遅ればせながら『言葉で広がる知性と感性の世界 ――英語・英語教育の新地平を探る――』が渓水社より発刊されたことをお知らせ申し上げます。
この本はもともと、中尾佳行先生が今年の3月末に定年退職されることを記念して、中尾先生を敬愛する研究者が中心となって執筆し私家版として刊行された本ですが、中尾先生が「これだけの成果を世に問わないのは忍びない」と出版を決意されて世に出た書籍です。
言葉で広がる知性と感性の世界 ――英語・英語教育の新地平を探る――
(渓水社ホームページの情報)
http://www.keisui.co.jp/cgi/isbn.php?isbn=ISBN978-4-86327-345-0
(渓水社ホームページの情報)
http://www.keisui.co.jp/cgi/isbn.php?isbn=ISBN978-4-86327-345-0
この本の方向性は、「まえがき」に示されているかとも思います。出版社の許可を得たので、「まえがき」を転載します。
英語を学ぶことの重要性は、世間での流行り言葉が「国際化」から「グローバル化」へと変わるにつれますます強調されているが、それに応じて「英語を学ぶ」ことに関する省察は深まっているようには思いがたい。世間では今でも、「ネイティブから学ぶ」や「留学をする」といった方法が「英語を学ぶ」ことのほぼすべて、あるいは決定的な切り札であるかのような言説が見られる。いや、教育の専門家の間でも、「とにかく授業を英語で行えばよい」や「TOEICやTOEFLで学習成果を測定管理しなければならない」といった方法に関するやや単純な語り方がなされることすらある。
日本の学校教育では、周知のように英語が熱心に教えられているが、そもそも「英語を教える」ことに対する省察も、必ずしも十分ではないのではないかもしれない。少なからずの教師が、「英語は便利」や「グローバル化で英語は必須」といった一種の外的動機づけの言説とともに児童・生徒・学生に英語を教えている。だが、その結果は必ずしもかんばしくないことも(きわめて残念ながら)否定はできない。
学習や教育について、方法や外的動機づけについてだけしか語らないことには明らかな限界がある。
偉大なる哲学者であり教育学者でもあったジョン・デューイは、具体的な教育内容を考慮しない教育方法論を批判していた。言い切ってしまうなら、教育方法とは、一人ひとりの学習者の興味・関心にしたがって、どのように教育内容を選択し編集し配列するかだからだ (『民主主義と教育』)。
ここに英語教育内容学の重要性がある。
英語教育の方法を考える際には、学習者にとって英語教育内容がどのようなものとして見えるのかという観点が必須であり、その観点から教育内容を選択・編集・配列しなければならない。この意味で、英語教育方法学は英語教育内容学抜きには考えられない。
同時に英語教育内容学は、従来の英語学研究や英米文学研究を単純に水で薄めたもの ― 簡略化したもの ― ではない。英語学や英米文学の研究が、いわば普遍的な研究者目線からの探究であるとしたら、英語教育内容学は、特定の文脈での学習者目線によるものでなくてはならない。例えば、日本人英語学習者は、必然的に日本語の影響下にある。日本人英語学習者は、英語を ― 私たちの恩師である中尾佳行先生 (「あとがき」で詳述)がよく引用される鶴見俊輔の表現を使うなら ― 日本語の習慣を「学びほぐす」 (unlearn) 必要がある。日本人学習者を対象とする英語教育内容学は、そういった学びほぐしも視野に入れたものでなくてはならない。また、学習者の興味・関心に即して教育内容を選択・編集・配列する以上、英語教育内容学には、提示や活動をどのようにすれば学習者を惹きつけることができるのかという考慮が必要となる。この意味で、英語教育内容学は英語教育方法学抜きには考えられない。
そのように考える中尾先生は、英語教育内容学は「英語」を起点とし「言語」を中核とするものの、それだけには決してとどまらないとよくおっしゃっていた。英語教育内容学はもっと学際的に、教育学、心理学、神経科学、哲学、歴史学、さらにグローバリゼーションに関わる社会学や人文学一般などの考え方を取り込む必要がある。加えて技術的には例えばコーパス言語学のように計算機科学の知見も応用しなければならない。英語教育内容学はそのように発展しなければならないし、実際にそのようになりつつあるというのが中尾先生の見解であった。
教育が「人間を育てる」営みだとしたら、教師を育てる教員養成は「人間を育てる人間を育てる」営みである。そうなると、英語教育ひいては言語教育においては、言語がコミュニケーションのツールであると同時に、それを超えて人間の思考や感性を形成する基盤でもあることを踏まえておかないといけない、とも中尾先生はしばしばおっしゃっていた。
本書は、そういった中尾先生のお考えに啓発された人間が英語そして英語教育について考えなおし、それらを考える新地平を探求した論考を集めたものである。そこには上記のような意味の英語教育内容学の研究もあれば、英語教育方法学的な研究もある。伝統的な英語学や英米文学の流儀での研究もある。しかし一貫しているのは、言葉が私たちの知性と感性を広げるものであるということを、人文学的な研究者として訴えかけたい思いである。この本で、人文学的「知」からの問いかけを楽しんでいただけたら幸いである。
執筆論文および執筆者は以下の通りです。
コーパス言語学の言語理論への貢献
:semantic prosody及びphraseologyをめぐって………石井達也
メディア・リテラシーを育てる英語教育のために
―新聞記事を批判的に読むための試案―………石原知英
The Tale of Melibeeのouenについて………大野英志
O. Henry作“After Twenty Years”の語り手と焦点化
―英語教育における文学の可能性を求めて―………小野 章・中尾佳行・柿元麻理恵
文学テクストを会話分析の観点から指導する………菊池繁夫
空間表現に基づく身体を通した文学的な読み………熊田岐子
A Computer-Assisted Textual Comparison among the Manuscripts and the Editions of The Canterbury Tales:
With Special Reference to Caxton’s Editions………Akiyuki Jimura・Yoshiyuki Nakao・Noriyuki Kawano・Kenichi Satoh
Determination of the Countability of English Nouns According to Generality of Concept………Toshiaki Takahashi
教師の実践共同体における言語教師認知変容プロセス記述の試み
―ある教職大学院生の事例―………中川 篤
ワーズワスの“The Solitary Reaper”の精読………中川 憲
日本人英語学習者による英語詩読解中の辞書使用………西原貴之
典型的な構文と動詞………能登原祥之
『パストン家書簡集』におけるsince………平山直樹
初期近代英語期における付加疑問文について………福元広二
Emmaにおける登場人物の内面を描く語彙:Mindを中心に………松谷 緑
Old Bailey Corpusによる後期近代英語研究………水野和穂
英語教師志望者の「英文和訳」と「翻訳」
―トリビアル・マシンとノントリビアル・マシン―………守田智裕
「訳」に関する概念分析………柳瀬陽介
英文法は「分ければ分かる」か? 語彙的アスペクトに基づく動詞分類を教える試み………山岡大基
「英語のプロソディ指導における3つの原則」の提案とその理論的基盤………大和知史
自己調整可能な書き手/直し手の育成を目指した英語ライティング指導………山西博之
プラニングに焦点を当てた英語パラグラフ・ライティングの指導
―プロダクトとアンケートの結果について―………吉留文男
Teachers’Responses to the Implementation of the Task-Based Language Teaching (TBLT) in Junior High Schools in China………Jing Wang・Jun Mao
コミュニケーションの「ツール」を超えて
―人文学的「知」からの問いかけ―………中尾佳行
なお、7/31(日)の広島大学英語文化教育学会では、この書籍を(これも中尾先生のご厚意で)約2割引きの4000円で頒布します。
諸般の事情で私が筆頭編者になっておりますが、実質的な編集作業のほとんどは西原貴之先生にやっていただきました。またこの論文集を出版市場に出すことができたのは中尾先生の篤志によってのことです。こういった意味で、私はまったく筆頭編者の名に値しないのですが、ここで紹介させていただきます。
この学会には中尾先生ご自身もいらっしゃいますし、午後には公開ワークショップや入試相談会も開かれますので、7/31はどうぞ広島大学東広島キャンパスへお越しください。
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