2014年2月12日水曜日

S.フォワード著、玉置悟訳(2001)『毒になる親』、D.ニューハース著、玉置悟訳(2012)『不幸にする親』、講談社プラスアルファ文庫





幸福なことに、社会の多くの人々はこのような本をまったく必要としない。その健全さこそは社会の基盤だ。だが、一部の者はこういった事例の報告と分析を必要とする。不幸な子ども時代を過ごさざるを得なかった人、もしくはそういった人と関わる者である。その人が、生徒であれ、同僚であれ、友人であれ、恋人であれ、―あるいは自分自身であれ―、そんな行動・言動を取りながら苦しんでいる人と深く関わる者は、事実に基づく深い人間理解を必要とする。

だが、人間理解が必要といっても、ほとんどの者は人間の人生を左右している問題のもっとも大きな要因が親であると考えることには抵抗を感じる(フォワード 2001, p. 7)。とりわけ苦しんでいるのが自分自身の場合はそうである。

なぜなら、親というのは物心つく前から人に影響を与えるからだ。というより、物心の多くを形成するのが親の言動である。薬物中毒・アルコール中毒の親や性的虐待・身体的虐待をするあからさまな親の言動はもとより、不在・放置や過剰な批判・否定・支配などによる情緒的虐待 ―そう、これは幼い子どもにとっては「虐待」であろう― を知らず知らずのうちに行っている親の言動も、子どもの知性や感性の鋳型を形成する。しばしばそれは長い期間、時には一生その人を根源から無意識的に規定する鋳型となる。

また古今東西の文化は親を敬うことを奨励する。もちろん、それは社会の知恵であるのだが、それが無批判に教条として押し付けられると、本当は親からの育てられ方に自己理解の重要な要素を見い出すべき者も、親の影響に関して分析することを抑圧されてしまう。

だから、親との関係に強い息苦しさを覚える者は、あるいはその息苦しさを予感してしまい親のことを考えることをとにもかくにも拒絶する者は、さらにはそのように思える人をまわりにもつ者は、こういった本を一読はしてみるべきかもしれない。

さらに、もしあなたが教師なら、教師は、しばしば制度的な「正しさ」を背景に、児童・生徒・学生を、「指導」や「君のため」という大義名分を使いながら、過剰に批判・否定・支配・抑圧してしまっているかもしれないという可能性についても考えておくべきだろう。「教育」の名のもと、一部の教師は、児童・生徒・学生をみずからの人生の不安感や恐怖感の解消のはけ口にしてしまっているのかもしれない。「とかく人間は、ネガティブな感情を本来向けなければならない対象からそらせ、より容易なターゲットに向けてしまいやすい」の」が人間の現実だからだ(フォワード 2001, p. 44)。教師が子どもを過剰にコントロールしているかもしれないというのは、教師にとって、愉快な考えではないが、心の片隅にこの視点をもって、自分自身と同僚を見つめなおすことは必要だろう。

そもそも「コントロール」という発想は近代精神の根幹をなしている。科学は対象を分析し、要素に還元し、その要素を操作することにより、対象を思いのままに変容させることを可能にし、それをテクノロジーと称した。科学の対象は、今や、人間をも含んでいる。「科学」を志向する教育方法学は、そこには児童・生徒・学生という対象を、操作し変容させ、その結果、実は、児童・生徒・学生という人間主体を、操作対象として支配・抑圧・搾取するという動機が隠れているかもしれない(児童・生徒・学生の成果を自らの業績として出世を図る教師や研究者は、その動機を隠そうともしていないが、世間はしばしばそういった教師を「すごい先生」として賞賛する)。

「自分たちの望む通りにしなければ罪悪感を与え、愛情は与えてやらない」という人たちは、それが親であれ教師であれ、あるいは上司や権力者であれ、弱き立場にいる者の生命の健全さを損なう。そして、その損なわれた者を、次世代にとっての抑圧者・支配者・虐待者としてしまう。

この『毒になる親』や『不幸にする親』といった本は、そういった負の連鎖あるいは不幸の輪廻を断ち切るために書かれている。

不幸な育ち方をしてしまった者達に、ニューハースは、「(1)子どもの時に親があなたにしたことには、あなたに責任はない。その責任は親にある。(2)大人になった今の人生においては、あなたがすることにはあなた自身に責任がある。その責任は親にはない」 (ニューハース 2012, p. 28) と問題の責任の所在をはっきりさせる。フォワードは「"被害者"みたいな顔をするのをやめること、そして自分の親と同じような行動をすることをやめること」 (2001, p. 294) を勧める。

そのためには「過去に負った心の痛みを、自分の強さとともに認識する」 (ニューハース 2012, p. 267) ことが必要である。

しかし苦しむ者に「強さ」などというものがあるのだろうか。だが、自らの辛かった過去に向き合い、親が強いた「家」から「自分自身」を「精神的に独立」させ、「自分」と「自分自身」について、親のことばではなく、自分自身のことばで語れるようになれば、自分の内部にひそむ強さを知ることができるようになるとニューハースは言う。

その強さとは、あなたが最も心細く感じ、最も弱かった時にあなたを生き延びさせてくれた、あなたの最も強い部分なのです。それは友人をたくさん作る力だったり、直感力の鋭さだったり、忍耐力だったり、感受性の強さだったりするかもしれません。親のコントロールがあまりにひどかった、まさにそのために、あなたはそういう能力を発達させたのです。(ニューハース 2012, p. 32)


とはいえ、苦しかった時代を振り返ることは、容易なことではない。回想と想起の中で、自分が封印していた深い悲しみ、否定していた莫大な怒りが湧き上がってくるかもしれない。下手をすればその悲しみと怒りに取り憑かれてしまう。自らを自己省察や自己批判を免責された「被害者」として規定し、その恨みや憎しみをまわりに撒き散らす存在になってしまうかもしれない。だから、こういった本は静かにゆっくりと読むべきだろうし、できれば信頼できる他人 (それは友人かもしれないしカウンセラーかもしれない) と時折語り合いながら読むべきだろう。

だが、そうして過去の事実を見つめることができたとしても、そこに見えるのは、必ずしも心地よいものではないかもしれない。

だが、現在の生を苦しみから再生させ、未来の生を切り拓く途はそこにしかないのだろう。



もしあなたが「毒になる親」に育てられた人間だったら、あなたは本当の愛情とはどういうことなのかがようやく理解できた時、自分の親は愛情のない、また愛情を理解することのできない人間だったのだということを思い知ることになるだろう。このことこそ、あなたが受け入れなければならない、人生でもっとも悲しい事実なのである。けれども、はっきりと親の限界を知り、彼らのおかげでこうむり苦しんだ被害について明確に確認することができた時、あなたは自分の人生において本当の愛情であなたを愛してくれる人たちのためにドアを開けることになるだろう。(フォワード 2001, p. 309)




また上で言う「人生でもっとも悲しい事実」よりも深刻な事実に人は気づくかもしれない。それは、自分の親だけでなく、自分も、愛情を理解できず、十全に人を愛することができない人間だったということである。これは悲しさを通り越して、人を慄然とさせる。

だが、人がその事実を直視する時、その人は強さを手にしている。その強さこそは、人を過去の奴隷にではなく、未来への開拓者としてくれるだろう。





この本は「毒になる親」あるいは「不幸にする親」に苦しんだ者に向けて書かれ、その者たちが「毒になる親」や「不幸にする親」にならなくてもすむようにすることを目指している。だがこれは「親」だけの問題ではないだろう。「毒になる」「不幸にする」教師・上司・権力者あるいは配偶者などに苦しみながら、そこから逃れられない人もいるだろう(いわゆる「共依存」)。もしくは自らが「毒になる」「不幸にする」人間であることに恐怖心を覚えながらも薄々気づきはじめた人もいるだろう。さらには、「毒になる」「不幸にする」人間で苦しんでいる人を自らの周りに見い出す人もいるだろう。そういった人もこれらの本を読むことは意義あることなのかもしれない。

親であることも、教師であることも、上司・権力者であることも、配偶者・恋人・友人であることも、いや、そもそも自分自身であることも、人間的成熟を抜きにしてはその十全な実現は不可能だ。自分が未成熟であることを思い知らされることは辛いことだが、その辛さを受け止めることこそが成熟のための第一歩なのだろう。















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