2014年2月2日日曜日

WebCTと授業内討議を使った 学生自身にとっての「事例」の発見





以下は、私が所属研究科内の報告書に書いた文章です。語数制限があり、十二分に説明できていないところもあるかと思いますが、もしご興味をもった方がいらしたら、どうぞお読みください。


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WebCTと授業内討議を使った 学生自身にとっての「事例」の発見


柳瀬陽介 (英語文化教育学講座)


今年度の研究では、「事例」とはそもそも何であるのかについて共通理解が得られなかったため、各人がそれぞれに「事例」と考えることを重視した実践を報告し、それらの中から理解を深めようという方針が定められた。以下、その方針に従い、筆者なりの「事例」の理解を述べ、それを重視した実践について簡単に報告する。

筆者が長年案じているのは、学生の学びが机上だけのものに終わり、現実世界はおろか、他の授業においてすらもその学びの成果が発揮されないことである。これは学生が、xという入力が入ればyと答えるy=F(x)関数の'Trivial Machine' (以下、TM)となることが学びの実態となっていることを示唆している。実際、TMは単純であるため、学生は「x1ならy1、x2ならy2と答える・・・」と学びを一問一答式に縮減することができ、非常に「効率のよい」勉強ができる。多肢選択方式問題が試験の大半を占める昨今、学習者のTM化は、学習者のみならず時には教師までもが推進することとなっている。

これに対して、'Non-Trivial Machine' (以下、NTM)は、y=F(x, G(x,G(x))とでも表記できるように、内部に自己言及的な関数(G)をもち、その自己言及的関数の出力が、xと共にTMでも見られたF関数への入力となった上で最終的な出力 (y) となる構造をもっている。




Non-Trivial Machine



わかりやすいように、F関数を授業で教えられる「客観的」内容(一問一答式に縮減できる情報)、G関数を学習者がこれまでの経験で培ってきた思考、つまり、「主観的」内容(学習者がある入力から想起・導出する内容)としよう。NTMでは、例えば「チョムスキーの言語観とは?」という入力 (x) が与えられると、F関数だけのTMのように「普遍文法 云々」といった出力 (y) が単純に出力されるわけではない。xは、G関数への入力ともなり、そこで学習者がこれまでに経験したことに基づく思考(想起・導出)がG関数の出力となる。そのG関数出力は、一方でそのままF関数への入力ともなるが、他方で再度、再帰的にG関数の入力となり、学習者の思考を再び促す(「ということは・・・」と学習者は再び考え始める)。再帰的に稼働したG関数は、再び新たな出力をF関数に入力として供給する一方、G関数に三度目の自己再帰的入力をも供給する。原理的にこの自己再帰ループは無限に続くが、現実には、学習者はさまざまの現実世界制約により、次の行動を求められるから、この自己再帰ループはいずれかの時点で終わる。いずれにせよ、NTMにおいては、(1) G関数という主観的(あるいは主体的)思考という自己が参照・言及されており、かつ、(2) G関数が自己再帰的に自らに入力を回帰させるという、二つの異なった意味で自己に参照・言及・再帰・回帰する。この意味で、NTMはself-referentialなシステムであるといえる。

筆者が学習者に求めたことは、学習者が自らをTM化してしまうのではなく ―自分自身のTM化はこれまでの「効率的な受験勉強」で、学習者の性(さが)となりつつある―、授業で学んだことを一度、自分のこれまでのすべての経験の中に入れて、そこからの出力を待ち、それを(再度、自分の経験の中に投げ返しつつ)「客観的」とされるF関数の中にも入れて、「自分なりの意見」を出すことであった。

筆者はこれまでも受講者数30人以下の授業ではWebCTを使って、毎週「今週の振り返り」と「来週の予習」を書かせ、両者において「自分なりの意見」を書くように指導してきた。しかし、11月後半のある週に学部三年生が、(後に判明した事情であるが)他の授業で出された課題に忙しく、「客観的」な確認だけを書き、全員の記述がほぼ同じになってしまったことを契機に、筆者が「自分自身をTM化することが学びであってはいけない」と、TMとNTMの対比による説明を行ない、他の授業(学部1年生、大学院修士課程1年)でもこの説明を行った。

学習者のWebCTへの書き込みは量的にも多く、質的にも多彩であった。量的には、1月第4週の予習と振り返りの語数(書き込み総語数を書き込んだ人数で割った数値。ただし若干のWebCT固有の記述も語数に含まれている)は、学部1年生・学部3年生・修士課程生で、それぞれ毎週1,220語・2,063語・3,411語であった。これを乱暴なぐらいに単純計算して総時間数である15を掛けると、学生は授業でWebCTに書き込んだだけで、それぞれ1セメスターで18,300語・30,949語・51,159語の文章を書いたことになる。質的には、学部1年生は高校時代の経験、学部3年生は教育実習や学部行事、大学院生は非常勤講師や塾講師経験あるいは部活やバイトの経験などと絡ませながら、授業内容の「事例」を自分なりに見つけ出していた。

筆者は毎週、これらの書き込みの中から特に印象的な文章をWordファイルに抜粋して、かつ、特に面白い表現は赤色にするなどして読みやすいようにした上で、WebCTに掲載し、授業中内の討議の材料として使いやすいようにした。さらに、学生の許可を得た上で、そのWordファイルを筆者のTwitterアカウントから「学生コメント抜粋」としてWeb閲覧することができるようにした。毎週20~50件ぐらい、Wordファイルは筆者が契約しているサーバーからダウンロードされていた。このように教師・一般市民が、学生の文章にに注目する制度を維持したことも、学生の執筆意欲に少しは貢献できたのかもしれない。

加えて筆者は2013年度後期から、原則すべての授業の評価をポートフォリオ評価として、ポートフォリオは「自分が書いて面白く、他人が読んでも面白いように、自分が学んだことを自分のものとした上で、ポートフォリオ形式にまとめること」としている。その結果はこの文章の執筆時点ではまだわからないが、これまでの感触から、学生が自らのTM化に抗し、自分なりの「事例」を見つけるよう思考し、その思考の結果を共有する制度はそれなりに成功したのではないかと思える。







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