このブログの主目的は、(1)英語教育について根本的に考え直すこと、(2)英語教育現場の豊かな知恵をできるだけ言語化すること、(3)英語教育に関する良質のコミュニケーションを促進すること、です。このブログでの見解などは柳瀬個人のものであり、柳瀬が所属する組織や団体などのものではありません。
2013年12月23日月曜日
『17歳のカルテ』
生き物の課題とは環境に適応して生き延びることである。環境に応じて自分を変え、時に環境の方をも変える。だがもし、生き物と環境のギャップがはなはだしすぎるならば、適応は失敗し、生命力は損なわれる。
だが生き物は頑強なもので、休養をとり生命力を回復させ、やがて大なり小なり環境に適応する。生き物は、単純な機能固定的マシンではなく、様々な複合性が組み合わさったオートポイエーシス・システムであり、その自生的な対応能力は単純なマシンとは比べものにならない。
生き物の中でも人間は、器用な手を利用し様々な人工物を作り出し、さらには言語という媒体で「今ここ」の体験を、自分の過去・未来・仮想世界と、そして他人とに関連づけ、自分の世界を作り変える。生き物の世界の中で、おそらく人間の世界こそはもっとも複合性の高いものではないか。
人工物は、それが建築物だろうが、被服だろうが、食品だろうが、道具だろうが、芸術作品だろうが、人間が生きることを ―環境に適応することを― 少しは容易にしてくれる。言語は、それが脳内の思考表現であれ、他人との応答であれ、視覚媒体での読み書きであれ、人間が生きるという課題を少しは対処可能なものにしてくれる。
だが、人工物と言語は、人間の外なる環境と内なる意識 ―それは簡単には説明できないやり方で生理学的生命システムとカップリングされている―を、ある意味、極端に複合的にしてしまう。その高度な複合性ゆえに、人間が生きることの可能性は、当の人間が想像できないぐらいに広がった。だから人間は、自らをそして他人をさらには地球さえをも、信じられないぐらい素晴らしいものにすることができる。だが、その可能性は破壊にも開かれている。
人工物と言語を備えた人間が、自分を含む何かを破壊する流れに巻き込まれた時、その流れを止めることは、その複合性ゆえに必ずしも容易なことではない。単純な判断による単純な介入が必ずしもうまくいかないからだ(もちろん、何かを破壊しようとする人間を、介入者が破壊してしまうのだったら、単純な力の行使で流れは止められるが、それは緊急避難的手段である)。特にその人間がことさらに敏感な複合性をもっている場合、単純な介入は介入者の予想をまったく超えた災厄をもたらすことがある。
この映画(『17歳のカルテ』)の主人公のスザンナは、ベトナム戦争の60年台という社会環境 ―若者は実際にくじびきで徴兵され遠く彼方での殺し合いに参加させられた―と、大学教授の娘という一見幸福そうな立場でありながら、実は心理的な葛藤を抱えた母親に育てられたという家庭環境に適応しなければならなかった。
もちろん同じ社会環境と似たような(あるいはもっと過酷な)家庭環境を引き受けながらも、「問題なく」―これは問題を含んだ表現だが、今はそれについては触れない― 過ごす人間も多くいる。いやそれが社会のマジョリティ ―嫌なことばを使えば「普通の人」― なのだろう。だが、スザンナという少女にはそれが耐えられなかった。繊細な完成と鋭敏な知性により、極めて高度な複合性を有する彼女の心は、彼女が、彼女にとっての社会環境と家庭環境に適応しようと努力する中で、彼女自身が予想も制御もできないぐらいに変動し、それに即して彼女は自分の行動に翻弄される。
そして彼女は精神病棟に送られる。
映画ではこのスザンナ役のウィノナ・ライダー(Winona Ryder)の演技がすばらしい。スザンナの、世間的な価値観からすれば「常識外れな」行動の「まともさ」が見る者に伝わってくる。そして、権力装置の中で彼女を一方的に判定し彼女を制御・支配しようとする人間の悲喜劇的な凡庸さがよくわかる。
私はこの映画を偶然スカパーで見て、その後でウィキペディアを調べてはじめて知ったのだが、ウィノナ・ライダーは、自らも境界性パーソナリティ障害で精神科入院歴がある。そういった履歴もあり、彼女は原作(『思春期病棟の少女たち』)に惚れ込み映画化権を買い取って製作総指揮も兼任したそうだ。この映画の演技で注目され数々の賞を得たのは、もっぱらアンジェリーナ・ジョリーだったそうだが、そんな知識なしに映画を見ていた私にとって素晴らしかったのは、断然ウィノナ・ライダーの演技の方だった。彼女の微細な表情は、言語表現が困難なぐらいに微妙な感情を見事に伝えてくれていた。
映画はスザンナが退院するまでを描く。映画は、『カッコーの巣の上で』と同じように、繊細な感性と鋭敏な知性をもつ当事者が不安定になった時に、鈍重な感性と単純な知性によって設計・運営される権力システムが、善意や正義感に溢れながら、いかに追い込まれた当事者をさらに追い込んでしまうか(あるいは、追い込まざるをえないか、と言うべきだろうか)を描き出す。外からの単純な権力行使ではなく、当事者のうちからの回復を待つ ―「支援」ということばでさえもここでは控えるべきなのかもしれない― 環境を整備することが、まわりの人間のなすべきことなのだろうか。
私たちは、単純な善意と正義感に対する警戒感を失ってはいけない。もちろん単純な知性の単純な増幅に対しても。
繊細な感性と鋭敏な知性を備えたオートポイエーシス・システムの可能性は、自己破壊にだけではなく、回復と自己再生にも開かれている。
私たちは生命の力を信じる。
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