一年前から私は、誰にも頼まれもしないのに講座のカメラマンをかってでて、パシャパシャ写真を撮っている。本日撮影・現像したのは約250枚。私は撮影した写真がそのまま使い物になる(いわゆる「JPEG撮って出し」ができる)ほどの技術がないので、一枚一枚RAW現像と呼ばれる作業で写真を編集する。
これは結構時間がかかる(だからこそプロのカメラマンは正確かつ高速のフォーカス・露出設定の自動設定機能をカメラに求めるのだろう。たとえその結果、カメラが大型で高価なものになっても)。しかし、撮影した一枚一枚の写真を検討し、そこに写されている卒業生・修了生の表情を見ることはとても楽しい。これだけの笑顔を撮影できるというのは、写真好きとしても、教師としても、本当に嬉しい。
仕事をしていると時折疲れ果てて、自分は何のためにこの仕事をしているのだろうと考えてしまうことがある(人間、疲れるとどうも悲観的になるものだ)。しかし、今日のような写真を見ていると、教育という仕事は、究極のところで学生・生徒・児童の生命力を高めることだと思えてくる。
生命力とはいかにも曖昧なことばだが、一人ひとりが個性を伸ばし、思い思いの方向に伸びてゆく力とでもここでは簡単に定義しておきたい。
もっと具体的に言うなら、教育という仕事は、学ぶ者の表情を豊かにすることだとも言えるかもしれない。
生命力が高まれば、人の表情は自然と表現にあふれる。教育内容というのは、それぞれの教科や授業でそれぞれに異なるだろうが、要は、その教育内容を伝えようとする授業を通じて、学ぶ者の顔と身体に表情が豊かにあふれるか ― そこに教育の成果は現れると私は思っている。
先日、ある論文(というものでもない書き物かもしれない)をある媒体に提出したら、査読者から修正要求が来た。曰く、「この論文は英語教育改革がうまく行かない場合の方に記述が傾いている。改革がうまくいった場合のより良い英語教育のヴィジョンを示していただきたい」。なるほど、それもそうだと私も思い、文科省が掲げる英語教育の目標が書かれた文章を読み直して次のような作文を加えた。
・・・英語教育改革が成功するなら、文部科学省が目標設定するように「国際的な経済競争は激化し、メガコンペティションと呼ばれる状態が到来する中、これに対する果敢な挑戦」を行う人材が育ち(平成15年「英語が使える日本人」の育成のための行動計画)、日本は「アジアの中でトップクラスの英語力」(平成26年 今後の英語教育の改善・充実方策について)を達成することができるだろう。
そう書き加えた後で、どこか虚しさを感じた。その虚しさをうまく説明することは、今はできそうもない。おそらくは多くの英語教育関係者にとって「経済競争への果敢な挑戦」や「アジアでトップクラスの英語力」といったことばは、ワクワクするようなことばなのだろう。そのことばにやる気を喚起されない私の方が業界人としておかしいのかもしれない。
だが、私にとっては、学ぶ者の表情が豊かになることの方が、もっと大切であるような気がする。また、豊かな表情を示す若者が多くなれば、文科省が掲げる目標も自ずと達成されるか、それが実は必要でなかったことが示されるのではないかとも私は楽天的に考えている。
私は悲観的すぎるのだろうか、それとも楽天的すぎるのであろうか。しかし、私にとっては資格試験での高得点や志望校への合格といった目標達成が達成されたとしても、学ぶ者の表情が暗くなってしまうこと、あるいは固まったように一面的な表情しか示さなくなることの方が恐ろしい。
生命力とか、表情とか、近代社会の論理からこぼれおちることがらに私はこだわってゆきたい。
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