昨年の夏期休業ですが、私は自宅研修を却下されました。冗長な文になりますが、現場はこうだ、ということを知っていただきたく書きます。
私の場合、ビデオ、MDなどに収録した過去の授業での生徒の発表記録をデジタル化することを計画。今教えている3年に発表の実際を見せようと考えました。今の学校に転勤してきて2年。卒業生の作品が何も残っていない状態。生徒は無気力、英語嫌い、と負の連鎖です。同じ市内の中学生がこんなことをしている、というのを見せて刺激になれば、と思っていたのですが許可が下りませんでした。理由は、「職場でできない仕事はない」でした。ビデオテープのカメラで収録したものは再生機が職場には無い。MDはついているデッキが無い。作業に必要な器材が何もない職場。「自分の器財を職場に運び込んだらできる」という応え。
耐震工事とエアコン設置工事で埃、騒音がひどく、唯一使える職員室に長時間いることすら無理ということを知っての言葉。一気にやる気を失いました。必要なことだけをちょこっとして休暇を取って帰る、この繰り返しをした夏です。
このとき、コンクリートの埃がすごく、机の上が真っ白。その中で仕事をするのは、滝行をする行者に似た苦行でした。違うのは、行者は自然界のなかで自己の心身を清めますが、私の場合は心身を汚す環境で時を過ごした点です。(このとき1日中職員室にいた先生は気管支を病みました。)自前の機材を持ち込むのはやめました。手間も大変ですが、それにもまして、埃で故障しても保証してもらえませんからね。で、休暇を取って自宅で作成しました。
機材も何も使えない状況なのに、コンピュータ関係の教材と指導が「できたか」と訊いてくる。作成したのに使えないと言うと、無言。これが○○の最底辺の学校の現状です。かなりの時間を費やして教材を作ってもそれを使えないのが残念です。
この辺り、「できねば無意味」と甲野さんが言った武術の世界で生きてきた私には歯がゆいのです。若手には授業で使うハンドアウトを渡して共有してもらっていますが、そろそろこちらがもらって打診される立場に立ちたいと密かに願っています。
○○の低学力の現状は深刻です。小学校ですでに授業崩壊、学級崩壊が進んでいるのです。若い教師達は自分の中に指針、寄る辺を持つ者がほとんど無く、流行りのものに与するのです。武術でいう、型を身につけていないのです(甲野さんは、私の師匠に付いて合気道の基本的な動きを習得しました。その意味で私の兄弟子です)。型を軽視したために、いろんな指導論指導技術が世に出てきました。型に帰る、型の再構築が大切だと思います。
私の大学院当時の同期生で、支援教育に携わる人がいます。彼は私の武術の弟子です。数年前から作業活動に「型」を組み込む指導を考えて、質問をしてきたり、意見を求めてきました。私の作った型論、上達論を紹介しました。学校で実施してみて彼なりの有効性を確認できたそうです。他地方の勤務ですが、全国に向けて発表をしています。嬉しいことです。
教育は「国家百年の大計」です。私のような「泡」でも日本の将来を危惧します。
是非全国に向けて刺激を発信してください。現場の私たちはそれを期待してます。
さまざまな論点があるでしょうが、ここでは
(1) 事なかれ主義
(2) 現場で活きる基本
についてのみ述べたいと思います。
(1) 事なかれ主義について
上記の研修却下の詳しい事情はわかりませんが、背景にはやはり「事なかれ主義」があるかと思います。「事なかれ主義」についてドラッカーは次のように述べます。
あらゆる組織が、事なかれ主義の誘惑にさらされる。だが組織の健全さとは、高度の基準の要求である。自己目標管理が必要とされるのも、高度の基準が必要だからである。
成果とは何かを理解しなければならない。成果とは百発百中のことではない。百発百中は曲芸である。成果とは長期のものである。すなわち、まちがいや失敗をしない者を信用してはならないということである。それは、見せかけか、無難なこと、下らないことにしか手をつけない者である。成果とは打率である。弱みがないことを評価してはならない。そのようなことでは、意欲を失わせ、士気を損なう。人は、優れているほど多くのまちがいをおかす。優れているほど新しいことを試みる。(ドラッカー『マネジメント』145-146ページ。岩崎夏海『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』ダイヤモンド社175ページに掲載)。
私は以前からドラッカーの著作のファンでしたのでこの『もしドラ』は特段読む必要もないだろうと思っていましたが、私が敬愛する(別の)先生が薦めてくれたので読みました。娯楽性もありドラッカーの入門書としてはいいかと思います。
ドラッカーの言葉をそのまま引用しましたが、上記の先生の話に戻りますと、その先生はとても力量のある先生ですから、研修願いで「まちがいや失敗」をおかすようなおそれはまったくありません。しかしそれでも却下されるということは、組織の上層部に「事なかれ主義」が蔓延しているのではないかと思わされます。
私とて組織の上層部を目の敵にしているわけではありません(「国家権力」といえば「悪」と断定していた昔の左翼的短絡の誤りを繰り返したくはありません)。しかし組織の上層部というのは、とかく現場を知らず(あるいは知ろうとせず)に書類上の整合性ばかりを気にします。
もちろん組織の上層部でおよそ良心的に仕事をなさっている方がいるのも存じています。しかし私が山本七平(1987)『一下級将校の見た帝国陸軍』(文春文庫) (2006/2/18)の紹介記事でまとめたような文化は今でもまだ日本の官僚組織文化に残っているのではないかという疑念を私はぬぐい去ることができません。ここでいう「事なかれ主義」には、そういった文化の「事大主義」、「員数主義」、「私物命令」が絡んでいるように私には思えます。
事大主義:「大に事(つか)える主義」。権力者の言うことには(少なくとも表面上)無批判に従い、弱い立場の人間には理不尽・無礼な態度さえも取る行動様式。第三者から見るとこの態度豹変は異常とまで感じられるが、事大主義者にとっては、大に仕え、小を蔑むという原則は一貫している。
員数主義:「員数」とは本来は、物品の数を意味するだけであり、「員数検査」とは、一般社会での「棚卸し」と同じことであるが、帝国陸軍では、この員数検査が非常に形骸化し、実質はともかく書類の上で員数が合っていればよいという傾向が強くなった。「数さえ合えばそれでよい」が、員数主義の基本的態度であって、その内実は全く問わないという形式主義が員数主義の基本となった。したがって「員数が合わなければ処罰」から、「員数さえ合っていれば不問」といった実質軽視・現実逃避の悪しき形式主義が跋扈した。
私物命令:命令が本来あるべきように、系統的に上から末端まで下がってくるのではなく、ある上官個人が命令権を私有化し、その私有化に基づいて恣意的に下す命令。帝国陸軍では小さなレベルから大きなレベルに至るまで私物命令が横行したと言われている。
気魄誇示:ヒステリカルな強がり演技によって他人に影響を与えること。帝国陸軍では芝居がかった大言壮語とジェスチャ、ひどい場合は罵詈讒謗の連発を行う者がしばしば影響力を持つようになった。敗戦が色濃くなった末期には、本来、冷静な判断をしなければならない師団長なども、このような「気魄誇示屋」に心理的に依存してしまい、自分の専門分野にも「気魄誇示屋」の介入を許すようにして自らの本来の職務から逃避した。
「気魄誇示」はとりあえず現代の「事なかれ主義」からは除去して考えますが、この「気魄誇示」も、「事なかれ主義」を実行する組織人の上に立つ「外部委員会」を含めた上部組織、あるいはマスコミやブログなどのメディアに横行しているのかもしれません。俗耳に入り易い単純なフレーズを繰り返し続け、複合的な現場で必要とされる一筋縄ではいかないような微妙な判断を否定します。
ともあれ「事なかれ主義」は、組織の最上層部だけを気にして(=「事大主義」「ひらめ」)、書類上の整合性だけを問題にして書類の規格から外れるようなことはとにかく拒否し(=「員数主義」「形式主義」)、場合によっては法律上認められた権利もあれこれと圧力をかけてつぶします(=「私物命令」「パワハラ」)。こういった上層部の「事なかれ主義」ほど、現場の最前線の「意欲を失わせ、士気を損なう」ものはないことはドラッカーの言葉を待つまでもないでしょう。
組織の上層部にいる人は、見識と胆識をかわれてその地位についたものだと思います(上司へのこびへつらいでその地位についたとは思いたくありません)。それなのに上層部が見識や胆識どころか常識さえわきまえていないような言動をするなら、それは恥ずべきことです。
地位にふさわしくない「事なかれ主義」を他人の中、あるいは自分自身の中に見出したら、少なくともそれを軽蔑しましょう。それだけはできるはずです。そして後は、とにかくやれることをやってゆきましょう。
(2) 現場で活きる基本について
大学四年間の教育を受けたら一人前の教師ができあがっているかといえば、残念ながら(よほどの例外を除けば)そんなことはありません。修士課程の二年間を足したとしても事態はあまり変わらないでしょう。もちろん物事を理論的に把握する訓練は大学院ではつけられますが、いかんせんその中身である現場の知が自らの身体に体得されてなければ教員として一人前にはなれません。
現場には現場でしか学べないことがあります。現場には若い人にある程度の即戦力を期待しながらも、それ以上に若い人を育てるだけの余裕と器量がなくてはなりません。
若い人を育てるには指針や道筋が必要です。「技は盗むもの」には一面の真理はありますが、他方それは指導する者の努力不足・理論的理解の欠如を正当化することばでもあります。
それではその指針や道筋、つまりは理論とは何か。冒頭の私の敬愛する先生は、ご自身が武術の鍛錬を長きにわたってなさっていることもあり「武術でいう、型」と表現しています。
その「型」とは、学会で喧伝される「理論」とどう違うのか。ここではごく簡単に説明します。
現在、学会で喧伝される実践上の「理論」の多くは、一つの方法(「技」)を定式化・標準化し、その有効性を、実験計画と平均点による平準化を経て、20分の1以下の確率という裏付けを得て「証明」したものです。
もちろんその結果は、その手続通りにやった結果なのでしょうが、実践ということからすれば、自らの状態・生徒の状況・学校の背景などにより数多に「技」を解体して変幻自在にそれを活用しなければなりません。しかし学会の「理論」の「技」はあくまでも一定の形に標準化した方法を、「どこでもない」ように特徴を消された状況の中で行えば、おそらく確率計算では珍しいよい結果がでるだろう、というものです。「技」の術理・理合を自らの身体に染み込ませ、臨機応変に技を使いこなすことを学会の理論は教えてくれません。
しかし武術の「型」とは、自らは武術をしない者がまとめた理論ではなく、自ら武術を行う者が体得する中で編み出された身心のあり方です。もちろん武術の「型」だけが、実践の導きとなるといった夜郎自大的な妄言を呈するつもりはありませんが、近代の実践者は、武術文化から学ぶことは大きいと思います。
武術の「型」について黒田鉄山先生は次のように述べます。
本質的な武術の追求とは、求心的な理論的稽古法をいう。
強さを目標におくのはいっこうに構わないが、その前にまず自身の身体が術技的に基礎的な働きをもつことが先決であろう。その稽古の核心となるものは、型である。その武術の核心ともいうべき型の追求そのものによって、武術的な周辺の諸問題はおのずと解決されていくのではないだろうか。いや、そのためにこそ型はあるのだ。
型とは、安易な目先の優劣強弱を排除するためにあると言ってもいい。相対的な強弱を競いあう闘争の場における複雑多岐な諸問題を克服することも可能なのではないか。そこからさらには絶対的強弱論に到達することが武術の本旨ではないだろうか。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、18ページ)
「型」とは、当座目に付く外面的・相対的現象の奥にある技能の核心という抽象的なものでありながら、他方、自らの身心に獲得する具体的なものであるわけです。
「技」についてはこのように述べます。ある外見的に標準化された動きという意味での「技」を追求するのではなく、「動けばそれが技である」といった質的な意味での「技」を追求するのが武術というわけです。
ここで、いわゆる技という語について考えなければならない。さきに「眼に見えぬ技」という言葉を使った。一般的には「技」という言葉の概念は、攻防におけるある定型化された動きの様式そのものを意味する。
しかし、そのように個々の動き方、つまり一個一個の型をすでに技であると認識すると、動けば技になるなどという時の技とは意味がまったく異なったものとなってしまう。型で教えているここの動きの形態そのものを技であると認識することによって、動きのすべてが「技」と呼べるような質の転換は非常に起きにくいか、もしくは起こりえない。
技というものは、動きの質を言い表す言葉ととらえたい。私に伝えられた「技」は型によって得られるもので、形としては見えないものである。その観点からは、型における形態的なもの、動きの手順そのものには何の意味もないとさえ言える。
技、すなわち術技と呼べるほどのものは、じつは眼に見える形としては存在していないのだ。型によって、動きの質が変わり、動き方そのものが理論化されて、初めてそこに動いた時に「技」として存在するのである。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、28ページ)
つまり眼に見える行動の標準化された様式や手順を「技」として認識するのではなく、行為の理合・原理的理解に基づく感覚・判断・行動のあり方を「技」と認識することにより、行為の質的転換が可能になり、通常では不可能なことも可能になるというわけです。
そういった理合・原理は、しばしば常識ではおよそ困難で両立不可能なような事柄を要求します(詳しくは述べられませんが例えば武術の「無足の足」では「足で床を蹴らずに歩をすすめる」など)。「型」が要求するその難問を嫌う人は、当座できる通俗的な行動でごまかします。ごまかすから当座はしのげますが、長期的には上達しません。長期的に上達するためには、短期的に「できないこと」をごまかさないこと(=「下手な稽古」)が必要です。小成を求めて大成を逃す「駄目な稽古」「万年稽古」をしてはならないのです。
できないこと、それが駄目なことを意識して、静かに稽古を重ねるのである。これを「下手な稽古」という。下手な稽古には上達の道が拓けているが、自分の身体が動かぬことを認識せずに、悪しき日常動作のまま自分勝手に動くものにはそれがない。それは万年稽古と言い、いつまで経っても駄目なままで、術技は上がらない。いくら太刀や竹刀の操作が敏速、俊敏になっても、それは運動競技的価値判断に基づくものであって、ただそれだけでは無であることに変わりはないのだ。
意念、意思によって身体の動かぬ所を働かせようとすれば、同じ人間でも、その稽古内容の次元が大きく変る。「下手」と「駄目」との差は、自覚的にも他覚的にも比べようのないほど大きなものである。正しい方向づけを意識するからこそ、極めて静かな稽古というものが重要な意味をもってくるのである。(黒田鉄山(1998)『気剣体一致の武術的身体を創る』BABジャパン、99-100ページ)
目の前にある問題をとりあえずしのぐことは人情であり日常であるといえましょうが、それを続けていれば本格的に上達は望めません。ですから初心者にはすぐに結果を求めるようなこと(「駄目な稽古」)をさせず、ゆっくりと本質的な理解の体得への試行錯誤(「下手な稽古」)を重ねさせることが先人の義務となります。初心者はその与えられた猶予の中で素直に自らを変容させる必要があります。その困難な変容のための指針・道筋を示すものであり、規矩となるのが「型」という理論です。
自身で矯正するのは、容易なことではないが、それが可能なのは型という理論があるからである。思いつくままに気儘に薙刀を振り込んでみても、生まれるのはそこで養成された筋力に見合った即物的な速さ、体力でしかない。身体が理論的に動かぬうちは、工夫などいらない。それは工夫ではなく、我である。必要なのは、その難しさを難しさとして受け入れることのできる柔軟な素直さである。まぐれ勝ちを忌避し、排斥することのできる術への探究心である。(黒田鉄山(2000)『気剣体一致の「改」』BABジャパン、197ページ)
武術の稽古とはこのようにして物事の理合・原理を探究し、獲得しようとすることです。そのような意味での武術とは「学問」であると黒田先生は述べます。
相手の武力を制するばかりでなく、自分の我意我慢、怯懦(きょうだ)、粗暴乱雑を律し、おこないを糺(ただ)し、人格を陶冶することのできる武術というものは、それはすでに学問として存在する。(黒田鉄山(2004)『気剣体一致の「極」』BABジャパン、45ページ)
世の中の多くの事柄が制度化されてしまった現在、「学問」といえば学会や大学が公認した活動と一般に思われがちですが、人の世が「学問」を尊重するのは、それがよき社会・よき人々をもたらすからでしょう。学会や大学による制度化というのは一種の方便であって、学問の本質ではありません。そういった意味で、現場こそ学問するには最適な場であり、現場ほど学問を必要としている所はないと言えるでしょう。学会や大学は―特に教員養成などという実践的な分野に関する学会や大学は―現場に奉仕し現場を援助するものでなければいけません。学会や大学では通るが、現場では通らない理論など、そもそもその理合自体が疑わしいものです。表面的・短期的な意味でなく、本質的・長期的な意味で「できねば無意味」です。
私も今後とも、上記の先生のように優れた実践者のお話に耳を傾け、言動・立居振舞を観察し、現場で生きる「型」「上達論」を明らかにしてゆきたいと思います。
本日は、その方向性の(再)確認まで。おそまつ。
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