいと思います。

設問:以下の質問に、あなたの自由なイメージで答えてください(正解はありません)。同時に可能な限り、そのイメージが出てきた基盤(歌詞の他の部分や自分が知っているエピソードなど)も一緒に提示してみてください。
(1) 彼女はどんな表情だろう(どんな女性だろう)。
(2) なぜ “the note that she hoped would say more” を残したのだろう。そこには何と書かれていただろう。
(3) ハンカチの描写からあなたは何を感じるだろうか。
(4) 彼女の両親はどんな人だろう。
(5) 彼女はこれまで家でどんなように暮らしていたのだろう。
(6) 彼女の父親と母親をもっと具体的にイメージしてみよう。
(7) 母親はどのように手紙を読んだのだろう。
(8) 母親はどのように “breaks down” したのだろう。
(9) 父親はどんな対応をしただろう。
(10) この “We”とは誰が言っているのだろうか。( “We”が本当に意味しているのは誰のことだろう)
(11) 金曜の朝、彼女はどんな表情だろう。
(12) 「男」とはどんな男性だろう(信頼できそうだろうか?)
(13) “What we did” “it”とは具体的にどんなことだったのだろう。
(14) 二つの“fun”とは具体的になんだろう。なぜ “joy”ではないのだろう。


参考文献 M.エンデ (1982) 『はてしない物語』岩波書店
A.ダマシオ (2013) 『自己が心にやってくる』早川書房
K.マルクス (2011) 『資本論 第1巻1』日経BP社
C.G.ユング (1987) 『タイプ論』みすず書房


※ 本発表は科研(課題番号24520622)の一部である。

付記:この発表のための関連記事には次のようなものがあります。
C.G.ユング著、松代洋一訳 (1996) 『創造する無意識』平凡社ライブラリー
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1996.html
C.G.ユング著、松代洋一・渡辺学訳 (1995) 『自我と無意識』第三文明社
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2014/02/cg-1995.html







高校英語における文学実践
―“ことばと出合う”高校生のための英詩入門講義―
和田玲 (順天中学高等学校(東京)・英語科教諭)

要旨:感動のある学びほど生徒のモチベーションを高めるものはない。教室における感動の引き出し方には様々なやり方があるが、言葉の学びを通じて生徒の心を主体的な学びへと掻き立てる一番の原動力は「知的好奇心」にある。文学教材を用いた実践にはその可能性がある。そこで、高3生のクラスで大学入試問題の解説から英詩を鑑賞する授業を試みた。教室のムードや生徒たちの反応などにも触れながら、一連の指導手順をご紹介したい。

キーワード:  高校、英詩入門,大学入試、知的好奇心、主体的学び、アクティブな授業



1 言葉の教育はこれでいいのか?(問題意識)
私は高校で英語を教えている。近年、高校英語の現場では英語運用能力の向上がしきりに求められている。それに伴い、高校英語の教室は急速にトレーニング重視の授業スタイルが目立つようになり、音読・暗唱・暗写といった機械的なトレーニングが重視されている。また、そこから得られた表現を用いて単元の目的となる表現活動をこなすことができれば、何とか今どきの授業は出来ていると思われがちである。しかし、生徒はそうした授業のあり方に心からのめり込み、これに喜びを感じているのだろうか。ここから自立的学習者は本当に生まれるのだろうか。言葉を学ぶとは、単に「覚えて使う」の機械的な繰り返しであってよいのだろうか。学習者の「モチベーション向上」という点においては疑問を感じない訳にはいかない。また「教育」(生徒の自己拡大)という点においても同様である。

2 知的好奇心を引き出す教材と指導手順(提案
モチベーションの観点からも教育の観点からも有意味な授業をしたいという願いは全ての教師に共通する。一方、生徒の中には、教師から知的好奇心を触発され、発見的な学びへと誘われることを期待している者も少なくない。だが、同時に高校生は現金な存在でもある。従って、なるべく彼らのニーズから逸脱しないやり方で我々が目指すゴールへと手引きする方法を考えなくてはならない。そこで、私はよく高三生には「大学入試問題から世界を拓く」という手法をとる。まずは知的な疑問を見出すことのできる入試問題を導入教材として提示する。そうした良問は意外なほど多くある。そそれらをうまく活用して、生徒の知的好奇心を掻き立てつつ、新たな発見へと導いていくのである。文学との出合いは、彼らにとって発見的学びの一つとなる。

3 高校生のための英詩入門(実践例)
多くの生徒が非常に積極的に取り組んでくれた「英詩の入門講義」の指導手順を簡単に紹介する。
①カミングスの詩を引用した大学入試問題(読解)
②カミングスの詩を読み解く(ディスカッション)
③詩の入門講義(松尾芭蕉と三好達治を使って)
④英詩朗読コンテスト(ブレイクを使って)
⑤英詩読解にチャレンジ(現代詩を使って)
⑥英詩作りにチャレンジ(5行詩の発表)
⑦大阪大学の読解問題にチャレンジ(詩論)


4 まとめ
 生徒は授業中、絶えず【①疑問もち、②興味を持ち、③推論し、④議論し、⑤発見し、⑥チャレンジし、⑦達成する】を繰り返すことで、終始アクティブに取り組んだ。授業後、他の詩も紹介してほしいという者や自分の好きな詩を紹介してくれる者もいた。言葉と出合うことを通じて、世界を拓いた瞬間とも言えよう。

引用・参考文献
奥井潔 (1979) 「ウイリアム・ブレイク:『恋の秘密』について」白山英米文学 No.4 東洋大学文学部紀要第32集
和田玲 (2010)『論理を読み解く英語リーディング』アルク、pp.272-282







学習者を夢中にさせる教材と活動例
―文学教材を用いた総合的リーディング授業実践報告―
関戸冬彦(立教大学全学共通カリキュラム)


要旨:リーディングの授業をより活性化させるためにはどのような方法や要因があるだろうか?教え方,教材,教員自身の個性や魅力,もちろんこれらのどれかひとつと限定できるものではない。しかし,学習者自らが読みたいと思い,かつ読んでいるうちに自分自身のことをも考えることのできる読み物であれば,それは対象言語を学習するといった枠を飛び越え,人生を考えるヒントにもなる。そうした教材を実際の活動例と共にご紹介したい。

キーワード: 文学,リーディング, 学習者, 教材,活動例



1 リーディング授業をめぐって
大学のリーディング授業では通例90分を15回ないし30回行う。オーソドックスなやり方としては大学生向け教科書を選定し,それらを1授業に1ユニットのペースで行い,訳や練習問題などを行い,学期末にテストを行う,で完結するというものであろう。中には多読的要素を取り入れ,リーディングマラソンのような活動と併用している場合もあるかもしれない。いずれにしても,自分が担当している学習者たちがそのリーディング教材に対してどのような思いを抱いているのか,またどれほど積極的に読もうとしているか,学習者の内側から学習を眺めることは,教育に欠かせない重要なポイントである。

2 具体的教材の紹介,提案
 そうした際,どのような教材であれば学習者に積極的な読みを促し,同時に英語に対する感覚を養わせ,ひいては読んでいる最中,あるいは読んだ後に何がしかの反応を心の中に呼び起こせるか,ということを考える必要がある。その一例として,本発表ではアメリカの作家,J.D.サリンジャーが書いたThe Catcher in the Ryeを用いた授業を紹介する。この小説は主人公の少年,ホールデン・コールフィールドの心の葛藤,子どもと大人との狭間で揺れ動く感情を追うといった内容だけに留まらず,ジョン・レノン殺害の犯人の愛読書であったことなど含め,学習者に多方面からの興味と関心を呼び起こす要素を孕んでいる。また,授業で扱うことで最終的には英語の本を最後まで読めたという達成感をも与えることにもなる。

3 実際の活動例 
とはいえ,そこまで至らしめるにはただ読めと本を与えるだけ,もしくは教室にて一文一文あてて訳させるだけ,というやり方では難しい。学習者が途中で挫折しないように,いやむしろ積極的に読むようにするためには活動の上での工夫が不可欠である。本発表では上級者向けの場合と中級者向けの2つの異なるペダゴギーを提案する。具体的な活動内容としては,英語による要約作成,各チャプターに対する質問の作成,またペアワークによる答え合わせ,チェックなど,英語の本を読むだけでなく,読んだ後に言語を駆使する活動を多く取り入れることを基本にしている。つまり,あくまで英語学習の授業であって文学作品を解説するためだけの授業ではないという点を留意しておきたい。なお,この授業は,動機づけ,情緒的発達ならびに英語力向上に有益であることが,学期末に行ったアンケート等から確認できる。

4 まとめ
  文学は人生における日常の身近な問題を題材としている。その身近さゆえに学習者は共感し,やる気を高め,英語力向上へと繋がっていくのである。

引用・参考文献
Salinger, J.D. (1951) The Catcher in the Rye. New York: Little, Brown.







ペーパーバック・リーディングの導入
―「ティーン向け小説」を素材にした教育実践とその可能性について―
中垣恒太郎(大東文化大学)


要旨:ティーン向け小説を素材にしたペーパーバック・リーディングの導入により、物語を読み、物語を/について語る楽しみを通して、いかにして多様なスキルを学習者に伝達することが可能であるのだろうか。自立英語学習法としての役割・意義についても意識しつつ、具体的な素材、手法を交えた授業実践の一例を提起することにより、ペーパーバック・リーディングの可能性(と現状の課題)を展望してみたい。

キーワード: ティーン小説、コンテクストを読む力、類推する力、物語る力、検索する力



1 物語を読み、物語を/について語る楽しみ
現在、大学の授業ではGraded Readers と称する、多読用の英語教材の導入が活発になされており、すでに一定の成果を挙げている。こうしたGraded Readersによる多読英語教育の成果を踏まえながら、本報告ではペーパーバックにより、物語を読む楽しさをいかに伝達できるかを具体的に展望してみたい。従来から英語に関心の高い学習者にとって、字幕なしで英語圏の映画を楽しんで鑑賞したい、ペーパーバックにより洋書を楽しんで読めるようになりたい、という願望・目標はよく示され、実際に実践されている。

しかしながら、Graded Readersにより、多読の経験を相当程度、積んできた者であっても、英語圏における一般向けの物語を実際に読みこなすまでには、大きなギャップに戸惑うであることが現状であろう。大学での英語教育の目標は現在、きわめて多様であるが、その一つとしていずれ学校での英語学習から自立して、英語に触れる「自立英語学習法」の道筋を示す役割がある。その中でGraded Readersから一歩進んだ、ペーパーバックによる物語を読む楽しさをいかにして伝達していくことができるかどうかを考えてみたい。本報告では広義の「文学」として「青春小説」を素材とすることを提案する。あるいは、「Graded Readers」から古典的な「文学」作品へと接続する間の段階と捉えてもいいだろう。加えて、アメリカにおいては、「YA(ヤングアダルト)小説/ティーン小説」はティーンネイジャーの文化の中で大きな役割をはたしてきており、十代の学校生活を異文化比較の観点から考察していくことも主要な眼目の一つとなる。

2 そもそも物語を素材とすることの有効性とは?
 これまでにおいても、英語教育に文学の素材を導入することの意義について改めて指摘されてきているように、英語を学習していく上で、物語を読み、物語について語り、さらに自身が物語る上で、ストーリーテリングの手法を通して、物語から多くを学ぶことができる。また、物語がいつ、どのような状況で語られているのかを常に意識することによって、「コンテクストを読む力」を養うことも重要であり、様々に「類推・推測する力」を身に着けていくことも期待される。現在はインターネットによる検索エンジンが発達しているが、「検索するスキル」は意外なほどまでに伴っていないのが現状ではないか。物語を楽しむ上で、有効な固有名詞を検索する勘所をつかむことも、ペーパーバック・リーディングの主要な観点となるだろう。

中でも「YA小説」は大学での学習者にとって身近な素材であり、物語を読み、物語について語り、さらに自らの物語を語る有効な素材となるのではないか。主教材・副教材としての、ワークシートの導入などを含めた実践例(Ann Brashares, The Sisterhood of the Traveling Pants, 2001)などを挙げ、フロアの方々をも交えた情報交換を期待したい。「ティーン・フィルム」と称される映画翻案作品との連動も有効であろう。

参考文献
佐藤まりあ『読みながら英語力がつくやさしい洋書ガイド』(コスモピア、2013)。
水野邦太郎監修『大学生になったら洋書を読もう―楽しみながら英語力アップ!』(アルク、2010)。 
渡辺由佳里『ジャンル別 洋書ベスト500』(コスモピア、2013)。
『英語教育』「特集・英語教育に文学を」(2004年10月増刊号)。








英語圏文学の使い方
―「生きる喜び」を感じる英語授業―
鈴木章能(甲南女子大学文学部)




1 生きる喜びのない学校生活
ユニセフが調査した「先進国における子どもの幸せ」によると,日本が他国と大きく異なる点が一つある。それは学校の中で存在価値がないといった社会的排除の主観的認識が他国に比べて圧倒的に高い点である。次点の国の約3倍もある。学校は生徒学生にとって生活の大半を過ごす場であるため,彼らの多くは生きる喜びを感じられない人生を送っていることになる。これでは授業も面白くなくなる。学びのモチベーション向上には社会的排除の主観的認識をまず軽減せねばならない。教室の中で他者との関係を生き(言語の役割),互いに共感理解し,個々が自分の存在価値を認識し,生きる喜びを感じられるような授業が必要である。

2 生きる喜びを見出せる教材とタスク
上記の授業の実現には,情緒に訴え,生きる喜びが見出せる人間模様が描かれた,繰り返し読むに足る名文名著を教材にするのが有効であろう。但し,英文を読むことが自己目的化し,読解力を数値化するための事実発問が繰り返されるだけでは読む喜びや読解力自体が低下する。本来,テクストは脱構築で構成されており,その意味で言語は「文学的」なのだから。事実発問と評価・推論発問をバランスよく混ぜ,教室内での交流はもちろん,英文を読むこと自体が他者との関係に生きること,また他者との関係に生きることが社会的排除の主観的認識の軽減となる工夫が必要である。

3 文字通りの「文学」作品を用いた実践例
例えば,Oヘンリーの「賢者の贈り物」を用い,そこに書かれた人間の素晴らしい点を事実発問にし,それを基に,教室内の他者の長所を見つけさせ,英語で褒めあうという頂上タスクを設ける。実際,この授業を行うか否かで学習者の学びに大きな差が出た。行ったクラスでは学習者同士の絆や発表への意欲が強まり,予習率は100%になり,「授業に出ることが楽しい」という回答も全員から得た。その後,サマーセットモームの「政略結婚」を用いると,学習者たちは「幸せとは期待しないこと」というテーゼについて,褒めあった経験を礎に活発な議論をした。また,別の文学作品で人間の愚かさを事実発問にし,推論発問として,愚かな行いをする人を主観的に峻別する代わりに,他者の内的な論理や情緒に沿って考えるというロジャーズ的な共感的理解を行わせると,素直な自己批判も出た。

4 まとめ―生きる喜び・生き直しを起点に
 様々な人間の本音や理想,生き方が書かれた「文学的」英文を読み,他者との関係を生きる頂上タスクを工夫することで社会的排除の主観的認識は軽減され,英語学習のモチベーションが向上すると考えられる。

引用・参考文献
Damasio, A. R. (2005) Descartes’ error: Emotion, reason, and the human brain. NY: Penguin.
De Man, P. (1982) Allegories of reading. NH: Yale UP.
生き方が見える高校英語授業改革プロジェクト(http://www.ecrproject.com).2013.11.18アクセス.
桑村テレサ(近刊)「生き方が見えてくる英語授業―ジャック・ラカンの理論から考える―」『片平』49.
UNICEFイノチェンティ研究所 (2010)「『Report Card 7』研究報告書 先進国における子どもの幸せ―生活と福祉の総合的評価―」国立教育政策研究所・国際研究・協力部.


※本研究はJSPS科研費23531265, 25370672の助成を受けたものである。