2013年12月7日土曜日

記号づけ英語教育実践の講演会を聞いて考えたこと



地方大学の理系研究室で起きた奇跡 - 「はじめて英語がわかった」 -では、改めて英語教育の現実について色々考えることができました。はるばるお越しくださった板倉隆夫先生と大庭まゆみ先生に深く感謝します。

特に板倉先生からは、「現実を観察し、そこから仮説を理論化し、その仮説に基づき実験し、その実験結果からさらに考え、観察と仮説・理論化を深める」という自然科学の王道を、大学理系の英語教育に適用された事例を学ばせていただきました。

自然科学的な態度に欠けることが多い英語教育界では、上の

観察→仮説・理論化→実験→結果→省察・・・

ではなく、

ドグマ(=学説・教育政策・個人の経験など)
→ドグマの実行→結果
→ドグマの強化(=成功だったら「やはりそうだろう」とし、失敗だったら「ドグマをもっと実行しなければ」と結論する)

になることがしばしばありますから、板倉先生のアプローチは非常に啓発的でした。

今は時間がないので、この講演会で私が考えたことをメモ風に記するだけに留めておきます。以下の内容は、板倉先生と大庭先生のお話に触発されて私が考えたこととご理解ください。以下にもし少しでも見るべき点があればそれは板倉先生と大庭先生のお話のおかげであり、誤りや偏りがあればそれはすべて私に由来するものです。板倉先生と大庭先生のお話は、一つの実践現場での吟味された「現実解」であり、非常に説得力があるものでした。以下の私の文章は、その現実解を過小評価も過大評価もしないための、私なりの覚書と理解していただけたらと思います。






■ 外国語学習における言語とメタ言語の循環

「全体を理解するためには部分を理解しておかねばならないが、部分を理解するためには全体を理解しておかねばならない」というのが、解釈学的循環であるが、外国語学習にも同じような循環がある。

つまり、幼い頃から身につけたわけではない外国語という言語に習熟するためには、文法といったメタ言語が必要だが、メタ言語を理解するためには、当の外国語という言語に習熟していなければならない、ということである。

外国語学習においては、まずメタ言語を完全に理解してから言語を学ぶことはほとんどありえないし、メタ言語一切抜きに言語に習熟してしまってからメタ言語を学ぶこともまずない(あるとしたらそれは「外国語学習」というよりは幼少期からの「第二言語習得」と言うべきだろう)。

外国語学習で大切なことは、言語とメタ言語の矛盾する循環関係にとにかく入り込み、(他に適切な表現を思いつけないからこう書くけど)言語とメタ言語を弁証法的に発展させ、自覚的な外国語使用を少しずつ可能にしてゆくことである。

あるいはデューイ風に表現してみるなら、「経験」をすることで「思考・振り返り」を学び、「思考・振り返り」をすることで「経験」を(単なる試行錯誤ではないという意味での)「経験」にすると言えようか。

どちらにせよ、言語(経験)とメタ言語(思考・振り返り)を独立分離させて、別々に学ぶことは非現実的であると考えられる。



■ 母国語と外国語の違い

もし目標とする外国語が母国語と同じ語族に属し特性が似ているなら、母国語を題材にメタ言語に習熟でき、そのメタ言語をそのまま外国語の学習に転用することもできる。だが、例えば日本語と英語のように母国語と外国語が大きく違う場合、仮に母国語を題材にメタ言語を覚えたとしても、そのメタ言語をそのまま外国語学習に転用できるわけではない。

この意味で(板倉先生の主張なら)「他動詞」や「形容詞」、(三上章以来の問題意識なら)「主語」といったメタ言語には注意しなければならない。



■ 文法理解を側面から助ける物語

人間の営みを描いた物語は、ある程度予期できる共通理解基盤の中で少し驚くような事が生じるという展開をもつが、その予期と驚きのバランスの中で、文法関係の理解が促進される。つまり、もし文がまったく抽象的で予期しがたいなら、学習途中の文法を使ってその文を理解することははなはだ困難となるが、他方、もし文がまったくありきたりの定型句であれば文法を理解しなくてもその文の働きを理解することができるので文法関係の理解には役立たない。

物語は、予期と驚きの配置が巧みなことが多いので、文法学習のための素材としては適切であると言える。しかし、説明文は、よほど巧みに書かない限り、そのトピックを知らない者には驚きばかりの文が続くことになり、トピックを知っている者には予期できる文ばかりになりがちなので、文法関係の理解には適切でない場合がおおいにありうる。また、会話文は、たいていの場合凡庸すぎる展開で内容がほとんど予期できるので、これも文法関係の理解には適切ではないことが多い。



■ 「英語を英語で理解する」ことの視覚化としての記号づけ

教師が英文に記号づけをしてやることで、学習者は「英語を英語で理解する」支援(指導)を得ることができる。学習者に記号づけさせることにより、教師は学習者が「英語を英語で理解する」ことができたかを判定(評価)することができる。

一般にこの支援と判定は、「英文和訳」で行われているが、たとえば「僕は野球が好きだ」と"I like baseball"のように、二言語間の関係が単純でない英語教育の場合は、英文和訳は支援(指導)の手段としても判定(評価)の手段としても必ずしも適切ではない。(この点、いわゆる「中間日本語」や「意味順」のように「私は―好きです―野球を」といった人工的な日本語を教育手段として使うことには妥当性がある)。



■ 「英語を英語で理解する」ことの内実としての品詞感覚とオンライン処理

「英語を英語で理解する」ために、記号づけは不可欠ではない。「英語を英語で理解する」ということは、十分な「品詞感覚」(=文の中での品詞の働きに関する感覚的な理解)により、部分である語句が文全体の中で一定の働きを担っていることを速やかに理解しながら、語句を語順通りに次々に連結し文全体の意味を完成させるという「オンライン処理」(=文の前の部分に戻ることなく理解をして文の終わりと共に理解が完結する処理)をしていることと表現できる。つまり「品詞感覚」と「オンライン処理」が「英語を英語で理解する」ことの内実である(これは統語論中心の言い方であり、意味論や語用論への配慮は少ないが、話を短くするために、ここではこれ以上の精緻化は避ける)。

「品詞感覚」は記号づけのために必要でありながら、おそらく記号づけによって育成される理解であろう (あるいは日英語の違いにもかかわらず、日本語の品詞感覚で英語の品詞感覚も得られているのだろうか ―純粋な疑問)。「オンライン処理」は記号づけ指導が目標とする事態であるが、それができる頃には記号づけは必ずしも必要とされなくなる。記号づけを「オンライン処理」ができているかどうかの判定(評価)手段として使うことも可能だが、即時性はどうしても判定できないし、記号づけというメタ言語記号そのものに習熟していなければならないという問題もある。

(記号づけに限らず、文法(=メタ言語の表記)は、外国語習得のための手段でありながら、時にそれが自己目的化し、本来の目的である外国語習得が忘れ去られてしまうという問題をもつ。)



■ 学習者を外国語の自覚的な使い手にするという目的のためには、手段はすべからく折衷的・便宜的に使い分けるべき

記号づけは非常に有効な外国語教育の手段であるが、高1の教科書にあったという次の文(これは大学入試レベルだろう!)を記号づけして指導するのは、それほど容易ではない。"There are few things that are more rewarding than to watch young people recognize that they have the power to make their dreams come true."

もしこういった文を指導しなければならないとしたら、従来の記号づけをした上で、「節 (および意味上の主語・動詞関係)が開始される時には改行しインデントする」といった原則を加えて


There are few things
that are more rewarding than 
to watch young people recognize
that they have the power
to make their dreams come true.


とでも表記し(上では記号づけ表記をしていません。念のため)、行ごとに「チャンク訳」をしつつ、次に来る意味を予期させるといった、さまざまな手段を合わせて使う必要があるだろう。

一般に、ある手段だけで外国語学習がすべて行えるというのは単純すぎる主張であり、教師は複数の手段を知り、学習者の様子を注意深く観察しながら複数の手段を使い分け、組み合わせることが必要である。学習者を観察するためには、もちろん、少人数クラスである必要がある。



以上です。時間がないのですが、今、少しでもまとめておかないと板倉先生と大庭先生の貴重な話の教訓を忘れてしまいそうなので、文章をまとめてみました。おそまつ。




追記(2013/12/08)

院生のKR君が、講演会の感想を書いてくれたので、ここに本人の許可を得て掲載します。

本講演会での「見える化」とは、通常の英文和訳の過程では、日本語に埋もれてしまう「英語の解釈の明確化」を指しており、またこの意味での「見える化」をさらに言い換えるならば、解釈の明瞭化の過程で、学習者の解釈ができていない箇所をあぶ出されるという点で「学習者内のわからない部分の明瞭化」を指すのかな、と感じました。

個人的な体験談になるのですが、バイト先の塾で生徒の質問対応を行っていると、理系科目(数学・理科)に対して、文系科目(国語・英語)に関する質問が少ないことに気がつきます。数学や理科の宿題では、解答は明確な一つが用意されてあり、学習者はその解に辿りつけないことが、「わからない」という状態であるとみなされます。この解釈は非常にわかりやすく、「解答欄に解があるorない」が理解の指標となります(ここでは単なる計算ミス・あてずっぽうな論理展開は除きます)。一方で、英語の宿題の多くは教科書の英文和訳か、文法項目に関するドリルが中心です。特に前者の英文和訳に関して言えば、調べた単語の意味を機械的に組み合わせることで、本来の英文から離れた、日本語の組み合わせの解釈を引き起こしてしまう恐れがあります。この際、本来の英文の意味はわかっていないのに学習者の意識は英文そのものから離れてしまっているために、ひとまず完成した「何となくの訳」に対して、生徒の中では疑問が生まれないことが少なくないのではないでしょうか。従来の英文和訳という課題では、生徒は母語の表現の中に意識がいってしまい、本来の英語の解釈が見えない状態に陥っているために、「わからない」という状態すら実感できない可能性が考えられます。このことが質問に来ないという現状の原因となってしまっているのではないでしょうか。生徒が質問に来ない、ということ自体は問題がないのですが、この考え方でいくと英文和訳という課題そのものが英語学習という目的を果たしていない恐れがあります。すなわち、理系科目同様、英語科においても、目の前の英文に対して思考を明瞭化する必要があるのではないでしょうか。

学習に対して思考を明瞭化する際に、今回の「見える化」は非常に有効な手段であると感じました。学習者は目の前の長文に対して、解釈を進める際に規則的な記号を書き加えることで、自身の解釈を明瞭化することができます。このことにより、従来日本語に埋もれ曖昧とされてきた英文の解釈を、英文からかけ離れることなく行うことができるでしょう。さらに、解釈が曖昧な部分に対して学習者は記号を当てはめることができないことから、自身の解釈ができていない部分までもを明瞭化することができます。このことでわからない状態が実感でき、学習はより意識的に進められることが予想されます。従来の曖昧な点を残しがちだった授業は、記号という方法・規則に従うことで、明確にわかりやすく進められるでしょう。

一方で、この「見える化」には、規則としてある程度自立しているという点で、若干の危うさを感じました。というのも、本来この「見える化」というのは英文から離れることなく英文を解釈することを目的としていましたが、この「見える化」自体が明確な規則を確立しているために、解釈の過程の中で英文全体から離れ、規則を当てはめるだけの状態に陥る危うさを感じました。例えば、英語は本来広いコンテクストの中で使用され、短文のみを切り取って考えることは不自然な行為のように思われます。しかしながら、この「見える化」を徹底して行うことは目の前の英文に対して盲目的に記号を振ることに専念してしまう恐れがあるのではないでしょうか。その結果、目の前の短文に関しては、従来日本語によって曖昧にされてきた部分を明確にすることはできたものの、結局大きな文章の流れを考えることを忘却してしまう恐れがあります。「見える化」という行為が規則性を持ち、独立しうるために、英文に記号を振って解釈するという限定的な過程を目標化してしまう危うさを感じます。「見える」ということは、同様に「他のものを見えなくさせる」という危うさを持っていることを、少なくとも教師は認識する必要があるのかもしれません。

また、この「見える化」という手法自体がある程度自立しているという点で、学習者がこの手法そのものに関心を示さなければ成功しない、という危うさも感じられます。というのも、全く英語に関心のない生徒に対して、この手法をマスターさせること自体が困難なように思えます。個人的な感覚なのですが、この「見える化」という方法そのものは英語から少し離れた性質を持っているような気がします。それは数学の問題を解く上で複雑な公式を丸暗記する感覚に似ているように思えます。数学に関心のない生徒にとって公式を丸暗記することは困難なことであり、またこれを丸暗記したところでどのように使用すればいいのか理解できず、そもそも使用できない恐れがあります。関心のない生徒や、極めて初級の段階にいる生徒には、この「見える化」という手法そのものが、英文を解釈するという全体に対しどのような位置づけをもっているか把握できない危うさを感じます。この「位置づけがわからない」という点に関しては、生徒の関心に直接関わってくる問題であり、わからない故に教科から離れてしまう危険を考えなければならないでしょう。今回の講演での成功例はあくまで大学生や大学院生と、ある程度英語全体が把握できている学習者だったので成功したのかもしれませんが、これが初期学習者である場合には特別な配慮が求められるかもしれません。

しかしながら、この「見える化」を用いることは、学習者の思考・解釈を明確化することで、彼らの学習を一歩離れた位置から俯瞰するきっかけを与えるでしょう。自身の学習を俯瞰して見ることは、より効率的な学習の達成につながるように思われます。俯瞰した学習法を経験した生徒は、その学習の延長線上にある「英語の運用」という巨大な像を感じ取るようになり、主体的な学習が展開されていくことも十分に考えられます。また、この学習法が生み出す、「学習が進んでいる感覚」そのものが、学習者の動機になることも十分に考えられると思います。全ての面を完璧にカバーした究極の学習法は存在し得ないと考えているので、この「見える化」を盲信すれば良い、とは考えませんが、その一方で、この手法の弱みを補いつつ自分の指導法に取り入れることは非常に有益だと思います。




追記 (2013/12/17)

この記事に関して何人かの方から感想をいただきました。

受験産業に従事されているある方は、「学生たちが英語を人の言葉としてとらえていない。」という板倉先生のご指摘に深く共感なさっていました。

中学校で長く教えられた後、今はある高校で教鞭をとってらっしゃる方は次のようなメールを下さいました(許可を得たので転載します)。


12月7日のブログ拝見。自分の経験を説明していただいている感じで、その通り!と納得。

「物語と文法理解」
「品詞感覚の大切さ」など

思わずメモ取りました。

(中略)

高校1年生を教えてみて中学校でするべきことがされていないのに驚きました。

品詞を考えたこともなく単語の単純な意味だけ覚える学習習慣しか持たない生徒たちでした。

中高の英語教育をつないでいかないといけない、と思うのですが、中高連携が難しいですね。小中連携以上に難しいです。


文部科学省が12月13日に発表した「グローバル化に対応した英語教育改革実施計画」によって英語教育の現場は大幅に変動するでしょう。
http://www.mext.go.jp/b_menu/houdou/25/12/1342458.htm

そういう時は、平時にまして教師の目が「上」に向いて、「これは新しい方針にかなっていますか」と児童・生徒不在の授業になりがちです。

しかし、そういった流れ ―これは明らかに安倍政権が作り出している流れだと私は考えています― に自らを失ってしまうのではなく、学習者をよく観察し、教師一人ひとりがよく考えて実践を深めてゆきたいと思います。

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