『英語狂育通信』2014年4月1日号
「もはや英語狂育は資格試験得点競争としてしか認められていない。今や人を育てる営みではなくなっている」と舌鋒鋭く批判するのは東広島大学狂育学部の柳瀬妖介狂授。「果て無き資本主義的競争の限界を直感的に感じ取っている子どもや教師こそ今や英語狂育の歪みに苦しんでいる」と狂授は分析する。人間を育てるための英語狂育の再建を目指す狂授にインタビューした。
編集長(以下、編):本日はお忙しい中、ありがとうございます。早速ですが、英語狂育の現状に関する狂授のご意見をお聞かせください。
狂授(以下、狂):うむ、今や大局を見定めるべき政治家、官僚や、研究者までもが、「グローバル化」という言葉に踊らされて、新自由主義的発想に取り憑かれておる。これが現状ぢゃ。
編:新自由主義的発想といいますと?
狂:いちいち教科書的説明までせんでもよかろうから、簡単に述べると、資本主義的競争を善と定めてしまい、さまざまにあるべき人間の営みをすべて、個人間の数量の競争に変えてしまうイデオロギーぢゃ。
編:それが英語狂育にも蔓延していると。
狂:文化省の施策を見よ。資格試験の点数で「結果」を出すことをますます奨励しておる。発言力の大きなビジネス界の改革論者の熱気にあてられて、静かに国民の生活を守るべき政治家や官僚までもが目をつり上げておる。もはやこの国に良識ある保守派はおらん。「保守」を自称する者は、新自由主義的競争で企業を助けて国民をくじく成長論者か、己の不全感を特定の国に対する嫌悪感の表明でごまかしておる言葉の暴徒ぐらいぢゃ。
編:しかしそれが大きな流れとしたら、英語教師としてはどうすればいいのでしょう。
狂:まず個人としてはこの時代の歪みを冷静に見定めることぢゃが、教師は子どもに関わる仕事ゆえ、何よりも授業改善をせねばならぬ。
編:私たちもそのお話を聞きたく思っております。
アシスタント(以下、ア):実は狂授のお話は最近抽象的になりすぎているので、編集部でも困っているんです。
編:こらっ、黙っていなさい。
狂:(アシスタントの女性をぎろりと睨み)ふっ、所詮天才というのは世間には理解されぬのぢゃ。
ア:理解されないのでしたら、変人もそうですけど。
編:こらっ!
狂:(編集長に対して)まあ、言わせておきなさい。それよりも授業改善の話ぢゃったの。
編:そうです。
狂:まあ、具体的なテクニックは後で言うこととして、先に背景を説明させてくれんかの。もっともこのお嬢ちゃんには難しすぎるかもしれんが、儂もできるだけわかりやすく説明する。背景を知らなければテクニックなど、誤用されるばかりぢゃからの。
編:どうぞよろしくお願いします。
狂:うむ。儂が人間性を回復する授業改善を考えた時に、やはり無視できなかったのは、人間性を全体的にとらえたユソグの思想ぢゃ。
編:誰の思想?
狂:ユソグ。
編:ゆすぐ?コップか何かをですか?
狂:ユソグ!
編:・・・
狂:ユ ソ グ!
編:(数秒の沈黙の後)あの~、私、先生のお言葉を頭の中で活字化してようやく思いつけたんですけど、ひょっとしてそれは心理学のユングと文字面で見間違えさせるために考案した先生のジョークか何かでしょうか。
狂:ほう、お前さんもユングとユソグの関係を知っておるのか?
編:いえ、一ミリたりとも知りません。
狂:いやいや、この場合、無知は恥ずかしいことではないぞ。ユソグのことは、ユングの高弟しか知らんのぢゃ。ユソグとは、ユングのドッペルゲンガー、つまりは分身だったのぢゃ。ユングはフロイトと決別した後、精神的危機に陥ったことぐらいはおヌシも知っておるかもしらんが、実はその頃からユングは、ユソグと名乗る自らの分身に出会うようになったのぢゃ。
編:そんな話は聞いたこともありません。
狂:はっはっはっ。それはそうぢゃろう。実はユングの晩年の著作もすべてユソグに教えてもらったことをユングが筆記しただけぢゃったから、ユングはユソグのことを高弟以外には決して語らなかったのぢゃ。そして、このことをユングの死後以降も絶対の秘密にするよう命じたのぢゃ。
編:それならどうして先生がそのことをご存知なのですか?
狂:うむ、儂がユングの本を読み理解するにつれ、その理解のあまりの精確さにユングが驚いたのぢゃろう、ユングが霊界からやってきて儂に告白したのぢゃ。
編:馬鹿な。大○隆○じゃあるまいし。
狂:これっ、その手の固有名詞には気をつけんかい!
編:でも馬鹿げていますよ、分身だなんて。だいたい分身といえばですね・・・う~ん、これを言ってしまっていいのかどうかわかりませんが、私にはどうも狂授こそ誰か他の人の分身のような気がするんです。
狂:何をたわけたことを言っておる。
編:狂授はどうも実在の人物の分身、いやパロディというか、何というか、どうも狂授には実在感がないんです。いや、実在感といえば、私自身だって、どうも自分が実在の人物ではなく、誰かの妄想の中で作られた虚像にすぎないような気がして・・・
狂:話をメタメタにするのはやめなさい。
ア:それって、メタレベルの話をさらにメタレベルで語るなって意味のジョークですか?メタのメタでメタメタとか?
編:なるほど、狂授の本当の姿というメタレベルの話を語る私も実は虚像だったというメタ?メタレベルの話という意味のね。
狂:そうなるとまとまる話もまとまらんようになるぢゃろうが。
編:いや、小説の中で語り手がメタ的に登場するというのはここ一、二世紀ではまったく珍しいことじゃありませんから。
狂:(顔を真赤にしながら大声で)今日、耳、日曜!今日、耳、日曜!今日、耳、日曜!
編:まあ、いいでしょう。でユソグでしたね。
狂:そうユソグぢゃ。
編:でもユングの著作がすべてユソグのアイデアによるものなら、一般に知られているように、それはそのままユング心理学と呼んでもいいのではないですか?
狂:いや、ユソグにはユングにも明かさなかったアイデアがあり、儂はそれをユソグから直接聞いたのぢゃ。
編:はいはい、霊言としてですね。
狂:そこはあまり強調せんでもよい。固有名詞が儂は怖い。
編:で、それを背景とした上でお尋ねしますと、具体的にはどのような授業方法があるのでしょう。
狂:そうぢゃの、たとえばシャドウイングじゃ。
編:えっ、通訳訓練から有名になって、今では誰でも名前ぐらいは知っているあの方法ですか?
狂:おう、そうぢゃった。俗世間ではそちらのシャドウイングの方しか知られておらぬのぢゃった。あの金魚のフンみたいに言葉を続けるやり方のことぢゃったの。儂のいうシャドウイングとはそれとは違う。う~む、仕方ない、それと区別するため、儂の方のやり方は「ザ・シャドウイング」と呼ぶことにしよう。
編:いいでしょう。で、そのザ・シャドウイングとは具体的にはどんなやり方ですか?
狂:そうぢゃの、例えばここに教科書の英文がある。毒にも薬にもならんような英文じゃが、お前さん音読してみるがよい。
編:”When spring comes, everything becomes fresh. You meet new people, and make friends with them.”
狂:今度は儂がそれをザ・シャドウイングしてやる。おヌシはもう一度読むがよい。もっとも今度は、儂がその直後に何か言うがの。
ア:ちなみに、編集長の直後に続く[ ]の中にあるイタリックの英語が狂授の言っている「ザ・シャドウイング」です。
狂:これ、お前は誰に話しかけておるのじゃ。まるでテレビカメラに向かって語るみたいに。話をメタメタにするなと言ったぢゃろうが。
ア:だって読者にとって便利なんですもの。
狂:まあよい。ほれ、編集長、早く始めんかい。オヌシがもたもたしておるからこのお嬢ちゃんがいらぬことを言いよった。よいか儂がオヌシの後にすぐ言葉を足すからの。
編:はい。わかりました。それでは行きます。
When spring comes, [If spring ever comes,]
everything becomes fresh. [you’ll only be deluded.]
You meet new people, [You meet a new source of troubles,]
and make friends with them. [and regret that you were ever born.]
ア:はぁっ?
狂:これがザ・シャドウイングじゃ。
編:先生、なんですか、これは。
狂:ザ・シャドウイングと言ったぢゃろうが。
編:何か、ねじ曲がった暗いことを言っているだけじゃないですか。
狂:これを即座に言うには、相当な英語力がいるぞ。
編:英語力以上に、相当なねじ曲がった根性と暗?い人生観が必要です。『さよなら絶望先生』の方がまだ愛嬌がある。
狂:ふっ、おヌシはやはりユソグ心理学を理解しておらん。いや、ユング心理学ですらわかっておらん。
編:どういうことですか。
狂:よいか、ユングですら「影」のことを言っておった。英語でいうなら「シャドウ」ぢゃ。個人の人格の中で発達できていない部分が影で、それはしばしば外界に投影され、その人に強い感情的葛藤を生じさせるのぢゃ。
編:と言いますと・・・
狂:例えばオヌシにも、妙に気に障る奴がおらぬか。周りからすれば普通の人なのぢゃが、オヌシにとっては妙に気にかかってしょうがないような奴ぢゃ。
ア:狂授は、だれにとっても気に障る方ですよ。
狂:ええい。お嬢ちゃんには話しかけておらん。これ、編集長、オヌシが早く答えんから、またこんなことになろうが。
編:確かにそんな人はいると思います。
狂:ユングは、そういう自分にとっての影を自覚することが人格の成熟につながると言ったのぢゃ。
編:で、ユソグとやらは。
狂:ユソグは、その影を実体化することに成功したのぢゃ。
編:何です、黒魔術ですか、それは?
狂:ふっ、ユングもそう言って怖気づいたそうぢゃ。だからユングはそれを公表しなかった。それを儂が英語狂育で展開したのぢゃ。オヌシの後に聞こえてきた儂の声がオヌシの影ぢゃ。影を受け入れることにより、人間は劇的に成熟するのぢゃ。
ア:狂授のように人格円満な方になれるというわけですね。
狂:そうぢゃ、そのとおり。お嬢ちゃんもたまにはいいことを言うではないか。(皮肉にはまったく気づかない)
編:しかし、先生、これを学校狂育で行うというのはどうでしょう。学校ではもっとポジティブなことを教えなくては。
狂:はっ、何がポジティブぢゃ。オヌシの言うポジティブとは、せいぜい資本主義に飼い慣らされるぐらいのことぢゃろう。「風邪で熱が出たら風邪薬を飲み、頭痛がすれば頭痛薬を飲み、下痢も強烈な薬で抑え、とにかく仕事をせよ。せっかく身体がNoと言っておるのに、のぉ。胃がムカムカする時も薬を服用して飲み食いし、大量消費せよ。働け、そして消費せよ。資本主義のために」―これがオヌシらが子どもに英語の勉強を押し付ける隠れた論理ぢゃ。オヌシらの英語狂育とは、金儲けのための調教にすぎぬ。金と引き換えに魂をさしだす所業ぢゃ!
編:しかし、近代社会は実際のところお金で回っているわけですから、そうも大胆に仕事を否定されても・・・
狂:はっはっはっ。おヌシもペルソナが脱げなくなった哀れな奴ぢゃ。
編:ペルソナって、社会的仮面のことですか。
狂:そう。ユングですらもこの言葉を使って、社会に浮遊している漠たるイメージに無意識的に憑依された人間像のことを警告しておる。おヌシは、資本主義について正面から考えたこともないままに、なんとなく世間的な価値観を語っておるに過ぎぬ。それでオヌシの人生と言えるのか。創造的な人生と言えるのか。
ア:私は創造的な人生かどうかって言うことより、幸せな人生の方がいいですけど。
狂:ええい、いちいち気に障るオナゴぢゃの。
ア:あれっ、先生は人格円満で、影なんてないんじゃなかったんです?
狂:ふんっ。とにかく儂はオヌシらのようにペルソナに取り憑かれた哀れな奴らを救うために、このザ・シャドウイングを提唱しているのぢゃ。
編:先生、お考えはわからないわけではないのですが、その何と言いますか・・・あまりに独創的すぎます。もっと、普通の人がやれる実践はないのですか?
狂:ふん、それもそうぢゃの。それでは、「子ども時代を生き直す英語狂育」について教えてやろう。
編:子ども時代を生き直す、ですか?
狂:従来、外国語狂育では、学ぶ者の精神年齢に比べて簡単すぎる語彙しか使えんので、どうしても中身が薄くなるという議論があった。
編:確かにそういう側面はありますね。
狂:ふっ、おヌシも、知性中心の、人間としては不十分な哀れな奴ぢゃ。昨今の高等狂育も、知性に偏り、感情や感覚や直感、そして魂のことを忘れておる。それでいてその浅薄な合理主義で、世の中を割り切ろうとしておる。その結果の一つが、原子力災害ぢゃ。
編:狂授、英語狂育の話にお戻しください。
狂:よかろう。よいか、言葉というのは、高頻度ぢゃから易しい、低頻度ぢゃから難しいとかいうものではないのぢゃ。むしろ、易しい言葉こそ使うことが難しい。易しい言葉を使いこなせるのは詩人ぐらいぢゃろうが。
編:まあ、それはそうかもしれませんが。
狂:儂はオヌシらと違って詩人の心をもっておるから・・
ア:痴人じゃなくて?
狂:(アシスタントを睨みつけて)儂はその詩人の心で英語狂育を見直すことができるのぢゃ。そこで観察できるのが、中学生が、拙い英語だからこそ、素直な気持ちを表現できるということぢゃ。
編:確かにそうおっしゃる中学校の先生もいらっしゃいます。
狂:儂が見た例では、教室の後ろに中学生の英文が一人ひとりのカードに書かれておった。その中には”I love my father.”というものもあった。聞けば、これを書いた中学生はやんちゃで、教師も手を焼くような子らしい。そんな「悪い子」というペルソナをかぶらないとやってゆけないような子でも、英語ぢゃと素直になれて、このようなことでも書き、そしてその英語を教室で共有することを許せるようになるのぢゃ。
編:確かに、やんちゃな中学生の男の子が、日本語で「お父さん、大好き」とカードに書いて、それを教室の後ろに掲示させておくというのは考えにくいですね。
狂:ぢゃろうが。これが「子ども時代を生き直す英語狂育ぢゃ」。不如意な外国語という特性を逆に活かして、ペルソナで自我防衛しなくてはやっていけないような学習者にも、子ども時代を生き直させるのじゃ。素直な感性と自然な感情を取り戻させ、本来の自分を直感的に悟らせるのぢゃ。そうやって、英語の学びを通じて、学習者は人間性を取り戻すことができる。よいか、英語狂育とは魂の狂育なのぢゃ。
編:なるほど。
狂:で、儂はこれを大学生でも社会人でもやろうとしておる。
編:大人に子ども時代を生き直させるのですか?
狂:儂の見るところ、子ども時代に傷を受けた大人というのは世間が想像する以上に多い。ぢゃがたいていの者は、それを隠す。他人からも自分からもぢゃ。不幸なことぢゃ。そうして自らの人生の真実から目を背けるよってに、やたらと他人の愛情を欲しがるか、逆に他人を支配しようとする。だから、いつまでたっても不幸なままなのぢゃ。儂はそういう哀れな大人を、そやつらの過去から解放してやるのぢゃ。これが大人のための子ども時代を生き直す英語狂育ぢゃ。そのためには、徹底的に子ども時代に戻らなければならぬ。
編:はぁ。
狂:で、儂はこういう道具を使う。まあ、なにせ、大人は下手に知識があるゆえに自我防衛も固い。その頑なな心を解きほぐして、素直な子どもの心を思い出すには、道具がいるのぢゃよ。(狂授、箱から衣服を取り出す)。
ア:ひっ。(衣服を見て引きつる)。
編:狂授、それは、大人サイズの・・・・
狂:そう、産着ぢゃ。
編:まさかそれを着て、英語を話すというのじゃないでしょうね。
狂:それの何がおかしい。ほれ、儂から先に着てやろう。
ア:ひ―っ!(完全に引きつる)。
編:先生、それって、幼児プレイ、明らかな変態行為ですよ。
狂:(真顔で)えっ、そうなの?
編:お願いですから、やめてください。
狂:でも、ボクチャン、もう産着をきちゃったでちゅ。ハロー、ナイス・ツー・ミーチューでちゅ。おねぇちゃん、ボクと遊ぶでちゅ。
ア:こっ、この変態!(もっていたバックで狂授を殴り倒す。狂授、白目を向いてしばらく立っているも、やがて倒れて失神)。
編:わっ、気絶しちゃった。
ア:帰りましょう。もう、こんなところ二度と来ませんからね。
編:でも、今帰ったら、オチがないまま話を終えることになっちゃうし・・・
ア:もう!話をメタメタにすると、終わるものも終われないでしょ。ちょっと、テレビカメラ、いつまで撮ってんのよ。そこの裏方!幕よ、幕!幕を下ろしなさい!
(幕、降りる。おそらくこの幕は一年ほど上がることはないだろう)。
おそまつ m(_ _)m
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