このメールマガジンは、第二言語教育の質的な研究や社会的研究などについてきわめて有益な情報を提供しています。今のところは日本語教育関係が多いですが、英語教育関係者が、英語圏での英語教育(第二言語教育)には旺盛な関心を示すのに、日本での日本語教育研究(第二言語教育)に興味を示さないことは、私には理解できません(私から言わせてもらえればそういった選好は偏見というものでしょう)。また、このメールマガジンでは、非日本語圏での日本語教育(第二言語教育)の情報も豊富で、ここからも英語教育関係者は多くを学べます。
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書評を掲載する前に、さらに付け加えておきますと、この本の第二章「新しいパラダイムとしての実践研究: Action Researchの再解釈」は、言語教育で実践研究やアクションリサーチに関わる者にとっては必読の論文かとも思っています。アクションリサーチが、これまで日本の言語教育界にどのように受容されそして変容していったのかが、実に明確に書かれ、今後の実践研究の方法論が示されています。この論文を読むだけでも、この本を買う価値はあると私は思っています。
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この本の構成は、大きく「実践研究」の意味合いを論じた理論編と実践研究の具体例を掲載した実践編に分かれる。いかなる言説とて、その主張はその言説自身にも回帰し適用されなければならないのだとしたら、この本の書評は、理論編が明確にした実践研究の観点を使って書評者が実践編に掲載された六本の論文を子細に検討し、その検討が有益な洞察を生み出すかどうかを、読者に判断してもらう形をとるべきなのかもしれない。本書第一章が言うように、実践研究とは「波及効果をもち、枠組みに動きを与える運動」(43ページ)だからである。
実践研究の活力を生み出すために
書評 『実践研究は何をめざすか』
柳瀬陽介
この本の構成は、大きく「実践研究」の意味合いを論じた理論編と実践研究の具体例を掲載した実践編に分かれる。いかなる言説とて、その主張はその言説自身にも回帰し適用されなければならないのだとしたら、この本の書評は、理論編が明確にした実践研究の観点を使って書評者が実践編に掲載された六本の論文を子細に検討し、その検討が有益な洞察を生み出すかどうかを、読者に判断してもらう形をとるべきなのかもしれない。本書第一章が言うように、実践研究とは「波及効果をもち、枠組みに動きを与える運動」(43ページ)だからである。
だが、そのような書評は、本書の第二章や第三章のような丁寧で本格的な論考とならざるを得ない。残念ながら今の書評者にそれだけの本格的な論考を示す力はない。ゆえに、これから書くことは、書評者がよく知る日本の英語教育の言説と比較するという観点から見えてくることに過ぎないことをお詫びする。それでも、この紹介的記述が読者の皆様にとって何らかの有益な示唆を提供することができることを書評者としては祈るばかりである。
実践研究の奥深さと多面性
書評者は英語教育を専門とする者であり、日本語教育事情にさほど詳しくはない者であるが、英語教育界で「実践研究」あるいは「アクションリサーチ」と呼ばれている言説およびそれらを理論的に解説した言説と、本書を比べた場合に印象的だったのは、本書を読むことによって書評者の中に生じてきた、奥深さと多面性であった。これは言い換えるなら、英語教育の言説の多くが、のっぺりとした浅さと凡庸な一面性しか持ちえていないということでもある。
本書の深さと多面性は、本書で規定された実践研究が、現実世界で生きるという混沌の中の方向性を示すことから生じている。問いが立てられ、それなりの答えは提示されるものの、さらに問いが生じ、新たな側面が見えてくる。実践研究は読了ともに結論づけられ終了するどころか、さらなる実践研究の営みが要請される。
英語教育界でしばしば見られる言説では、研究者は、現実世界を静的に固定して実験室のように定義し、観察・記述・考察はその問題空間の中だけのものに留める。問題空間の中でのきれいな結論を出す(出さなければ多くの査読者が、「研究として不十分」と判定をくだす)。そのような言説は整理されていて読みやすいし、この種の書き方なら慣れない者でもそれなりに研究の体裁を整えることはできる。だが、実践者としてそういった論文を読むと、現実世界が単純化あるいは歪曲化され過ぎているように思える。論旨は明確なのだが、そこから実践への洞察が得られない。しばしば実践研究は、古典的な心理学実験の枠組みで研究を進める研究者から「n=1(被験者一人)の研究」と揶揄され、研究の価値が疑問視されているが、このような研究なら、そのような批判もむべなるかなとも思えてくる。
「実践=研究」という思想的枠組み
このように、本書の実践研究と英語教育界の(通例的な)実践研究を比較したが、この比較は、本書の理論編で提示されている論点を基に言い換えたに過ぎない。第二章はアクションリサーチの本来意図された形と、それが誤解・誤用された形を対比させているが、その記述によれば、アクションリサーチとは、(1)「批判的」(critical)、(2)「省察」(reflection)、(3)「協働」(collaboration)を重要なキーワードとするものである。79-80ページのまとめを使いつつまとめるなら、アクションリサーチとは、(1)自らの実践が置かれている社会的状況、実践を形づけている「枠組み」を検証し、よりよいものへと再構成しようとする態度でもって、(2)実践について考察し、(3)実践への参加者を実践研究に巻き込み、共に実践の改善へと向かうこと、となる。そういったアクションリサーチ観に基づき、本書は「実践研究」を「実践への参加者たちが協働で批判的省察を行い、その実践を社会的によりよいものにしてゆくための実践=研究」と定義する(80ページ)。
定義部分の最後の「実践=研究」というのは、実践と研究を別々のものと考えて実践研究を「実践を対象とした研究」と捉えるものではないことを意味している。「実践=研究」は、「実践することは研究することであり、研究することは実践すること」という思想(12ページ)を意味している。最終章の10章では、「実践」が教室内にとどまらないことがさらに明確に示され、実践とは「人が考えながら生活し働き、そして死ぬことであると言い換えることもできるかもしれない」とした上で、「「生きること」を考えることが、すなわち「実践研究」だということになる」(336ページ)ともしている。
「生きることを考えること」という実践研究の規定は、現在の英語教育界では大言壮語とみなされ、「そんなのでは研究にはなりません」と一蹴されるかもしれない(だが、そう言い放つ者は自らの研究概念を問い直そうとしていないことに注意しなければならない)。しかし例えば、「教室の内側で達成されたオーセンティックなことばのやりとりは、教室の外側(社会)で生きる参加者に何をもたらしたのか」という問いをたてた本書第八章が、具体的な観察と考察を繰り返し、学習者に「自分誌」を書かせるという実践活動そのものに意味があるのではなく、自分誌を書く学習者が生きているという課題そのものが、実践活動に意味を吹き込んでいるのだという洞察を得るあたりを読めば、この実践研究規定は極めて意義深いものであることがわかる。日本語教育と比べるとずいぶん制度化され、自らの実践の意味を問いなおすことが少ない英語教育関係者も、「教室参加者は教室の外から、それぞれの心理、社会的状況にともなう思考、価値観、あるいは日々の感情を持ち寄って教室の内に集まる。教室実践は、教室参加者の生活が求めるこうした主体的な要求に応えるものだろうか」という問い(256ページ)は看過できないだろう。
社会的文脈と自己言及的記述
本書での実践研究とは、このように学習者や教室などが置かれた社会的文脈の詳しい記述を特徴としている。この記述も、多くの言語教育研究がないがしろにしていることである。本書は、日本語教育の主流を、戦後の合理的な形式主義の標榜から、学習項目のリスト化が自己目的化し、客観的評価の神話により「技術実体主義的なドグマ」に陥ったと総括し、コミュニカティブ・アプローチですら思想でなく方法(指導技術)としてのみ移入したものと分析しているが(2ページ)、この総括と分析はほぼそのまま英語教育にも当てはまる。そういった流れの中、本書が社会的文脈の大切さを訴え、言語教育を学習者が生きることと結びつけることの意義は大きい。
社会的文脈記述と並ぶ、本書の実践研究のもう一つの特徴は、自己言及的記述である。自己言及とは、もちろんただ単に一人称を使って書くということではなく、自己すなわち研究を進める「私」自身を批判的に省察しながら記述することである(117ページ)。客観主義的な研究神話では、「研究に「私」を入れてはならない」とされ、一人称を使った記述は、「主観的」であり「研究」ではないと切り捨てられるが、人間が人間を観察し記述する場合に、「主観」と呼ばれる心の働きから離れることなどできない(このあたりの議論は、ユングの『タイプ論』にも詳しい)。そもそも、自分が自分の実践について省察する場合、「私」を除去することなどおよそ不可能だ。
だから実践研究者は、実践における自分の省察を記述しながら、その省察についてさらに省察する。その再省察はさらなる記述として論文に加えられる。読者は、「省察についてのさらなる省察」を読みながら、自らそれについて省察することが求められる。省察のたびに新たな意味が浮かび上がるが、当然のことながら省察に終わりはない。
「そうなれば、省察が続くばかりで、現実離れしてしまうのでは」と懸念する者もいるかもしれないが、それは机上の空論である。現実世界は待ってくれない。現実世界で生じる新しい展開は実践者をどんどんと巻き込んでゆく。実践者は前の省察を宙吊りにしながら、新たに実践を開始しその省察を始めなければならない。結論を出したと思っても、事態が変化するにつれ、その結論も疑わしくなり、さらに省察が求められる。最終的な答えのないままに、私たちは実践と省察を繰り返す。両者は統合された省察的実践となっていると呼んでもいいが、そう呼んだところで最終的な答えが出ないことに変わりはない。
マニュアル化された学習ばかり行ってきた者にとって、この宙ぶらりんの状態は不快なものだろう。だが、答えがわからないままに動き、動いては考えることこそは生きることではないか。こうなると上でも述べた、きれいに整理され、きれいな答えを出すという作法は、教師や学習者が生きていることに対する欺瞞のようにすら思えてくる。
言語への自覚と文学の始まり
省察の対象は、自らが使う言語にも及ぶ。論文を読み慣れた研究者は、理論の用語を巧みに使いこなし、実践を一見うまくまとめる。だが第四章が示しているように、理論の用語を使いすぎると、実践の具体性がやせ細ってしまう。さらに、実践者が自然に使っている実践の用語を、「理論的でない」と切り捨ててしまうなら、実践者の知性も感性も抑圧されてしまうかもしれない。かといって理論の用語を毛嫌いすれば、ローカルにしかわからないことば遣いばかりになり、その実践研究は言語を通じて結ばれる人類規模の大きな研究共同体から切り離され、発展の可能性を失ってしまうだろう。実践研究者は、「理論の用語か、実践の用語か」という安直な二者択一に陥ることなく、自らが使うことばについても省察し続けなければならない。
そのようにことばについて自覚的であることは、文学的表現の始まりとも言える。書評者がこの本の実践編を読む際に、引き込まれるように読んだ論文と、そこまでの集中力が出ないままに読んだ論文が正直言うとあった。これにはもちろん扱われた事例が、書評者の関心に近いか遠いかという要因が入っている。だが、それだけではあるまい。報告書のような単調な記述が続くと筆者はどうしても飛ばし読みがちになった。しかし、書評者もうまく説明できないのだが、文学のように「この表現には何かがある」と感じられる時には、読書も集中した。
文学的表現といっても特段に複雑な文構造や斬新な修辞技法を使っているというのではない。表現の中に、何かその人が生身で感じたことが表現されているように感じる時、書評者は扱われている事例が何であろうと引きこまれた。エスノグラフィーの記述は、しばしば「文学と科学にまたがる性格をもつ文章」とも言われるが、実践研究もそうであろう。実践研究においても簡単に整理できる事柄は科学の作法にならって図表などでまとめるべきだ。しかし、単純に言い切ってしまっては失われるニュアンスを、簡単にまとめてしまってはいけない。文学者のように、事象と自分に忠実にあり続けることを鉄則とし、その鉄則を守る苦しみの中でことばを見つけるべきだろう。そういう苦しみの中から文学的な表現は生まれる。
文学的表現の良否を測る「バカでもわかるような物差し」などない。しかし、すぐれた文学的表現と凡庸な表現の違いは、ことばを大切にする者にはわかる。物差しがなくとも価値を判断できる目利きを育てることが文化だ。「バカでもわかる物差し」しか使わなければ、そのうち全員がバカになってしまうのが道理というものだろう。査読者が実践研究論文の学会誌掲載の判断をしなければならないとしても、査読者は「バカでもわかる判断基準」を求めてはならない。そういったものがあれば、査読も楽だし(なにせ、バカでもできる)、査読結果に文句も言われないだろう。だが、査読者は自らの見識をかけて、自らの判断を批判的な省察と共に示すべきだろう。実践研究は、査読者にも省察を促すものであり、単純すぎる物差しで良否を判定されるべきものではない。
制度としての実践研究のPOWERへ
右から左へとすぐに判定できるような簡単な基準がないとすれば、実践研究を大規模に制度化することはできないだろう。『誰でもできる実践研究』といった安直なマニュアル本は作成できない。だから実践研究者を促成栽培することはできない。「査読用チェックリスト」などで簡単に査読を済ませることもできない。だから、実践研究が、一部の量的研究のように
―と言ったら怒られるだろうか― 大量生産されることはない。論文が大量に生産されないとなると、実践研究は、制度としては大きな権力 (power) を獲得することはないかもしれない。
だが"power"には、制度的権力以外の意味もある。ハンナ・アレントの『人間の条件』の議論に基づき、私なりに"power"を翻訳するなら、それは自生的な「活力」となる。人々が集い、自らの行動に即した誠実な発言を交わしていくなら、その時空には自ずと「活力」(power)が生まれる。民主主義政体においては、その活力こそが法律といった制度的権力の源泉ともなる。実践研究は、現在、制度的権力からはやや離れたところに位置しているのかもしれない。しかし、実践研究は、実践研究者にも学習者にも関係者にもそして読者にも活力を与えることは、本書を読めばわかるはずだ。実践研究が次々に活力を生み出し、やがて言語教育の世界にも、そういった活力に基づく制度権力が構築され、更新され続けることを願ってこの文章を終えたい。
(やなせ ようすけ:広島大学)
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