2011年1月13日木曜日

事なかれ主義を軽蔑し、現場で活きる基本を確立する

ある中学校に勤務する私が敬愛する先生とひさしぶりにメールでやりとりをさせていただきました。その際に頂いたメールのある部分を(一部私が改編した上で)、その先生の許可を得てここにも掲載します。まずはお読みください。


昨年の夏期休業ですが、私は自宅研修を却下されました。冗長な文になりますが、現場はこうだ、ということを知っていただきたく書きます。

私の場合、ビデオ、MDなどに収録した過去の授業での生徒の発表記録をデジタル化することを計画。今教えている3年に発表の実際を見せようと考えました。今の学校に転勤してきて2年。卒業生の作品が何も残っていない状態。生徒は無気力、英語嫌い、と負の連鎖です。同じ市内の中学生がこんなことをしている、というのを見せて刺激になれば、と思っていたのですが許可が下りませんでした。理由は、「職場でできない仕事はない」でした。ビデオテープのカメラで収録したものは再生機が職場には無い。MDはついているデッキが無い。作業に必要な器材が何もない職場。「自分の器財を職場に運び込んだらできる」という応え。

耐震工事とエアコン設置工事で埃、騒音がひどく、唯一使える職員室に長時間いることすら無理ということを知っての言葉。一気にやる気を失いました。必要なことだけをちょこっとして休暇を取って帰る、この繰り返しをした夏です。

このとき、コンクリートの埃がすごく、机の上が真っ白。その中で仕事をするのは、滝行をする行者に似た苦行でした。違うのは、行者は自然界のなかで自己の心身を清めますが、私の場合は心身を汚す環境で時を過ごした点です。(このとき1日中職員室にいた先生は気管支を病みました。)自前の機材を持ち込むのはやめました。手間も大変ですが、それにもまして、埃で故障しても保証してもらえませんからね。で、休暇を取って自宅で作成しました。

機材も何も使えない状況なのに、コンピュータ関係の教材と指導が「できたか」と訊いてくる。作成したのに使えないと言うと、無言。これが○○の最底辺の学校の現状です。かなりの時間を費やして教材を作ってもそれを使えないのが残念です。

この辺り、「できねば無意味」と甲野さんが言った武術の世界で生きてきた私には歯がゆいのです。若手には授業で使うハンドアウトを渡して共有してもらっていますが、そろそろこちらがもらって打診される立場に立ちたいと密かに願っています。

○○の低学力の現状は深刻です。小学校ですでに授業崩壊、学級崩壊が進んでいるのです。若い教師達は自分の中に指針、寄る辺を持つ者がほとんど無く、流行りのものに与するのです。武術でいう、型を身につけていないのです(甲野さんは、私の師匠に付いて合気道の基本的な動きを習得しました。その意味で私の兄弟子です)。型を軽視したために、いろんな指導論指導技術が世に出てきました。型に帰る、型の再構築が大切だと思います。

私の大学院当時の同期生で、支援教育に携わる人がいます。彼は私の武術の弟子です。数年前から作業活動に「型」を組み込む指導を考えて、質問をしてきたり、意見を求めてきました。私の作った型論、上達論を紹介しました。学校で実施してみて彼なりの有効性を確認できたそうです。他地方の勤務ですが、全国に向けて発表をしています。嬉しいことです。

教育は「国家百年の大計」です。私のような「泡」でも日本の将来を危惧します。

是非全国に向けて刺激を発信してください。現場の私たちはそれを期待してます。



さまざまな論点があるでしょうが、ここでは


(1) 事なかれ主義
(2) 現場で活きる基本


についてのみ述べたいと思います。



(1) 事なかれ主義について

上記の研修却下の詳しい事情はわかりませんが、背景にはやはり「事なかれ主義」があるかと思います。「事なかれ主義」についてドラッカーは次のように述べます。


 あらゆる組織が、事なかれ主義の誘惑にさらされる。だが組織の健全さとは、高度の基準の要求である。自己目標管理が必要とされるのも、高度の基準が必要だからである。
 成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。優れているほど新しいことを試みる。(ドラッカー『マネジメント』145-146ページ。岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』ダイヤモンド社175ページに掲載)。


私は以前からドラッカーの著作のファンでしたのでこの『もしドラ』は特段読む必要もないだろうと思っていましたが、私が敬愛する(別の)先生が薦めてくれたので読みました。娯楽性もありドラッカーの入門書としてはいいかと思います。

ドラッカーの言葉をそのまま引用しましたが、上記の先生の話に戻りますと、その先生はとても力量のある先生ですから、研修願いで「まちがいや失敗」をおかすようなおそれはまったくありません。しかしそれでも却下されるということは、組織の上層部に「事なかれ主義」が蔓延しているのではないかと思わされます。

私とて組織の上層部を目の敵にしているわけではありません(「国家権力」といえば「悪」と断定していた昔の左翼的短絡の誤りを繰り返したくはありません)。しかし組織の上層部というのは、とかく現場を知らず(あるいは知ろうとせず)に書類上の整合性ばかりを気にします。

もちろん組織の上層部でおよそ良心的に仕事をなさっている方がいるのも存じています。しかし私が山本七平(1987)『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫) (2006/2/18)の紹介記事でまとめたような文化は今でもまだ日本の官僚組織文化に残っているのではないかという疑念を私はぬぐい去ることができません。ここでいう「事なかれ主義」には、そういった文化の「事大主義」、「員数主義」、「私物命令」が絡んでいるように私には思えます。


事大主義:「大に事(つか)える主義」。権力者の言うことには(少なくとも表面上)無批判に従い、弱い立場の人間には理不尽・無礼な態度さえも取る行動様式。第三者から見るとこの態度豹変は異常とまで感じられるが、事大主義者にとっては、大に仕え、小を蔑むという原則は一貫している。

員数主義:「員数」とは本来は、物品の数を意味するだけであり、「員数検査」とは、一般社会での「棚卸し」と同じことであるが、帝国陸軍では、この員数検査が非常に形骸化し、実質はともかく書類の上で員数が合っていればよいという傾向が強くなった。「数さえ合えばそれでよい」が、員数主義の基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義が員数主義の基本となった。したがって「員数が合わなければ処罰」から、「員数さえ合っていれば不問」といった実質軽視・現実逃避の悪しき形式主義が跋扈した。

私物命令:命令が本来あるべきように、系統的に上から末端まで下がってくるのではなく、ある上官個人が命令権を私有化し、その私有化に基づいて恣意的に下す命令。帝国陸軍では小さなレベルから大きなレベルに至るまで私物命令が横行したと言われている。

気魄誇示:ヒステリカルな強がり演技によって他人に影響を与えること。帝国陸軍では芝居がかった大言壮語とジェスチャ、ひどい場合は罵詈讒謗の連発を行う者がしばしば影響力を持つようになった。敗戦が色濃くなった末期には、本来、冷静な判断をしなければならない師団長なども、このような「気魄誇示屋」に心理的に依存してしまい、自分の専門分野にも「気魄誇示屋」の介入を許すようにして自らの本来の職務から逃避した。


「気魄誇示」はとりあえず現代の「事なかれ主義」からは除去して考えますが、この「気魄誇示」も、「事なかれ主義」を実行する組織人の上に立つ「外部委員会」を含めた上部組織、あるいはマスコミやブログなどのメディアに横行しているのかもしれません。俗耳に入り易い単純なフレーズを繰り返し続け、複合的な現場で必要とされる一筋縄ではいかないような微妙な判断を否定します。

ともあれ「事なかれ主義」は、組織の最上層部だけを気にして(=「事大主義」「ひらめ」)、書類上の整合性だけを問題にして書類の規格から外れるようなことはとにかく拒否し(=「員数主義」「形式主義」)、場合によっては法律上認められた権利もあれこれと圧力をかけてつぶします(=「私物命令」「パワハラ」)。こういった上層部の「事なかれ主義」ほど、現場の最前線の「意欲を失わせ、士気を損なう」ものはないことはドラッカーの言葉を待つまでもないでしょう。

組織の上層部にいる人は、見識と胆識をかわれてその地位についたものだと思います(上司へのこびへつらいでその地位についたとは思いたくありません)。それなのに上層部が見識や胆識どころか常識さえわきまえていないような言動をするなら、それは恥ずべきことです。

地位にふさわしくない「事なかれ主義」を他人の中、あるいは自分自身の中に見出したら、少なくともそれを軽蔑しましょう。それだけはできるはずです。そして後は、とにかくやれることをやってゆきましょう。




(2) 現場で活きる基本について

大学四年間の教育を受けたら一人前の教師ができあがっているかといえば、残念ながら(よほどの例外を除けば)そんなことはありません。修士課程の二年間を足したとしても事態はあまり変わらないでしょう。もちろん物事を理論的に把握する訓練は大学院ではつけられますが、いかんせんその中身である現場の知が自らの身体に体得されてなければ教員として一人前にはなれません。

現場には現場でしか学べないことがあります。現場には若い人にある程度の即戦力を期待しながらも、それ以上に若い人を育てるだけの余裕と器量がなくてはなりません。

若い人を育てるには指針や道筋が必要です。「技は盗むもの」には一面の真理はありますが、他方それは指導する者の努力不足・理論的理解の欠如を正当化することばでもあります。

それではその指針や道筋、つまりは理論とは何か。冒頭の私の敬愛する先生は、ご自身が武術の鍛錬を長きにわたってなさっていることもあり「武術でいう、型」と表現しています。

その「型」とは、学会で喧伝される「理論」とどう違うのか。ここではごく簡単に説明します。

現在、学会で喧伝される実践上の「理論」の多くは、一つの方法(「技」)を定式化・標準化し、その有効性を、実験計画と平均点による平準化を経て、20分の1以下の確率という裏付けを得て「証明」したものです。

もちろんその結果は、その手続通りにやった結果なのでしょうが、実践ということからすれば、自らの状態・生徒の状況・学校の背景などにより数多に「技」を解体して変幻自在にそれを活用しなければなりません。しかし学会の「理論」の「技」はあくまでも一定の形に標準化した方法を、「どこでもない」ように特徴を消された状況の中で行えば、おそらく確率計算では珍しいよい結果がでるだろう、というものです。「技」の術理・理合を自らの身体に染み込ませ、臨機応変に技を使いこなすことを学会の理論は教えてくれません。

しかし武術の「型」とは、自らは武術をしない者がまとめた理論ではなく、自ら武術を行う者が体得する中で編み出された身心のあり方です。もちろん武術の「型」だけが、実践の導きとなるといった夜郎自大的な妄言を呈するつもりはありませんが、近代の実践者は、武術文化から学ぶことは大きいと思います。

武術の「型」について黒田鉄山先生は次のように述べます。


 本質的な武術の追求とは、求心的な理論的稽古法をいう。
 強さを目標におくのはいっこうに構わないが、その前にまず自身の身体が術技的に基礎的な働きをもつことが先決であろう。その稽古の核心となるものは、型である。その武術の核心ともいうべき型の追求そのものによって、武術的な周辺の諸問題はおのずと解決されていくのではないだろうか。いや、そのためにこそ型はあるのだ。
 型とは、安易な目先の優劣強弱を排除するためにあると言ってもいい。相対的な強弱を競いあう闘争の場における複雑多岐な諸問題を克服することも可能なのではないか。そこからさらには絶対的強弱論に到達することが武術の本旨ではないだろうか。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、18ページ)


「型」とは、当座目に付く外面的・相対的現象の奥にある技能の核心という抽象的なものでありながら、他方、自らの身心に獲得する具体的なものであるわけです。

「技」についてはこのように述べます。ある外見的に標準化された動きという意味での「技」を追求するのではなく、「動けばそれが技である」といった質的な意味での「技」を追求するのが武術というわけです。


 ここで、いわゆる技という語について考えなければならない。さきに「眼に見えぬ技」という言葉を使った。一般的には「技」という言葉の概念は、攻防におけるある定型化された動きの様式そのものを意味する。
 しかし、そのように個々の動き方、つまり一個一個の型をすでに技であると認識すると、動けば技になるなどという時の技とは意味がまったく異なったものとなってしまう。型で教えているここの動きの形態そのものを技であると認識することによって、動きのすべてが「技」と呼べるような質の転換は非常に起きにくいか、もしくは起こりえない。
 技というものは、動きの質を言い表す言葉ととらえたい。私に伝えられた「技」は型によって得られるもので、形としては見えないものである。その観点からは、型における形態的なもの、動きの手順そのものには何の意味もないとさえ言える。
 技、すなわち術技と呼べるほどのものは、じつは眼に見える形としては存在していないのだ。型によって、動きの質が変わり、動き方そのものが理論化されて、初めてそこに動いた時に「技」として存在するのである。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、28ページ)


つまり眼に見える行動の標準化された様式や手順を「技」として認識するのではなく、行為の理合・原理的理解に基づく感覚・判断・行動のあり方を「技」と認識することにより、行為の質的転換が可能になり、通常では不可能なことも可能になるというわけです。

そういった理合・原理は、しばしば常識ではおよそ困難で両立不可能なような事柄を要求します(詳しくは述べられませんが例えば武術の「無足の足」では「足で床を蹴らずに歩をすすめる」など)。「型」が要求するその難問を嫌う人は、当座できる通俗的な行動でごまかします。ごまかすから当座はしのげますが、長期的には上達しません。長期的に上達するためには、短期的に「できないこと」をごまかさないこと(=「下手な稽古」)が必要です。小成を求めて大成を逃す「駄目な稽古」「万年稽古」をしてはならないのです。


 できないこと、それが駄目なことを意識して、静かに稽古を重ねるのである。これを「下手な稽古」という。下手な稽古には上達の道が拓けているが、自分の身体が動かぬことを認識せずに、悪しき日常動作のまま自分勝手に動くものにはそれがない。それは万年稽古と言い、いつまで経っても駄目なままで、術技は上がらない。いくら太刀や竹刀の操作が敏速、俊敏になっても、それは運動競技的価値判断に基づくものであって、ただそれだけでは無であることに変わりはないのだ。
 意念、意思によって身体の動かぬ所を働かせようとすれば、同じ人間でも、その稽古内容の次元が大きく変る。「下手」と「駄目」との差は、自覚的にも他覚的にも比べようのないほど大きなものである。正しい方向づけを意識するからこそ、極めて静かな稽古というものが重要な意味をもってくるのである。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、99-100ページ)


目の前にある問題をとりあえずしのぐことは人情であり日常であるといえましょうが、それを続けていれば本格的に上達は望めません。ですから初心者にはすぐに結果を求めるようなこと(「駄目な稽古」)をさせず、ゆっくりと本質的な理解の体得への試行錯誤(「下手な稽古」)を重ねさせることが先人の義務となります。初心者はその与えられた猶予の中で素直に自らを変容させる必要があります。その困難な変容のための指針・道筋を示すものであり、規矩となるのが「型」という理論です。


 自身で矯正するのは、容易なことではないが、それが可能なのは型という理論があるからである。思いつくままに気儘に薙刀を振り込んでみても、生まれるのはそこで養成された筋力に見合った即物的な速さ、体力でしかない。身体が理論的に動かぬうちは、工夫などいらない。それは工夫ではなく、我である。必要なのは、その難しさを難しさとして受け入れることのできる柔軟な素直さである。まぐれ勝ちを忌避し、排斥することのできる術への探究心である。(黒田鉄山(2000)『気剣体一致の「改」』BABジャパン、197ページ)


武術の稽古とはこのようにして物事の理合・原理を探究し、獲得しようとすることです。そのような意味での武術とは「学問」であると黒田先生は述べます。


 相手の武力を制するばかりでなく、自分の我意我慢、怯懦(きょうだ)、粗暴乱雑を律し、おこないを糺(ただ)し、人格を陶冶することのできる武術というものは、それはすでに学問として存在する。(黒田鉄山(2004)『気剣体一致の「極」』BABジャパン、45ページ)


世の中の多くの事柄が制度化されてしまった現在、「学問」といえば学会や大学が公認した活動と一般に思われがちですが、人の世が「学問」を尊重するのは、それがよき社会・よき人々をもたらすからでしょう。学会や大学による制度化というのは一種の方便であって、学問の本質ではありません。そういった意味で、現場こそ学問するには最適な場であり、現場ほど学問を必要としている所はないと言えるでしょう。学会や大学は―特に教員養成などという実践的な分野に関する学会や大学は―現場に奉仕し現場を援助するものでなければいけません。学会や大学では通るが、現場では通らない理論など、そもそもその理合自体が疑わしいものです。表面的・短期的な意味でなく、本質的・長期的な意味で「できねば無意味」です。

私も今後とも、上記の先生のように優れた実践者のお話に耳を傾け、言動・立居振舞を観察し、現場で生きる「型」「上達論」を明らかにしてゆきたいと思います。

本日は、その方向性の(再)確認まで。おそまつ。












Go to Questia Online Library



【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2011年1月10日月曜日

武術的授業?

昨年末に「随時随処で諸縁を活かす通じた身体となりたい」と書きながらも、締切の過ぎた原稿を抱え、善意の年賀状にもお返事をまだ出さずと、まったくもって諸縁を活かすことができないありさまです。しかしそれだからこそ「諸縁を活かす」というのを願としてゆきたいと思います。

さて昨年からやり残している宿題が達セミ(英語教育達人セミナー)関係で、その一つが昨年末(12/25土曜日)に広島市で開かれた達セミ報告です。ここでは以下にその達セミ報告をします(あと四つの宿題、誠に申し訳ありません。今日はまだご勘弁を)。



■西山正一先生(鳥取県)の職人的仕事

西山先生は、ビンゴ活動に長年改善工夫をされております。私は西山先生のセミナーに参加するのは二回目ですが、前回よりもまた大きく改善されていました。

大きく改善といっても、これはエクセルがあればできることです。しかし西山先生は部分的改善を徹底的に図り、非常に合理的で使いやすいシステムを作っています。こういった一つのことを誠心誠意改善してゆくというのは、日本文化の特徴の一つかとも思います。こういった職人的仕事を私も少しでも真似してゆきたいと思います。



■胡子美由紀先生(広島県)と岡田栄司先生(徳島県)の武術的授業(?)

胡子先生と岡田先生の授業については、「武術的」という言葉でまとめてみたいと思います(すみません、今個人的に武術が面白くてたまらないものでw。でもこんな破天荒な比喩は紀要はおろか商業原稿でも書かせてくれないから、ブログで書くしかないのよ。Free (=自由・無料)の媒体って素敵www)。

「武術」というのは、(私たちが通常親しんでいる)近代的身体操法と比べて以下の特徴を有する身体操法だとここでは暫定的に定義します。


(1)一部の使いやすい筋肉だけを使うのでなく、全身の筋肉および骨格構造を協調的に連動させて使う。可能なかぎり相手の全身も活用する。

(2)我意に囚われず、その時その場の機縁を可能なかぎり最大化する。


なぜ通常の身体操法でなく、ことさらに武術を取り上げるかといいますと、武術の身体操法ですと、通常の身体操法ではとても勝てないような大きな相手にも勝てるからです。

(1)でしたら、普通は自分が使いやすい一部の筋肉だけ使って運動をしますが、それですとその筋肉がすぐに疲れますしまた運動も単調に非常になりますので相手にもすぐその動きが読まれます。しかし武術的動きですと、全身の筋肉・骨格を少しずつ使いますから疲れにくい運動となります。さらに協調的に連動して使いますので、動きが刻々と変化して相手も対応しにくくなります(低いレベルでしたら腕相撲などでもこれは実証できます)。

(2)でしたら、「こうしなくてはならない」「このようにしてやろう」といった我意に囚われず、臨機応変に、その時その場にあるものはすべて活用しようとしますので、最小限の労力で思いも掛けない効果を生み出します。

このように武術的な動きは通常の動きよりも優れていますから、通常の期待を越える実効性をもつ授業を形容する言葉として「武術的」を使います。

「武術的授業」というのは、上記の特徴を敷衍させた特徴を有する以下のような授業だと定義します。


(1)'教師が慣れたパターンの説明を口舌だけで行うのでなく、全人格で知り得ている知識知恵を、全身の表現力を協調的に連動させて伝える。可能なかぎり学習者一人ひとりの全人格・全身を巻き込み、一人ひとりの違いを活かしながら教室全体を一つの大きな流れにする。

(2)'予めの教案に囚われず、その時その場で生じた機運・契機をできるだけ活用する



私の主張は、胡子先生や岡田先生の授業などは(他の優れた授業同様)、これら(1)'と(2)'の「武術的」な特徴を有しているというものです。

いくら私の最近の関心が武術だとはいえ、私とて達セミのセミナーを見ながら最初から武術と授業を類比させるつもりなどありませんでした。ですが両先生の授業ぶりを拝見していると、思わず「うまいなぁ。無理や無駄がなくて、まるで武術的だなぁ」と自らつぶやいてしまい、この類比を思いつきました。当日の私は両先生のデモンストレーションに見惚れており、あまりノートを取れませんでしたが、以下残っているノートをもとに、(1)'と(2)'の具体的な言動を記述してみます。私の関心は「誰が素晴らしい教師か」といった品定めにはありませんので、以下の記述は胡子先生と岡田先生(および全国にたくさんいらっしゃる先生)のものを区別せずに記しています。



●(1)'慣れた説明パターンだけでなく、全人格・全身で、自分と学習者一人ひとりと連なり、教室全体を一つの流れにする。

・一見すると教師がしゃべっているだけに思える場面でも、観察によるフィードバックが多い。教師の発言は一方的な説明や指示ではない。しゃべっているのは教師だけのように見えるが、しばしば教師は生徒の気持ちを代弁している。

・さらにツッコミを入れたり、さりげなく褒めたりして、この教室が何を目指しているかを随時示している。

・生徒に指示したら、その指示がきちんと理解されているかの確認をして、教室全体が協調的に連動するように常に心がける。生徒がペアでしゃべる時にはイスをしまわせるなどの具体的・身体的配慮も忘れない。

・ペアでの話を、教室全体に向けて再生させるなどにより、相手の話をよく聞き、教室全体によくわかるように話すことが自然に達成されるように活動を行う(ちなみにペアの相手の話を教室全体に報告すると、自然に三人称の表現が多用される)。

・ペア活動を授業で固定してしまったら、あまり乗り気でない生徒の相手となった生徒はずっと苦労するので、ペアは柔道の乱取りのようにどんどん相手を換えてゆく。

・教室全体での活動ではしばしば教師が、(まるで「踊るさんま御殿」の明石家さんまのように生徒一人ひとりの良さを活かすように司会する。「班で話す→班長が報告」という流れでも、班長や班員の表情を細かに観察し、時には報告が終了するのを待たずに、「わぁ、それ面白いなぁ、誰の意見?」と少し深く聞き直すなどをして、相互作用を深める。時には班員以外の生徒の反応にも着目し「うん、うなずいているなぁ」などと言って、その生徒の発言も促したりする。


●(2)'予定・予見に囚われず、機運・契機を活用する

・「シーンとした状況」なども、叱らずに「あら、今日は静かね」などと価値判断抜きにただ記述する。あるいは笑いにしてしまい、うまくいかない状況を叱責などでさらに悪化させることなく、その機運をうまく理解し活用させようとする。

・生徒の間違いも何もかも活用する。「○○か・・・そうだよね。よくそう考えてしまうんだよね。ありがとう。でも△△だから◇◇だよね。間違うとよく覚えられるよね」などとフォロー。

※補説:「できないこと」は生徒の常態。それは病気が患者の常態であるのと同じ。よい医者は、患者が病状を示すと「日頃の健康管理がなっていない!」などと説教することなく、冷静にその状態を見極め、その時点での最善の処方箋を示す。教師も生徒ができないことに対して否定的な評価をする前に、冷静に生徒の認知・心理状況を見極め、そこからの最善策を示すべき。医者にも教師にも、否定的な感情は本来必要ではない。


・生徒のいい作品はプリントにして配布するなどして、生徒の力を他の生徒にも波及させる。教師の力(=「使いやすい筋肉」)だけで授業を活性化させようとしない。

・活動時の決定や指示などでの無駄な時間がなく、うまく教室全体の流れを誘導し、流れが途絶えることを避ける。ランダムな指名でも「昨晩、一番遅くまで起きてた人」、「誕生日が近い人」など生徒の個人的関心を喚起するようなやり方で決定する。

・どうしても乗らない生徒(○○)がいる場合、例えばその時に"I think ... "の構文を習っているのだったら、「みんな、○○は何が好きか知ってるか?英語で言ってみようよ」などと他の生徒に英語での発言を促す。発言する生徒の中では(明らかに好みを知っている場合は除いて)"I think ... "という英語表現がまさに生きて使われる。次々に自分についての発言がなされるのを聞く○○もまんざらではない顔で聞き始める。後に○○も少しずつ授業に参加する態度を示し始める。




●「武術」「武術的授業」の前提

このように武術や武術的授業は、通常のやり方((=我意に囚われ、自分のやりやすいやり方だけしかせず、随時随処の機縁を活かさない)と比べてすぐれていますが、これまで通常のやり方しかやっていなかった人間が、いきなり武術や武術的授業の真似をしてもうまくゆきません(というよりかえって失敗するでしょう)。

武術でしたら以下のような前提が充たされている必要があります。


(a)武術の身心(例えば、正中線や丹田が常に活用されている身体)が日頃の稽古を通じてできている。

(b)武術の身心が日常生活の身心となり、行住坐臥において武術の身心を鍛錬する習慣ができている。(逆に言うなら、武術の身心は日常生活の身心でもあるぐらいに静かで力みのないものである)

(c)武術は人間が生きるためにあるということを理解している(武術は闘いの技法であるが、いたずらな殺傷が武術の目的ではない)。



類比的に「武術的授業」の前提を考えますと、次のようになるかと思います。


(a)'英語の身体が日頃の訓練を通じてできている。平易な内容なら、自分が教えるレベル(中学、高校、大学など)の英語で、ことさらの注意資源や意識を使うことなく、自然に(正確に)発話できる。

(b)'英語教師としての姿勢が授業以外でも保たれ、教室を出ての日常生活でも英語教育を改善する習慣ができている。(逆に言うなら、英語教師としての姿勢は日常生活の姿勢でもあるぐらいに平然とした驕りのないものである)。

(c)'英語学習は人間が生きるためにあるということを理解している(英語学習は得点につながるが、いたずらなテスト対策が英語学習の目的ではないことを熟知している)。



これらの前提が胡子先生や岡田先生においても充たされていることは、以下のような観察からも確認できました。

●(a)'教えるレベルの英語が体得されている

・教室での英語発言が、特別に意識せずとも常に正確な発音と文法および自然な表現で自由自在にできるため、生徒の観察ができる。このような基本的な「教室英語力」がついていないと、英語をしゃべることだけで精一杯で観察どころではない。観察ができるようになるためには、日頃から「教室英語力」(および授業準備)を万全にしておく

●(b)'英語教師のあり方が教室外でも生きている

・生徒の問題の多くが、「荒れ」と「しらけ」から来ているのではないかという経験的仮説に基づき、教室外での生徒観察・生徒理解に力を注ぐ。

・英語授業の目的の一つが「生徒にコミュニケーション力をつける」のだったら、人々の間で心をつなぐ「道徳・人権・学活」などと英語授業が直結していることを深く理解しその理解に基づき行動する。その他の日常生活でも「言葉が生きていること」が大事であることを徹底的に自覚しその自覚に基づき発言する。

・学校での観察だけではでは把握しがたい事柄はアンケートなどで掌握する。


●(c)'英語教育の目的がわかっている

・英語の学力をつけ(副産物としてテストの成績が上がること)、生徒のコミュニケーション力が高まることのさらに向こうには、生徒が人間として・社会人として自立することがあることを深く理解し、日頃の活動も究極のところではそこを目指すように方向付けを間違わない(「随時随処の機縁を活かす」ことも、根本の方向付けが定まっていないと、思いも掛けない方向に迷走するおそれがある)。

・「ペア活動のない授業は英語(言語)の授業ではない」(=人間関係を成立させることができず、表面的・形式的に英語構文を産出するだけの授業は、英語(言語)の授業とは言えない」という信念に基づいて授業を創り上げている。

・「リーディングはスピーキングのもとになる」(=リーディングで学ぶ表現は規範的表現(喩えるなら「楷書」)であり、即興のスピーキング(草書)を行う根本となる)など、英語教育の諸側面間の理解がきちんとなされている。




以上、胡子先生や岡田先生などの授業の様子を私なりに「武術的」という言葉を使って説明をしました。この文章が「武術」および両先生の実践に対して誤解という非礼をしていないことを切に願っています(私の錯誤はどなたでもご指摘ください)。

まあ、「武術的」という言葉を使わずとも、樫葉先生の言葉を借りるなら「いい授業が成立している時の教師の力はせいぜい20パーセント。あとの80パーセントは生徒の力によるもの」と一言で済むのかもしれませんが、私としては武術という西洋近代の思考法だけでは捉えがたい東洋の伝燈文化の力を借りることにより、少しは「新しい」(=伝燈文化を継承している人からすれば古くからのものだが、西洋近代だけに染まってしまった人からすれば斬新な)解釈ができるかと思い、ここに拙文をまとめました。


私の説明はさておき、「現場」―褒め言葉です!―の知恵は凄いなあと改めて思わされます。

このような出会いと学びを全国各地で実現させている達セミの谷口幸夫先生には改めて感謝の念を表します。












Go to Questia Online Library

【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor

2011年1月5日水曜日

椅子を換えたら姿勢が変わり、姿勢が変わると・・・

年始に腰が痛くなったので、運動を控えていました。腰痛体操などで少しずつ治ってきましたが、研究室の椅子に座って仕事をすると、立ち上がる時に腰痛がひどくなっていることが露骨にわかります。

あまりに露骨だったので、研究室の椅子を学生控室の回転椅子と交換してもらいました。

研究室の椅子は前任者からそのまま引き継いだもので、頭部までの高い背もたれとしっかりとした肘掛けをもつ高級タイプです。どっかと深く座り込むと思わず「ふぅっ」と声が出るようなものです(ただしクッションは固い)。

私はこの椅子を13年間ぐらい使ってきました。ですが仕事をする時にはどうもやりにくく、正座やあぐらで座っていましたが、正座はすぐに足がしびれますし、あぐらは肘掛けが邪魔でうまくかけません。まあそれでもずっと使ってきましたが、年始からの腰痛が、日常生活ではほとんど感じないぐらいに回復しているのに、この椅子に座って作業するたびに悪化するので、学生控室の回転椅子と交換してもらったわけです。

その回転椅子は通常よくあるもので、背もたれは私の背中半分ぐらいの高さしかなく、肘掛けはまったくありません。それほど高価なものとは思えません(しかしキャスターのついた脚は五本あるし、クッションもやや固めでしっかりとしたものなので、まったくの安物というわけではないでしょう)。

とりあえずその交換した椅子で正座で座りますと、腰がすーっとします。腰骨が立ち、背骨が垂直になり、まるで腰にまとわりついていた痛みの錆がはらはらと落ちるように腰回りがすっきりして身体的な快感さえ感じました。

あぐらをかいても、肘掛けで邪魔されないこともあり、無理なく腰骨が立ち立身状態になります。椅子を換えて一時間あまりは、身体的なスッキリ感を持続的に感じることができました(今これを書いているのは椅子を換えて半日後ですが、当初の劇的な身体的快感は減少したものの、やはり腰骨が立ち立身中正を保ちやすく、肩も落ちて気持ちがいいです。

こうして椅子を換えて姿勢が変わると、なんだか気持ちや意欲が変わってしまって、本日後半は仕事がはかどりました。この研究室には、前の椅子に座って、とにかく仕事をしなければならない日々の記憶や、うつ状態になって腕や肩など鉛が入ったような状態になっていた時の記憶がつきまとっていましたが、すっかりその記憶が身体から抜けたようです(認知的にはこのように想起できるのですが、身体的に想起しにくくなりました)。前の椅子に座るときにはほぼいつも「ふぅっ」「あぁ」「よいしょ」「どっこいしょ」といったように座り込んでしまい、座った途端になぜか疲れが出たような気がしていましたが―そしてそれを私は当たり前のことだと思っていましたが―、それも今の椅子ではありません(本日は椅子交換で、そういった倦怠感が急に消えたわけですから、今日の私の体調がいいから気分がいいわけではないでしょう)。腰痛についても新しい椅子では悪化するということは一切ありません。これもありがたい。今日の前半には、椅子から立ち上がる度に「あたたたた」と小さくうめいていましたから。

また私としては少し驚いたことに、別に正座やあぐらで座らずとも、この椅子でしたら普通に座って、腰骨を立てて背筋をすっと上に伸ばし、背もたれをほとんど使わずにいるだけで楽です。体躯と腿、腿と脚がそれぞれ直角になり、足の裏もぴったりと床についている姿勢が気持ちいいです。そういえば桜井章一先生はある講演会で、「麻雀が下手な奴は座っていても踵が浮いた座り方をしている」と仰っていましたが、今はその意味が実感できます。体躯と脚が垂直に、腿と足が水平になり、足の裏がぴったりと床に着くと落ち着きますし静かな気持ちになれます。

前の椅子のような「高級」椅子、あるいは「お大臣タイプ」の椅子は、深くどっかりと座りしばらくは楽なようになりますが、腰が固定されてしまうので腰痛に悪いのかもしれません。その点、正座やあぐらでは腰骨を立てなければならないので、多様な腰の筋肉を微妙に使うからかえって腰痛にならないのでしょうか。あるいはこの椅子での背もたれをほとんど使わずに垂直水平を活かした座り方をしておいても同じです。背もたれを使わないのは疲れそうですが、私にとってはこちらの方が楽で気持よく腰痛にもいいです(これには私がわずかなりとも武術の稽古をして立身中正や正中線などを意識することを学び、その姿勢を保つための腰の筋肉も少しついたことも関係しているかもしれません)。

前の椅子は、仕事の際は、どっかりと座って体躯を背もたれに後傾させて、腕を無理に伸ばすようにして作業をしてしまいがちでした。あるいは集中すれば逆に体躯をかなり前傾して作業していたようにも思います。いずれにせよ前の椅子では垂直水平は保たれにくいようになっていました。

ここからはさらに推測を重ねますが、ひょっとしたら私の疲労感やうつ感情も、前の椅子がもたらす姿勢によってかなり引き起こされていたのかもしれません。少なくとも腕肩の無理な緊張や、内蔵の圧迫が長時間続いて身心によい影響があるとも思えません。

武術家や演説家などは、立身中正を保ち、正中線を立てることの重要性を説きます。「大げさな」と思われるかもしれませんが、彼らによるなら、緊張状態の中で呼吸と心を静かに保ち、するりと身体が動くようにするためには、垂直・水平方向への意識を高め、身体を垂直・水平を活かした姿勢と動きで使うことが何より重要となります。

姿勢の重要さはマラソンで考えたらわかりやすいかもしれません。40キロ以上を走る二時間余りの間、歪んだ姿勢で走ったらどうなるでしょう。きっと呼吸はしにくく疲労が加速し、腰や膝や足首なども痛めて、タイムも遅くなってしまうでしょう。だからマラソン選手は、他のスポーツ選手同様、フォームを大切にします。

事務仕事をする私たちは、少なくとも時間の上では、マラソンの数倍の時間を毎日座って過ごします。この間、歪んだ姿勢で仕事をすれば、呼吸は滞り脳に本来送ることができる酸素や血液も送ることができず、一部の内蔵は圧迫され機能が停滞し、首肩腰などに猛烈な凝りを覚えるでしょう。できるだけ疲れずに、効率よくかつ冷静に仕事をするにはフォーム、つまりは姿勢が大切です。

ましてや事務仕事は何十年と続きます。自ら気づくことなく、何十年と悪い姿勢をし続け、仕事や人生なんてこんなものだと思ってしまう人の損失はいかばかりのものでしょう。

私は以前から姿勢のことには関心がありましたので、ある学校の助言者になった時に、生徒の基本的生活習慣の一つとして、姿勢の指導はどうなっているかを評議会に出席していたその学校の体育の先生に聞いたことがあります。その会の討論の一連の流れから、他の助言者にはその質問の意義は共感的に理解してもらえましたが、答えるハメになった体育の先生は、基本的に自分は様々な競技スポーツを指導することを職務としていると答えるだけにとどまりました。

しかし日常生活の姿勢や動作が崩れていて、競技スポーツだけ上達するというのもちょっと考えにくいことですし、仮にその競技で勝ちを収めても、その勝利はその競技から引退すれば意義を失うものとすら言えるかもしれません。言うまでもなく、競技をしている時間と、競技をしていない日常の生活の時間は、圧倒的に後者の方が長いのですから、学校教育の「体育」が目指すべき目的は日常生活の姿勢や動作の機能的な優美さだと私などは素人考えをします。

いや、昔の日本でしたら学校に任せずとも、日常生活で立居振舞について厳しく言われ、周りも合理的に身体を使った生活をしていましたから、機能的で優美なという意味で「正しい」姿勢と動作が自ずから身についたのではないかと想像します。

もしかすると明治の大改革を可能にしたのは、そのような日本人の身体作法―およびそれが生み出す活気と知恵―であり、第二次大戦後の復興を可能にしたのもまだ残っていた身体文化だったのかもしれません。

しかしどうやら現代の私たちはどうやらその身体的伝統文化の多くを失ってしまったようです。そうなると「第三の開国」の喫緊の課題の一つは、常日頃の身体操法の質を高めることとすら言えるかもしれません。

単に椅子を換えた話題から、第三の開国まで話題を飛躍させるのは、誇大妄想的無責任ブログ文章の一つの典型ですが(笑)、気になったので書き連ねました。まあせめてこれを機に、私なりに、今までのひどい姿勢や動作について自覚を高め、少しでもそれらを改善しようと思います。

おそまつ。



追記
この記事の主張に賛同してくれた私の友人が愛用している椅子は、これだそうです(色違いのものもあるようです)。私もこういった椅子が仕事には一番合理的だと思います。

さらにその友人は、「腰骨立ての時間」に象徴される基本的な生活習慣を重視する弥生小学校のことも教えてくれました。

この小学校の取り組みを生徒指導に活かしているのが博多中学校ですが、そこでは昔日の元服や裳着に倣った立志式というのを行うそうです。こうしてみると日本の伝燈―語本来の意味は「仏の法燈(仏の心)を受け継ぎ伝えていく事」なので、「伝統」ではなく「伝燈」と書くべきだと先日習いました―はまだまだ全国各地で生きているようですね。(ちなみに私は「腰骨を立てる」という表現はこの博多中学校で学びました)。

この博多中学校の近所は、博多山笠で有名な地域です。こういった記事などを読むと、地元の祭というのが、子どもの成熟・若者の成長にものすごく大きな貢献をしていることがよくわかります。地域の教育力は、家庭や学校の教育力と同じように強調されるべきかと思います。言うまでもありませんが、学校だけが子どもを教育しているわけはありません。学校だけに子どもの教育を任せるのは、度を超えた期待と言えましょう。









Go to Questia Online Library



【広告】 教育実践の改善には『リフレクティブな英語教育をめざして』を、言語コミュニケーションの理論的理解には『危機に立つ日本の英語教育』をぜひお読み下さい。ブログ記事とちがって、がんばって推敲してわかりやすく書きました(笑)。


【個人的主張】私は便利な次のサービスがもっと普及することを願っています。Questia, OpenOffice.org, Evernote, Chrome, Gmail, DropBox, NoEditor