カウンセラーの岩宮恵子先生の著作のことは、以前、敬愛する先生から「中高生と接する時に役立つ」として教えていただいておりました。今回その岩宮先生が、宮崎アニメとの関連から新刊を出されたので、一も二もなく読みました。
本書は中高生にも読めるように書かれた「プリマー新書」なので一気に読めました。特に面白かったのが「千と千尋の神隠し」の分析です。岩宮先生は、別段、先生は「千と千尋」をご自身の分析に還元・回収してしまおうとしているのではないですが、先生の分析により、「千と千尋」がもつ象徴的な力がより深く理解できるように思えます。
岩宮先生によりますと、カオナシは、仮面以外の自分の顔をもたない存在です。ですから周りの人もカオナシのことにほとんど気づかないし、カオナシ自身も、自分が何をしたいのか、何を主張したいのかもわからない、本当に寂しくて空虚な存在です(81ページ)
ですからカオナシは最初に自分に声をかけてくれた千に執着したりします。カオナシは自分のことばをもたないので物をどんどんあげることにより千の関心をひこうとします。あるいは他人を呑み込むことによって、その他人のことばを丸ごと借りて自分の欲求を訴えようとしますが、もちろんそれはカオナシ自身のことばではありません(97-98ページ)。こういった分析を読むと、確かにこういった人間のあり方というのはあるし、それに対応した千は素晴らしいなと思わされます。
面白かった分析のもう一つはオクサレサマです。
岩宮先生は、オクサレサマに関して「学校でときどき見かける、とてつもなく破壊的な行動をいつもとってしまう子どものイメージと重なってきます」と述べます(85ページ)。ここから岩宮先生は、湯婆婆を学校の校長先生、千を新任の先生、リンを同僚の先生のイメージと重ねてみますが、この解釈は非常に説得力あります。なるほどなるほどと思えます。
千は、オクサレサマにトゲが刺さっているのを発見します。そのことを聞きとめた湯婆婆は全員でトゲを抜くように指示します。トゲが抜けると、ありとあらゆる汚い産業廃棄物がオクサレサマの中から出てきますが、それらが出尽くすと、実はオクサレサマは高貴な川の神であったことがわかります。
このあたりを岩宮先生は次のように読み解きます。
先ほど、学校現場でオクサレサマ状態になっている子どものことに触れましたが、そんな状態になっている子は、大人の世界のドロドロとした廃棄物を自分のなかに抱え込んでいる場合が多いものです。小さい頃から素直で、親の愚痴や、いろいろな無理を何でも黙って受け入れてきたような子が、小学校三、四年生の頃から徐々にオクサレサマ状態になっていくことがあります。やわらかな感受性をもっている子ほど、大人の世界の廃棄物に汚染されて、自分で浄化できないままにオクサレサマに変じてしまう危険性も高いのです。(90ページ)
こうしてオクサレサマになった子どもは、先生が「おはよう」と声をかけても「死ね」と返してきたり、階段の上のほうからつばを吐きかけてきたりします(90-91ページ)。教員もどう対応していいのかわかりませんが、「千と千尋」にはそんな子どもがどう変わりうるかが象徴的に描かれているというのが岩宮先生の見立てです(もちろん岩宮先生は学校現場のこともよくご存知ですから、実際にはどのような注意が必要だし、どんな危険性があるのかについても言及していらっしゃいます)。
こう書いていて思い出したのですが、私もかつて「千と千尋の神隠し」について小文を書いていました。
その中で書いた文章を、一部再掲します。
私の業界話にかこつけて話してしまうなら、この映画の主人公であり、いきなり異界に叩きこまれ、魑魅魍魎の存在の中で働かなければならなくなった10歳の女の子千尋は、それまでにようやく自分の好きな世界を創り上げかけてきた大学生が、卒業後いきなり教育困難校に配属され、とにかく自分の想像を超える世界の中で働かざるを得なくなったことに喩えられる(笑)。千尋は手足も細くひょろひょろで、まともに挨拶をする世間知も持たないぐらいの鈍臭い泣き虫で甘えん坊の女の子だが、いきなり教育困難校に配属された新人教師よろしく、とにかく働かなければ生きて行けない状況に追い込まれる。
その時私は千(千尋)にもっぱら注目してこの映画を見ていました。岩宮先生も言うように、この千(千尋)の対応はすごいものがあります。私はこう書きました。
もうこの辺の知恵というか発想は、計算では絶対に出てこない。計算高い世間知を学術用語で言い換えて誤魔化しながら人生を生きているような私ではとても思いつかない。ましてや実行できない。それをこの手足の細い少女は、淡々と実行する。
彼女の知恵は身体から来ている。彼女の内にあり、彼女の外ともすべてつながっている自然により彼女は動く。彼女は自然体で神々しいとすら言える。だが大仰な所作とはまったく無縁だ。華美でもなければ妖艶でもない。見方によっては彼女はひょろひょろとした女の子に過ぎない。ただ彼女は、計算高い男性や、そんな男性に自分を似せることに専念する女性がよってたかってもなしとげえないようなことをやってのける。彼女は女性の自然である。だから彼女は自然に美しい。ちょうど自然の草木がそのままで美しいように。
(中略)
だから、職場の魑魅魍魎の中で疲労困憊する新人も、大切な事は生き延びて自分の本当の名前を忘れないことなのかもしれない。新人が仕事をうまくやれないのは、いわば当たり前だ。だからといって子供じみた居直りをするのでなく、千(千尋)のように子供のような素直な心で大人の世界に慣れ、かつ自分の中の自然を失わないことこそが職場の新人がやるべきことなのかもしれない。
俗の苦しみの中で自分の本当の名前を失わないで。そのためになんとか生き延びて。疲れたら泥のように休んで、とにかくなんとか働き続けて。そうすれば人々は、そんなあなたこそが、この世界の小さな救世主であることをいつか感謝の念とともに知るから。外見的には目立たない、しかし実は神々しい救世主であることを。やがて人々はあなたを愛し、あなたに愛されることを望んでやまなくなるから。
今年も卒業生を送り出すシーズンになりましたが、私としてはやはり卒業生を千(千尋)と重ねてみたりすることもあります。卒業生、いやあらゆる職場の新人が、彼女・彼らしさを忘れませんように。
と、話は脱線しましたが、岩宮先生は、「千と千尋」の物語すべてを、千尋という女の子のこころの深い層で起こっていることを象徴的に表現した物語として見ることを提案します。
こころの深い層で起こっている物語として考えると、もしかしたらオクサレサマもカオナシも坊も、千尋のこころの奥底に住んでいる千尋の分身なのかもしれません。現実世界ではただのワガママややる気のなさという形でしか出てきていなかった千尋の問題が、異界ではこのような形をとって千尋に直面化を迫ったのかも・・・と考えてもおもしろいですよね。(111ページ)
映画の中で千は、オクサレサマやカオナシや坊と真剣に関わっていきますが、その「直面化のプロセスが千尋の自己意識をしっかりとさせていったのだとかんがえると、臨床的にはとってもしっくりします」(111ページ)と岩宮先生は述べます。
私は先日行ったゼミ合宿で、「『もののけ姫』のユング的解釈」という発表をしましたが、そこでもユングのアクティブ・イマジネーション(能動的想像法)の考えに基づき、「もののけ姫」という作品を一人の人間の内的世界の葛藤の象徴的表現として解釈しました。「もののけ姫」に登場するキャラクターを一人の人間の諸側面の象徴的表現と考えました(人間のキャラクターは意識的側面、人間以外のキャラクターは無意識の側面を特に象徴していると考えました)。ファンタジーとは舞台から登場人物からすべてが創造者の想像の産物なわけですから、ファンタジーをこころの深層の象徴的表現として考えると、多くの人が、筋はわかっているはずなのに何度もファンタジーを見たり読んだりするというのはよくわかります。(ちなみに、私は岩宮先生が「もののけ姫」について徹底的に分析されていたらどうしよう、と思っていましたが(苦笑)、先生の分析は短いもので、それなら私もいつか自分の「『もののけ姫』のユング的解釈」を文章にしようと思いました(医学的にはこういった思念を「中二病」と呼びますwww)。
と、話は幾重にも脱線しましたが、思春期の生徒と向きあう教師が読むととても面白い本かと思います。いや、図書館や学級文庫において、自ら葛藤に苦しむ中高生自身に読んでもらった方がいいかもしれません。「読書とは、言葉にならなかった感覚の確認と発見作業である」というのは岩宮先生がピース又吉のことばとして引用しているものですが(28ページ)、そういった意味での読書こそは「生きる」ことと狂おしいぐらいに直結しているのですから。
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