2010年6月29日火曜日

文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート ― 「は」の文法的・機能的転移を中心に ―



以下は私がこの冬に書いたノートです。本来ならウェブ公開する前に、専門家にチェックしていただきたかったのですが、私が依頼した方がとても多忙で、私も催促するわけにもいきませんので、思い切ってここに後悔じゃなかった公開します。

このブログ記事には「概要」と「緒言」だけを掲載します。もしご興味があれば、下をクリックしてダウンロードしてください。
このノートに存在するかもしれない誤りを私は怖れます。もし誤りがあれば、ご指摘いただければ幸いです。

***

文法・機能構造に関する日英語比較のための基礎的ノート

「は」の文法的・機能的転移を中心に

英語文化教育学講座 柳瀬陽介

概要

 第二言語を産出する場合の第一言語からの影響 (転移) には看過し難いものがある。本稿では英語産出の場合に特に重大と考えられる日本語の「は」の認識と語順について日英語を適宜比較しながら考察する。「は」に関しては、学習指導要領などは「主語」提示の助詞として扱うものの、その認識は英語の主語概念と異なることも多いため、英語産出において負の転移を与えかねない。本稿では三上 (1960) などに依拠し、「は」を「主題」提示の助詞と認識することにより負の転移を避けることを提言する。また、語順に関しては、従来英語の語順については語っても日本語の語順について語られることは少なかった。負の転移を避けるには日英両語についての自覚が必要であるため、本稿では日本語の語順と英語の語順の両方について統合的な整理を試みる。最後に、このような「ことばへの気づき」が義務教育段階において格段の教育的意義を有することを短く論ずる。

1 緒言

1.1 背景

 いわゆる「英会話」的な発話を推奨する英語教育の風潮が強くなって久しいが、現在の学習者の英語発話は必ずしも機能的でも文法的でもない。中学生はしばしば “Today is/was test.” “Today is/was interesting.”と言う。高校生が、“Matsusaka is Red Sox.” “Tokyo is many people”といった英文を書く例も珍しくない。あるいは実話か笑い話かは不明だが、何を飲みたいか聞かれたビジネスマンが “I’m coffee.”と言ったとか、自らの専攻を聞かれた英文学者が “I’m Shakespeare.”と答えたなどのエピソードすら聞かれる。英語を専攻する大学生においても、“In this study, some techniques to develop students’ motivation are proposed.”などのように書いて、 “This study proposes some techniques to develop students’ motivation.” とはなかなか書けないような例が多く観察される。これらのぎこちない文あるいは非文の発話には、後に論証するように日本語の「は」からの転移が関与していると思われる。

1.2 問題

 学習者はしばしば「は」を “is” (be動詞) と等価と考えている。実際、”This is my pencil” とった英文において、< “is” = 「は (~です)>として説明する教師も教育現場では少なくない。しかしこの等価は、「は」を常にbe動詞に変換したり、 be動詞を常に「は」に変換したりするという非言語学的な直訳習慣を学習者に植え付ける危険がある。言うまでもなくこの直訳習慣 (あるいは「転移」(transfer)) は日英両語で非文や非機能的な表現を多産する。仮に教育の初期段階で教師あるいは学習者が「は」とbe動詞を便宜的に等価と考えたとしても、その認識は誤解である以上、より深い理解でいつか解消されなければならない。

だが、「は」の適切な理解なしにはこの誤解は解きがたい。ここで問題を複雑にしているのが、中学校で教えられる日本語文法(「学校文法」)である。中学校国語の学習指導要領では日本語も「文の主語になる語句、述語になる語句、修飾する語句」から構成されるとして、一般に日本語でも「主語」が不可欠 (だがしばしば省略される) 要素とみなされている。さらにこの「主語」は、「は」 (または「が」) によって表現されるとしばしば理解されている。しかし三上 (1960) らの一連の言語学者が指摘するように、この「『は』が主語を表す」という認識、ひいては「日本語には主語がある」という認識は、時として日本語文法の適切な理解への重大な障害となる。加えてこの認識が「『は』 = 主語の標識 = be動詞」と拡張されるなら、上記のような非文あるいはぎこちない文を英語学習者が産出することにいたると考えられる。

日本語による思考は、学習者が生まれて以来親しみ、さらに日本語での学校教育で発達させている習慣である。この長年にわたり強化されてきた思考習慣が、たかだか週数時間の、そのうちでもせいぜい数十%に過ぎない英語発話訓練によって、見事に英語発話時の日本語話者から根絶されると考えることは楽観的すぎるであろう。生活で英語を使用しない社会状況であるという「外国語としての英語」 (English as a Foreign Language) の特性を、諸国の中でも特に強くもつ日本においては、英語授業での英語訓練だけで日本語からの 転移を消失させようとすることは現実的ではない。むしろ思春期およびそれ以降の学習者がもつ思考力・理解力・言語に対する意識的理解を活用し、日本語と英語の文法と機能の特徴を比較考察することが効果的であると考えられる。こういった分析的認識は、日英語の言語産出において役立つだけでなく、それ自身が言語への洞察を深めるという教育的価値を有すると考えられる。

1.3 目的

そこで本稿では、「は」の転移が日本人英語学習者に影響を与えているという仮説(1)の上に立ち、以下の三つを大きな柱として論考を進める。第一に、三上 (1960) 以降の「非学習指導要領」的文法 (=橋本文法以来の学校文法の伝統的束縛から自由な文法) による整理に基づき、「は」の文法的役割をまとめる(2)。第二に、Gopen & Swan (1990) に基づき、英語の文法・機能的特徴に基づいた機能的でわかりやすい英文の条件をまとめる (3)。第三に、英語産出における日本語からの転移の可能性について言及する(4) なお、本稿が対象とする文章は事実や意見を的確に伝える機能的な文章・科学的文章であり、過度に文芸的・創造的な文章は考察の対象とはしない。

1.4 意義

本稿の整理により教師と学習者が日本語と英語の文法・機能に対する理解を深めることができるなら、中学・高校・大学の英語ライティングにおいて、非文およびぎこちない英文の産出を少なくできることが期待できる。また、学習指導要領の「学校文法」にとらわれない日本語文法に基づいて日本語と英語を比較考察することにより、英語のみならず日本語に対する言語意識・言語分析能力も高められると期待できる。

***

続きはこちらで




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2010年6月28日月曜日

山岡洋一先生の翻訳論

下の記事でも引用しましたが、翻訳家の山岡洋一先生の翻訳論は実に素晴らしいものです。


山岡洋一先生の翻訳論は、書籍としてまとまった形では、『翻訳とは何か―職業としての翻訳』で読むことができますが、Webサイトの「翻訳通信」でもかなりを読むことができます。




山岡洋一先生の「翻訳」と「英文和訳」の区別はきわめて明晰で有効なものですが、残念ながら日本の英語教育界ではこの区別は浸透していないように思います。

さらに残念なことに、というより比べ物にならないぐらいに残念なことが、「翻訳通信 2010年2月号 第2期第93号」に書かれています。これが事実とするならば ―そして私は山岡洋一先生が事実を述べていることを疑う根拠を一切もちません― 広義の英語教育界は本当に恥ずかしいこと、社会的にやってはいけないことをやったことになります。




上記の件をもって「一事が万事」とまでは言いたくありませんが、英語教育界はもっと謙虚にきちんとした「研究」をしなければと改めて反省させられます。




ともあれ、山岡洋一先生の翻訳論にはご注目ください。特に最近の

(メールマガジンで配信済み。まもなくウェブにも掲載されるはず)



には翻訳論がまとまった形で書かれています。



その他にも私は















などを面白く読みました。

といいますより、英語教育における日本語使用についてきちんと考えたいならこの「翻訳通信」はすべて読むべきでしょう。





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ポスト近代日本の英語教育:両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について(発表要旨)


以下は私が、日本教育学会第69回大会(於:広島大学)で2010/8/21(土)に行う一般研究発表に関する発表要旨です。皆様のご批判を仰ぎます。


***

ポスト近代日本の英語教育:両方向の「翻訳」と英語の「知識言語」化について

柳瀬陽介 (広島大学)

1 序論

1.1 背景: 近年の日本の英語教育は、高等学校新学習指導要領での「授業は英語で行うことを基本とする」などが示す通り、日本語を可能な限り排除することを基本的傾向としている。その一方で読み書きを中心とした「英語学力」の低下も報告されている(江利川2009)。さらに小学校への英語教育導入という大改革に関してもその方針や見通しが明確でない(和田2004, 大津2009)など、日本の英語教育の根本的見取り図を描くことが求められている。

1.2問題 :これからの日本の英語教育 特に日本語(国語)教育との関連や「学力」の問題 を考えるためには、英語教育を近代・ポスト近代・情報革命という観点から捉え直すことが必要である。だがこれまでは、例えば水村(2008)が現代の英語と日本語の緊張関係について、山岡(2001-2010)が近代日本の学校制度に特化した「英文和訳」(=「翻訳」とは区別されるべき概念)についての重要な指摘をしているものの、20世紀末からの情報革命の加速的進行およびポスト近代性は十分に検討されていない。

1.3 目的: 本発表は水村 (2008) と山岡 (2001-2010) に基づきながら近代日本における英語と日本語の関係を総括した上で、 (1) 近年加速する情報革命をメディア論の観点から分析し、 (2) ポスト近代における言語を藤本 (2009) を契機にして考察することによって、ポスト近代日本の英語教育のあり方を検討することを目的とする。


2 英語教育と近代日本語の成立

2.1 翻訳による書記言語としての近代日本語の成立:本格的な書記言語はしばしば、より高い文明をもつ他の地域の書記言語の翻訳によって生み出される。現代私たちがもつ「日本語」概念も、幕末以来の翻訳の営みで生じた書記言語を基盤とした言語認識である(福島2008)

2.2 近代化の完遂と「英文和訳」の隆盛そして凋落:翻訳には近代学校制度での外国語教育が大きな役割を果たしたが、その中で「答案」の作成と採点に最適化された「英文和訳」という特殊な訳出文化が生み出された(山岡2001, 2002-2010) 。この訳出文化は、原書を傍に置きながら訳出された日本語を読み進めるという学問文化に貢献したが、日本の近代化がほぼ完遂されたと思われたあたりからその歴史的役割を終え、「英文和訳」的な文体は出版界で敬遠されるようになった(山岡2007-2008)。英語教育界もそういった「英文和訳」を排除するようになったが、その一方で翻訳者が原書を徹底的に読解し必要事項を調べ上げた上で、いわば改めて日本語で執筆する「翻訳」の価値は英語教育界で顧みられることはなかった(山岡2009-2010)


3 情報革命と「知識言語」

3.1 情報革命のメディア生態学:20世紀末からの情報革命は、これまでには考えられなかった規模で情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化を可能にした。これにより知識の体系化・偏在化・高速進化が格段に促進されている。

3.2 機能分化による「知識言語」概念:英語は情報革命・高度知識社会の中心言語であるが、教育目標としてこの特質を捉えるには旧来の言語概念では不適切である。「国際語」「地球語」「普遍語」は地域的普及による概念であるが、世界のすべての地域の人々が英語を使用しているわけではない。「母語」「第二言語」は言語習得順序からの生物学的概念区別であるが、第二言語話者が母語話者のようになることは現実的にほぼありえず、「母語」としての英語を教育目標として掲げることは不適切である。「第二言語」は、「外国語」「国際補助語」と同様に社会言語学的概念で(も)あるが、これらは英語使用の側面(機能)を明示していない。現代英語を教育目標として捉えるには、英語を「知識言語」(Knowledge Language)として、「生活言語」(Life Language)と対比的に捉えるべきであろう。「知識言語」は社会の「機能分化」(ルーマン2009) に注目した概念である。「知識言語」としての英語はICTにより、かつての「学識言語」(Learned Language)としてのラテン語とは比較できない力をもっている。


4 ポスト近代の「言語」と「翻訳」

4.1 複数の言語と言語の複数性:「機能分化」概念が現代社会の一元性を否定している以上、これまで「一つの言語」とされていたものの複数性が問い直されるべきである(藤本2009)。言語の複数性」は、Council of Europeの「複言語主義」(plurilingualism) 概念にも見られる。社会の多元化が進行するポスト近代の言語教育政策も、同一言語とされる中の様々なジャンル(バフチン)あるいは言語ゲーム(ウィトゲンシュタイン)を具体的に捉えなければならない。

4.2 翻訳の倫理性と政治性:深いレベルでの翻訳の試みは、他者 [=起点言語(翻訳元の言語)] を自ら [=目標言語(翻訳先の言語)] に「同化」 (domesticate) させてしまうことも、自らを他者に「異化」 (foreignize) させてしまうことも不可能な、「翻訳の不可能性」 (佐藤2009) に直面する。藤本(2009)は、自らの中に回収できない他者にそれでも応答しようとすることに翻訳の倫理性を見いだす。さらに翻訳とは他国語との緊張関係の中で自国語を彫琢する試みであり、ここに翻訳の(国民国家的)政治性が見いだせる。


5 ポスト近代日本の英語教育の道筋

ポスト近代日本の英語教育が目指す道筋としては、(a) 従来路線の延長で「生活言語」としての英語習得、(b) 英日・日英の両方向での(上で区別した意味での)「翻訳」、(c) 英語を日本における「知識言語」とすること、(d) 両方向翻訳と英語の知識言語化の統合、がありうる。(a) は文化植民地的状況での戦略でありもはやその有効性は少ないだろう。(b) は英語教師自身が「翻訳」できない危惧が高い。(c) は現代版森有礼的発想(イ・ヨンスク1996)として慎重に考察されるべきである。(d) に関しては「言語の複数性」および翻訳の倫理性と政治性の遂行を踏まえた上での分析的で多元的な実践が必要であろう。



引用文献

イ・ヨンスク(1996)『「国語」という思想―近代日本の言語認識』岩波書店

江利川春雄(2009)『英語教育のポリティックス』三友社

大津由紀雄(2009)『危機に立つ日本の英語教育』慶應義塾大学出版会

斎藤兆史(2009)「日本の英語教育界に学問の良識を取り戻せ」大津(2009)所収

佐藤学(2009)「言語リテラシー教育の政策とイデオロギー」 大津(2009)所収

辻谷真一郎(2002)『学校英語よ、さようなら』文芸社

辻谷真一郎(2003)『翻訳入門―翻訳家になるための考え方と実践』ノヴァ

寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店

藤本一勇(2009)『外国語学』岩波書店

福島直恭(2008)『書記言語としての「日本語」の誕生 -その存在を問い直す』笠間書店

別宮貞徳(2006)『さらば学校英語 実践翻訳の技術』ちくま学芸文庫

水村美苗(2008)『日本語が亡びるとき -英語の世紀の中で』筑摩書房

柳瀬陽介 (2007) 「複言語主義(plurilingualism)批評の試み」『中国地区英語教育学会研究紀要』37, 61-70.

山岡洋一(2001)『翻訳とは何か―職業としての翻訳』日外アソシエーツ

山岡洋一(2002-2010)『翻訳通信』http://homepage3.nifty.com/hon-yaku/tsushin/

和田稔(2004)「小学校英語教育、言語政策、大衆」大津由紀雄(編著)『小学校での英語教育は必要か』慶応義塾大学出版会に所収

Council of Europe (2001) Common European Framework of Reference for Languages: Learning, Teaching, Assessment. Cambridge University Press.



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2010年6月27日日曜日

2010/06/26の学会発表音声、および質疑応答の要旨



2010/06/26の学会発表(メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性・複数性 ―英語教育言説の単純性への批判―)の音声をアップロードしました。ご興味のある方は下をクリックしてください(パスワードはありません)。






上記の音声録音には質疑応答の部分が含まれていませんので、以下に質疑応答の要旨を簡単にまとめます。



***

Q1: 今日の話で、英語教育推進論と英語帝国主義論がなぜかみ合わないかがわかったように思う。そのあたりをもう少し補足してもらえないか。

A1: 両者は、自らが見たいと思っている一側面のイメージだけで「英語」を単一的に捉え、英語が実際にもっている複雑・複合的な部分や錯綜した部分を見ようとしていない。推進派は英語を「善きもの」として、反対派は「悪しきもの」単純化して立論を繰り返し、それぞれがそれぞれが想定する以外の英語の側面を取り上げた反論や批判などを「わかっていない」「ナンセンス」などと退けてしまっている。

無論それぞれがまったく間違っているというのではない。推進派にも帝国主義論者にも「一理」ある。しかし自らの「一理」にあまりにも拘束されてしまっている。それぞれ自らの「一理」から解放される ―あるいは自ら己の一理を「脱構築」する― 必要がある。

さもないと両者は永遠にかみ合わないままの不毛な対立を続けることであろう。

しかしもっと怖いことは、このような「単純な知性」 ―きつい表現をお許しいただきたい― が何らかの拍子や偶然で意見を一致させる時である。その時、彼/彼女らはおそろしく専横的になるだろう。「全体主義」とは「単純な知性」の権力奪取の別の謂である。



Q2: しかし人間はあまりの複雑性・複合性を前にすると、それに耐えきれず、単純な見解を求めるのではないだろうか(One-phrase politicsはその例と言えないだろうか)。

A2: 人間にはそういった心性があるだろう。しかし、教育や啓蒙の重要な一側面は、そういった現実の過度な単純化を戒め、人間が扱える範囲の適度な複合性(complexity)で物事を捉えることを学ばせることにあるのではないか。

単純な「ギロン」というのは、何の分析も勉強もなしにひたすら延々と続けることができるから、感情のはけ口としては有効だろう(また、それ以外に楽しみを見い出せない人には格好の遊戯だろう)。しかし、知的には、あるいは現実の社会改革には有効ではない(というよりしばしば害悪となる)。

もし「英語教育研究」が学問であろうとするのなら、そのような単純な「ギロン」を戒め、適切な抽象枠組に支えられた具体的な分析記述を促進する必要がある。

過度に単純化した「ギロン」に抗する知的忍耐力を私たちは必要としている。

具体的に例示してみるなら、「主要科学論文で英語が使われているからといって、日本の街で英語で道を聞かれて答えられないと恥ずかしい」というギロンに説得されてはいけないということだ。

私たちは「英語」あるいは「英語コミュニケーション」の多種多様な「ジャンル」あるいは「言語ゲーム」を丁寧に観察し区分することが重要である。

同時にそれらのジャンル・言語ゲームは、ウィトゲンシュタインが述べたように様々なところで重なり、様々なところで異なる錯綜体であることを理解しなければならない。同階層の要素が相互排他的で、かつぜんたいとしては包括的な階層構造(ツリー構造)でジャンル・言語ゲームを考えてはならない。



Q3: 複合的な現実に単純に対抗してはいけないという意味で「マルチチュード」としての対応はどうあるべきなのだろうか。「マルチチュードとしての英語教育界」というのは考えられるのか。

A3: 英語教育界も「マルチチュード」として、複合的な現実に複合的に対応すべきだと考える。

たとえばESPなどは多くの大学で、理学部・工学部などの科学者・エンジニアが主導して推進されている。これらの動きを、この学会の親母体である「全国英語教育学会」やその他の英語教育界のいわば「本丸」の学会の「英語教育学者」は十分には追えていないが、私はそれがむしろいいことだと思う。

複合的な「日本の英語教育」の現象すべてに対して包括的に責任をもつ単一体など考えがたい。というよりも考えたくもないし、そのような存在は拒絶すべきではないか。そのような単一体が存在し実権をもつとしたら、それはおそろしく粗雑で単純な権力行使をしてしまうだろう。

「日本の英語教育すべてに責任をもつ団体」が、「中心/周縁分化」的に中央から指示を出す、あるいは「成層分化」的に上から指示を出すことが有効であるほど、日本の英語教育界は ―いや現代社会の事象は― 単純ではない。しかし私たちはしばしばそのように古く単純な枠組みで社会をとらえがちである。ここに危険がある。

かといって日本の英語教育のさまざまな側面を考える諸グループが、相互作用なしに孤立(環節分化)するべきではない。そのような分化でも複合的な事象に対応できない。

「日本の英語教育学界」というのを想定するにせよ、それは様々な学術的アプローチにより機能的に分化、あるいは多次元的に分化したものとして考えなければならない。ある一人の「英語教育研究者」がいるとしても、その人は様々な英語教育の諸グループに属し、それぞれのアプローチで英語教育の異なる側面に対応することを学ぶべきだろう。

再び、全体として包括的で、同層の構成要素を相互排他的とする階層構造について述べるなら、英語教育研究をそのように捉え、例えば英語教育をEGPとESPに峻別し、ESPを医学英語、薬学英語、化学英語・・・と細分化することはまったくの誤りであると考える。そのような体制は、例えば「自分は医学英語の○○の専門家であり、それ以外のことは一切わからない、医学英語でも△△はわからないし、ましてやEGPのことなど皆目見当がつかない」といった自称「専門家」の集団を作るだけだ。

包括的で相互排他的な階層構造の学界は、上記のような「専門家」が論文を量産するには効率的でお互いにとってとても心地良い体制だが、社会からすればそれは役立たずの養殖場を維持経営しているようなものだろう。

一人ひとりの「英語教育研究者」も自らを多元的に捉え、「複数の自分」を育てるべきではないのか。多元的な複数の共同体に属することが、英語教育といった複合的な現実に対応するために必要だろう。「自分は○○一筋の研究者です」といった自己既定は、現実的には有効ではないと私は考える。

***

以上です。いつもにもまして表現がストレートなので不愉快に思った業界人も多いかと思いますが、私は自分の考えを正直に書きました。この私の見解に対する反論や討論の機会 ―オープンでフェアな機会― は歓迎しますが、「単純なギロン」はご勘弁ください。「単純なギロン」には私は一切反応しません。




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2010年6月26日土曜日

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性・複数性:英語教育言説の単純性への批判

以下は本日(2010/06/26)の第41回中国地区英語教育学会で口頭発表する際の資料です。ご興味のある方はダウンロードしてください。




なお、配布印刷資料は、以下にコピーもしておきます。

***

41回中国地区英語教育学会(2010/06/26 於:広島大学)

自由研究発表資料

メディア論と社会分化論から考える言語コミュニケーションの多元性・複数性

英語教育言説の単純性への批判

柳瀬陽介(広島大学)

プレゼンテーションスライドはブログに掲載します。

http://yanaseyosuke.blogspot.com/

1 序論

1.1 背景:英語教育推進論と英語帝国主義論は共に現実的・理論的指針を欠く

1.2 問題:現実改革につながらず、不毛な議論や振り子現象が続く

1.3 仮説:推進論と帝国主義論は陽画と陰画ではないのか理論的解明

1.4 先行研究:推進論については江利川(2009)、帝国主義論についてはPennycook (2001, 2010)。しかし両者の共通特徴は解明されていない。

1.5 目的:推進論と帝国主義論の共通特徴を、両者の基盤であるメディアと社会に関する理論を分析枠組として解明する。

1.6 意義:言説の理論的分析により、現実的な英語教育言説生成に貢献

2 分析枠組

2.1 オングらのメディア論

2.1.1. 原初音声文化:音声言語は行動の補助に過ぎず、「文学」も繰り返しと定型句が多い

2.1.2. 原初書記文化:記憶補助などのために絵文字や表意文字が使われ始める

2.1.3. 筆記書記文化:言語が場から解放+書き残すという社会的決定古代帝国の成立に寄与、言語の対象化+「書き手」と「読み手」が想像され始める「自己意識」の誕生。自律性の高い古代ギリシャのアルファベット音声と文字の狭間に悩むプラトン+音声言語を文字メディアにより反省したレトリック文化の誕生

2.1.4. 活字書記文化:市場と共に出版活動+科学的出版+強い言語の国民国家化+学校制度国民国家言語で政治・経済・科学・文学が可能になる。「個人」「一般的他者」「個人的意識」、文字通りの意味・整合性・無矛盾性・因果性、現実の様相化の台頭。

2.1.5. 電子音声文化:広範囲での連帯意識。活字書記文化を基盤に国民国家言語を音声表現

2.1.6. デジタル表現文化:ICT:情報の汎用記録・大量保存・高速検索・連結化、知識の体系化・偏在化。「公共性=開かれていること」が一般化。読み手も書き手も多種多様な「マルチチュード」。複合的なつながり

2.2 ルーマンの社会分化論:社会というシステムはどのように区分けされてきたのか

2.2.1. 環節分化:部落の孤立的分化

2.2.2. 中心/周縁分化:古代帝国の水平的分化

2.2.3. 成層分化:貴族支配などの位階秩序、垂直的分化

2.2.4. 機能分化:政治・経済・宗教・学術・教育などの異なる機能をもつ複数のシステムによって社会が多元的分化諸システムは相互独立し、他のシステムに直接の結果を産み出すことはできない(cf構造的カップリング)

2.3 機能分化された世界社会:世界社会は複合的でコントロール不可能、脱中心的・脱領土的なグローバルネットワーク。近代の帝国主義(ナショナリズムと領土支配)とは異なる。「私たち」は単一の同一性には決して縮減できない「マルチチュード」機能分化された世界社会は、単一的に支配されないし支配もできない。「私たち」は単一の支配者なしの支配構造に支配される。「私たち」は開かれ、多種多様で、複合的につながる。「私たち」は、予測不可能な複合性を経て「私たち」の支配者でありうる。

3 考察

3.1 言語コミュニケーションの多元性・複数性: 英語は世界を中心/周縁的にも成層的にも支配していない。英語でのコミュニケーションは他言語でのコミュニケーションと多種多様に接続英語でのコミュニケーションを単一的・一方向的に捉えてはいけない多元性(ジャンル)さらには複数性を認識し整理する必要がある。諸システムにおける英語コミュニケーションの多様性を勘案に入れる必要がある。

3.2 英語教育言説の単純性への批判:Panacea or Pandemicといった二項対立的立論は不毛。ナショナリズム的日本語回帰は19世紀への舞い戻り。単一的・一方向的な権力奪取ではなく、複数的・複合作用的な権力行使で「航海しながら船を修繕する」。

4 結論

4.1 研究課題への回答:推進論と帝国主義論は、言語コミュニケーション文化の多層性・多様性と現代社会の機能分化性を十分に取り込まず、英語コミュニケーションを単一的・一方向的に捉えている。この意味で両者は陽画と陰画である。

4.2 発展意義:単一的観点は脱構築されなければなならい。メディアと社会に対する理論的基盤に基づき、単純すぎる言説を避けることが必要。

4.3 実践的示唆:ライディングでの自己意識・個人・一般的他者・現実の多元性、文字通りの意味での整合性・無矛盾性・因果性などを十分に自覚。「私たち」の多種多様性、公共性、複合性を現代デジタル表現のメディア的特性で捉える。

4.4 本論の限界と今後の課題:具体的記述・分析との連動が必要。英語教育研究は社会学的研究をこれから怠ることはできない。

主要参考文献

Hardt, M. and A. Negri (2000) Empire. Harvard University Press. (ネグリ、A.・ハート、M.著、水嶋一憲・酒井隆史・浜邦彦・吉田俊実訳(2003)『<帝国> グローバル化の世界秩序とマルチチュードの可能性』以文社)

Hardt, M. and A. Negri (2005) Multitude: War and Democracy in the Age of Empire. (ネグリ、A.・ハート、M.著、幾島幸子訳(2005)『マルチチュード <帝国>時代の戦争と民主主義 上・下』NHK出版)

Ong, W. (2002) Orality and Literacy. Routledge.

Pennycook, A. (2001) Critical Applied Linguistics. Routledge.

Pennycook, A. (2010) Language as a Local Practice. Routledge.

Phillipson, R. (2010) Linguistic Imperialism Continued. Routledge

Strate, L. (2009) The Future of Consciousness. ETC.: A Review of General Semantics. 66, 1. 66+

江利川春雄(2009)『英語教育のポリティックス』三友社

大黒岳彦(2006)『<メディア>の哲学 ルーマン社会システム論の射程と限界』NTT出版

野口ジュディー(2009)ESPのススメ 応用言語学からみたESPの概念と必要性」、福井希一・野口ジュディー・渡辺紀子(編著)(2009)ESP的バイリンガルを目指して』大阪大学出版会

ホロウェイ、J.著、大窪一志・四茂野修訳(2009)『権力を取らずに世界を変える』同時代社

ルーマン、N.著、馬場靖雄・赤堀三郎・菅原謙・高橋徹訳 (2009) 『社会の社会 1 2』法政大学出版局






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