2008年9月28日日曜日

ヴィヴィアン・バー著、田中一彦訳『社会的構築主義への招待』川島書店

英国の心理学者によるこの本を読んで「社会的構築主義による脱構築」という一種の矛盾表現を思いついたので、この小文を書き付けます。矛盾は「構築と脱構築」および「主義と脱構築」に見られます。通常、これらは共起できないものと考えられているからです。しかし私は伝統的心理学の脱構築として社会的構築主義を読み込み、使いこなす限りにおいて、社会的構築主義はうまく伝統的心理学とも相互排他的に憎み合わずにやっていけるし、私たちの知見も豊かになると愚考しました。

それにしても「社会的構築主義」とか「脱構築」とか、大きくは「ポストモダン」とか、捉えにくい概念にはうんざりだとお考えの方も多いかと思います。科学概念のようにワンストップで、ある定義さえ覚えておけば、あとはその概念はその定義に置き換えてしまえばいいだけだったらどんなに話は楽でしょう。しかし、概念は、私たちの生活に即したものになればなるほど、ウィトゲンシュタインのいう家族的類似性の色彩を強めます。一義的に本質は定義しがたく、複数の要素が互いに重なり合ったり、合わなかったりする使用を私たちは見極め、使い分けるしかないからです。そして「社会的構築主義」にせよ「脱構築」にせよ、それらは私たちの生活に密着した概念だと私は考えています。

この本は社会的構築主義のラインで考えるなら、例えば「パーソナリティ」といった、個人内にある行動の原因と伝統的心理学で考えられている概念でさえ、そう単純で固定的な実在物ではないことを示します。これはいわゆるコミュニケーション能力に関しても言える議論です。コミュニケーション能力を個人内能力とだけ考えてしまえば、インタラクションでどんどん変わってゆくコミュニケーションのパフォーマンスをどう説明してよいのかわからなくなります。次の「パーソナリティ」についての言及を「コミュニケーション能力」などといった概念と重ね合わせながら読んでみましょう。


要するに、どちらが本当の自分かを問うのは、意味がないのである。それらは両方とも本当であって、しかもそれぞれの「あなた」のヴァージョンは、他者との関係の所産にほかならない。それぞれの「あなた」は、あなたの関係を形成する社会的な出会いから、社会的に構築されている。人びとの行ったり言ったりすることは、パーソナリティなどの内的な心的構造から生じるという考え方から離れようとするために、ショーターは「共同行為」の概念を提出したのであった。人びとが相互作用するとき、むしろそれは、お互いのリズムや姿勢に微妙に反応しながらいつも一緒に動いてゆくダンスのようである。そのダンスは、彼らの間で構築されるのであって、どちらかの人の、前もっての意図の結果と見ることはできない。(43ページ)


こうなると伝統的な心理学の考え方と社会的構築主義の考え方は全面的に対立するように思われます。


われわれが今日おなじみの伝統的心理学と社会心理学は、そのルーツを北米の諸大学の実験研究室にもっており、したがってそれらはしばしば「北米の心理学」と言われる。歴史的にそれらは、人間の行動と経験が、精神内部の説明を探ることによって、つまり個々の人の「心」の内部で働く構造と過程を探ることによって
理解されうるという前提に基づいて活動してきた。心理学が主に関係するテーマの多くは、われわれ自身が個人のレベルにあると感じる、記憶や近くや動機づけや情動などのようなテーマであった。われわれの記憶やわれわれの感情、欲動等々は、われわれにはプライベートな出来事(われわれの内部で生じ、われわれだけに自分自身の頭の内で手に入るという意味でプライベートな)だと思われる。伝統的心理学はこの前提に基づき、この自足した個人の行動や経験をその基本単位として解してきた。この見方の内では、記憶能力や知覚の正確さやパーソナリティ特性のような事柄の「純粋な」測定は、人に影響するかもしれない変数をできるだけ多く取り除くことによって、理論的には得られる。(150ページ)


こういった考えを社会的構築主義は全面否定しようとします。


個人はあらかじめ与えられた存在であって、そこから二次的現象として社会が生じると見る見方、これは心理学という学問の核心にある。したがって、人間の経験と行動を説明し予測することをめざす心理学全体の企ては、社会的構築主義のパースペクティブからすると、誤った前提に基づいている。それは、人格性の本当の源泉に本気で取り組んでいないのだから、せいぜいが見当違いであって、またその慣行や知識は社会の中の不公平な権力関係を維持するのに役立っているのだから、悪くすれば抑圧的である。(149ページ)


かくしてしばしば全面戦争が始まります。社会的構築主義の立場からすれば、伝統的心理学の研究者など、愚かか専横的(あるいはその両方)に思え、伝統的心理学の研究者からすれば社会的構築主義の研究者など学問が何かをわかっていないイデオローグに思えるからです。

この二つの立場--人間の現象を個人から見ようとする立場と、社会から見ようとする立場--に安易な調停や統合あるいは融合はありえないように思えます。しかし、この二項対立を「脱構築」することは有効なのかもしれません。著者はデリダの議論に依拠しながら次のように論じます。


二項対立では、常に一方の項がその対立項より特権的地位を与えられるのだが、そうした二項対立は諸イデオロギーの特色をよく表しているとデリダは論じる。それらは読者を「だまして」、二分法の両者は実際には他方なしには存在しないのに、一方の側が他方よりもずっと価値があると信じ込ませる。したがってわれわれは、個人が一次的で社会は二次的だと考えるように仕向けられるし、精神は身体に優ると考えるように仕向けられ、感情よりも理性を高く評価するように仕向けられる。この「二者択一」の、二項対立の論理を、われわれは拒否し、代わりに「二者双方とも」の論理を採用することをデリダは勧める。どんな現象を考えてみても、それを正しく理解するためには、われわれの研究の単位として、存在していると考えられるものと、それが排除していると思われるもの、その両者を取り上げる必要がある。したがって、二分法の対立項を形成するものとして個人と社会を考えるよりも、その代わりにわれわれは、それらを一つの体系の不可分の構成要素として、どちらも他方なくしては意味がないものとして、考えるべきなのだ。したがって、個人/社会の大系は、どちらの項も、自然に正しく理解されうるような何かあるものを指しているのではないのだから、それは研究の単位なのである。
そのような「脱構築」は、力/構造、自由/決定論、自己/他者といった、問題をはらむ他の二分法にも適用できる。「われわれは自由意志をもっているのか、それともわれわれの行動は決定されているのか?」、また「われわれは力をもっているのか、それともわれわれは社会の所産か?」といった、それらの二分法が提起する問いは、この枠組みではその意味を失う。それらは、問うことが適当でない問いになる。(165ページ)


つまり伝統的心理学(以下、個人心理学)を荒唐無稽で全面否定するべき愚見として社会的構築主義を称揚するのでなく、個人心理学を揺さぶり、その限界を明らかにするために、つまりは個人心理学を脱構築するために社会的構築主義を読み込むわけです。

逆に言いますと、個人心理学からすれば、社会的構築主義をナンセンスとして捨て去るのではなく、社会的構築主義も無謬の包括的体系ではないことを示すために、つまりは社会的構築主義を脱構築するために個人心理学を再解釈するわけです。

そうしますと社会的構築主義も、個人心理学も、それぞれにこれまでとは変わらざるを得なくなると思います。変わるといっても、社会的構築主義は社会的構築主義で、個人心理学に変容してしまうことはないでしょう。個人心理学も個人心理学のままであり、社会的構築主義にいつのまにかなってしまうこともないでしょう。また、両者がいつか統合され、「真なる心理学」となることもないでしょう。

ここでルーマンを私なりに読み込めば、個人心理学は「心理システム」を扱う学問です。この心理システムにとって、社会的関係(典型例としてコミュニケーション)は、心理システムの「外部」(「環境」)の出来事にすぎません。心理システムは、コミュニケーションという社会システムを直接支配はできません。もちろんある発話をするのはある心理システムです。しかしその発話が公的空間に現れるや否や、それは他者の多様な解釈にさらされ、自らの発話とて自分が完全にコントロールできなくなります(会話がそれぞれの参加者の思惑を越えて弾むことや、誰も制御できなくなった会議での議論は私たちが日常的に経験することです)。つまり心理システムにとって社会システムは、心理システムの観点からは説明し尽くせない、かといって無視してしまえば心理システムの理解そのものが損なわれてしまう外部(「環境」)なのです。

逆に社会システム(コミュニケーション)の観点からするなら--コミュニケーションを擬人的に理解することは容易ではないので、この想定は難しいかもしれませんが--、コミュニケーションのそれぞれの参加者は、その内部が不透明な外部(「環境」)に過ぎません。しかしコミュニケーションはこの外部(「環境」)がなければ成立しないのです。コミュニケーションを考える際には、個人という心理システムは外に置かれてしまいます。社会関係と個人を一人の人間が同時に考える、つまりは社会的構築主義と個人心理学を一つの体系として統合することは、原理的に不可能ではないでしょうか。私たちができることは、片方を考える際に、もう片方を、絶えず影響を与えてくる異質な「環境」、しかしそれなしでは自らが極めて限定された研究にしかならない異なる立場として絶えず念頭におくことぐらいではないかと思います。

無矛盾の体系を理想とする人びとにとって、上記のような考え方は受け入れがたく、また愚かな弱腰の考えのようにすら思えるかもしれません。しかし私は現実世界を考えるためには、常に自分の思考体系に矛盾を導入することをこれまでモットーとしてやってきました。私が少しでも現実世界を理解することができたとするなら、それはこの矛盾を排せず、矛盾ある中で現実を理解し、それに対応してゆくことに依るのではないかと自負しています。"The test of a first-rate intelligence is the ability to hold two opposed ideas in the mind at the same time, and still retain the ability to function."というF. Scott Fitzgeraldのことばを私は愛しています。

以上、私は個人心理学と社会的構築主義の関係を中心に語ってきましたが、本書は副題の「言説分析とは何か」が示すように、言説分析に多くのページを割いた書です。言説分析も、英語教育界に、もっともっと、しかし丁寧に導入されるべきツールだと思います。

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2008年9月27日土曜日

白井恭弘『外国語学習の科学』岩波新書

新書の社会的機能とは、各界の一流の専門家がその知識と見識を、一般公衆に向けて平易に解説し、その分野に関する見通しを明るくすることにあると思います。新書の価格設定と全国津々浦々の書店にならぶ流通力は、そういった社会的機能を果たす限りにおいて活用されるわけであり、内容が恣意的あるいは扇情的なものに過ぎないなら、その本は、日本がこれまで育ててきた新書という出版文化を乱用していると批判されても仕方ありません。

この岩波新書は、外国語学習に関しての広範で新しい研究内容をコンパクトにまとめた良心的な新書です。私ならまず英語教師の皆さん、英語教師を目指す皆さん、そして外国語学習に興味を持つ高校生に勧めたいです。外国語学習の「常識」がどのようなものであり、それはどのようにして確かめられてきたかを概観するのに最適の(しかも廉価の)入門書だからです。まずは第二言語習得研究の見通しを得ること--これは「専門的教養」として必須のことかと思います。

この本にまとめられた研究結果は、無謬の真理とは言わないまでも、さまざまな研究者が手堅くまとめてきたものです。これに敬意を払わない手はありません。社会的権力を握る人々が、外国語教育に、時に無体な要求をすることの多い昨今ですが、そんな時には静かにこの本にまとめられている知見を提示し、反論するべきでしょう。

そういう意味では、本書は、外国語教育に関わる全ての人が目を通しておくべき本かとも思います。


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2008年9月25日木曜日

佐藤郁也『質的データ分析法』新曜社

質的研究には、量的研究のような厳密なルールはなく、研究者がその都度判断して研究を進める必要がありますが、その際にも有効な「ガイドライン」そしてコツやヒントがあります。この本はそういった質的研究を進める際の道筋を、非常にわかりやすい説明と図説で示した良書です。

よい質的論文の条件を筆者は次のようにまとめます(11ページ)。


・一つひとつの記述や分析が、単なる個人的な印象や感想だけではないデータを含む、しっかりした実証的証拠にもとづいてなされている。

・複数のタイプの資料やデータによって議論の裏づけがなされている。

・具体的なデータと抽象的な概念ないし用語とのあいだに明確な対応関係が存在する。

・複数の概念的カテゴリーを組み合わせた概念モデルと具体的なデータとのあいだにしっかりとした対応関係が存在しているだけでなく、それについて論文のなかできちんとした解説がなされている。

・議論や主張の根拠となる具体的なデータが論文や報告書の叙述のなかに過不足なく盛り込まれている。


こうした優れた質的研究の根底には、「現場の言葉」を「理論の言葉」(ないし「学問の言葉」)へと移し替え、さらに「理論の言葉」を「現場の言葉」に移し替えようとする「文化の翻訳」あるいは「意味の翻訳」が何度となく往復されることがあると著者は説きます(第二章)。いわば異なる二つの文化に通暁することが「分厚い記述」を支える基礎になっていると言えましょうか。

そうした現場感覚に基づいて、質的研究者は(非言語的データと共に)文字データを作成し、その文字データに小見出しをつけます。これが「コーディング」です。このコーディングは、量的研究と違って、質的研究ではプロジェクト全体にわたって何度も繰り返しおこなわれ、研究者はデータ分析の作業を通じて概念的カテゴリー・コード体系を(再)構築してゆきます(第三章)。コーディングには、現場の言葉をそのまま使う「インビボ・コーディング」や抽象度の高い少数の概念を構成する「焦点的コーディング」(focused coding)があります(第七章)。

ここで著者が強調するのは、コード(概念的カテゴリー)と文脈のあいだの往復運動の重要性です。文字テクストはコードを割り当てられることにより、元の文脈から切り離されますが(「脱文脈化」ないし「セグメント化」)、さらにコードはデータベース化され、考察の対象となります(第四章)。

考察をする際に著者が勧めるのは「事例-コード・マトリックス」です。この趣旨は「木を見て森を見る」そして「森を見て木を見る」ために組織的・体系的にデータを検討することです(第五章)。さらに考察の際には、データを色分けしたり、「アウトラインプロセッサ」を使ったり「QDAソフト(MAXqda)」(日本語マニュアル)を使ったりして、データの膨大さや複雑さに困惑されないように工夫することが勧められています(第九章)。

そうして報告書や論文のために「ストーリー化」するのですが、ここで口頭発表やパワーポイント・プレゼンテーションでうまくやれる人も案外に苦労します。ここで改めて私たちは論文を書くということはどういうことなのか、という根源的なことを考える必要があるのかもしれません。

質的研究はこの本に書かれているようにやらなければならないわけでもありませんし、この本に書かれているようにやれば必ずしもうまくゆくわけでもないでしょう。やはり研究者個人の思考と判断、そして試行錯誤が必要でしょう。しかし質的研究を志す人なら、手元に置いて常に参照したい本かと思います。


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ドン・タプスコット、アンソニー・D・ウィリアムズ著、井口耕二訳『ウィキノミックス』日経BP社

「ウィキノミックス」(Wikinomics)とは、従来の階層構造と支配による生産モデルに代わる、コミュニティとコラボレーション、自発的秩序形成による新しいモデルのことです(5ページ)。もちろんこの造語には「ウィキ」の意味が込められています。

ウィキノミックスには四本の柱があります。(1)オープン性、(2)ピアリング、(3)共有、(4)グローバルな行動です。以下、同書の第一章からその要旨をまとめます。

(1)オープン性とは、人材やアイデアを外部から導入する企業のほうが優れた業績を上げるようになったこと、ITでもオープンシステムオープンソースが大きな流れになってきたこと、教育でもMITのオープンコースウェア(あるいはiTunes U)がますます隆盛になっていることなどに代表される現象のことです。
(2)ピアリングとは水平型の組織構造で協働作業を行うことで、この好例としてはリナックスの開発があります。
(3)共有に関しては、医薬品企業でさえ、高度な開発のためには、特許権は放棄するつもりはないにせよ基本となる知的財産は共有する方針に転換したことや、スカイプがピアとして集まったコンピュータの処理能力を活用し、電話を無料化していることなどが例としてあげられています。
(4)グローバルな行動については、フリードマンの『フラット化する世界』を参照することを勧め、「グローバルな労働力、世界的に統一されたプロセスとITプラットホームなどをもち、社内の部門間コラボレーションを推進するとともに、社外パートナーとのコラボレーションも推進することが大事」と著者は述べます。

以下、印象的だった箇所を三カ所引用し、それらに蛇足をつけ加えます。


今はモジュール性やオープンアーキテクチャーがキーワードとなり、瞬時にコミュニケーションがとれ、能力・機能が世界に分散された時代であり、このような時代においては、だれが何をするのか、どこで価値が作られるのかという問いに対する普遍的な答えなど存在しない。各企業は、中核となる能力がどこに存在するのかを観じながら、社外のエコシステムに存在する知識と能力の海との関係を示す海図を書き換え続けなければならない。(344ページ)


これは、私がA critical introcduction to Critical Applied Linguisticsを読み解くためのリンク集を現在作成しながら、強く感じることです。少なくとも英語のウェブ空間には高度な知識が様々にモジュール化されて、公開されています。これらを駆使しながら、自分ができるベストな仕事は何だろうと私は考えざるを得ませんでした。


どうしたら、ウィキノミックスという新しい原理を実際の事業に適用できるのだろうか。知識管理理論の専門家、デイヴィッド・スノーデンは、細かい計画を立てても意味がないと考えている。幼稚園の先生が子ども達を管理するように、混沌を管理すべきというのだ。「ベテランの先生は、最初、子どもたちを自由に振る舞わせ、その後、いい行動パターンは定着するように、また良くないパターンは定着しないように、少しずつ介入するものです。すぐれた先生なら、定着させたいパターンが生まれやすいように、上手にタネをまいてもおきます」。


私も一度小学一年生の体育の授業参観をして仰天したことがありました。てんでバラバラに動く多くの子ども達をうまく指導する先生に私が「どうやってご指導なさっているんですか」と聞くと、その先生は涼しげに「いや、ツボを押さえておけば、なんとかなるものですよ」と答えました。情報が爆発的に増大し続ける現在においては「大局観」が今まで以上に大切になると上の引用を読み替えることはできないでしょうか。


何年もの前のことだが、大手ホテルが連携し、共通の予約ネットワークを構築したことがある。ハイアット・ホテルズの経営情報システム担当副社長、ゴードン・カーは、当時、「これがお客さまにとって最善のやり方であり、それはとりも直さず、我々にとっても最善のやり方なのだということを理解するのに」一年ほどもかかったと改装する。各ホテルチェーンは、自分たちに有利なシステムにしたいという誘惑に耐える必要があった。「公益性を実現するため、我々はみな『競争至上主義』の部分を頭から追いだす必要がありました」。


英語教育についても数々の有益なホームページやブログがあります。しかしそれらの多くは(私のものも含めて)まだまだ個人ベースで動いています。個人というのは判断や行為の単位としては非常に便利ですから、今後共に個人ベースのウェブ活動として続くでしょうし続くべきでしょうが、日本の英語教育界のウェブ活動ももっとsocialになることはできませんでしょうか。
とりあえず考えられるのはWikipedia日本語版の英語教育エントリーの充実です。もし10人ぐらいの人たちだけでも、個人的利害関心ではなく、学術的で公平公正な記述でエントリーを充実し始めましたら、日本の英語教育界も少しは変わるかもしれません。それはネットをほとんど使わないような世代に、学界・学会改革を訴えるよりも、よほど簡単で効果的な方法かもしれません。

ともあれ、ウェブが私たちの思考や行動にどれだけ大きなインパクトを与えているのか、これから私たちは自らの思考や行動をどう価値づけ、方向づければいいのかを考えるのにはいい本かと思います。

この本の英語のホームページは http://www.wikinomics.com/book/ です。

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2008年9月12日金曜日

2008年度「英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊」

近日中に発売される『英語教育 増刊号』(大修館書店)で、「英語教育図書--今年の収穫・厳選12冊」という書評を書かせていただきました。12冊を論ずる中で、現代日本の英語教育について広く深く考え直すことができるような書評を書いたつもりです。ぜひ買って(笑)読んでください。

取り上げたのは次の12冊です。

英語教育の実践のための5冊

畑中豊『英語授業マネジメントハンドブック』明治図書
瀧沢広人『プロへの道英語授業の仕事術・マネージメント術』明治図書
斎藤栄二『自己表現力をつける英語の授業』三省堂
今井裕之・吉田達弘(編著)『HOPE中高生のための英語スピーキングテスト』教育出版
ELEC同友会英語教育学会実践研究部会(編著)『中学校・高校英語段階的スピーキング活動42』三省堂


英語教育を考えるための7冊

大谷泰照『日本人にとって英語とは何か』大修館書店
村田久美子・原田哲男編著『コミュニケーション能力育成再考』ひつじ書房
寺島隆吉『英語教育原論』明石書店
河原俊明(編)『小学生に英語を教えるとは?』めこん
庭野吉弘『日本英学史叙説』研究社
大石五雄『英語を禁止せよ』ごま書房
佐々木倫子、他編『変貌する言語教育』くろしお出版

「コミュニケーションの不確定性について--ルーマンのコミュニケーション論からの解明--」

9月14日に常磐大学で行われる第12回日本言語テスト学会全国研究大会で発表をします。タイトルは「コミュニケーションの不確定性について--ルーマンのコミュニケーション論からの解明--」で、発表は日本語で行いますが、レジメは英語で作り、将来論文にする時にも英語で書こうと思っています。先ほどレジメを作りましたが、最終チェックはまだ済ませていませんので、現時点では、この発表の元になった発表の日本語レジメ(PDF)とパワーポイントスライドを公開します。ご興味のある方はダウンロードしてください。

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2008年9月4日木曜日

レヴィナス著、熊野純彦訳『全体性と無限(上)(下)』岩波文庫

西欧哲学は全体性の概念によって支配されている、とレヴィナスは語る。


「西欧哲学にあって、諸個体はさまざまな力のにない手に還元される。その力が、知らず知らずのうちに個体に命令を下すのである。個体は、だからその意味を全体性から借り受けていることになる(つまり、個体の意味はこの全体性の外部では不可視である)。それぞれに唯一のものである現在が、未来のために絶えず犠牲にされ、未来は唯一性から客観的な意味をとり出すために呼び出される。究極的な意味だけが重要であり、最後の行為のみが諸存在をそれ自身へと変換するからである。」(上 15ページ)


この、あらゆる個体を内部に閉じ込めてしまい、究極の意味だけからすべての個体を規定しようとする「全体性」は、戦争において顕著であるともレヴィナスは言う。彼は全体性とは異なる超越-無限-を要求する。


「全体性とは別の概念-無限なものの概念―が、全体性からのこの超越を、全体性のうちには包含されず全体性とおなじように本源的なものである超越を、表現すべきなのである。」(上 17ページ)


この「無限」とは、どこかに客観的に存在し、その存在が私や他の者にも一様に示されるものではない。「無限」とは、<私>という同一性に固定され分離された存在が、その存在の中に含みこむことのできない<他者>を迎え入れようとする、ある意味不可能なことを可能にしようとする驚くべき「主体性」のうちに現れる。<他者>が啓示として現われ、そうして<私>の中に無限を生起させるのである。


「無限なものの観念は存在することの様相であり、つまりは無限なものの無限化にほかならない。無限なものは存在し、そのあとで、啓示されるのではない。無限なものの無限化が啓示として生起し、<>のうちに無限なものの観念を植えつけることとして生起する。無限なものの無限化が生起するのは、およそありえそうもない状況にあってであって、そこではじぶんの同一性のうちに固定され分離された存在、すなわち<同>、《私》が、にもかかわらず自己のうちに、ただじぶんの同一性のはたらきによるだけではそれが含みこむことのできないもの、受け入れることもできないものを含みこむことになる。主体性によって実現されるのは、この不可能な要求である。主体性とはつまり、含みこむことが可能である以上のものを含みこむという、驚くべきことがらを実現するのである。本書は、こうして、<他者>を迎え入れるものとして、他者を迎え入れること(オスピタリテ)として主体性を提示することになるだろう。他者を迎えいれる主体性において、無限なものの観念が成就されている。」(上 26ページ)


かくして<私>は<他者>を渇望する。しかしこれはその<他者>を所有しようとすることではない。この渇望は無限なる善さを求めることであり、この渇望の中で<私>の否定的な権能と支配は停止される。<私>は自分が所有している世界を「顔」として現前する<他者>に贈与しようとする。


「<無限なもの>の観念によって実現する、有限のうちなる無限、最小のうちなる最大は、<渇望>として生起する。<渇望されるもの>を所有することによって鎮められるような<渇望>としてではない。渇望されるものがそれを充たすかわりにむしろ引きおこすような<無限なもの>への<渇望>としてなのである。その<渇望>は完全に利害を脱した<渇望>であって、つまりは善さである。けれども<渇望>と善さは一箇の関係を具体的に前提している。<渇望されるもの>が、<同>のなかで遂行される《私》の「否定的なふるまい」(ネガティヴィテ)を停止し、権能と支配を停止してしまうような関係を前提としているのである。このことは、積極的にいえば、私が所有している世界を<他者>に贈与することが可能であること、言い換えるなら向かい合った顔が現前することとして生起する。」(上 79ページ)


かくしてレヴィナスは倫理を語っている。訳者の熊野純彦氏の秀逸な解説を引用すればこうなる。


「他者はこの私を超越している。そのことをみとめる以外に倫理の出発点は存在しないように思われる。他者が私に対する超越でなく、言い換えるなら他者が私になんらかの意味で内在しているならば、他者は私の意のままになり、したがってどのような意味でも倫理が問われる余地が存在しないからである。」(下 337ページ)


レヴィナスの語る倫理は、形而上学的な語彙で語られていたとしても、彼が語ろうとしているのは私たちの日々の営みに他ならない。再び解説を引用する。


「レヴィナスが本書で語るのは、かくして、息をすること、食べること、ものをつかむこと、たち上がること、世界のうちで住まうこと、はたらくことである。また顔を見ること、殺すことであり、愛撫し、性交すること、親となり子となることにほかならない。」(下 341ページ)。


内田樹氏の「師」ということで興味が再燃し、読んだこの本ですが、出張の移動中に一気に読めました。20世紀後半の哲学の大きな動きは、ハイデガーを理解した上で、超えることかとも思いますが、その意味でも面白く、また何より、私たち、いや<私>が生きることについて語りかけてくれているようでいい読書となりました。

小学校英語教育 -なぜ 何を どのように-

私は広島市の構造特区化による英語教育導入に関与していますが、その立場から広島市内の各所でお話ししていることのレジメを公開します。私は理論的な話としてはいつもこの話をしています。

ちなみに私の小学校英語教育についての態度を表明しておきます。
私はかつて「小学校での英語教科化に反対する要望書」(代表:慶応義塾大学 大津由紀雄さん)に署名しました。その背景や理由は http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/essay05.html#050728 に詳しく書きました。理由の中心的な部分を引用しますならそれは次のものになります。


教科としての小学校英語教育に関しての明確な理念、それに基づく具体的な教師教育・カリキュラム実施の計画は、現時点では整備されていないように思えます。理念の抽象的記述と計画の具体的記述がはっきりとしていない企てには賛成できません。理念と計画がないと「十分な知識と指導技術をもった教員が絶対的に不足している」問題を解決することができないからです。これが要望書に署名した次第です。

 このように私の反対理由は「十分な知識と指導技術をもった教員が絶対的に不足している」ことに関する限定的ものですから、それを解決するための理念と計画の明確化が本格的に行われ、かつその結果が十分に納得できるものとなれば反対を撤回し、賛成に回るかもしれません。

 あわてて告白しておきますと、現時点での私は、この理念と計画の明確化のための学識も見識も十分には持ち合わせておりません。ですから上に「賛成に回るかもしれません」などという風見鶏的と言われても仕方のないような発言をしている次第です。「英語教育」の専門家であるはずの自分の力量不足を反省します。


そのような考えを持っている時に、広島市が構造特区となり英語教育を本格的に小学校に導入されることになりました。それに伴い、私にもその試みに参与しないかというお誘いを得ました。広島市には私は二十年以上住みました(現在は東広島市在住)。さらにもし誰かがやらなければならないとしたら、小学校英語教育の実施に対して具体的な危機意識を持っている人間がやった方がよいのではないかと考えました。自意識過剰と言われればその通りと肯くしかないのですが、そういう次第で私は広島市の小学校への英語教育への具体的な関与をすることにしました。以来、小中学校の先生方に助けられながら(これは社交辞令ではありません!)何とか仕事を進めています。その中で英語教育に関する理念も考え直したりしたのは、前の記事でもその一部を示したりしている通りです。

前置きが長くなりました。小学校英語教育に関する一つの愚見にご興味がある方は、下の手順で、「080924広島市教育センター講演(小学校英語教育について)」をダウンロードしてください。


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初等・中等・高等英語教育内容の再整理―価値・力・言語の観点から―

2008年6月21日(土)の第39回中国地区英語教育学会(会場:島根大学)で、自由研究発表をした際に配布したレジメを公開します。タイトルは「初等・中等・高等英語教育内容の再整理―価値・力・言語の観点から―」です。

小学校英語教育の導入に伴い、私たちはもう一度、大きな観点から英語教育を考え直す必要があることを訴えた発表です。具体的には複言語主義という価値を日本のコンテクストで考え直すこと、言語コミュニケーション力を三次元的に理解して力の発達を分析すること、音声言語と書記言語の違いをこれまで以上に明確にすることを試みました。

レジメにご興味のある方は下の手順で、「080621中国地区レジメ(教育内容の再整理)」をダウンロードしてください。

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学会誌のあり方について

先日の記事の一部で、私は次のように書きました。


経済・政治・社会といった観点からの研究は、心理学的研究と並んで、いやおそらくはそれ以上に重要です。言語そして教育が複数の人間による営みである以上、個人あるいは個体の認知メカニズムだけを対象とする心理学ばかりが第二言語教育研究であるといわんがばかりの日本の英語教育界(特に学会誌のレフリーの感覚)は明らかに偏っていると思います。


それに対してNaokiさんという方から次のようにコメントを頂きました。


コメントすべきか否か,大いに逡巡いたしましたが,学会誌編集に携わる者として一言述べさせていただくことにしました。

具体的に,どの学会誌のどのような編集方針が,先生のおっしゃる「個体あるいは個体の認知メカニズムだけを対象とする心理学ばかりが第二言語教育研究であるといわんばかりの」レフリー感覚なのか,よく分かりません。少なくとも私が携わっている,あるいは携わってきた学会誌の編集において,そのような偏った見方はしてこなかったと思います。

我々のような「中間」世代として,確かに,ご指摘ような古い体質との「戦い」が学会運営や学会誌編集に際してないわけではありません。先生がおっしゃる危機感も,程度の差こそあれ,共有していると思っています。だからこそ,実際に運営・編集に参加しながら,それを変える努力をしています。それだけに,先生ほどの影響力がある方が「体質批判」を繰り返されると,それを鵜呑みにした読者が,例えば採択不可となった場合にその原因を「学会の体質」に片付けてしまうのではないかと危惧しています。

私のような者が口幅ったいことを申し上げました。ご容赦ください。現在携わっている学会誌でも,幅広い研究が共存できるように,査読に際しても「読むべき人」が読んで評価できるシステムを構築していく所存です。こうして微力ながらも具体的に抗っている者もいることを知っていただきたくコメントいたしました。
失礼いたします。

9/02/2008


大切な問題かと思いましたので、コメントのお返事は以下で行うことにします。


Naokiさん、

コメントありがとうございました。まずはシステムの内側で屋台骨を支えてくださっていることに心からの敬意を払います。私は、清濁併せ呑んで地道にシステムを支えてくださっている方には常に敬意を払います。

ですが、Naokiさんのように良心的な仕事をなさっている方は、私が直接・間接に知る限りまだ少ないように思えます。特に質的研究、ナラティブ、社会科学系、哲学系などのアプローチで英語教育学系の学会誌に投稿した場合、明らかにレフリーが無知であるがゆえの無理解な門前払いが多くあります。その多くは、一、二行のコメントだけでこれらの新しい研究アプローチを切り捨てているものです。私自身もこれまでそのような無理解で無慈悲なコメントをもらったことは複数回あります。

これまで以上に業績主義になっている昨今、学会誌のレフリーというのは、密室の強大な権力者になっています。私は昔、上のようなコメントをもらった時も声をあげようと思いましたが、将来のことを懸念して、声を封殺してしまいました。今も昔の私のように声を抑圧してしまう人は多いと思います。しかしそれは声の抑圧だけでなく、就職や昇進といった研究者にとっての(生臭い)現実問題になっているわけですから、やはりここでは声を上げ、ある意味「戦い」すら始めなければならないと思います。そうしないと研究活動が、風見鶏的、長いものには巻かれろ式のものになり、英語教育研究は、社会に貢献できなくなります。また学界自体もダイナミズムを失い停滞すると思います。

もちろん査読というのはやっかいなものです。国際誌でも国内の他分野の学会誌でもさまざまな問題があることを私も承知しています。またNaokiさんが懸念するように、投稿者というのはおそらく常に自分の論文に自信をもって投稿するわけですから、採択不可については、常に不満が残るでしょう。

しかし、査読者は、強大な密室の権力者という社会的責任を自覚するなら、採択不可の者にも、きちんと納得してもらえるように具体的にどこがよくないのかを指摘する必要があります。私も時にゲストの査読者として査読をします。採択不可を告げるときには、特に念入りに査読コメントを数ページにわたって書きます。また採択可・一部書き直しを告げるときにも、必ず具体的にコメントを書くようにします。いずれにせよ、私は投稿者にいつ査読者が柳瀬という人間であるとわかってもいいように、事実と論理に即して、言葉遣いは丁寧にコメントを出します。ですから、正直、査読はやりたくありません。シンドイからです。しかし私が納得できる具体的な理由で査読を求められたらやります(私が査読できる分野でなければ誰の依頼であれ断ります)。こういったことは当たり前のことだと思うのですが、英語教育界は、まだまだ「読むべき人」が読んでいないことすら珍しくないのではないでしょうか。査読者は社会的な責任を強く自覚しておかないと、匿名の密室空間では、人間は気づかぬうちに権力の乱用をしてしまいます。このあたり、Naokiさんのような具体的なシステム構築が強く求められるかと思います。

と、再反論をしましたが、Naokiさんの常日頃のご尽力と、わざわざコメントを下さったことには感謝しております。こういった複雑な問題に関しては、複数の異なる立場からの正直な意見表明が重要だと思います。お互い異なる立場から、学界の改善を試みましょう。



追記(2008/09/05)

Naokiさんより再びコメントをいただきましたので下に掲載しました。皆様もぜひお読み下さい。Naokiさんの丁寧なコメントに感謝し、さらに彼の良心的な学会誌運営のご努力に心からの敬意を表します。

Naokiさんの再びのコメントで私の無知もかなり正されましたが、特に(1)いいかげんな投稿も少なくないこと、(2)査読を引き受けるような人材を研究者養成機関は育成しているか、という点には特に考えさせられました。

(1)に関しては、「誤字脱字やスペリングミスの単純なミスが10を超える論文、および参考文献や論文スタイルが当学会の規定に合致していない論文は、査読をしない」と学会の規約に明文化することはできないのでしょうか。これは社会的に妥当な規約だと私は考えます。

(2)に関しては、本当に懸念し、具体的な行動を起こしてゆかねばなりません。話を大きくしてはいけませんが、「新自由主義」があまりにも時代のイデオロギーになり、「個々人が利己的に行動して自己利益の極大化に勉めれば、よりよい社会ができる」という命題が経済活動を超えて適用され、本来なら公共性を一義にしなければならない分野(研究や教育はその代表例)の営みを損ねているように思えます。その大きな流れに、少しでも抵抗しなければならないと思います。特に私の立場ではその責任は大きいかとも思います。

なお、査読論文数が二桁におよぶという査読者の存在には驚きました。そういった方は本当に大変だと思います(少し多すぎるのではないかと思いますが、引き受け手がいない以上、そうならざるを得ないのでしょう)。ただ最近知己を得た米国の研究者の方は「査読をすると、最新の研究状況がわかるから勉強になる。でもまあ、最近は歳をとってきたので、自分が本当に興味ある論文しか査読しないようになったけどね」とおっしゃっていました。この場合は、投稿される論文の質が概して高いので、査読者も査読をそれなりに楽しんでいるのでしょう。この点、日本の場合は、まだまだ投稿論文の質が低い場合が多く、査読者の徒労感を増しているのかもしれません。私も含め、投稿者には猛省(「投稿者の良心・自覚」)が必要ですね。

あと私は(も?)これ以上の「蛸壺的な学会乱立」には賛成できません。ますます日本の英語教育界のパワーが分断され、落ちてゆくばかりになるのではないかと思います。むしろ現存の学会ですら統合して、事務局機能は専従の事務職員を雇用し、彼/彼女らにプロとしてやってもらうぐらいのことが望ましいと考えています(しかし学会統合などは、それぞれの学会の重鎮などがとかく反対する傾向にあると思っていますので--間違っていたら謝ります--このシナリオには十分な計画が必要かと思います)。

いずれにせよ、Naokiさんの再投稿に感謝します。

もし他の方も、異なる立場からのご発言がありましたら、歓迎いたします。社会的マナーさえ守っていただければ、コメントは掲載しますので、よかったらコメントをお願いします。



追記
「女教師ブログ」におけるこの記事へのコメントをぜひご参照下さい。
http://d.hatena.ne.jp/terracao/20080906/1220641636

2008年9月2日火曜日

寺島隆吉『英語教育原論』明石書店

AILA2008に参加しました。感じたことの一つは、(第二)言語教育に関する経済的、政治的、社会的分析が多いこと、(第二)言語教育研究として英語以外の言語も多く対象になっていることといった、いわば当たり前のことが当たり前になされていることです。日本にいますと、第二言語教育学界とは心理学研究の植民地のようであり、いかにして「英語」という唯一の第二言語を効率よく教えるかという発想でしか物事が語られない場合が多いので、AILA2008のように当たり前のことが当たり前に研究され、語られているところに行きますとほっとしました。

経済・政治・社会といった観点からの研究は、心理学的研究と並んで、いやおそらくはそれ以上に重要です。言語そして教育が複数の人間による営みである以上、個人あるいは個体の認知メカニズムだけを対象とする心理学ばかりが第二言語教育研究であるといわんがばかりの日本の英語教育界(特に学会誌のレフリーの感覚)は明らかに偏っていると思います。

経済というお金の流れに基づく営み。政治という権力と権利に関わる営み。社会というコミュニケーションによって構成される営み---これらにはそれぞれの分析が必要です。英語教育という総合的な営みを解明するには、これらの分析を一つずつ丁寧に積み重ねて、多角的・多層的に現象を見ようとする知的忍耐が必要です。

寺島隆吉先生の『英語教育原論』(明石書店)―ちなみに明石書店の代表である石井明男氏は「アジアのノーベル賞」とも言われるラモン・マグサイサイ賞を受賞(2008年度)しました—は、この意味でやはりどうしても読んでおくべき本でしょう。私はこの本を今年度の『英語教育増刊号』「英語教育図書 – 今年の収穫・厳選12冊」の中の一冊に選びましたが、日本の英語教育界の体制の偏りと老体化を様々な機会に自分自身も感じ、また驚くぐらい多くの人からもそう告げられたので、ここでこの本を紹介することにします。


教育は政治に振り回されていないか。政治は経済に操られていないか。そうして英語は商品となり、英語教師は無自覚なセールスマンとなっていないか。いや、その「商品」に興味を示さない学習者を「おちこぼれ」と呼んで切り捨ててしまう、セールスマン以下の存在になっていないか。このような時代に英語教師がなすべきことは何なのか—ぜひ本書をお読み下さい。

⇒アマゾンへ



追記
こういった意味でも、9/15の慶應大学シンポジウムはぜひ注目したいと思います。参加ご希望の方は、http://oyukio.blogspot.com/2008/08/blog-post_819.html へアクセスしてください。

9/20(土)山口市に田尻先生、阿野先生、久保野先生、松井先生が集合!

下記のお知らせをいたします。超豪華講師陣です。また席に余裕があるとのことですので、どうぞ今すぐお申し込みください。


「第1回 山口県英語教育フォーラム 〜英語授業維新はここから〜」

(主催)長州英語指導研究会

(協賛)山口県鴻城高等学校 ベネッセコーポレーション

開催日時:2008年9月20日(土)10時00分から16時00分頃(受付開始 9時30分〜)

開催場所:山口グランドホテル 所在地:山口市小郡黄金町1-1(JR新山口駅新幹線口下車徒歩1分)

主な内容:

Ⅰ.松井孝志先生(山口県鴻城高等学校教諭)ご講演

「アウトプット活動のABC to XYZ〜中学の入口から高校の出口まで」

Ⅱ.久保野雅史先生(神奈川大学准教授)ご講演

「コミュニケーションと大学受験は両立できる〜ことばの授業として高校英語を再構築する〜」

Ⅲ.阿野幸一先生(文教大学准教授)ご講演

「ラジオと授業で力をつける〜『NHK基礎英語3』の300%活用法」

Ⅳ.田尻悟郎先生(関西大学教授)ご講演

「英語授業を根本から見直す〜常識を疑うことから始まる授業改革; Chaos からCosmosへ」

Ⅴ.ベネッセコーポレーションからの情報提供

Ⅵ.情報交換会

     

※適宜休憩がございます。

※参加費は無料です。

※本会では交通費のご用意をしておりませんので、予めご了承ください。

※席には限りがございます。予定人数を超えるお申し込みがあった場合にはお断りをすることがございますので、あらかじめご了承ください。

※山口県内の参加者のお問い合わせ先は下記の通りです。(開催場所のホテルへのお問い合わせはご遠慮下さい。)

(株)ベネッセコーポレーション 岡山本社営業課 山口県担当 近江(おうみ)TEL:0120−350455

※※山口県外の参加希望者は、長州英語指導研究会・事務局長(松井孝志)までご相談下さい。

メールアドレス:tmrowingアットマークnifty.com

ファイル公開

この度、ブログに掲載しにくいファイルをFILEBANKのサービスを使って公開することにしました。当面は、私の研究発表や講演で使ったファイル、および私がお勧めする各種お知らせのファイルなどを公開することにします。ご興味のある方は、下記のやり方でファイルをダウンロードしてください。面倒くさい手続きのように思えますが、一度やれば簡単な手続きであることが判明すると思います。


(1) http://www.filebank.co.jp/guest/yosukeyanase/dp/public にアクセスしてください。
(2)下の情報を入力してください。
  1.招待されたゲストフォルダ設定場所:ディスクプランフォルダ
  2.招待されたゲストフォルダのID : yosukeyanase
  3.招待されたゲストフォルダのゲストフォルダ名:public
  4.招待されたゲストフォルダのパスワード:public
(3)「ゲスト環境設定」のアイコンをクリックして、「ブラウザーモード」を選択してください。
(4)ダウンロードしたいファイルにチェック印を入れてください(PRファイルは無視してください)。
(5)「ダウンロード」のアイコンをクリックして、「各駅ダウンロード」を選択してください。

現在、とりあえず全国英語教育学会問題別討論会で使用した私のパワーポイントファイル、および各種お知らせのワードファイルを掲載しております。研究関連のファイルは基本的にずっと掲載し、お知らせのファイルは期日が終われば削除する予定です。

中国新聞社HPキャンパスリポーター募集

広島大学の学生さん、および「教育ネットワーク中国」加盟大学の学生の皆さん、中国新聞社HPに記事を寄稿する「キャンパスリポーター」になりませんか?


概要は次の通りです。

■趣旨
中国新聞社は10月、ホームページの中に中国地方の大学生に情報発信してもらう新サイトを立ち上げます。学生の皆さんに「キャンパスリポーター」になっていただき、メールで送信してもらった記事と写真をサイトにアップ、場合によっては紙面など別の媒体にも掲載します。従来から取り組んでいます市民記者「タウンリポーター」の学生ウェブ版となります。新聞社と大学との連携協力の一環に位置づけ、キャンパスなどでのニュース、話題を広く読者に提供し、大学への関心を持ってもらうとともに、学生に知識や経験の幅を広げてもらう趣旨です。この役目を担ってくれる学生を募ります。

■業務
取材対象は、通学する大学内や居住地周辺の出来事や話題です。例えば大学祭の準備、級友のボランティア活動、サークル活動の紹介、留学生との交流会、自治会活動への参加体験、お店の紹介、学長・学部長インタビューなど、「興味がある」「気になる」「知りたい」をキーワードにしてください。パソコンや携帯電話から記事と写真を送信してもらいます。担当デスクが取材の事前相談や記事の書き方、取材や写真撮影のアドバイスにも応じます。記事は新聞記事用字用語の基準に沿って手を入れさせていただきます。記事の分量は1本で300文字以上が目安です。記事の末尾には名前を入れさせていただきます。動画撮影も歓迎します。

■謝礼
委嘱後、リポーター証(顔写真付き)、名刺を支給しますので、取材に活用してください。当社規定に基づき、掲載された記事の本数に応じ、謝礼(原稿料)をします。



詳しくは、下記の要領で関連ファイル(二つ)をダウンロードしてください。

(1) http://www.filebank.co.jp/guest/yosukeyanase/dp/public にアクセスしてください。
(2)下の情報を入力してください。
  1.招待されたゲストフォルダ設定場所:ディスクプランフォルダ
  2.招待されたゲストフォルダのID : yosukeyanase
  3.招待されたゲストフォルダのゲストフォルダ名:public
  4.招待されたゲストフォルダのパスワード:public
(3)「ゲスト環境設定」のアイコンをクリックして、「ブラウザーモード」を選択してください。
(4)ダウンロードしたいファイルにチェック印を入れてください(PRファイルは無視してください)。
(5)「ダウンロード」のアイコンをクリックして、「各駅ダウンロード」を選択してください。

若い力を育てよう

この夏、いろいろな英語教育関係の学会に行きましたが、そこで驚くほど多くの人から異口同音に、日本の英語教育界の老体化と硬直化に対する危惧を聞きました。私がAILA2008で感じたことの一つも、「威張る人がいない学会っていいな」といったことでした。このように低次元なことで喜びを感じなければならないところに日本の英語教育界のいびつさを感じます。

どうも日本の英語教育界には、真摯で純粋な探究よりも、権威と肩書きが大切と考えている人たちが多すぎるように思います。その方々の言動を見ていると、いかに自分の権威と肩書きを振り回し、周りにそれを認知させるかに汲々としているようにすら見えます。発言の仕方も真理と正義は自らにあることを当然の前提として発言します。それは「質問」や「コメント」でなく、「ご指導」といった体裁をとります。私の友人はぼそっと「あんな歳の取り方はしたくないな」とつぶやきました。私も同感です。

もちろんその発言の内容が的確なものでしたら、周りもそれを歓迎するでしょう。しかし残念ながら私の知人・友人が伝えてくれる事例、および私が見聞きした事例でも、発言内容は旧態依然とした考えを繰り返すだけの的外れなものが多く、ここ5年、10年で生じ、深化した新しい考えや感性に基づいて発表した若い人は、ただうなだれて「ご指導」が終わるのを待つ、あるいは体良くかわすことだけに終わっていたように思います。そこに学究的な言語ゲームは展開されません。生じていたのは凡庸な権力維持の言語ゲームです。

これでは学界の若い力が育たないのではないでしょうか。いやむしろ抑圧してしまうのではないでしょうか。自分自身、四十代という「中堅」世代になるにつれ、先達の仕事というのは、若い力を育てながら、若い力に学ぶことだと思い始めました。若い感性と思考の萌芽の可能性を鋭敏に感知し、その面白さを引き出し、自らもそこから学びながらも、その若さがもつ未成熟な点を指摘し、共に学界に新しい流れを作り出すことが、学界人が年を重ねるごとにやらなければならないことだと私は考えます。

私がこのような発言をすることで、一部の人々は烈火のごとく怒り出すかもしれません。私はその怒りを正面から受けとめます。このような考えを持つのは私一人でなく、多くの人々が私的な場でこのような考え(というよりも嘆き)を表明していることを私は知っています。私は、その一人として、このように開かれた場所でこのように発言をします。どうぞご反論などございましたら、コメントをお寄せ下さい。このブログに掲載させていただきます。

私が参加したある学会の懇談会に若い人たちの姿が少なかったことにも私は懸念を覚えました。若い人たちが進んで参加し、どんどん会話を楽しむような雰囲気を学会は作り出さないと、その学会は凋落するばかりではないでしょうか。

その点で9/15の慶應シンポの後に開催される懇親会(主催 大学院生 伊藤健彦さん)は注目に値します。誰でも忌憚なく話ができる懇親会、誰も威張る人がいない懇親会を楽しみましょう。「若手の研究者、院生、学部生、先生方、一般の人々を歓迎いたします」とありますが、自らの心の中の若さを失っていない方ならどなたでも歓迎されると確信しております(だから私も参加します 笑)。どうぞシンポに参加される方、いや参加されない方でもぜひこの懇親会には参加してください。

少しずつ、様々なやり方で、若い力を育てましょう。

懇親会の詳細は
http://oyukio.blogspot.com/2008/08/915_27.html
をご覧下さい。


追記
書いた後に思ったのですが、やたらと威張ろうとする人、自分の権威・権力を増大させることばかりに熱心な人は若い人にもいます。端的にいうなら私はそのような若者は嫌いです。過去の自分自身を思い出すからです。