1967年に書かれた河合隼雄先生の処女作の再刊です。私も約30年ぶりに読み返しましたが―私は大学二年生の時にこの本を何度も読みました―、深いです。ユングも河合先生も、人間の深い層のことを書いているので、内容がいっこうに古びません。やはり名著というべきでしょう。
ユング心理学の最大の特徴を河合先生は、「堅固な体系を真理として提示することではなく、人間の心、ひいては生き方に対する根本姿勢を問うていること」とします。「人間をその意識することだけではなく、可能な限りその全存在を尊重し、そこに生じてくることをを可能な限り受け入れようとする」のがユング心理学だとします(xiiiページ)。この脱教条的で包括的な態度こそが、ユング心理学の魅力であり、だからこそ林道義先生などは、ユング心理学をあえて「ユング思想」と呼ぶのでしょう。確かに、ユングは狭義の心理学をはるかに超える広さと深さをもっています。
本書は「タイプ」、「コンプレックス」、「個人的無意識と普遍的無意識」、「心像と象徴」、「夢分析」、「アニマ・アニムス」、「自己」に一章ずつ使ったユング心理学への読みやすい包括的な入門書です(あとアクティブ・イマジネーションについての章があれば申し分なかっただろうというのは多くの人が言うことですが、それはさておきます)。
今回私が読みなおして面白かったのは、心像 (image, Bild) などの箇所でしたので、ここではそれについて私なりにまとめてみます。(夢や空想などで私たちの心のなかに浮かぶ「心像」は、通常「イメージ」と言われることが多いかと思いますが、ここでは河合先生の用語法に従います)。
心像の根底にあるのは、ユングが仮説的に想定する「元型」 (archetype, Archetyp)―人間が集合的(河合先生の訳なら「普遍的」に無意識に有している基本的な型― です。心像はそこからさまざまな形象になり私たちの意識に現れますが、その心像の中でも、特に元型に近いものを、ユングは「原始心像」 (primordial image, urtümliches Bild) もしくは「元型的心像」と呼びます(79ページ)。
無意識が意識に知らせる内的な心像は、「意識と無意識の相互関係の間に成立するもの」であり、「そのときそのときの無意識的ならびに意識的な心の状況の集約的な表現」と見られますから、「その心像の意味をよみとることは、非常に大切なこととなる」と河合先生は述べます(104ページ)。
心像は、たとえばことばと比べても、より具象性・集約性・直接性を有します。具象性というのは、もちろん具体的に(内的)感覚でとらえられることを意味しますが、集約性とは、心像が「心の全体的な状況」を集約的に表現している(108ページ)―多様で多義的で時に矛盾すらする諸側面をまとめて象徴している― ことを意味します。
そのように具象的で集約的な心像は、直接的です。人はしばしば他人を知的に、理念(概念)を通じて説得しますが、その説得はなかなかうまく他人の心に届きません。しかし、その人が心のなかに見る(あるいは感じる)心像は、その人にとっての直接体験になり、その人を動かす基となります(111ページ)。
この心像と理念の対比・関係を河合先生は次のようにまとめます。
このように心像は強力なものではあるが、ときにそれは非常に難解であったり、明確さを欠いていたり、あまりにも多義的に感じられたりすることも事実である。それゆえにこそ、われわれは心像より直接に得たものから、その具象性を払いおとし、明確さを与えて洗練された理念にまで高める努力をするのである。しかしながら、われわれが、明確な概念のみを取り扱い、その背後にある心像との連関性を忘れ、概念だけの世界に住み始めると、その概念は水を断たれた植物のようになり、枯れ果てた、味のないものになり下がってしまう。しかし、この逆に、心像のもつ協力な直接性に打たれ、それを概念として洗練する努力も払わず、ただ心像のとりことなって行動するときは、これは生木で家を構築したように、だんだんとひずみが生じてくるのをさけることができない。(111-112ページ)
私がユングを読む度に感じることは、彼が強力な理性(意識性)を保ちながら、大胆に無意識の世界への途を開けていることですが、心像と理念の間においても、一方で心像の力に圧倒されながらもそれを概念化・理念化すること(逆に言うなら、概念化・理念化の努力の中で、無意識とのコンタクトを決して失わないこと)は、ユングの特徴だと思います。意識性と無意識性のどちらが弱くても、ユング心理学は誤解され、ユング心理学はその誤解する人の人生を過たせるかもしれないぐらいの力をもっていますが、逆にその両極の葛藤に耐えつつ均衡を保てるなら、これほど力をもった思想もないのかもしれません。
ちなみにユングはしばしばカントを引用しますが、上記引用の理念・概念・心像の関係も、カントの理性・知性(悟性)・感性の枠組みに対応しています(関連記事:「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く)。
心像は、特に人が自分の意識が抑圧してきた無意識の存在を認めた時に生じます。そういった時、その人の心的エネルギーは退行して無意識に流れ込むので、その人はしばしば、ただ無為に過ごしているように見えたり、幼児的・衝動的な行動に走っているように見える行動を起こします(126ページ)。
この時、その人が無意識からの力に圧倒されて、自我の力を失ってしまったら、思考型の人が急に感情的になったり、内向的な人が急に外向的にふるまったりと、相互反転(enantiodromia)を起こすだけになってしまいます(126ページ)。私たちがよく知るように「180度の変化はしばしば生じるが、その変化は存外浅薄なものである」わけです。
しかし意識と無意識が拮抗しその緊張にその人が耐えうるなら、創造性が生まれ、そこに象徴が生じると河合先生は解説します。
これに対して、このような強い退行現象が起こり、自我はその機能を弱められながら、それに耐えて働いているとき、無意識の傾向と自我の働きと、定立と反定立を超えて統合された心像が現れてくることがある。このように統合性が高く、今までの立場を超えて創造的な内容をもつものが象徴であり、このような象徴を通して、今まで無意識へと退行していた心的エネルギーは、進行 (progression)を開始し、自我は新たなエネルギーを得て再び活動する。このような象徴を形成する能力があることをユングは重要視し、これを超越的機能 (transcendental function)と呼んでいる。(126-127ページ)
これは創造的な活動、特に芸術を考えるとよくわかります。文芸に長ける人は、名状しがたいもやもやを言葉を通じて世界像・人間像として描き出します。画才のある人は、抽象画をあるいは具象画でありながら極めてその人の主観性が込められた絵を描きます。音楽の才能のある人は作曲あるいは演奏します。写真のセンスがある人は、自らの内界が欲求する原始心像を見事に外界に見出し、それを被写体・構図・色調・ピントなどの決定で写真作品にします。それらの創造は、作品の創造であると同時に、その人の(再)創造であると言えましょう。
無意識の元型を源とする(原始)心像は、夢や空想や創造活動により象徴として具象化します(そしてそれは集約性と直接性を有していることは先ほど述べた通りです)。河合先生は次のように象徴を説明します。
心像は、自我に対して心のより深い部分から語りかけられる言葉であり、これによって、自我が心の深い部分との絆を保つことができると考えられる。そして、その内容が高い統合性と創造性をもち、他のものでは代用しがたい唯一の表現として生じるときを象徴ということができる。(128ページ)
象徴を自ら形にする才に恵まれた人でなくても、私たちは自分でもなぜかわからないけど惹きつけられてしまう象徴に出会うことがあります。それはある小説だったり、絵だったり、音楽だったり、写真だったり、あるいは宮崎アニメだったりします(関連記事:岩宮恵子 (2013) 『好きなのにはワケがある ― 宮崎アニメと思春期のこころ』ちくまプリマー新書)。もしくはそれは小石だったり流木だったりするかもしれません。
ですが、それは単なる何かの代理表現ではなく、「過去への洞察と未来への志向性を共に表現している」場合も多い(129ページ)わけですから、自分がとにかく好きなモノというのは大切にするべきでしょう。そしてその意味を考えて概念化・理念化しては、またその名状しがたい魅力に戻ることを繰り返すべきでしょう。(ユング派の分析家は、この時、クライアントの心像や象徴を「拡充法」 (amplification) で、その意味を共に探ります(189ページ))。
宗教というものも、本来は、原始心像や象徴を豊かに与えるものでした。ルドルフ・オットーは、宗教から合理的な要素と道徳的な要素を引き去っても残る「聖なるもの」 (das Heilige) に注目し、それを「ヌミノーゼ」と呼びましたが(199ページ)、ユングはこの考えに基づき宗教とは、結局、「ルドルフ・オットーがヌミノースと呼んだものを慎重かつ良心的に観察することである」と述べました(200ページ。原典(邦訳)は『心理学と宗教』の11ページ)。ちなみに私はおよそ8年前に洗礼を受けましたが、今、この用語を借りるならヌミノースを感じることができなくなっており、自分でも困惑しています。
ともあれ、それが宗教的なものであれ、芸術的なものであれ、単なる夢や空想であれ、無意識に意識が向き合い、それを統合しようとすること ―ル=グヴィンが『ゲド戦記』で雄渾に描き出したこと―は、偉大なことです。
河合先生はユングのことばを引用します。「自我の一面性に対して、無意識は補償的な象徴を生ぜしめ、両者間に橋渡しをしようとする。しかし、これはつねに、自我の積極的な協同体制をもってしなくては起こりえないことに、注意しなければならない」(254ページ。原典はJung, C.G. Fundamental Questions of Psychotherapy. C.W.16, p. 123)。
別の側面から言うなら、「外界との接触を失うことなく、しかも内界に対して窓を開くこと、近代的な文明を消化しながら、古い暗い心の部分ともつながりをもとうとしなけrばならない」(256-257ぺーじ)わけです。
ここで個人的な話をしますと、私は学校行事を撮るために買ったカメラを昨年グレードアップしました。そうすれば多少はカメラをもって歩きまわって、写真を撮るようになるかと思っていましたが、私は多忙で心を亡ぼしており、ほとんど写真らしい写真は撮っていませんでした。自分でも気に入ることができた数少ない写真の一枚が下ぐらいです。
しかし、私も外界と内界のバランスを取るために、そして、私の無意識と意識的に対面するために、少しは写真を積極的な趣味にしようかと思います(いつまで続くかわかりませんが 苦笑)。少なくとも写真は、画才や楽器演奏能力がなくとも、比較的手軽に始められますものですから。
音楽を聞くのは私は相変わらず好きですが、それよりも外界に主体的に向かう写真というのも面白いのかもしれません。
と、最後は大きく脱線してしまいましたが、読みやすく深い本です。河合先生の臨床体験が豊かにあふれています。日本語で読めるユング心理学への入門書としては、やはり最上のものかと思います。
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