※ 2016/10/26に内容の一部を変更しました。
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現在、「行為」 (Handeln) に関するアレントの見解をまとめたノートを作成中なのですが、ドイツ語を解釈し翻訳しなくてはならないので作業が遅々として進みません。そんな中、私のツイッターリスト (essentials) で流れてきたル=グヴィン(私も大好きな『ゲド戦記』の作家として有名です)の言語論が、アレントの言語論と驚くほど似ていたので、ここに簡単にまとめておくことにしました(英語ですと解釈も翻訳も楽です)。
このページに引用されているル=グヴィンのことばは、以下のサイトから転載したものです。
Telling Is Listening:
Ursula K. Le Guin
on the Magic of Real Human Conversation
以下、見出し(■印)に続いて、「原文」「拙訳」「解釈」「訳注」の四項目でル=グヴィンの言語論をまとめますが、その前に私がなぜこのような言語論に興味をもつのかを、簡単な二つの日常事例で説明しておきます。
一つは、「この件はメールではどうかと思いますので電話でお話します」、「いや電話ではなくぜひ直接お会いしてお話しましょう」といった私たちの日常事例です。これだけメディアが発達した現在でも私たちは、文字列を読むだけよりは相手の肉声を聞くことを好んだり、ただ肉声を聞くだけではなく面と向かって表情を見たい(また自分の肉声と表情も示したい)と思ったりすることは多々あります。もし要件が結論を得ることだけでしたら、電話や直接面談は一件無駄のように思えます。また、どんな媒体で伝えられた言語も、とりあえず同じ言語のサンプルとして考える言語学の標準的作法ではこの違いを説明できません。
もう一つは、相談にのってもらった人などが「話を聴いてもらって力が湧きました」などと言う日常事例です。聴き手はなんら助言をせずに、頷いたり簡単な相槌をうったりしただけの場合でもこのような述懐はしばしば聞かれます。もし聴き手の役割が単に受動的な受信者であるのなら、話し手はなぜ聴き手の有無によって(あるいは聴き手や聴き方の違いによって)力を得たり得なかったりするのでしょうか。また、聴いてもらって得られたとする「力」とはどんな力なのでしょうか。原則として話し手や聴き手といった人間ではなく、そこで使われた言語という抽象化され理念化された記号体系を研究対象とする言語学の標準的作法では、この事例も説明しがたいままです。
しかし、アレントやル=グヴィンの言語論、あるいはボームやオープンダイアローグや当事者研究の対話論に依拠してこういった事例を考えると、すっきりと理解できるように思えます(もちろん、それは言語学が目指す科学的説明とはかけ離れた説明による理解ですが)。
私としては言語学の方法論あるいは自然科学の方法論への忠誠より、教育やその他の現場の困惑に対処することの方を重んじていますので、こういった非-言語学的な方法を躊躇なく採択しています。
こういった問題意識については、11月26日(土)に明海大学で行われる「第19回応用言語セミナー」での一時間の発表でも語る予定です。
第19回応用言語セミナー
応用言語学を考える
2016年11月26日(土) 13:00-17:30
明海大学浦安キャンパス
講義棟1階2102教室
ここではその発表のための準備も兼ねて、以下にル=グヴィンの言語論を簡単にまとめておく次第です。
■ 相互主観性とは、参加者が共に主体としてお互いに働きかけると同時に働きかけられ、そのことによって共に変化を続けることによって参加者それぞれに経験される主観性である。
・原文
Live, face-to-face human communication is intersubjective.
Intersubjectivity involves a great deal more than the machine-mediated type of
stimulus-response currently called “interactive.” It is not stimulus-response
at all, not a mechanical alternation of precoded sending and receiving.
Intersubjectivity is mutual. It is a continuous interchange between
two consciousnesses. Instead of an alternation of roles between box A and box
B, between active subject and passive object, it is a continuous
intersubjectivity that goes both ways all the time.
・拙訳
顔と顔を合わせての生のコミュニケーションは、相互主観的なものだ。相互主観性は、現在「インタラクティブ」と呼ばれている機械を通じての刺激と反応のやりとりをはるかに超えている。相互主観性は、そもそも刺激-反応の関係ではない。予め符号化されている送信と受信を機械的に交代させることではない。相互主観性とはお互いに生じるものである。二つの意識の間で相互変化が生じ続けることである。Aの箱とBの箱の間の役割、能動的な主体と受動的な客体の間の役割が交代するのではなく、常に連続して双方から働きかけるのが相互主観性である。
・解釈
相互主観性とは、特定の参加者だけに帰することのできない、参加者全員に関わる特性である。参加者が自分たちの間に成立していると感じる主観性であり、それは参加者それぞれが他の参加者に対して働きかけまた同時に働きかけられることにより成立する。
こう書くと、相互主観性とは摩訶不思議なもののように思えてくるかもしれないが、相互主観性は私たちがしばしば経験しているものである。精神医学・臨床哲学の木村敏氏がよくあげる例が弦楽四重奏の演奏であるが、四人の演奏者はそれぞれの演奏を(自分を含めた)すべての演奏者に向けて行うが、その演奏は同時に(自分を含めた)すべての演奏者の演奏を受けての演奏である。弦楽四重奏においては、特定の誰か(例えば第一バイオリン)が演奏全体を導くことはできても、演奏全体を支配してしまうことはできない。弦楽四重奏全体はお互いに影響を与え続け与えられ続けている四人の演奏者の連動によって作られるものである(ジャズグループの即興演奏なら、この連動性はもっと強いだろう)。それぞれの演奏者は、それぞれに自分だけの主観性(あるいは後述するように主体性)を超えた、この集団によって構成されている主観性・主体性を自覚するだろうが、それを相互主観性と呼べると私は考える。
日常会話でも、どちらか一方ではなく両方が作り出す会話の喜びはある。それぞれが思いもよらなかった展開が生じ、相手のことだけでなく自分のことにも新たな発見がありそれぞれが上気する。「私たち、馬が合うね」(注)という「私たち」の意識も芽生える。これも相互主観性の一例ではないだろうか。
このように考えると相互主観性は日常生活で私たちが経験している「現実」 (Wirklichkeit) の一部といえるだろう。
関連記事:真理よりも意味を、客観性よりも現実を: アレント『活動的生』より
(注)
慣用表現の「馬が合う」とは、乗馬において騎手と馬の息が合うことの重要性に由来する表現のようですが、武術家の甲野善紀先生とホースクリニシャンの宮田朋典氏の出会いには奥の深いものがあります。ご興味のある方はお読みください。
・訳注
“Subjectivity”と “objectivity”は、「主観性」と「客観性」と訳すこともできるが、そもそも “object”は「対象」あるいは「客体」と訳すことの方が多く、 “subject”も「主体」と訳すことができることからすれば、“Subjectivity”と “objectivity” を「主体性」と「客体性」と訳すことは正当であろう(注)。そうなると
“intersubjectivity”を「相互主観性」ではなく「相互主体性」と訳すことも可能であるが、ここではより多く使われている「相互主観性」という訳語を採択した。
(注)
一歩進んで「自象性」と「対象性」と訳すことも極めて可能である。前者は「自(みずから)ら象(かたち)をなすこと」と読めばそれほど奇異な造語とも思えない。
■ 人間はお互いに自分を相手に同調あるいは同期させることがある。
・原文
Like the two pendulums, though through more complex processes, two
people together can mutually phase-lock. Successful human relationship involves
entrainment — getting in sync. If it doesn’t, the relationship is either
uncomfortable or disastrous.
・拙訳
二つの振り子のように、しかし振り子よりもはるかに複合的な過程を経て、二人の人間は同時にお互いに位相を合わせるにいたる。うまくいっている人間関係には同調、つまりは同期化がある。同調や同期化のない人間関係は不快か悲惨なものである。
・解釈
“Entrainment” (「同調」「引き込み」「エントレインメント」)は、生物学や物理学や工学や気象学などでも見られる現象(注)であることからすれば、たとえ比喩的にであれ、この概念を人間の言語使用について使うことは有益なのかもしれない。
(注) Wikipedia:
Entrainment
ちなみにオープンダイアローグの「情動共鳴」 (emotional attunement) やボーム対話論の
「一つの身体・一つの心」 (one
body, one mind) の考え方もこの「同調」の考え方(あるいは比喩)と似ているといえるでしょう。
オープンダイアローグにおける情動共鳴 (emotional attunement)
感受性、真理、決めつけないこと – ボームの対話論から
ジェスチャー研究を専門になさっている方々はこういった領域についての研究成果を多くご存知でしょうが、私は残念ながら不勉強でここでそのような知見を紹介することができません。
・訳注
特になし。
■ 聴くことと話すことは不可分で表裏一体の行為である。聴き手と話し手は会話という相互的で協働的な行為でつながっている。
・原文
Listening is not a reaction, it is a connection. Listening to a
conversation or a story, we don’t so much respond as join in — become part of
the action.
・拙訳
聴くことは反応ではない。聴くことはつながることである。会話や物語を聴くとき、私たちは反応しているというより参加している。行為の一部になるのだ。
・解釈
聴くことは、話し手の発信という刺激を受信してそれに反応することではない。聴きながら私たちは話し手とつながり、話し手に影響を与えると共に話し手から影響を受けている。そういった相互性を込めた意味で言うなら、誰かの話を聴くことは誰かに話をすることと同時に成立する(そして同時にしか成立しない)「行為」である。顔と顔を合わせての会話では、一人がまず話をして、その後にもう一人が聴くということはなく、二人は話し-聴くという相互的で協働的な行為に参加する。話し手と聴き手は常につながっている。
・訳注
ここでは “action”がアレントの英訳と同じように、参加者の相互性や協働性、あるいはもっと一般的に言うなら人間の複数性を基盤とした語として使われていることに注意したい。詳しくは後日のアレントに関する記事で述べるが、「行為」と訳されることが多いアレントのドイツ語
“Handeln” は「商売する」や「交渉する」といった意味で使われることも多い動詞である
“handeln”を名詞化した表現であり、「行為」は一人では完結できない行いとして解釈されるべきである。だが、英語の“action” にも日本語の「行為」にも、必ずしもそのような複数性を前提とする含意はないので注意が必要。
この点、“reaction”や訳しにくいことばであった。 上述の「行為」の含意はここにはないと考えて、「刺激-反応」の “response”と同じように「反応」と訳した。
■ 参加者の心身の同調・同期で共同体の絆が強くなる。心身の同調・同期をもたらす語りこそが共同体を形成する権力である。
・原文
When you can and do entrain, you are synchronising with the people
you’re talking with, physically getting in time and tune with them. No wonder
speech is so strong a bond, so powerful in forming community.
・拙訳
あなたが実際に同調するとき、あなたは話をしている人たちと同期し、時と動きを身体的に同じくする。だからこそ語り合いが強い絆となり、共同体を形成する権力となる。
・解釈
話し合いによって共同体の絆は強まり深まるが、これは話し合われた結論の命題がもつ力だけでなく、おそらくそれ以上に、話し合いの過程で、参加者が身体の動きで同調・同期し、それに応じて心の動きでも相分に同調・同期したからであろう。
参加者それぞれの個性を保ったままに、参加者の心身の同調・同期をもたらす話し合い・語り合いこそが共同体を形成する権力 --共同体を形成する権利をもつ正当な力-- である。権力は、共同体一般、ということは小集団から国家といった大規模共同体までも含むさまざまな共同体を形成する正当な力である。「権力」ということばは、一般には「国家が専有し国民に対して行使する強制力」といった意味合いで使われることが多いが、アレントはそういった権力観に真っ向から反対した。ル=グヴィンもそのアレントとほぼ同じ意味で “power”およびその派生語を使用しているように思える。
・訳注
上で述べたことと少し重なるが、“powerful” の “power” をここでは敢えて愚直に「権力」と訳した。日本語での「権力」には、「為政者が専有する強制力」や「制度的な圧力」といった否定的な含意があるので、そういった含意から離れるため私は
“power, Macht” をこれまで「活力」や「語り合う力」などと訳してきた。
アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析
1/9 (土) 小学校英語教育シンポジウム(広島大学)での投影スライドと印刷配布資料
しかし、アレントの狙いは、“power, Macht” は人間の複数性を否定する独裁者や独裁的な統治を好む人々が有することができないもので、「異なるが対等」な複数の人間の共存を積極的に肯定し活用しようとする民主主義的な人間が有するものだということを訴えることだと考えると、上記のような伝統的な含意に挑戦し続けて、「権力」ということばをアレント的に(あるいは民主主義的に)使い続けるべきかとも思えてきたので、今回は「権力」という訳語を使った(とはいえ、今後も文脈に応じて「語り合う力」という訳語は使うかもしれないが)。
■ 聴き手がいてこそ話し手は存在する。語りは出来事を共有する相互主観的でお互いに作り上げる行為である。
・原文
When you speak a word to a listener, the speaking is an act. And it
is a mutual act: the listener’s listening enables the speaker’s speaking. It is
a shared event, intersubjective: the listener and speaker entrain with each
other.
・拙訳
あなたがあることばをある聴き手に語りかけるとき、その語りは行為となる。それはお互いが作り上げる行為である。語り手が語ることができるのは聴き手が聴くからこそである。語りは出来事の共有であり、相互主観的である。聴き手と語り手は互いを同調させる。
・解釈
ル=グヴィンとアレントの言語観の類似性がもっともよく表れている箇所の一つといえるだろう。
また「出来事」 (event) という概念にも注目しておきたい。「出来事」とは一瞬一瞬に移りゆく過程であり、固定して保存することができないものである(注)。だから、あるすばらしい語り合いを録音してそれを文字起こししたとしても、その文字がその語り合いそのものであると主張することはできない。ここでいう「語り合い」とは、参加者が相互に協働的に同期・同調する(あるいはし損ねる)経験の過程である。語り合いで使われたことばの総記録も語り合いで得られた結論も「語り合い」の本質を表現していない。
(注)
ルーマン (1990) 「複合性と意味」のまとめ
・訳注
特になし。
■ 人々を同調・同期させる声が、時空の中に親密な領域を作り上げる。
・原文
The voice creates a sphere around it, which includes all its
hearers: an intimate sphere or area, limited in both space and time.
・拙訳
声はその周りに領域を作り上げる。すべての聴き手はその領域に含まれる。それは時空を限って形成される親密な領域もしくは場所である。
・解釈
声は、言語の音声的表現ではあるが、物理的・身体的な振動でもあり、心の同調・同期をもたらす媒体でもある。声を言語伝達手段としてだけではなく、参加者の心身を連動させる身体的であると同時に心的でもある現象として考えることがこれからますます重要になってゆくだろう。
・訳注
“Spehre”は、 “a solid geometric figure generated by the revolution of a
semicircle about its diameter” という幾何学的意味(http://www.dictionary.com/browse/sphere)で理解するとよくわかった気がした。
■ 語り手は聴き手によってよりいっそうの権力を得る。語りとは権力を充たす行為である。
・原文
Sound is dynamic. Speech is dynamic — it is action. To act is to
take power, to have power, to be powerful. Mutual communication between
speakers and listeners is a powerful act. The power of each speaker is
amplified, augmented, by the entrainment of the listeners. The strength of a
community is amplified, augmented by its mutual entrainment in speech.
・拙訳
音は動きに充ちている。語りも動きに充ちている。語りは行為である。行為によって権力が獲得され所有される。行為は権力に充ちている。語り手と聴き手がお互いにコミュニケーションをすることは権力を充たす行為である。聴き手によって同調されることによって、それぞれの語り手の権力が増幅され拡張される。語りにおけるお互いの同調によって共同体の強度も増幅され拡張される。
・解釈
語り手は自分なりに語る権利をもっているが、聴き手が頷きや表情の変化で自分と同調・同期してくれることによって「自分はこう語ってもいいんだ。間違っていなかったんだ」と、話し手の権力をより強く感じることができる。「だよね。僕もそう思っていたんだ」という共同体内での同調や同期によって、共同体も強くなり、またその共同体での語りの権力もいっそう大きなものになる。語りという行為は、権力を充たす行為である。
・訳注
ここでも “power” を愚直に「権力」と訳し続けたので、奇異な訳に見えるかもしれないが、これがアレント的解釈による私の翻訳です(乞うご批判)。
■ ことばには本来、権力が秘められている。
・原文
This is why utterance is magic. Words do have power. Names have
power. Words are events, they do things, change things. They transform both
speaker and hearer; they feed energy back and forth and amplify it. They feed
understanding or emotion back and forth and amplify it.
・拙訳
だからこそ発話は魔法なのだ。ことばには権力が秘められている。名前には権力が秘められている。ことばは出来事であり、物事を行い、物事を変える。ことばは語り手と聴き手を変容させる。ことばは語り手と聴き手の間にエネルギーのやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。語り手と聴き手の間に理解や情動のやり取りを生じさせさらにそれを増幅する。
・解釈
ことばはおそらく複数の人間の間でのコミュニケーションから発生してきた(異論もあるだろうが、ここではそう仮定しておく)。そのことばはやがて辞書に配列され、人間のコミュニケーションの文脈から引き離された独自の体系的記号として研究されるようにもなったが、ことばの生息地は人々の間である。だから、たとえ辞書の中にあることばでも、それが生息地で息づけばそれは、それが本来有している力(権力)を取り戻す。ことばは辞書の中ではおとなしく陳列されるがままになっているが、本来それは人々の間で出来事を引き起こし、物事を変え、語り手と聴き手のそれぞれを同時に変えるものである。ことばには権力が秘められており、それがエネルギーとなり人々の理解や情動を増幅する。
・訳注
ここでも敢えて「権力」という訳語を使い続けた。