2017年12月7日木曜日

SLA研究者若林茂則先生による英語教育論


ふとした縁でSLA研究者の若林茂則先生の英語教育論を読む機会を得ました。


How to Improve Communicative Competence in a Lingua Franca:
Reasons and Practices
Shigenori Wakabayashi


厳密なSLA研究をなさっている若林先生が、英語教育という現実世界の問題に対してきわめて柔軟かつ多面的に論じているのが非常に印象的でした。以下は私が特に共感した点です。

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■ コミュニケーション能力について

・ 英語がリンガ・フランカとして使われている現状でのコミュニケーション能力 (communicative competence) とは、英語が不得意な者も含むさまざまな英語話者と対応できる能力でなくてはならない。

・ だが、第二言語話者が、自分よりも第二言語が不得手な学習者とコミュニケーションを取ることにより、いかにコミュニケーションの使い手として上達するのかという研究はほとんどない。


■ 現在の英語教育について

・SLA研究の多くは、第二言語環境に入った時の年齢よりも第二言語を使用している時間の総量の方が重要であることを示している。

・SLA研究では多くの仮説やモデルが提唱されているが、どれも学習者が第二言語を学ぶのは、それを使うことによってであるという点で一致している。

・だが、現在の外国語としての英語教育の活動の多くは "fake" communicative activitiesをしているだけなのかもしれない。

・外国語として英語を学ぶ学習者はオウム (parrot) ではないにしても、操り人形 (puppet) になっているのかもしれない。

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「コミュニケーション能力」という概念には、「社会がなにを適切なコミュニケーションと考えるか」という価値観が入り込みます。価値観をめぐって人々はさまざまな対話を繰り返し、ある程度の合意を得たものを正当な価値観とし、それに権力 (power) を付与します。ですから「コミュニケーション能力」は純粋な科学概念ではなく、社会的、文化的、そして政治的な概念であるといえましょう。そういった概念について、主として自然科学的なアプローチを取るSLA研究者の方も論じていることを私はとても心強く思いました。

またSLA習得についても、要はその言語の使用経験が重要という根底的な点に光が当てられていることにも心強く思いました。そうなるともちろん次の論点は「そもそも言語使用とは何か」あるいは「自然な言語使用とは何か」になるでしょう。

関連記事:自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html

その問いについての探究が深まるにつれ、教育学的な問いも探究されるべきでしょう。一例は「外国語環境での学校という人工的な空間で、自然に近い言語使用を可能にするにはどうしたらよいか」といった問いです。研究者がこういった問いを立てる方が、「いかに三ヶ月で資格試験の点数を上昇させるか」 といった問いに拘泥するよりはるかに望ましいと思うのですが、いかがでしょう。

しかし下の本でも素描したように、小学校での創造的な教育者が開拓し始めた子どもが自然に英語に親しむような授業実践も、折からの新自由主義的な教育政策によりつぶされてしまうかもしれません。




私はこの本で、現在進行中の英語教育改革が失敗に終わるシナリオとして以下を想定しました。

経済的・社会的・文化的に恵まれた家庭に育つせいぜい10%(おそらくはそれよりずっと少数)の子どもは確かに英検やTOEFLなどの得点をそれなりに上げるものの、現実社会を生き抜くコミュニケーション能力はあまり身につかない。90%以上の子どもは、英語教育により挫折感・疎外感・無力感を強くし、内向き傾向を強める。

この失敗のシナリオを避ける方法の一つが、英語教育を小学校から変える、つまりこれまでの中高の英語教育を小学校に押し付けるのではなく、優れた小学校英語教育実践者が開拓してきた子どもの自然に即した英語教育によってこれまでの不自然な中高の英語教育を変えることだというのが上の本の根底的なメッセージなのですが、現状を見ていますと、なかなか楽観的にはなれません。どうしたものか・・・


  
と語り始めると話は長くなりそうなので、話を若林先生のことに戻します。上の論文を知った機縁で、私は以下の動画についても知りました。





若林先生は、ここでも明快な語り口で私たちの「常識」を問い直しながら、言語使用(の経験)の重要性を説いておられます。

こういった考え方を、決して反知性的に「それなら学習者をとにかく留学に行かせろ」「つまりはネイティブスピーカーが教えればいいということなのだ」などと短絡させず、その意味するところを丁寧に言語化し諸研究の知見と連動させながら理論化し、学校教育という人工的機関を人間の自然に即した 環境にする努力を続けられればと思います。

英語教育という事象について、さまざまな分野の方々がそれぞれの強みを活かしながら語ってくださることは本当にありがたいことだと思っています。現実世界の複合的な事象は、多面的・多元的な考察を必要とするものでしょうから、英語教育に関係する私たちは、自分の蛸壺に入り込んでしまうことなく、さまざまな対話を重ねて理解を深められればと思います。


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