それにしても、この「カウンセラー/クライエント」という人間関係は、人類史上どのように位置づけたらいいのでしょう。意識・無意識、権力、価値などの扱いという点で、非常に特異な人間関係のように思えますが、この人間関係が出てきて、この力が認められてきたというのは、大げさにいうなら人間の歴史の中の必然のようにも思えます。
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河合隼雄先生はもちろんカウンセリングの専門家ですが、カウンセリングにはこだわりません。他人に対する関わりとしては、カウンセリングだけでなく、直接的な支援、助言、忠告、叱責、環境に対する働きかけなどさまざまなものがあります(5ページ)。別にカウンセリングだけが関わりの唯一の方法ではありません。
しかし、カウンセリングという「ひたすらクライエントの話に耳を傾けて聴く」(9ページ)関わりには、独特の力があります。カウンセラーが、クライエントの話を否定も肯定もせず、自分の意識と無意識の境界もゆるめながら、ひたすらにクライエントの声を心と身体に受け入れてゆく時、カウンセラーは、クライエントの「心の片すみにあって忘れられかかっている声や、ほとんど聞き取れぬほど弱く語られている声に対しても、耳を傾けている」(11ページ)わけです。クライエントは、価値判断されることなくひたすら存在を認められる中で、自らの思いを語るにつれ、これまで自分でも気づいていなかったような思いに気づき、それも語りはじめます。
この聴き方は、カウンセラーの「クライエントの一言半句を聴き逃がすまいという意識的な努力よりも、その場に生まれてくるものを何であれ受けとめていこうという柔軟な態度」(249ページ)に支えられたものです。
これは時間のかかるアプローチですが、カウンセリングの「第一のねらい」である「クライエントの可能性に注目してゆこうとする仕事」は、「どうしても時間を必要とする」(19ページ)と河合先生は述べます。
心理相談ならともかくも教育指導なら、そんな悠長なことは言っていられないと思われる方もいるでしょう。厳しく指導し、できたらすぐに報酬を与える(できなかったら罰を与える)という動物の訓練に似たアプローチこそ教育だと考えている人もまだ多いでしょう。近年の教育指導では結果の「エビデンス」がすぐに判明することが強く求められていることも手伝って、そういった即効的な教育法はもてはやされているようでもあります。。しかしそのように短期的なアプローチを続けた結果、見事に学びの力がついたかといえば、むしろテストには合格し続けても、どんどんと内的な学びの欲求が損なわれている例も少なくありません。
また、そのような「飴と鞭」のアプローチには、どうしても馴染めない(ある意味健全な)子どもも多くいるでしょう。そういった子どもを、結果を求める教師が、これまた即効的で即物的な操作で「動機づける」ことを試みても、それは事態を悪化させる結果に終わるのではないかと私は考えます。
ここは青臭く聞こえても、やはり教育の王道である、本人の潜在力に信頼するアプローチが必要なのではないでしょうか。カウンセリングはそういった本質的なアプローチの一つとして、教科指導においても参考にされるべきことかと思います。
本人を信頼することは、放任や甘やかしではありません。しっかりと、いわば魂のレベルにまで降りようとしながら、静かに耳を傾ける人を前にすると、クライエントは「はっきりごまかすことなく、自分の欠点に正面から向き合わなければならないことを感じ」ると河合先生は言います(22ページ)。カウンセラーは、クライエントが「自分でさえも気づかずにいる心の奥深い可能性の世界に焦点をあてている人」(52-3ページ)なのです。
カウンセリングは通常、何らかの悩みや問題を解決するために開始されますが、カウンセラーは問題解決のための直接行動はとらず、クライエントのいわば真の声をひたすらに待ちます。クライエントはしばしば問題に対処するため、「下手な自我防衛」―自分の無意識がもつ可能性を否定して、現状の自我が得意とするやり方だけで問題に対処し、結果的に問題解決を回避していること― を行っていますが、カウンセリングはクライエントが「そのような下手な自我防衛をせずに、もっと自我防衛の力を弱めて実際の現象に立ち向かってゆこうとすることを援助する」わけです(73ページ)。別の言い方をすると「今までの自我の統合性を少しくずしながら、もう少し新しく広い、あるいは、新しくて大きく高い次元の統合性をもった自我へと発展させていく」(75ページ)となります。
しかしこれまでの自我防衛を崩し、新しい自分に出会うことは、怖いことでもあります。ちょうど家の改造工事をしているときが一番危ないように(77ページ)、クライエントの自我がカウンセリングに耐えられない場合には大変なことになってしまいます(81ページ)。ちょうどよい加減の関わりをすることがカウンセラーの力量なのでしょう。
そうやって注意深いカウンセラーに側面から、あるいは後方から支えられながら、クライエントは新しい自分に出会います。それはしばしば強い情動性を伴うものです(よいカウンセリングでは、情動的・感情的体験が生じ、時には転移・逆転移も生じることはよく知られていることです)。
こうやってクライエントは、人格の再統合へと近づいてゆきますが、そこには「二律背反性」が多くあります。「単純に物事を割りきって考えてしまうと、失敗することが多い」わけです(100ページ)。―ちなみに私は"rationalism"の訳語は「割りきり主義」が適切だと考えています。関連記事:アルフレッド・クロスビー著、小沢千恵子訳(2003)『数量化革命』(紀伊国屋書店)、全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について)―。およそ人間のことに関する限り、あまりに一面的で一見安心できそうな考え方は、二つの相反するものの葛藤を無視してしまい、本質的ではないことが多いわけです。
河合先生は次のようにまとめています。
このように、カウンセリングにあくまでも二律背反ということがよく入ってくるということは、私は、人間というものがこういうものだから致し方ないと思っています。積極的にいえば、人間というものはこの二律背反性のあるゆえにこそ、面白いといってよいかもしれません。つまり、人間性のなかに必ずこういう二律背反的なダイナミズムがある。そのダイナミズムを通じてこそ、われわれは、それよりも高い次元のものを創り出すことができるのです。(107ページ)。
ここで弁証法という用語を出していいのかどうか私にはわかりません。しかしあまりにも矛盾や葛藤を避け、単純で一面的な説明ばかりを好む過度の「割りきり主義」は、知性としてはあまり深いものではないし、現実世界への対応としてはむしろ拙いものかもしれないという警戒心は保っておくべきでしょう。(「割りきり主義」で現場にあれこれ指図する「専門家」(=学問をした馬鹿)ほどやっかいなものはありません)。
クライエントは、例えばある人に会いたくないという気持ちと会わねばならないという気持ちの両方を持ち、二律背反に苦しみます。その二律背反を受け止め、片方を否定して割りきってしまうのではなく、「相反するふたつのものが高まって、ふたつの音がそのままひとつのハーモニーにとけこんでいくような態度」を取ることがクライエントにもカウンセラーにも重要です。これを河合先生は、カール・ロジャースのことばを借りて"genuine"であると述べます。ちなみにこのことばを「純粋」と訳すと誤解を招きやすいので、「自己一致」という訳語が充てられていますが、私としてはもっと大胆に「誠実」と訳してもいいのではないかと考えます。
カウンセラーは、クライエントの「どれほどの小さい声、どれほどの大きい声も全部心のなかに響いてくる」(129ページ)ようであるべきです。それこそが"genuine" ―誠実― な態度といえるでしょう。
別の言い方をすれば、カウンセラーは自らの自我防衛も弱くして、新たな人格の創造に立ち会わねばなりません。河合先生はこう言います。
このようにいろいろな気持ちに対して、カウンセラーは自分自身の心に忠実にならねばならない。いうならば、相当自我防衛をはずしていなければならない。そして、その自分自身の字が防衛を薄くしているなかで自我のなかに飛び込んでくるものを相手にぶちあてるのです。すると、その難しい危機と発展とのちょうどよいところでわれわれは反応することができるのです。(84-85ページ)。
教師はしばしば「ドヤ顔」をしてしまい、自らの力量を誇りますが、カウンセラーは「ドヤ顔」とは無縁でなければならないでしょう。
こうしてカウンセラーの支援を受けながら、クライエントの人格の再統合がなされますが、それと同時に問題は解決に向かうことが多いのが現実です。"Objectivism" ―「客観主義」というよりは「対象主義」と訳した方がわかりやすいかもしれません― で、問題を自分とは切り離された対象としてしか考えないと、自分の変化によって問題が変化するなど考えられないことですが、「対象主義」という「割りきり主義」から自由になって、市井の人として常識的に考えれば、問題というのは常に自分の認識(考え方や感じ方)によって存在していることは何ら不思議ではありません。自分の変化に伴い、問題も変化することは当たり前のことでしょう。
ともあれ、問題は解決の方に向かいますが、それだけではなく、できればつけ足したいと河合先生が思うことが「意味の確認」です(34ページ)。実際的な問題の解決・解消だけで満足するのではなく、もう一段深い(あるいは高いレベル)で問題を抽象化して、この問題解決・解消の意味を理性的に確認することもカウンセリングの重要なプロセスです。
こういったカウンセリングの過程を単純化したものが以下の図です。
このようなカウンセリングの実態は、第五章の「ひとつの事例」で見事に表現されています。この事例を要約することは許されないでしょう。ここはじっくり、読みながら自分も葛藤を追体験するようにして事例を味わうべきでしょう。
この問題解決・解消と人格の再統合というカウセリングを音楽にたとえるなら、いったいこの曲を作曲したのは誰だろうと疑問がわいてきます。河合先生の考えはこうです。
クライエントが書いたのでもなければ、カウンセラーが書いたものでもない楽譜。誰がいったいそれを書いたのか。私は、それをクライエントの「自己」が書いたのだ、クライエント自身も知らなない、しかしクライエントの心の底深く存在している心の中心、そして発展の可能性の中心である自己が書いたものだと、思ってみるのです。(289ページ)
ここで前提とされているのは、言うまでもなくユング心理学です。もし、カウンセリング的アプローチが、教師が取りうるアプローチの一つとして学ぶべきものなら、ユング心理学の理解はやはり重要であるといえましょう。もちろん、一知半解、あるいは生兵法ほど危険なものはありませんから、私たちは現場の現実に忠実に謙虚に学ぶ姿勢を堅持しなければならないのですが・・・。
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