2007年10月24日水曜日

Plagiarismについて

学部生と話をしていると、彼/彼女らがほとんどplagiarismについて理解していないのでちょっと驚いてしまいました。ひょっとして情報(の価値)に関する感性が、私たち古い世代と異なっているのだろうか。

学部生の皆さん、下のようなサイトをみてplagiarismについて勉強してね。

Plagiarism.org

Purdue University + this

(The Purdue OWL (Online Writing Lab)はブックマークして時折参照する価値あり!!)

Georgetown University

Wikipedia

慶応義塾大学

2007年10月19日金曜日

Safari 3が生み出すアフォーダンス

Questiaはやはりいいです。検索エンジンは必ずしもそれほど賢くないかもしれませんが、有名な本でしたら、HomeのBrowse the Libraryから入れば大抵ヒットするのではないでしょうか。

「ウェブがプラットフォーム」というのはWeb.2.0の特徴の一つですが、だんだん私もその感覚がわかるようになってきました。と言いますのも、これまではネットでよい論文などを見つけたら、とにかく自分のPCのハードディスクにダウンロードしていました。しかし、このQuestiaにしても、この夏のPCクラッシュに懲りて使い始めたGmailにしても、使い始めたら、自分のデータはウェブの仮想空間に置いておき、検索でいつでも自由に取り出すという発想と行動に私は促されてゆきました。

道具や環境に促されて行動が生じるというのが(少なくとも通俗的な)アフォーダンスの考えでしょうが、コンピュータも独自のアフォーダンスを我々に提供し、我々の思考と行動、ひいては教育や学習のあり方も変えるというのは、Klaus Schwienhorst先生の主張でもあります。


私もQuestiaからの英語をあれこれ読んでいるうちに、英語を読むことに対する欲求が高まってきたことに気がつきました。そこで思い出したのが、先日、マック・ユーザーの友人に勧められたブラウザーのSafari 3(英語版)です。

英語のフォントが非常にきれいで読みやすいのですが、総合的な使い勝手でしたらFirefox 2 + Google Toolbarの方がよいので、私はダウンロードしたSafari 3を使わないままにしていました。ですが、Safari 3を英語閲覧専用ブラウザーとして使うことを思いつきました(Firefox 2 + Google Toolbarが常用ブラウザーで、各種申込などをする時には必要に迫られてInternet Explorerを使用するという使い分けです)。

Safari 3でQuestiaが一層読みやすくなり、そのアフォーダンスで、英語を読むことのモチベーションがさらに高まりました。私は(おそらく他の多くの人と同じように)仕事に疲れたら、有益なサイトにアクセスして、休憩時間を過ごすことが多いですが、これまではどちらかというと日本語のサイトばかりにアクセスしていました。そこをSafari 3は英語閲覧専用と決めてしまうと、Safari 3をさらに自分用にカスタマイズしようという気持ちになり、Safari 3の常設ブックマークバーに次のサイトを登録しました。


Edge

National Public Radio


To the Best of our Knowledge


Wired

CNET

London Review of Books

New York Review of Books

New York Times (Books)

OPAC海外ジャーナル(広島大学図書館の契約で各種学術誌がダウンロード可)

Wikipedia

Stanford Encyclopedia of Philosophy

Google Scholar

Google Book Search

Amazon.com

Questia

The Purdue OWL (Online Writing Lab)

およびSafari 3に元からついている各種英文ニュースサイト


私はQuestiaを除くこれらのサイトを以前から知っていまし、ブラウザーにも私の旧ホームページにも登録されていましたが、あまり読もうという気になれませんでした。しかし、このようにカスタマイズしたSafari 3の快楽は強烈です。クリック一つでサクサクと、質の高い英文が、視覚的にも美しく読めます。Safari 3で、私は新しいおもちゃを手にした子どものようにはしゃいでいるだけなのかもしれません。でもこのアフォーダンスは、私の思考や行動を変えるような気がします。

2007年10月18日木曜日

Questia 英語の学術書がウェブで読み放題!

私のウェブ生活で最大の衝撃で最大の喜びかもしれません。
Questiaはどんなに少なく見積もっても、私にとっては、アマゾンやグーグルの登場に匹敵すると思います。

人文社会系の、67,000冊以上の英語の学術書、155,000本以上の英語論文、185,000本以上の英語雑誌記事、110万本以上の新聞記事が、年間99.95ドルで、ウェブで読み放題、デジタル加工し放題です。特に学術書がありがたい。(先ほど加入したら、なんと生涯で399.95ドルというコースも出てきました。次の更新の時にはこれにしようと思います。ほとんどタダ同然ではないですか!)

ウェブにアクセスできる場所が、どこでも24時間営業の自分専用の英語の図書館に変身する以上の便益が得られるというのが誇張ではありません。ヴァーチャルに自分の本棚ができて、しかもその本にアンダーラインがいくらでもひける!本の中での語句検索も一発だし、ノートもとれるし、何より、引用がコピー・アンド・ペーストだけですぐにできる!

このサイトは、この夏のPCクラッシュ以来、アクセスするのを忘れていた「揮発性メモ」で知りました。そこで紹介されていた「尼克拉斯魯曼全百科」がこのQuestiaの簡単な解説をしています。日本語の解説としてはこういうサイトもあります。

私はグーグルの「図書館デジタル化プロジェクト」に驚いておりましたが、一足先にこの夢は実現されました。

このように革命的なことをやってのけるアメリカのダイナミズムはすごいと思います。またこういった動きによって、英語での学術活動は、人文社会分野でも他の言語での活動とは比較できないぐらいの優位性を持つことなるのかもしれません。

2007年10月16日火曜日

西垣通『ウェブ社会をどう生きるか』岩波新書

「情報化」という言葉は1980年代から使われてきた言葉で、少々古ささえ感じられますが、その意味するところは変遷してきているように思います。とても乱暴な区分けをしますと、80年代はマシンの時代で、ワープロを卒業して、NECの98マシンを買うかIBMコンパチのマシンを買うかマックを買うかというのが大問題でした。マシンがプラットフォームでした。90年度はパッケージ・ソフトの時代だったとは言えなかったでしょうか。Windows95が発売され、Wordを使うか、WordPerfectを使うか、一太郎を使うか、(あるいはやっぱりマックにするか)で私たちは迷ったりしていました。といいますのもパッケージ・ソフトがプラットフォームだったからです。そして2000年代、プラットフォームはウェブに移りつつあるようです。もはやウェブにアクセスさえできればかなりのことができてしまうからです(代表例は、もちろんグーグルが無料提供する各種サービスです)。

 このように情報化の中心が、マシン→パッケージ・ソフト→ウェブと変遷するにつれて、要求される知性は、テクニカルなものから一般的なものへと移行しているように思いえます。今やマシンを持って、パッケージ・ソフトを操れるだけではあまり意味がありません。ウェブを駆使してさまざまな仕事や活動を遂行できる人間的な知性が現在は求められているのではないでしょうか。(この「情報化」によるマシンの「人間化」を通じて、人間も「マシン化」し、今や人間とマシンは混交体になっているとも言えるでしょうが、それはまた別の話として)。
このように人間的で一般的な知性が、現在のウェブ社会では必要とされているという認識は、案外に共有されていないのかもしれません。西垣先生はこの点を情報論の立場から説明します。

情報はAさんからBさんへ小包のように移動して伝達されるものという通俗的なコミュニケーションを批判して、西垣先生は、「人間の心は、情報という実体を「入力」されるのではなく、刺激をうけて「変容」するだけなのです」(14ページ)と述べます。この考えの背後にはルーマンの哲学などがありますし、私は関連性理論で考えてもわかりやすいと思いますが、とりあえず西垣先生の論を追ってゆきましょう。

西垣先生は、情報とは、ある種の「パターン」(形相)であり、質量もエネルギーもないものであり、さらに注意すべきは、パターンとは「客観的存在ではなく、観察者とワンセットになった主観的存在」(17ページ)であると定義します。つまり、「情報とは生物が世界と関係することで出現するものであり、具体的には生物が生きる上で「意味のある(識別できる)パターン」(18ページ)というわけです。これを西垣先生は、もっとも「広義の情報」である「生命情報」(life information)と呼びます。

ところが世間で「情報」といいますと、デジタル信号のような「機械情報」(mechanical information)(最狭義の情報)や、人間の社会で通用している定められた形の「社会情報」(social information)(狭義の情報)ばかりを意味しています。こういった意味での「知識社会」や「高度情報通信社会」には「情報を、生物が環境とむすぶダイナミックな関係ととらえる視点がないのです」(33ページ)

ここでの大きな主張は、コンピュータは人間の知性にとって代わらないということです。露骨な言い方をしますと、最新のパソコンをウェブにつないだだけであなたが賢くなることはないということです。むしろあなたは多くの「社会情報」に振り回されて、自ら考えることが困難になってしまうかもしれません。

真のアイデアを練るには情報は少ない方がいい、という逆説さえ成り立つのです。
生物でないコンピュータには、情報の重要性を判断することなどできません。研究を進めていけばやがて情報の “意味”を直接理解できるようになる、といったことも期待できません。むしろコンピュータには、われわれ人間が身体的に多様な情報にふれ、想像力を活性化できうるような “場” を準備させるほうがよいでしょう。そこでは、文字テキストのみならず、画像・音声・動画映像などを自在に処理するマルチメディア技術が活躍するはずです。



なるほど、コンピュータを、人間にとって代わる人工知能として考えるのではなく、人間に様々なアフォーダンスを与え、思考や判断などを促すメディアとして考えるということでしょうか。
 「情報化」の時代にこそ、振り回されず、じっくり柔軟に考えることが大切なのかもしれません。

⇒アマゾンへ

2007年10月10日水曜日

「英語科における論理的思考力」とは何か

仕事の上で敬愛する指導主事の先生から、以下のような問いかけをいただきました。

中学校で英語科授業に対して助言を求められるとき、「英語科における論理的思考力」とは何か、という質問をよく受けます。
私たちはこの問題について、どのように考えていけばよいですか。
このことは、私たちのよく使う表現である「思考力、判断力、表現力」とも関わってくる部分だと思います。
簡単なことばで御教授ください。よろしくお願いいたします。


このような根源的な問いかけは、やはり重要なことだと思います。私が決定的な回答をできるとは全く思いませんが、私なりの考えをここに仮説的に提示し、皆さんのお考えを促す一助とさせてください。

私の回答は以下の通りのものです。


「英語科における論理的思考力」とは、相手の発話を、自分の先入観に惑わされずに、第三者にも納得してもらえるような理解ができるように聞き取り・読み取ること、および、相手の考えを読んだ上で、相手も第三者も納得するように話し・書くことであるとここでは定義します。決して、自分勝手に相手を曲解して聞き・読むことでも、自分が思うがままに話し・書くことではありません。相手の心を読み取った上で、相手が納得するような談話(discourse)ができることが、「英語科における論理的思考力」だと考えます。

この際のキーワードの一つは「納得」です。納得とはコミュニケーションの当事者だけでなく、コミュニケーションを横で見守る(かもしれない)第三者(他者)にも共有されるものでなくてはなりません。そのように共有される納得とはどのようなものかを知るためには、現代社会の人々は英語でのコミュニケーションを通じて、どのように納得しようとしているかという言語使用の実際を知り、その知を自らの言語使用においても創造的に使いこなせることが必要になってきます。「英語科における論理的思考力」を指導するために、英語教師は自己研修として、現実世界の英語を通じての相互理解の実態を観察し、可能な限り、その相互理解のためのコミュニケーションに参画するべきでしょう。教師のその実践知を背景にしながら、英語の文法・語彙・ディスコース・社会文化的知識・語用論的知識などを生徒に統合させ、相互の納得を目指した英語使用を促進してゆくことが英語科での「思考力、判断力、表現力」を育てることであり、「英語科における論理的思考力」を指導することではないでしょうか。

この「納得」とは、第三者も含んだ相互理解、客観的な相互理解、あるいは共同主観的な相互理解、コミュニケーション実践の共同体で認められる理解、などとも言い換えられるかと思います。いずれにせよ大切なことは、独りよがりの理解でもなく、密室状態での当事者間だけでの理解でもなく、開かれて共有されうる理解であるということです。「納得」してもらえる英語使用をするためには、英語コミュニケーションの実践共同体を想像し、その想定から反省的に思考し、判断して、表現を決めることが必要となります。ちなみにこのような「納得」は、従来のaccuracyとfluencyといった評価の枠組みでは適切に扱われていません。ただ文法的に正しく、饒舌にペラペラと自分の言いたいことだけを言いたいように話すだけでは、英語コミュニケーションの実践共同体での認知と尊敬は得られません。もっと地球規模までに広がる英語コミュニケーションの実践共同体の実態を踏まえた「英語科における論理的思考力」を構想することが重要だと私は考えます。


できるだけ「簡単なことば」で書こうとしたつもりですが、これまた単なる自己満足の作文になっているのかもしれません。まあ、ですが、とりあえず文章をアップロードする次第です。