前の記事(西垣通 (2016) 『ビッグデータと人工知能』 中公新書)でも書きましたように、私は学校教育の重要な目的の一つは、卒業生が人生で未知の課題に直面した時に、その課題専用の学校も教科書も教師がなくても、自ら何とか状況を打開できるように育てることだと考えています。
そのためには、学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度が重要です。その反応や態度が悪いままだと、現実の人生で困ることが多くなるからです。信じていた人からの信じられない言動、起こるはずがないと思っていた出来事の到来などは、実人生では避けられないと思います。その際に、なんとかそこから状況を打開することがそれこそ「生きる力」だと私は考えていますから、私は学習者が自分が理解できないことに出会った時に取る反応や態度を良くすることの方が、その時時のペーパーテストでよい得点を取ることよりも大切なことだと思っています。
また今後は人工知能の発展に伴い、解決方法(アルゴリズム)がわかっている仕事はどんどんと人工知能に奪われてゆく可能性がありますから(井上智洋 (2016) 『人工知能と経済の未来』 文春新書)、理解できない問題に対して、何とか対処できる創造的な知性は大切になってゆくでしょう。
以下、私なりの教育・研究体験の中で見てきた、自分が理解できないことに出会った時に学習者が取る反応や態度を三つに分類してみます。下では、私の授業にはまるで問題がないかのような記述が進むかもしれませんが、私の指導技術の向上はまた別問題としてここでは触れません。
(1) 一切の努力を放棄し無関心になる
これは高校生が参加してくるオープンキャンパスで時々観察できます。学部の授業でも極めて残念ながらたまに見られます(その際は、私は心底がっかりします)。「・・・と、このように私たちが当たり前と思っているこの考え方ですけれど、例えば18世紀には・・・」などと私が言うと、オープンキャンパスの約150名の高校生の中の数名は、そのことばを聞いた瞬間に下を向きます。
この例だけでは、そういった生徒・学生が、昔の話を聞いてもわからないと自分で思い込んでいるのか、それとも昔の話を聞いても現世の利益には直結しないと思い込んでいるのかわかりませんが、大学生の話を聞いていると、少しでも授業がわからないと思ったら、寝るかスマホをいじるといった反応・態度は大教室の講義授業では珍しくないようです。理解できないことに出会ったら、それを理解するための一切の努力を放棄し無関心になるという反応・態度は現代の若者がとりがちといえるのかもしれません。
実人生で、自分が理解できないことが生じた時に、知的努力を放棄することは害をひどくすることにつながります。もちろん、そういった出来事に対して人間は無関心ではいられないので、無関心になることはないのでしょうが、それでも無力感におそわれ無気力になるということは十分に考えられます。そうだとすると、生徒・学習者が卒業まで終始このような反応・態度を取り続けていたら、その教育は失敗と言えるのかもしれません。そのような生徒・学習者に対して、手を取り品を変え、課題を極度に細分化して「できたね。よかったね」と褒めるのは、何らかの理由で自尊心や自信を根底的に失ってしまった生徒・学習者相手なら必要かつ有効かもしれませんが、健常な生徒・学習者がいつまでもこのような反応・態度を取ることを許すのは教育的とはいえないと私は考えています(もちろん教師の指導技術が話にならないぐらいにひどい場合は別です。今回の話は、教師の指導技術がまあまあであることを前提としています。また、教師は限りなく指導技術を向上すべきということもその通りでしょう。とはいえ、私は教師は指導技術だけでなく自らの学習を深める責務ももっているとは思いますが)。
(2) 不機嫌になり、理解できないことに対して怒りをぶつける
これは時折、学会でも見られます(苦笑)。ですが、それはまた別の話として(笑)、生徒・学生が、わからないことに接すると途端に不機嫌になり、そのような課題を出した教師を非難し始めるのは珍しくないでしょう(その非難の対象が、あまりにもひどすぎる発表技術しかもっていない場合は別、というのは上にも述べた通りです)。
また最近の学校教育ではしばしば無記名・匿名アンケートが行われますが、その記述の中には、お互いに顔を合わせていたらとても言えないようなことばで自分が理解できなかった怒りを表現する人もたまにいます。先日も、ある長期間の体験プログラムに参加した学生の一人が匿名で、「自分はこのプログラムから何も得ることができなかった」と行間に怒りを表しながら書いていたという報告を私は受けましたが、それを読んだ関係者は、読んだ瞬間に、その学生の学習能力の根本的な欠如に思わず苦笑したそうです。「だってこれだけの経験ができるプログラムの中で何も得ることができなかったとすれば、それは自分が○鹿だと高らかに宣言しているようなものでしょう」というのがその関係者の弁でした。
しかし、考えてみると、理解できないことに対して不機嫌になるのは、子どもが自然と取る態度なのかもしれません。赤ちゃん時代は、自分が不快だという鳴き声を出すだけで、保護者がその意図を汲み取り対処をしてくれます。嫌なことや理解できないことがあれば不機嫌になるというのは、赤ちゃん時代の記憶が強い子どもとしてはとても自然な反応なのでしょう。そうだとすると、その記憶あるいはそれへの郷愁を引きずっている人が、理解できないことに対して怒りはじめるのは驚くべきことではないのでしょう。
しかし教育という営みは、子どもを大人にすることです。大人は、自分が理解できない出来事に対していちいち怒りを爆発させるべきではないでしょう(と言いながらも、私は、コンピュータの理解不能な挙動に毒づいたり、他人の想定外の言動にイライラしたりしていますから、まだ十分には大人ではありません。私にはもっと自己教育が必要です)。
ともあれ、教育が目指している大人とは、理解できないことに直面した時でも、不機嫌にならず、怒りをどこかに転嫁するのでもなく、冷静にその理解できない出来事に直面する人間です。理解できない・しがたい出来事(例えば不況での苦労)に接した時に、怒りを他に転嫁すること(例えば、「○○人が諸悪の根源」などと言い始めること)は、古今東西の歴史の中でしばしば起こっていることですから、理解できない時に、私たちは冷静になることを学ばねばなりません。
(3) 冷静に「どういうこと? (What is that?)」、「なぜ? (Why is that?)」と問いを立てる
自分が理解できないことに出会った時にとるべき反応・態度、学校教育が育むべき反応・態度は、その理解できないことを言う人(あるいはその出来事)に対して、冷静に「それはどういうこと? (What is that?)」とその正体を見極めようとして、忍耐強く「それはなぜ? (Why is that?)」とそれが生じた理由を考え続けることです。
私は幸運なことにそういう反応・態度を常に保っている方々を知っています。武術の世界でしたら例えば甲野善紀先生ですが、言語教育界でしたら例えば大津由紀雄先生です。
関連記事:1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/112.html
甲野先生は、理解しがたい身体の知恵や講習会参加者が持ち込んだ異分野の問題に接した時も、極めて冷静で自らの身体を使いながら考え、考え続けられております。大津先生は、上の記事でも書きましたが、例えば若くて尖っていた頃の私の立論に対しても淡々とその理路を正そうとしてくださいました。私は尊敬できるそういった方々を知ることができたことで、なんとか自分を律しようとすることができています。
あるいは私が経験していないので偉そうなことは言えませんが、大災害などが起こった場合、無気力になることもなく、「○○が悪い!」という怒りにかられて現実的対応を放棄してしまうことなく、冷静に状況を分析し、もっとも賢明な対処手段を考え行動し、それがうまくいかなければさらに冷静に分析を続ける人こそは、世の中が求めている人だと思います。
学校教育は、究極的には、理解できない出来事に接した時も、冷静にそれを分析し対応法を創造できる人を育てるべきだと考えます。
もちろん子どもが最初からそのような態度を獲得できるわけはありません。子どもは最初は (2) のような不機嫌な態度をとりがちでしょう。しかし教師は、子どもの知的好奇心に火を着けながら、子どもが忍耐強く問題に取り組む習慣を育てなければなりません。また、子どもはあまりに課題が不出来だったり、自らの知的好奇心がまったく満たされなかったりすると、(1) のような無気力・無関心を習慣化してしまいます(「学習された無力感」 learned helplessness)。それは学校教育がもたらした害ですから、その害が生じないように、教師は「受験に必要だから」とか「とにかくやりなさい」などと子どもが納得できない弁明でごまかすことなく、学校教育が害ではなく益をもたらすよう努力しなければなりません。
ですが、昨今の教育界を見ていると、そういった反応や態度の根気強い育成よりも、目の前の高得点獲得ばかりを目指しているように思えます(あるいはそうならざるを得ないような制度を「教育再生」といったスローガンのもとに完成させられようとしていると言うべきでしょうか)。
教師としては、学校教育の根本的な目的が何であるのかを粘り強く考え続けその見識を実践に活かしていきたいと思います。
一個人としては、これだけ偉そうなことを言いながら、日常生活で自分が (1) や (2) の態度を取らないように自己観察を怠らないようにしないと思います(汗)。
おそまつ
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