ここではレイコフの『認知意味論』(Women, Fire and Dangerous Things)の11-14章と17章を中心にまとめます。これらの章は同書の第二部「哲学的な意味合い」(Philosophical Implications)の中にあります。15-16章はパトナムの哲学に関する章ですが、パトナムの論考は重要だと思いますので、パトナムの書を読んでから別稿でまとめることにします。以下に原著からの引用をしますが、ページ数は原著のページ数であり、その翻訳は基本的に私がおこなったものです(ただし翻訳書からは莫大な恩恵を受けています)。
1 客観主義と経験基盤主義の対比
この本の目的は、理性に関する伝統的な見解と新しい見解を対比し、後者の優位性を立証するものです。ただし、前者の全面否定は意図していません。著者は、古典的カテゴリー (classical categories)などの伝統的見解を、人間の精神の所産 (a product of the human mind) として高く評価しています (p. 160)。著者のねらいは、身体とそれに基づく想像力の役割をほとんど認めない伝統的見解を批判し、新しい見解を提示することにより、より十全な人間理解を行うものだと私は読みました。
著者は伝統的見解と新しい見解を対比します。
伝統的見解では、理性は抽象的で身体から抜け出たものだとされている。新しい見解では、理性には身体的基盤がある。伝統的見解は、理性を主として、客観的に真か偽のどちらかである命題に関する字義的なものとみなす。新しい見解は、メタファー、メトノミー、メンタル・イメージといった理性の想像的な側面を、理性にとって中心的なものとしてとりあげ、[伝統的見解のように] 字義性にとって周縁的で取るに足らない付け足しのようには考えない。
On the traditional view, reason is abstract and disembodied. On the new view, reason has a bodily basis. The traditonal view sees reason as litral, as primarily about propositions that can be objectively either true or false. The new view takes imaginative aspects of reason -- metaphor, metonymy, and mental imagery -- as central to reason, rather than as a peripheral and inconsequential adjunct to the literal. (xi)
しかし両者はまったく異なるものではなく、両者は例えば「基礎的実在論」 (Basic Realism) を共有しています。基礎的実在論とは次のような特徴を含む考え方です。
- 人間の外部にありながらも人間の経験の現実をも含んだ現実世界の存在を大切にすること
- 概念システムと現実の他の側面の間のなんらかのつながり
- 真理を、[人間の心の中の] 内的な整合性にのみ基づいているわけではないものとして概念化すること - 外的世界に関する安定した知識の存在を大切にすること
- 「なんでもあり」、つまりはどんな概念システムも同じように優れているとする見解を拒むこと
- a commitment to the existence of a real world, both external to human beings and including the reality of human experience
- a link of some sort between conceptual systems and other aspects of reality
- a conception of truth that is not merely based on internal coherence
- a commitment to the existence of stable knowledge of the external world
- a rejection of the view that "anything goes" -- that any conceptual system is as good as any other (p. 158)
それでは以下、伝統的見解である客観主義 (objectivism) と、新しい見解である経験基盤主義 (experientialism) をまとめます。
2 客観主義 (objectivism)
客観主義のパラダイムは、形而上学と認識論の二つに分けて説明することができます (p. 159)。
2.1 客観主義者的形而上学
客観主義者の形而上学は、次のように説明されています。
客観主義者的形而上学: 現実のすべてはモノから構成されており、モノは常に一定の特性と関係性を有している。
OBJECTIVIST METAPHYSICS: All of reality consists of entities, which have fixed properties and relations holding among them at any instant. (p. 160)
客観主義者的形而上学は、本質主義 (essentialism) と重なる考えですが、それらから生まれてくるのが、古典的カテゴリー化 (classical categorization) の考え方であり、それはさらに、以下の考え方につながります。
客観的カテゴリー説: 世界にあるモノは、それぞれの客観的特性に基づいた、客観的に存在するカテゴリーを形成する。
THE DOCTRINE OF OBJECTIVE CATEGORIES: The entities in the world form objectively existing categories based on their shared objective properties. (p. 161)
さらに、これらの特性は、究極的にはそれ以上分割できない単純で原子的なものに分析できます。
現実世界の原子論: すべての特性は、原子的であるか、もしくは原子的特性が論理的に結合された特性である。
REAL-WORLD ATOMISM: All properties either are atomic or consist of logical combinations of atomic properties. (p. 162)
それぞれ固有の特性を客観的なカテゴリーとしている「モノ」は、お互いに客観的で論理的に関係しあっています。
客観主義者的論理: 世界にあるすべてのカテゴリーの間には論理的な関係が客観的に存在している。
OBJECTIVIST LOGIC: Logical relations exist objectively among the categories of the world. (p. 162)
このような考え方は東洋の私たちにはずいぶん奇異な考え方のように思えますが、西洋近代では非常に強力な考え方です。実は「原子的な特性とは何か」を具体的に考えるとこれは非常な難問(というより具体的には答えられない特性 ―カントなら「超越論的幻想」と言うでしょうか―)であるのですが、その課題はひとまず置いておいて原子的特性をもったモノの間の論理的な関係を考えようとするアプローチは、ヒルベルト (Hilbert, 1862-1943) による、数学を形式化し、数学全体の完全性と無矛盾性を示そうとするヒルベルト・プログラムをに見られます。ヒルベルト・プログラムは、それ以降の西洋の学問に多大な影響を与えました。
近代言語学の統語論と意味論の考え方も、ヒルベルトの記号論理学(数理論理学、mathematical logic) に由来します。
記号論理学(数理論理学)において、ヒルベルトの公理的方法は、論理それ自体に適用されている。演繹的論理システムは、複数の未解釈の記号、未解釈記号を結合し適格な式を作り出す形成規則、および、ある記号列が別の記号列と置き換えられることを容認する変形規則から成り立っている。有限個の適格な式が公理とされる。定理は変形規則により公理から導き出される。証明は記号列の並びに過ぎない。このような演繹的システムにおける記号とは、専門的観点からするなら、まったく意味を有しない。形成規則と変形規則のそのようなシステムが形式「統語論」と呼ばれる。
「意味論」とは、「統語論」の未解釈記号に「意味を与える」専門的な方法である。
In mathematical logic, Hilbert's version of the axiomatic method is applied to logic itself. A deductive logical system consists of a collection of uninterpreted symbols, formation rules that combine these into well-formed formulas, and transformation rules that permit certain strings of symbols to be substituted for other strings of symbols. A finite number of well-formed formulas are taken as axioms. Theorems are derived from axioms by transformation rules. A proof is just a sequence of strings of symbols. The symbols in such a deductive systems are, technically, completely meaningless. Such a system of formation rules and rules of transformation is called a formal "syntax."
"Semantics" is a technical way to "give meaning" to the uninterpreted symbols of the "syntax." (p. 222)
以上の説明は、そのままチョムスキーの言語学の考え方に当てはまります。
生成言語学が定義する言語とは、適切に制限された産出規則により生成された未解釈記号列の集合である (チョムスキー 1957を参照せよ)。 したがって、生成言語学での統語論規則は、定義上、意味論からは独立している。意味論は、これも定義上、解釈的なものであり、意味論が統語論の未解釈記号に意味を与えるのである。
Generative linguistics defines a language as a set of strings of uniterpreted symbols, generated by some appropriately restricted version of production rules (see Chomsky 1957). Rules of syntax within generative linguistics are thus, by definition, independent of semantics. Semantics is, by definition, interpretive; that is, it gives meaning to the uninterpreted symbols of the syntax. (p. 227)
しかしここでレイコフが注意を喚起するのは、このように記号論理学(数理論理学)の考え方を自然言語に適用することは、記号論理学(数理論理学)が引き起こしている帰結 (consequence) ではなく、近代言語学者が適用することにした一つのメタファーにすぎないということです。
これまで見てきたように、文法を一種の産出規則システムと「定義」し、言語をそのシステムによって生成される記号列の集合と「定義」することは、記号論理学(数理論理学)が引き起こしている帰結ではない。この定義は、単に価値自由的に数学を自然言語に適用したものではない。この定義が示しているのは、自然言語をこのようなシステムによって理解しようという決意である。統語論は意味論から独立しているという、統語論の自律性は、このメタファーが引き起こしている考え方である。もしあなたがこのメタファーを受け入れるなら、自然言語の統語論は意味論から独立しているが意味論は統語論から独立しているわけではないということが、定義上、真となる。だがそれはメタファー的な定義にすぎない!
As we have seen, such a "definition" of grammar as a kind of system of production rules and a language as a set of strings of symbols generated by that system is not a consequence of mathematical logic. It is not merely a value-free application of mathematics to natural language. It is the imposition of a metaphor -- a metaphor based on objectivist philosophy. It characterizes a commitment to try to understand natural language in terms of such systems. The autonomy of syntax -- the independence of sysntax from semantics -- is a consequence of that metaphor. If you accept the metaphor, then it is true by definition (metaphorical definition!) that natural language syntax is independent of semantics, but not conversely. (pp. 227-228)
ちなみにこのような客観主義者の形而上学の典型はウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』に見出すことができます(参考:野矢茂樹 (2006) 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』 (ちくま学芸文庫))。形而上学の適切な展開についてはカントも論じていたことでした(参考:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)。数学的発想の簡単なまとめについては「遠山啓『現代数学入門』ちくま学芸文庫」)をご参照ください。
2.2 客観主義者の認識論
上記のような形而上学に基づき、客観主義者は以下のような認識論 (epistemology) を妥当とします。
客観主義者的認知: 思考とは抽象記号の操作である。記号は、世界のモノとカテゴリーに対応することにより意味を得る。このようにして、心は外的現実を表象することができ、「自然の鏡」であるとされる。
客観的概念: 概念は記号であり、それは、(a)概念システムの他の概念と関係し、(b)現実世界(もしくは可能世界)のモノとカテゴリーに対応する。
OBJECTIVIST COGNITION: Thought is the manipulation of abstract symbols. Symbols get their meaning via correspondences to entities and categories in the world. In this way, the mind can represent external reality and be said to "mirror nature."
OBJECTIVE CONCEPTS: Concepts are symbols that (a) stand in a relation to other concepts in a conceptual system and (b) stand in correspondence to entities and categories in the real world (or possible worlds). (p. 163)
こういった認識論に基づくと、合理性 (rationality) とは以下のように規定されます。
客観主義者的合理性: 人間の理性が正しいのは、それが客観主義者的論理に適うときである。つまり思考で使われた記号が世界のモノとカテゴリーに正しく対応し、心が世界のモノとカテゴリーの間に存在する論理的な関係を再生するときである。
OBJECTIVIST RATIONALITY: Human reason is accurate when it matches objectivist logic, that is, when the symbols used in thought correctly correspond to entities and categories in the world and when the mind reproduces the logical relations that exist objectively among the entities and categories of entities in the world. (p. 163)
こういった考え方では、「事実」とは、いかなる人間のあり方・営みとも独立に存在しているものであると想定されます。
独立性の想定:存在と事実は、人間の信念、知識、知覚、理解の様態、およびその他すべての認知的能力から独立している。真なる事実が、人間の信念、知識、概念化、およびその他すべての認知に依拠していることはあってはならない。存在はいかなる点においても人間の認知には依拠していない。
THE INDEPENDENCE ASSUMPTION: Existence and fact are independent of belief, knowledge, perception, modes of understanding, and every other aspect of human cognitvie capacities. No true fact can depend upon people's believing it, on their knoweldge of it, on their conceptualization of it, or on any other aspect of cogntion. Existence cannot depend in any way on human cognition. (p.164)
これは一神教的な「神」の視点からの認識論ですが、一神教の信仰をもたない日本人の中にも、たとえば量的研究方法を信奉し、質的研究法を一切認めない研究者などにこのような認識論は見出すことができます。ちなみにパウロ・フレイレは、いかなる主体性 (subjectivity) も否定する客観主義 (objectivism)と、いかなる客体性 (objectivity) も否定する主観主義 (subjectivism) は同根のともに批判されるべきものと主張し、現実世界の主体性と客体性の弁証法的関係 (dialectical relationship) を強調しました。これについては"Paulo Freire (1970) Pedagogy of the Opressed"をご覧いただければ幸いです。
こういった認識論からは、次のような意味論が生じます。ことばが「意味をもつ」ことは、もっぱら次のような考え方に基づくです。
客観主義者的意味論: 言語表現は、現実世界もしくは可能世界と対応することもしくは対応し損なうことによってのみ、意味を得ることができる。つまり、名詞句の場合は正しい指示ができていること、文の場合は真か偽であることによって、意味が得られるのである。
OBJECTIVIST SEMANTICS: Linguistic expressions get their meaning only via their capacity to correspond, or failure to correspond, to the real world or some possible world; that is, they are capable of referring correctly (say, in the case of noun phrases) or of being true or false (in the case of sentences). (p. 167)
2.3 客観主義の帰結
客観主義は、「統語論は意味論から独立している」としましたが、それはさらに「意味論は語用論から独立している」という考えを生み出します。かくして、統語論-意味論-語用論という序列関係が成立します。
文がどのように使われ、話者が自分のことばで何を意味しているのかという研究は、
「語用論」として隔離される。意味論は定義上語用論から独立している。というのも意味論的な意味は、いかなる話者の文使用からも独立した、一定の真理条件の観点から定義されるからである。
意味論と語用論の区別により、きわめて重要な価値群が導入される。意味論は言語と客観世界の結びつきを定めるので、意味論には中心的な役割が与えられる。語用論は客観的現実と関わりなく「単に」人間のコミュニケーションに関わっているだけであるから、語用論は周縁的なものとされ二次的な興味しか与えられない。
The study of how senteces are used and what speakers mean by what they say is segregated off as "pragmatics." Semantics is by definition independent of pragmatics, since semantic meaning is defined in terms of fixed truth conditions independent of the use of a sentence by any speaker.
The semantics-pragmatics distincition introduces an all-important set of values into the study of maning. Semantics is given a central role, because it specifies connections between language and the objective world. Pragmatics is taken to be peripheral, and of secondary interest, since it is not concerned with anything having to do with objective reality, but "mearely" with human communication. (p. 171)
チョムスキーの言語学は、統語論を意味論と語用論より優先させるだけでなく、言語能力(language faculty) が、一般的認知的能力から独立したものであると、言語能力の自律性をしますが、レイコフによるなら、そのような価値観は、チョムスキーの言語学が成立するために必要とされています。
チョムスキーの流れをくむ生成言語学では、一般的認知能力をまったく使用しない自律的な言語能力が存在することを当然のこととして想定している。この想定は、生成言語学にとってどうでもいい想定ではない。これは生成言語学が依拠している基本メタファー(「文法は形式システムである」)を維持するために必要な想定である。形式システムとは、アルゴリズム計算と同じような書き換え規則の集合体である。生成言語学の理論は、数学的な特徴を備えているが、それは意味にかかわらずに記号を操作するアルゴリズムシステムの観点から特徴づけられているのである。定義上、アルゴリズムシステムは、記号がどのように意味論的解釈を受けるかにまったく影響を受けない。もし生成文法がそのようなシステムであれば、それは定義上、記号の解釈を必要としない。文法のいかなる規則においても意味、記号の理解は必要とされない。もし記号の解釈が行われるなら、それは生成言語学をの理論を放棄することを意味してしまう。つまり、「文法は厳密な意味で形式システムである」という基本メタファーを捨て去ってしまうことになる。
Generative linguistics (in the Chomskyan tradition) takes for granted that there is an autonomous language faculty that makes no use at all of general cognitive capacities. This is not an idle assumption on the part of generative linguistics. It is an assumption that is necessary in order to maintain the basic metaphor on which generative linguistics is based, namely, A GRAMMAR IS A FORMAL SYSTEM. A formal system is a collection of rewriting rules that can mimic an algorithmic computation. The theory of generative linguistics is mathematically characterized in terms of such algorithmic systems, which manipulate symbols without regard to their meaning. By definition, an algorithmic system is one in which no algorithm can be sensitive to the way a symbol is semantically interpreted. If a generative grammar is such a system, then it is by definition required that no interpretation of the symbols -- no meaning, no understanding of them -- can be made use of in any rule of grammar. To do so would be to abandon the theory of generative linguistics -- to give up on the basic metaphor that a grammar is a formal system in the technical sense. (pp. 181-182)
しかしそもそも客観主義そのものは正しい信条なのでしょうか。レイコフは客観主義は、考えることはできるが、完全に正しい信条ではないと判断します。
たとえば生物種は、しばしば上に述べた「自然種」の典型例とされますが、生物学的に仔細に検討すると次のようなことが判明し、客観主義は完全には正しくないことがわかります。
生物種は、均質な内部構造をもたない。
生物種は、他の生物群集 [= 同じ区域に生息する生物種全体] との関連で定義される。
生物種は、個体の特性だけで定義できない。
生物種は、明確な境界線をもっていない。
生物種は、推移的ではない [= 「a = b でかつ b = c であれば、a = c が成り立つ」といった推移関係が必ずしも成立しない]
生物種は、必要条件をもたない。
生物種は、地勢に依存している。
- It [= the biological species] does not have a homogeneous internal structure.
- It is defined relative to other groups.
- It is not defined solely with respect to properties of individuals.
- It does not have clear boundaries.
- It is not transitive.
- It does not have necessary conditons.
- It is dependent on geograpy. (p. 235)
別の例を取るなら、「色」というカテゴリーは、人間とは独立に客観的に存在しているわけではありません。
光の波長は人間の外部の世界に存在するが、色のカテゴリーはそうではない。私たちが異なる波長を同じ色カテゴリーに属すると判断することには、人間の生理学、つまり網膜の錐体と目と脳の間の神経経路が、部分的に関与している。色は私たちが世界と相互作用することから生じている。色は私たちの外部に存在しているわけではない。色のカテゴリー化には、文化的慣習が部分的に関与している。文化が異なれば、基本色カテゴリーにも異なる境界線が与えられるからである。色のカテゴリー化には認知機構も関与している。オレンジ色のような、原色ではないが焦点色である色の存在を説明するのに人間の認知機構を考えることが必要だからである。したがって、色は心のカテゴリーであり、見る存在者を排除した世界に客観的に存在しているわけではない。
Wavelengths of light exist in a world external to human beings; color categories do not. The fact that we categorize different wavelengths as being in the same color category partly depends on human physiology -- on the cones in the retina and the neural pathways between the eye and the brain. Colors arise from our interaction with th world; they do not exist outside of us. Color categorization is also partly a matter of cultural convention since different cultures have different boundaries for basic color categories. Color categorization also involves cognitive mechanisms, which are needed to account for the existence of focal nonprimary colors, like orange. Thus colors are categories of mind that do not exist objectively in the world exclusive of seeing beings. (p. 198)
また、新聞によって「事実」として報道される内容にも、人間の認知が入っています。例えば1984年11月14日のSan Francisco Chronicleは、"Employees across the nation this year will steal $150 billion worth of time from their jobs"や"The study showed that the average weekly time theft figure per employee amounted to four hours and 22 minutes." (pp. 209-210)などと報道しましたたが、これらを「事実」とするためには、TIME IS MONEYという特定のメタファーを受け入れなければなりません。私たちがしばしば「事実」と認定している事象にも、特定の人間的な関与があります。私たちは厳密な客観主義によって暮らしてはいません。
3 経験基盤主義 (experientialism)
このように西洋近代で好まれて想定されてきた客観主義は、少なくとも部分的には破綻していますし、むしろ人間的な事象を扱うには適切ではないと考えられるわけですから、私たちには新しい見方が必要になります。レイコフによるならそれが経験基盤主義 (experientialsim)です。
経験基盤主義によれば、私たちの概念システムは「基本レベル」(basic level)と「イメージ・スキーマ的概念」(image-schematic concepts)の二重の基盤をもっています(p. 279)。以下、基本レベルとイメージ・スキーマ的概念をまとめ、これらを基盤とする経験基盤主義の意味するところについて述べることにします。
3.1 基本レベル (basic level)
「動物」-「犬」-「レトリーバ犬」や、「家具」-「椅子」-「ロッカー」といった単語を聞いたとき、私たちは2番目の語をもっとも基本的な語ととして認識します。これら3つの語は、「上位レベル」(superordinate)-「基本レベル」(basic level)-「下位レベル」(subordinate)の語の例としてみることができます(p. 46)。
基本レベルのカテゴリーは以下の特徴をもちます。
知覚:全体的な形状としてに知覚される形である。単一のメンタル・イメージである。すぐに同定できる。
機能:身体的相互作用を行う一般的なレベルである。
コミュニケーション:語として、最も短く、好んで使われ、かつ文脈的には中立的だとされる。子どもは最初にこれらの語を習得し、語彙として定着する。
知識構成:カテゴリーのほとんどの属性はこのレベルでの知識として所蔵される。
Perception: Overall perceived shape; single mental image; fast identification.
Function: General motor program.
Communication: Shortest, most commonly used and contextually neutral words, first learned by children and first enter the lexicon.
Knowledge Organizaition: Most attributes of category members are stored at this level.
これらの基本レベルの概念そして語は、人間の営みに密接に関連しています。すなわち私たちの身体、習慣・慣習、価値などの特性によってこれらが定まっています。これは厳密な客観主義では想定できないレベルです。
3.2 イメージ・スキーマ概念 (image-schematic concepts)
イメージ・スキーマ概念 (image-schematic concepts)について、レイコフは、ジョンソンのThe Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reasonの議論を次のように集約してまとめます。
- イメージ・スキーマが、私たちの経験を、概念形成に先立って構造化する。
- イメージ・スキーマに対応するイメージ・スキーマ概念が存在する。
- イメージ・スキーマの基本的論理をたもったまま、イメージ・スキーマを抽象的領域に写像するメタファーが存在する。
- それらのメタファーは恣意的ではなく、私たちの日常的な身体的経験によって導かれている。
- Image schemas structure our experience preconceptually.
- Corresponding image-schematic concepts exist.
- There are metaphors mapping image schemas into abstract domains, preserving their basic logic.
- The metaphors are not arbitrary but are themselves motivated by structures inhering in everyday bodily experience. (p. 275)
このイメージ・スキーマ(あるいは運動感覚的イメージ・スキーマ (kinethetic image schemas) (p. 271) の例としてあげられているのは、「容器スキーマ」 (The CONTAINER Schema)(p. 272)、「部分-全体スキーマ」 (The PART-WHOLE Schema) (p. 273)、「連結スキーマ」 (The LINK Schema) (p. 274)、「中心-周縁スキーマ」 (The CENTER-PERIPHERY Schema) (p. 274)、「起点-経路-到達点スキーマ」 (The SOURCE-PATH-GOAL Schema) (p. 275)、「上下スキーマ」(UP-DOWN Schema)(p. 275)、「前後スキーマ」(FRONT-BACK Schema)(p. 275)、「線形順序スキーマ」(LINEAR ORDER)(p. 275)などですが、これらはまだ研究途上のものであるとしています(p. 275)。
3.3 経験基盤主義の帰結
基本レベルとイメージ・スキーマ概念は二重の基盤(dual foundation)として、私たちにとって「直接的に有意味」(directly meaningful) ですが、この私たちの概念システム (conceptual system)には、客観主義が想定している「原子記号」(primitives)は存在しません。(p. 279) なぜなら原子記号は、客観主義により内部構造をもたない(The concepts with no internal structure are primitive. p. 279) とされていますが、基本レベルとイメージ・スキーマ概念にはそれぞれ内部構造があるからです。
経験基盤主義により「意味」は新たな定義を得ます。
意味とはモノではない。意味は私たちにとって有意味だということに伴っている。それ自身で有意味なものは何もない。有意味性は、ある種類の存在者がある種類の環境の中で機能するという経験の中から生じる。
Meaning is not a thing; it involves what is meaningful to us. Nothing is meaningful in itself. Meaningfulness derives from the experience of functioning as a being of a certain sort in an environment of a certain sort. (p. 292)
「真理」についても刷新され、私たちの暮らしに根ざしたものになります。
ある状況でのある言明を私たちが「真」とするのは、その言明に関する私たちの理解が、私たちの目的に沿ったその状況の理解にふさわしい場合である。
これが経験基盤者による真理の説明の基盤である。これは絶対的な、神の視点からの真理ではない。だがこれを私たちは日常的に真とみなしているのである。
We understand a statement as being true in a given situation if our understanding of the statement fits our understanding of the situation closely enough for our purposes.
That is the basis of an experiantialist account of truth. It is not absolute, God's eye view of truth. But it is what we ordinarily take truth to be. (p. 294)
かくして「客観性」の概念も新たにされます。これこそが私たちが日々使いながら洗練させていこうとしている客観性概念ではないでしょうか。
客観主義者の伝統の中で、客観性は、モノをできるだけ客観的な神の視点から見るために、いかなる主観的な側面も消去することを意味していた。しかし神の視点を得ることが人間には不可能だということは、客観性が不可能だとか望ましくないとかいうことを意味しない。客観性とは次の2点から構成される。
第一に、自分の視点から離れ、状況を他の視点から、しかもできるだけ多くの視点から見ること。
第二に、直接的に有意味なもの --基本レベルとイメージ・スキーマ概念-- と、間接的に有意味な概念の区別ができること。
したがって客観的であるためには以下のことが必要である。
- 人にはそれぞれの視点があり、それは単なる信念の集合ではなく、信念が形成される特有の概念システムであることを知ること。
- 人の視点が何であるかを知り、その概念システムがどのようなものであるかも知ること。
- 他の関連性のある視点を複数知り、それらの視点を形成するそれぞれの概念システムを使うことができること。
- 状況を、複数の他の視点から、それぞれの概念システムを使いながら評価できること。
- 生命体としての人間および私たちの環境の一般的性質からして比較的に安定し明確に定義されている概念(例、基本レベルとイメージ・スキーマ概念)を、人間の目的と間接的な理解の仕方によって変化する概念から区別できること。
Within the objectivist tradition, objectivity meant eliminating any aspects of the subjective so as to better see things from an objective, God's eye point of view. But the fact that a God's eye view is not possible does not mean that objectivity is impossible or any less a virtue. Objectivity consists in two things:
First, putting aside one's own point of view and looking at a situation from other points of view -- as many others as possible.
Second, being able to distinguish what is directly meaningful -- basic level and image-schematic concepts -- from concetps that are indirectly meaningful.
Being objective therefore requires:
- knowing that one has a point of view, not merely a set of beliefs but a specific conceptual system in which beliefs are framed
- knowieng what one's point of view is, including what one's conceptual system is like
- knowing other relevant points of view and being able to use the conceptual systems in which they are framed
- being able to assess a situation from other points of view, using other conceptual systems
- being able to distinguish concepts that are relatively stable and well-defined, given the gneral nature of the human organisim and our environment (e.g., basic-level and image-schema concepts), from those concepts that vary with human purposes and modes of indirect understanding (p. 301)
これらの論考により、私たちはまた「西洋近代」の特徴をより「客観的」に理解できるのではないでしょうか。私たちは西洋近代の発想に拘束されることなく、また逆にそれを拒絶することなく、物事を考えてゆきたいと思います。
Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal About the Mind
『認知意味論―言語から見た人間の心』
The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason
『心のなかの身体―想像力へのパラダイム変換』
関連記事『認知意味論―言語から見た人間の心』
The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason
『心のなかの身体―想像力へのパラダイム変換』
マーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991/1987)『心の中の身体』紀伊国屋書店 http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/11/19911987.html
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html
身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html