2017年12月8日金曜日

物語論という観点からラボ・パーティの実践を観察する



現在の私の研究主題の一つは「物語」ですが、その関心から、英語と日本語で語られた物語を子どもたちが協働的に解釈して演ずる実践を行っているラボ・パーティの実践を観察し、物語および物語を使っての実践に対する理解を深めようとしています。先日もある教室での実践を観察させていいただきました。ここではその観察をまとめ、そこから考えたことを少し述べます。


■ 試演と対話

ラボの活動の中では物語が題材となっていますが、物語は絵本で視覚イメージ豊かに、かつ、英語話者と日本語話者の俳優が交互に英語と日本語で録音しているCDで聴覚イメージ豊かに提示されています。私が観察した教室ではシェイクスピアの 『夏の夜の夢』を使っていましたが、この絵本とCDの芸術的な質は高いです(絵本は以前にその他の絵本を何冊か見せていただいたことがありますが、かなり現代絵画的で斬新な表現を使ったもの(たとえば『ピーターパン』)などもあり、「子どもだまし」とは対極のところにあることがわかりました)。ラボに参加する子どもたち --といっても幼児・小学生だけではなく、中高生や大学生にまでいたる幅の広い年齢集団-- は、各家庭で絵本とCDを何度も視聴しそこで視覚的・聴覚的な感覚を得てから教室に来ます。教室では配役を決めた後、CDを流しながら集団でその物語を演じます。初期段階ではCDで聞いた日本語と英語をうろ覚えの場合もありますが、それはそれとしてCDの音声と音楽の流れに合わせながら演じてゆきます。演じる場合の最初の基盤は、絵本とCDから醸成された感覚・イメージです。舞台装置も衣装もない中での演技ですので、身体表現は抽象的というか象徴的なものであることも多いです。

私が観察した日は、『夏の夜の夢』を始めて間もない頃で、「まずは一度やってみよう」ということでCDを流しながら全員で試演してゆきました。試演したら円座になって全員で対話をします。「演じてみてどう感じたか」「このように演じた方がよいのではといった新しいアイデアはないか」と全員で語り合います。この日はこのような、試演と対話が三回繰り返されました。

以上が概況説明です。以下、私が感じたこと、考えたことを書きます。


■ 仮定法的実在性の実験場

私の現在の物語論は、主にブルーナーの論に基いていますが、彼の概念の一つが「仮定法的実在性」 (subjunctive reality) です。

J. Bruner (1986) Actual Minds, Possible Worlds の第二章 Two modes of thoughtのまとめと抄訳
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/10/j-bruner-1986-actual-minds-possible.html
Jerome Bruner (1990) Acts of Meaningのまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/06/jerome-bruner-1990-acts-of-meaning.html

物語の読者は、物語のさまざまな言語的工夫に助けられて、物語に描かれている登場人物の経験をいわば間接的にというか仮想現実的に経験します。そこで経験する "reality" --私は "actuality" (「現実性」) と区別するために「実在性」と訳しています-- をブルーナーは「仮定法的実在性」と呼びます。読者は反実仮想的な「登場人物が私である世界」を経験し、その世界の中での経験に実在性を感じるのです。

ラボの試演と対話は、仮定法的実在性の実験場のようでした。

試演では、子どもが物語に即して日常生活では決して口にしないようなことばを、同じく日常生活ではまず言わないような口調で語ります。その試演を終えた後の対話では、物語を演技で身体的に・立体 (3D) 的に経験したことも手伝ってでしょうか、台詞の文字通りの意味の背後にある細部についての問題提起などがされます(たとえば、「この登場人物が出てきた時に、森の木々はどんな反応をするだろうか」)。あるいは物語の喚起的な言語 (language of evocation) --さまざまな想像力の発揮を許す表現-- や絵本の抽象的表現 --映画と比べるなら、はるかに具体的情報が描かれていない表現-- によって、子どもは大胆な問いかけもします(たとえば「妖精って指先ぐらいの大きさなのだろうか、それとも『進撃の巨人』ぐらいの大きさなのだろうか?その二つの大きさで森の様子がどのように変わるかやってみないか」など)。子どもたちは、直訳して終わり、あるいはテクストに書いてあるだけの情報(文字通りの意味)について英問英答して終わるような平板な授業を受けている時とはうってかわって、物語に仮定法的とはいえ実在性を身体で実感し、その実感に基づき物語を解釈してゆきます。「仮定法的とはいえ」と言いましたが、逆に「仮定法であるからこそ」子どもは日常的な自分から離れた実在性の経験ができるのだともいえましょう。ともあれ、この現場では試演と対話を通じて、さまざまな仮定法的実在性が試されました。想像力の実験場ともいえるような仮定法的実在性の実験場だと私は感じました。


■ 対話の場

「対話」の概念に関する私の理論的基盤の一つはボームの対話論ですが、ラボでの子どもたちの語り合いは、まさにボームの言うような意味での対話であったように思えました。

David Bohmによる ‘dialogue’ (対話、ダイアローグ)概念
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/04/david-bohm-dialogue.html

語り合いは、小学生から大学生までの幅広い年齢層の集団で行われます。私が見た教室では大学生が一人、高校生が三人、中学生がそれよりも多く、小学生がさらに多いような集団でした(追記:正確には大学生1名、高校生2名、中学生2名、小学生9名でした)。当然年長者の方が経験豊かでいろいろな知識・知恵も兼ね備えているのですが、司会進行役も含めて年長者は決して自分の意見(「ここの解釈はこうあるべきだ!」といった自分なりの思い込み (assumption) )を押し付けません。もちろんそうだからといって自分の意見を述べないわけではないのですが、述べてもある時点では大学生の意見に対して小学生が「それって普通、屁理屈って言わん?」などと反論されているなど、年長者の発言も権威的・抑圧的とは程遠いものでした。そうやって誰の意見・思い込みも、絶対肯定することも絶対否定することもせず、決めつけずに対話を続けてゆくと、小さな子どもからも本当に面白いアイデアが出てきたりします。そのような驚きを何度も経験している年長者(大学生)は実践後の私との語り合いで、「僕は自分の意見をぜったいに通そうなどとは思いません」と述べていました。また、高校生・大学生とテューター(=ラボでの指導者)との最後の話し合いの中では「『決める』という表現を使うと、子どもたちは物事が決まったものとして思考を停止してしまうからできるだけ使わないようにしよう」といった反省も出ていました。ボームの対話論でも「決めつけないこと」 (to suspend) が対話の重要な原則として上げられていますが、ラボにもそのような対話の文化が見られました。

だからといってこの対話がいつも理想的に進んでいるわけではありません。小さな子どもは、関係のない茶々を入れたり、悪ふざけを始めたりします。その状況がひどくなると年長者は「ねぇねぇ、人の話は聞こうよ」などと対話関係に戻そうとしますが、学校の(一部の)教室のように「こら、そこ。静かにしなさい!」と権威・権力者的に叱責したりすることはありません。ある決定事項を迅速に実行に移すため語り方からすれば、無駄といえるぐらいに回りくどいやり方で語り合いが進んでゆきます。ですが、同じように興味・関心・意欲をもっているわけでもない参加者のすべてが、誰もその存在を否定されずに語り合おうとするこの文化はとても民主主義的です。創造的発見が生じる土壌に民主主義的文化があるということ、そして民主主義的文化こそは人権尊重の文化であり全体主義的支配を防ぐ文化であるということからすれば、ここでの語り合いは非常に重要な文化実践であるようにも思えます。


■ 多様性の統一

これら「仮定法的実在の実験場」と「対話の場」という観点からすると、ラボの教室では、一方で想像力の多様性を促進しながら、他方でそれを一つの舞台表現にしてゆくという、「多様性の統一」を行っている場のように思えます。言うまでもなく、多様性を発展させながらもそれを一つの形にするということは、現在、多くの企業や機関が試みていることです。多様性を尊重しない組織は、多種多様な交流が前提となったグローバル社会に対応できませんし、多様性を野放しにして混乱するままの組織は自己崩壊してゆきます。ラボの実践の意義は現代において大きいと思います。

また、こういった実践を可能にしているのが、一義的に確定された真理 (truth) を追求する科学規範の様式 (paradigmatic mode) ではなく、多義的で不確定ながらも複合的に柔軟に対応するとことを可能にする意味 (meaning) を探究する物語の様式 (narrative mode) に基づいていることも重視すべきと考えます。私たちは物語という文化様式をもっと大切にするべきではないでしょうか。さもなければ創造性も人間性も枯渇しかねないと私は考えます。


■ 人工知能と人間

21世紀の教育を考える上で避けては通れないのが人工知能の問題、いかに人間社会が人工知能と共存するかという問題だと私は考えていますが、この点でもラボに見られるような物語的実践は重要であるように思えます。単純化して述べるなら、機械は一義的で確定的意味を扱うことが得意です。機械は、アレントの言い方を借りるなら記号言語 (Zeichensprache) の処理が得意 --人間が太刀打ちできないぐらい得意-- です。これに対して人間は、確定的意味 (ルーマンの言い方なら「現実性」)を伝え合いながらもそこから派生する不確定な潜在的意味(「可能性」)も込めながら語り合い (Sprache) を行います。人間のことばには潜在的意味が付随しているからこそ、人間の語り合いは、さまざまな変異や変化にも対応できるだけの幅と奥行きをもちます。人間のことばは、機械からすればおよそ曖昧で計算困難なものですが、逆にそうだからこそ、人間は限られた言語処理能力で複合的な世界に対応できている考えられます。

アレントの行為論 --『活動的生』より--
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/01/blog-post_18.html
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/05/1990.html

人間はさらに、一人でことばを使うだけではなく複数の人間の間でことばを使い、さらにことばの潜在的意味(可能性)を開拓して創造性を発揮します。この創造性の発揮は、ディープラーニング以前の機械のような圧倒的な計算能力で総当り方式でしらみつぶしに解を求めるやり方ではなく、複数の人間がそれぞれの視点から、また他の視点から影響を受けてそれぞれの視点を変化させながら意味深さを探究するやり方です。現時点ではこの人間のやり方の方が、複合的で流動的な世界での深い創造性に関しては人工知能よりも勝っていると考えられます。この言い切りが間違いでないことを願うのですが、機械はまだ自足的な独話(モノローグ)しかできないのに対して、人間は相互主体的な対話で協働をすることができます。

人間と人工知能が共存できる世の中 --人工知能が作り出すシステムによって人間が疎外され、地球上の多くの人間が生きる術や意味を失ってしまうことがない世の中-- を作り出すには、機械が得意なことと人間が得意なことを理解し、人間が後者の力を伸ばしながら、人間同士とだけでなく機械ともうまく相互作用することが必要だと考えます。物語によって学ぶことは、機械が不得意だが人間が得意なことを伸ばすという点でこれからますます重要になっていくと思います。もちろん同時に、機械を理解し機械とうまく相互作用するために物語の様式とは異なる科学規範の様式も学ばなければならないのですが。

物語の様式に関する理解を、科学規範の様式に関する理解と同程度ぐらいに深めたいと思います。




関連記事
ラボ・パーティ50周年記念行事で学んだこと、およびそこでの私の講演スライド
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2016/10/50.html


追記(2017/12/12)
「真夏の夜の夢」を「夏の夜の夢」に訂正し、 教室での参加者の正確な人数を書き加えました。


2017年12月7日木曜日

SLA研究者若林茂則先生による英語教育論


ふとした縁でSLA研究者の若林茂則先生の英語教育論を読む機会を得ました。


How to Improve Communicative Competence in a Lingua Franca:
Reasons and Practices
Shigenori Wakabayashi


厳密なSLA研究をなさっている若林先生が、英語教育という現実世界の問題に対してきわめて柔軟かつ多面的に論じているのが非常に印象的でした。以下は私が特に共感した点です。

*****

■ コミュニケーション能力について

・ 英語がリンガ・フランカとして使われている現状でのコミュニケーション能力 (communicative competence) とは、英語が不得意な者も含むさまざまな英語話者と対応できる能力でなくてはならない。

・ だが、第二言語話者が、自分よりも第二言語が不得手な学習者とコミュニケーションを取ることにより、いかにコミュニケーションの使い手として上達するのかという研究はほとんどない。


■ 現在の英語教育について

・SLA研究の多くは、第二言語環境に入った時の年齢よりも第二言語を使用している時間の総量の方が重要であることを示している。

・SLA研究では多くの仮説やモデルが提唱されているが、どれも学習者が第二言語を学ぶのは、それを使うことによってであるという点で一致している。

・だが、現在の外国語としての英語教育の活動の多くは "fake" communicative activitiesをしているだけなのかもしれない。

・外国語として英語を学ぶ学習者はオウム (parrot) ではないにしても、操り人形 (puppet) になっているのかもしれない。

*****

「コミュニケーション能力」という概念には、「社会がなにを適切なコミュニケーションと考えるか」という価値観が入り込みます。価値観をめぐって人々はさまざまな対話を繰り返し、ある程度の合意を得たものを正当な価値観とし、それに権力 (power) を付与します。ですから「コミュニケーション能力」は純粋な科学概念ではなく、社会的、文化的、そして政治的な概念であるといえましょう。そういった概念について、主として自然科学的なアプローチを取るSLA研究者の方も論じていることを私はとても心強く思いました。

またSLA習得についても、要はその言語の使用経験が重要という根底的な点に光が当てられていることにも心強く思いました。そうなるともちろん次の論点は「そもそも言語使用とは何か」あるいは「自然な言語使用とは何か」になるでしょう。

関連記事:自然であれ -- 人工的な言語学習環境こそが言語習得の個人差を増大させているのではないか
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2017/08/blog-post.html

その問いについての探究が深まるにつれ、教育学的な問いも探究されるべきでしょう。一例は「外国語環境での学校という人工的な空間で、自然に近い言語使用を可能にするにはどうしたらよいか」といった問いです。研究者がこういった問いを立てる方が、「いかに三ヶ月で資格試験の点数を上昇させるか」 といった問いに拘泥するよりはるかに望ましいと思うのですが、いかがでしょう。

しかし下の本でも素描したように、小学校での創造的な教育者が開拓し始めた子どもが自然に英語に親しむような授業実践も、折からの新自由主義的な教育政策によりつぶされてしまうかもしれません。




私はこの本で、現在進行中の英語教育改革が失敗に終わるシナリオとして以下を想定しました。

経済的・社会的・文化的に恵まれた家庭に育つせいぜい10%(おそらくはそれよりずっと少数)の子どもは確かに英検やTOEFLなどの得点をそれなりに上げるものの、現実社会を生き抜くコミュニケーション能力はあまり身につかない。90%以上の子どもは、英語教育により挫折感・疎外感・無力感を強くし、内向き傾向を強める。

この失敗のシナリオを避ける方法の一つが、英語教育を小学校から変える、つまりこれまでの中高の英語教育を小学校に押し付けるのではなく、優れた小学校英語教育実践者が開拓してきた子どもの自然に即した英語教育によってこれまでの不自然な中高の英語教育を変えることだというのが上の本の根底的なメッセージなのですが、現状を見ていますと、なかなか楽観的にはなれません。どうしたものか・・・


  
と語り始めると話は長くなりそうなので、話を若林先生のことに戻します。上の論文を知った機縁で、私は以下の動画についても知りました。





若林先生は、ここでも明快な語り口で私たちの「常識」を問い直しながら、言語使用(の経験)の重要性を説いておられます。

こういった考え方を、決して反知性的に「それなら学習者をとにかく留学に行かせろ」「つまりはネイティブスピーカーが教えればいいということなのだ」などと短絡させず、その意味するところを丁寧に言語化し諸研究の知見と連動させながら理論化し、学校教育という人工的機関を人間の自然に即した 環境にする努力を続けられればと思います。

英語教育という事象について、さまざまな分野の方々がそれぞれの強みを活かしながら語ってくださることは本当にありがたいことだと思っています。現実世界の複合的な事象は、多面的・多元的な考察を必要とするものでしょうから、英語教育に関係する私たちは、自分の蛸壺に入り込んでしまうことなく、さまざまな対話を重ねて理解を深められればと思います。


2017年12月6日水曜日

Critical Realism, Policy, and Educational Research (批判的実在論、政策、そして教育研究)





ある読書会で以下の章を読みました。ここではそのためにつくった「お勉強ノート」を掲載しておきます。

Chapter 9 Critical Realism, Policy, and Educational Research
by Allan Luke

Generalizing from Educational Research: Beyond Qualitative and Quantitative Polarization (pp.173-200). Taylor and Francis. Kindle .



最初に総説的なことを述べておきます。

一口に英語圏といってもその中にやはり多様性はあり、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、あるいはシンガポールなどには、幅広く現実的な教育研究という点では、米英よりも進んだ研究が見られるようです。

たとえばニュージーランドでは多くの教育研究者が以下の前提を共有しているそうです。

まとめるなら、教室と学校は実験室とは異なり、複合的で乱雑で特異に局地的で社会的な生態系である。政策が学ばなくてはならないのは、いかにエビデンスの科学が一般化可能性のあるように見えても、教育改革は、複合的で局地的な現象であり、改革がなされるためには、政策的・物質的・文化的・組織的な条件を必要とするということである。 (p.188)

あるいはシンガポールでは、以下のように教育研究が進められているそうです。

シンガポールの研究デザインは、複数のレベルで、横断的・縦断的、量的・質的な豊かなデータベースを作ろうとしている。ミクロな質的研究を、生徒の社会階層と言語的背景、教師の背景、生徒と教師の調査などに関する大規模な量的データセットの中に入れ込んでいる。学校のテストと試験得点は、一つの成果にすぎず、制度や個人の有効性を示す唯一無二の指標とは決してみなされていない。このようにして従来の成功指標(たとえばテストや試験の得点や、学校の特徴とされるもの)を受け入れることを超えて、教育的有効性を評価する際に何を成果とみなすことができるのかという問いを探究しているのである。 (p.189)


これらの国々の教育研究者は、社会の急速な変化を鋭敏にとらえて自らの研究方法を、旧来の(擬似)実験室研究から多様化させそれぞれの方法論において研究の厳しさを追求してているようです。日本は世界でも珍しいぐらいに移民が少ない国かもしれませんが、それでも学校現場や労働現場などで「日本は単一民族国家」などと称することはもはや欺瞞でしかないでしょう。新自由主義の浸透に伴い社会の階層化は進行し、それが経済的・社会的・文化的な格差の拡大につながっているようにも思えます。性・ジェンダーといった意味での多様性も進行し、もはや「平均的」な学習者を想定しただけの研究は現実をとらえられず、その研究結果を元にした政策が一律に実行されたら、それは益以上に害を生み出すのかもしれません。

研究者という人々は、知的革新に長けた人々というのが一般的想定で、実際そういった優れた研究者も多くいますが、自分が若い時に覚えた方法論でしか研究をせずに、社会の現実よりも、同好の士による学界状況ばかりを見ている方もいないわけではありません。

ここ40年ぐらい米英で至適基準 (gold standard) とされてきた(擬似)実験研究の軛から日本の研究者も自由になり、より社会の現実に沿った研究をするべきだと思わされます。著者もこう結論づけています。

教育研究は、実務的で問題解決的で知的な仕事である。そのようなものとして、教育研究は、量的研究と質的研究、論理-分析的研究と批判的-解釈的研究といった、社会科学のアプローチとモデルの多様な画材を引き出し拡張することができる。流動性とリスク、不確定性、曖昧性そして偶発性にあふれた世界の中で、教育システムが直面している諸問題は、教育研究が狭いアプローチではなく、豊かなアプローチを取ることを要請している。21世紀の教育研究は複合性に対処しなければならない。その対処は単純なモデルに戻ることによっては達成されない。(p.196).


以下、この章で私が気になったところの要点を書きました。ただし特に重要な箇所は私なりに翻訳をしました。ページ番号はKindle版が示したページ番号です。



概要


■ この章では、批判的実在論者 (critical realist) として教育研究および政策立案 (policy making) へアプローチする。 (p.173).


■ この章では、古典的な入力・過程・出力の記述 (classical input/process/output descriptions)だけでなく、教師と生徒が学校で有するようになる人生の軌跡 (life trajectories) と資本 (capital) についても描く。 (p.173).


■ 批判的実在者による研究を、政策形成に翻案しようとすれば、歴史的な物語 (historical narratives)とシナリオ作成 (scenario planning) が必要になる。これらは、物事はいかにこのようになったのか、そして他のどんな規範的なシナリオ (alternative normative scenarios) が構築可能だったのかについての説明となる。 (p.173).


■ 現在の至適基準 (gold standard) が想定しているのは、(擬似)実験研究からの一般化は、空間・時間・人間・生態系(地域・学校・共同体)を超えて一般化可能だということである。 (p.174).


■ しかしこの至適基準の考え方は、教育行政や政策立案状況および学校と教室という生活世界の生態系が本質的に乱雑な状態であること (the intrinsically messy ecologies of educational bureaucracies and policy-making contexts, and those of the lifeworlds of schools and classrooms) について何も語っていない。仮にある教育方法を分析的に特定して実行しようとしても、システムからの要求 (systemic prescription) によってその教育方法はプラスにもマイナスにも作用する。実験室のような正確な再現は不可能であり、共同体・職員室・教室での相互主観的な対応力と物質・社会的な関係によって修正される。 (remediated through the intersubjective capacities and material social relations)  (p.174).


■ 質的研究が抱える問題がその知見を政策として実行する際に大規模化 (scaling up) してよいのかというものだとしたら、量的研究の問題は学校や教室の「複合的な生態系」 (complex ecologies) が大規模政策 (larger scale policy) によってその場独自の巻き添え被害 (collateral local effects) にあうのではないかということである。  (p.175).


■ 教育行政で働いたことがある者なら誰でも知っているように、カリキュラムや予算や評価についての決定は、さまざまな基準によって出される。それは財政的であったり政治的であったり、教育研究にまったく基づいていない逸話や個人的見解によるものだったりする。教育行政が数字だけを扱うテクノクラート (technocrat) であるというのは神話である。教育行政は、複合的で相互主観的で社会的な現場 (complex, intersubjective social fields) である。 (pp.175-176).


■ 研究デザインには新たな厳しさ (a new rigor) が必要だが、これは多分野的で解釈的な厳しさ (multidisciplinary and interpretive rigor) であり、神話的な (mythical) 擬似実験デザインの至適基準を超えて、教育へのアクセス、社会的・経済的平等、新しい人生経路 (educational access, social and economic equity and new life pathways) といった論点を新たに焦点化する試みの一部でもありえよう。 (p.176).


国の教育政策は規範的なものであり、三段階で進む。
1 物語機能 (narrative function):学校教育の目的および成果に関して国のイデオロギーとなる物語、およびそれに批判的に対抗する物語を確立する。(The establishment of a state ideological narrative and critical counternarratives over the purposes and outcomes of schoolings)
2 資源の流れ (resource flow):人的資源 (human resources)、言説的資源 (discourse resources)、財政的資源 (fiscal resources) の流れを目的に適うように制御する。 (purposive regulation)
3 教育的調整 (pedagogical alignment):カリキュラム・指導・評価という伝達システム (the message systems of curriculum, instruction, and assessment) を調整して資源を国レベルでも地方レベルでも活用する。 (pp.177-178).


■ 米英では、過去40年間にわたって政府が研究の幅を狭めて擬似実験的な研究ばかりを後押しして、妥当性と信頼性に関する古典的基準を復権させることを要求した。 (calling for a reinstatement of traditional criteria of validity and reliability)  (p.178).

■ 1970年代にいたるまで米英での博士論文ではプレテスト・ポストテストのデザイン (the pre-post design) が規範的基準 (the benchmark) となっていた。今でもその影響は、奨学金を得て米英で博士号を取った者が教師となった南米やアジアで見られる。 (p.180).


これから、教育研究が質的および批判的になった過程を素描する。批判的かつ実証的に厳密で解釈的・多分野な教育研究計画 (a multidisciplinary, interpretive educational research agenda that is both critical and empirically rigorous) を再定義 (reframe and re-enlist) し、教育的達成 (educational achievement) と貧困 (poverty) ・階層化 (stratification)・社会的再生産 (reproduction) をめぐる複合的な諸問題に対してより正義に適った (a more forensic) アプローチを提示したい。 (pp.179-180).


■ 過去30年間にわたる批判的・質的転換 (the critical qualitative turn) は、単なる反実証主義的な反動 (anti-positivist reaction)  ではなく、教育成果の階級階層化 (class stratification of educational outcomes) の事例を指摘しその機構を理解しようとする試みでもあった。 (p.181).


■ 過去20年で、博士論文は不利な状況 (disadvantaged backgrounds) や危険な状態にある (at risk) 生徒に注目するようになり、ネオマルクス主義、ポスト構造主義、フェミニスト理論、質的な事例研究、アクションリサーチ、批判的エスノグラフィー、言説分析的な方法が使われるようになった。この傾向においては米英よりもオーストラリア(およびカナダ)の教育研究者の方が先行していた。 (p.183).


この変化は社会の新しい文脈と条件に対応するように生じた。ポスト産業社会の北側・西側諸国において人々の文化的・言語的多様化が促進したこと、新たなテクノロジーと共に新たな言説・実践・技能 (discourses, practices and skills) が生じたこと、自己同一性と主体性、世代や人生を通じての経路の形成 (the formation of identity and agency, generational and life pathways) が目に見えて変わったこと、などへの対応である。(p.184).


■ 20世紀の中盤から後期にかけて学校教育を直面した二つのもっとも重要な社会的事実は、社会経済的・文化的に周縁化された共同体の生徒の成績が不平等で高度に階層化されたものであったこと (the unequal and highly stratified performance of students from socioeconomically and culturally marginal communities)、および、国の教育システムの中で言語的・文化的多様性が進行したことである。心理学者と社会学者は、社会階層的、人種・文化的、言語的、ジェンダー的に階層化された学業成績 (social class, race/cultural, linguistic and gender stratified performance) を説明せねばならなくなった。 (p.185).


■ エビデンスに基づく政策は、教育システムのみならず社会的・経済的政策を統治するのに、論理的で実行可能で生産的な方法 (a logical, viable, and productive route for the governance) であろう。しかし教育研究者の国際的な共同体は、そのようなアプローチは、広く豊かで分野的に多様なデータに基づき、そのようなデータとの意味およびつながりをめぐる議論を呼ぶさまざまな分析と解釈に基づいていなければならない (such an approach must be based on broad, rich, and disciplinarily diverse data, on contending and varied analyses and interpretations of the meaning of and connections between this data) と主張している。この広く批判的で質的な転換と、現在求められている実証的検証・実験デザイン・再現可能で一般化可能なエビデンスとの間を調停することはできるのだろうか?以下の三つの命題から始めることができるだろう。 (p.186).


■ 第一に、教育界には、物質的・認知的・社会的な条件、相互作用、過程 (material, cognitive, and social conditions, interactions and processes in educational worlds) があり、それらは厳密な観察と注意深い理論化によって研究され、追跡され、検討されうるということ。 (p.186).


■ 第二に、間口が狭く問題をより好みしてしまう心理測定学 (narrow, selective psychometrics) ではない、厳密な多分野的社会科学を通じて、上記の事柄は研究することができ、そうすることによって社会人口統計的 (sociodemographic) データ、学校や教師が置かれた文脈に関するデータ、教師と生徒が直接向き合っている教育学 (face-to-face pedagogy) 、さまざまな種類の教育的成果 (educational outcomes) を検討することができること。(p.186).


■ 第三に、これらの過程は、ある特定の共同体や実践がどのように定義され位置づけられ表象 (define, position and represent) されるかという点でも、またそれらがある特定の有権者 (constituents) やメディアや政治家や政策決定者にどのように理解されるかという点でも、表象の政治学を十分に理解した上で解釈し表象され (interpreted and represented in ways that are mindful of the politics of representation) るかということ。 (p.186).


■ 国際的に見て、統合的な多分野的方法でもっとも包括的なのは、ニュージーランドのIterative Best Evidence Synthesis Programmeであろう。 (p.187).
関連サイト:BES (Iterative Best Evidence Synthesis)


このニュージーランドのモデルは、目的に合わせるアプローチ (fitness-for-purpose) であり、文脈的な妥当性と関連性 (contextual validity and relevance) に焦点を合わせている。「どんな条件の時に、なぜ、いかにして、何がうまくゆくのか」 (what works, under what conditions, why and how) という考え方である。方法論的パラダイムやイデオロギー的正しさ (ideological rectitude) などにはお構いなしに、あらゆる形態の研究エビデンスを考慮に入れ、何がうまくいくのかについて、文脈的に効果的で適切で局地的に強力な例 (contextually effective, appropriate, and locally powerful examples of what works) を見つけようとしている。 (p.188).


■ 翻訳:このニュージーランドの原則は現在のアメリカモデルの基本的想定とまったく異なっている。アメリカでは、指導的介入 (instructional treatments) は、文脈の違いにかかわらずすべての文脈で一般化可能で普遍的な有効性をもっていること (generalizable and universal efficacy across and despite contexts)、その教育的成果の産出における有効性は標準化された学力テストの結果 (standardized achievement test results) によってのみ評価されること、および、システムの改革はこういったアプローチを「厳密に処方」し、標準化し、実行すること (the "hard prescription," standardization and implementation of these approaches) によってのみ達成できることが基本的な想定である。 (p.188).


■ 翻訳:まとめるなら、教室と学校は実験室とは異なり、複合的で乱雑で特異に局地的で社会的な生態系である (complex, messy, and idiosyncratically local, social ecologies) 。政策が学ばなくてはならないのは、いかにエビデンスの科学が一般化可能性のあるように見えても、教育改革 (educational reform) は、複合的で局地的な現象であり、改革がなされるためには、政策的・物質的・文化的・組織的な条件を必要とするということ (educational reform is a complex, local phenomenon requiring a range of enabling conditions—policy, material, cultural, and institutional) である。 (p.188).


■ 翻訳:米英の多くのエビデンスを求める擬似実験的アプローチは、これらの可変的な過程と実践 (variable processes and practices) を適切にとらえることに失敗している。主な原因はブラックボックスアプローチを取っていることにある。入力と変数を制御し、教育的成果を還元主義的に数量化するアプローチである。 (a black box approach, controlling inputs and variables, with a reductionist quantification of educational outcomes) 教育学、教師と生徒が面と向き合う教室実践 (pedagogy, face to-face classroom teaching) を軽視しているのだが、そこでこそ教えることと学ぶことが実践されているのだ。 (pp.188-189).


■ 翻訳:シンガポールの研究デザインは、複数のレベルで、横断的・縦断的、量的・質的な豊かなデータベースを作ろうとしている。ミクロな質的研究を、生徒の社会階層と言語的背景、教師の背景、生徒と教師の調査などに関する大規模な量的データセットの中に入れ込んでいる。学校のテストと試験得点は、一つの成果にすぎず、制度や個人の有効性 (institutional or individual efficacy) を示す唯一無二の指標 (the single or sole indicator) とは決してみなされていない。このようにして従来の成功指標 (conventional indicators of success) (たとえばテストや試験の得点や、学校の特徴とされるもの (school-assigned marks) )を受け入れることを超えて、教育的有効性を評価する際に何を成果とみなすことができるのか (what might count as an outcome in the evaluation of educational efficacy) という問いを探究しているのである。(p.189).


■ 最近現れ始めた文脈に対応するためには、教育評価のパラダイムシフトが必要である。新しい人的資源 (new human resources) を言説的で傾向的 (discursive and dispositional) に評価し、さまざまな種類の文化的・社会関係的・象徴的資本を評価する方向に向かうべきだと個人的には考えている。(p.193).


現代の認識論的研究は、No Child Left Behindのような政策の提唱者が提唱した至適基準 (the gold standard) よりもはるかに多彩である。(p.195).


翻訳:学校と教育システムは新しい生徒の自己同一性とますます社会的階層化する成果、新たな職場と市民文化 (new workplace and civic cultures)、デジタルテクノロジーと新たな支配的表象モード (new dominant modes of representation)、グローバル化した経済ときわめて変動的な雇用傾向 (volatile patterns of work)、そして変化する国家・共同体・宗教的価値システムの新たな動態という複合的な問題に直面している。これらの問題の背後には、新たなリヴァイアサン的多国籍企業によって支配された社会的・政治的・経済的秩序に直面する現在において、いかにして種として生存し、生物的・社会的な持続可能性を保ち、人間的な正義を貫くために重要な教育とは何かというより大きな課題がある。しかしこれに対する教育界の反応は、カリキュラムを細分化し「基礎に戻れ」と唱えることであり、教師の仕事を事細かに定めて監視すること (the scripting and surveillance of teachers’ work) であり、学校の市場化 (the marketization of schools) である。これはアイルランドの貧困についてスウィフトが書いた風刺作品のように見える。時間はもうない。教育と教育研究についてのもっと実質的な見通しを得ねばならない。(p.196).
関連サイト
リヴァイアサン(ホッブス)
A Modest Proposal (Swift)


翻訳:教育研究は、実務的 (pragmatic) で問題解決的で知的な仕事である。そのようなものとして、教育研究は、量的研究と質的研究、論理-分析的研究と批判的-解釈的研究といった、社会科学のアプローチとモデルの多様な画材を引き出し拡張することができる。流動性 (fluidity) とリスク、不確定性 (indeterminacy)、曖昧性 (fuzziness) そして偶発性 (contingency) にあふれた世界の中で、教育システムが直面している諸問題は、教育研究が狭いアプローチではなく、豊かな (rich) アプローチを取ることを要請している。21世紀の教育研究は複合性に対処しなければならない。その対処は単純なモデルに戻ることによっては達成されない。(p.196).



関連記事
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On Qualitative and Quantitative Reasoning in Validity (質的研究と量的研究における妥当性の考え方)






2017年12月4日月曜日

Akira Tajino (ed.) (2017) A new approach to English pedagogical grammar: The order of meaning. Routledge


日本ではたとえば "I if become soccer player is play hard" といった英文といった英文を書く学習者は珍しくありません。日本語話者にとって英語の語順の体得は容易なことではないからです。そういった状況下で田地野彰先生が提唱した「意味順」という考え方そして教育実践は、多くの教師・学習者にその有効性を認められているのではないでしょうか。この意味順を数々の著作(たとえば『意味順英語学習法』など)を通じて体系化して多くの人々に普及させた田地野先生の長年の努力の意義は大きいと思います。

今回その田地野先生が上梓したのは、この「意味順」という日本産の考えを、Routledgeという国際的な出版社を通じて世界各地のより広い層に訴え、英語教育・外国語教育の知的財産を豊かにする英文著作です。

私見にすぎませんが、応用言語学の世界ではESL(第二言語としての英語)とEFL(外国語としての英語)という概念区分はされているものの、後者の「目標とする言語が日常的に周りで使われていない状況」での英語学習について、英語圏での出版物はまだまだ理解が足りないようにも思えます。そういった状況の中でEFLの中で生み出された考え方が、英語圏でも読まれるということの意義は大きいと思います。

「意味順」に基づく文法を、田地野先生はこの本ではしばしば MAP Grammarと呼んでいます。"Meaning-order Approach to Pedagogical Grammar"  を略した言い方ですが、この用語の背後には、英語の初学者が文法書の中の多くの概念の中でコミュニケーションにとってもっとも重要な文法概念を見失うことがないように、あえて簡略化した文法図式(意味順)を一種の「地図」 (map) として提示するという教育学的配慮があります。学習者の負担と受益のバランスを考えて文法を提示するこのMAP Grammarは、一般の文法書を水で薄めて「学習者用」と称するよりも文法書よりも、いっそう「教育文法」 (pedagogical grammar) という名称にふさわしいのではないでしょうか。

田地野先生の「序論」 (p.1) 冒頭を翻訳してみます。

文法と言語使用について問題を抱えている学習者を私は多く見てきた。・・・そういった学習者は、どこから始めたらいいのかわからないと言う。・・・学習すべき専門用語がありすぎるし、おまけに規則は例外だらけのように思えるのだ。 (Sinclair, 2010, p.2; 強調は田地野)

教師・教師教育者として第二言語・外国語として英語に関わっている私たちはおそらく上の引用に同意するだろう。私たちの経験からは次のことが言える。1) 学習者は文法のどこから始めたらいいのかがわからないでいるが、これは文法のロードマップ (road map) が学習者に与えられていないからである。2) 教えて学ばれるべき専門用語(例、主語、目的語、補語)が多くあるのだが、これを教師は文法を説明するために使わなければならないと思い込んでおり、文法を利用することを促すために使うべきだとは思っていない。3) 教えて学ばれるべき文法項目も多くあるがこれらは体系的に整理されておらず、多くの場合、学習者にとっては恣意的でしかないリストの形で提示されている。これらの要因で英文法を教え学ぶことが困難になっているのだろう。

こういった問題意識から構築されたのが意味順による教育文法、MAP Grammarです。それを世界各地の英語圏の読者にも伝わるような問題意識と理論構成でもってまとめたのが本書です。

田地野先生はこの本の企画を日頃から意味順を使って教育実践を行っている中高教師やこの意味順が外国語教育のさまざまな論点に及ぼす意味合いを深く理解している研究者などに広く呼びかけて、それらの人々を執筆者として加えることによってこの本を完成させました。私は、大津由紀雄先生が編集された『学習英文法を見直したい』の中に書いた論考(「コミュニケーション能力と学習英文法」(pp.52-65) に注目していただき、この本の企画に誘っていただきました。

本の内容については、Routledge社のホームページ を見ていただければわかるように、三部構成となっており、意味順文法の概要とその理論的位置づけを扱う第一部、意味順文法と外国語教育の諸論点との関連を扱う第二部、意味順文法の実践報告などを扱う第三部の順で、合計21の章が掲載されています。

私は第一部の第二章 (Pedagogical grammar: How should it be designed? pp.26-38) を原稿を書かせてもらいました。ただ田地野先生からは「普通の英語教師の人にもよくわかるように書いてください」と何度も釘を刺されていましたので(笑)、今回はとにかくわかりやすさを意識して、ダマシオの神経科学の概念やルーマンの意味理論の考え方といった、『学習英文法・・・』以後に得た知見を追加して意味順文法の理論的意義をわかりやすく解説したつもりです。

ここではその論考の冒頭2段落を日本語に翻訳してお示しします。


象に乗った少年を想像してほしい。少年は自分がどこに行きたいかがわかっているのだが、象は必ずしもそこへは行ってくれない。この少年は、第二言語学習者を喩えたものである。第二言語学習者は第二言語の文法を教えられたが、必ずしもその知識を実際のコミュニケーション行為に活かせない。言い換えるなら、意識的な知識が必ずしも行為につながらないのだ。第二言語学習者は象に乗った少年のように困惑している。

私たちは教育文法を通じて、第二言語学習者が第二言語でコミュニケーションをすることを支援したい。この章では、どうすればそのような支援をすることが可能なのかについて検討する。私の考えは、そのためには教育文法の概念を変えて、教育文法を分析者の視点ではなく使用者の視点を取る文法としなければならない、というものだ。使用者の視点からの教育文法は、言語使用のために意味を活用する。教育文法は、理論的圧縮数学的圧縮ではなく、意味的圧縮を使うということだ。だがこれらの新たな専門用語については後でゆっくり説明する。私たちの議論は、基本用語である文法を検討することから始めることにしよう。その検討により、非意識水準で身体化している文法は、意識水準で脱身体化している文法とは異なるということを明らかにしてゆきたい。


と、翻訳してみても、やっぱり用語が多いのでわかりにくそうですが(汗)、この章を読み終わる頃にはこれらの用語がわかるだけでなく、文法だけではなく意識や意味についてについても新たな理解が得られるように書いたつもりですので、よかったらお読みください。

とはいえ、この本は(少なくとも今は)ハードカバー版と電子書籍でしか出ておりません。ハードカバー版は高いので、教育機関にお勤めの方でもしご自身および学生さんが読む図書の予算をおもちの方があればご購入いただけたら幸いです。私の章はともあれ、このEFL的な意味順の考え方と実践についての研究書が英語で出版されたという意義は大きいと思いますので。







追記(2017/12/07)

この本は現在アマゾンでは在庫切れ状況ですが、下のRoutledgeのサイトからでしたら現在は割引価格・送料無料で購入できるそうです。

https://www.routledge.com/A-New-Approach-to-English-Pedagogical-Grammar-The-Order-of-Meanings/Tajino/p/book/9781138227118