2013年10月7日月曜日

Education as Direction (Chapter 3 of Democracy and Education)




[この記事は、デューイ『民主主義と教育』(John. Dewey (1916) Democracy and Education. を読む授業のためのものです。目次ページはhttp://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/09/john-dewey-1916-democracy-and-education.htmlです。]



以下、引用はProject Gutenbergからします(この本の著作権は切れていますので、引用や転載は自由です)。なお、つけられたページ番号はDover editionのページ番号です。なおProject Gutenbergにはイタリックやボールドなどの強調が抜けていますので、それらは適宜Dover editionから補いました。





■印は、続く引用文の要約で、⇒印は私のコメントです。 下のスライドは私にとって印象的だったデューイのことばの抜粋です。













第三章: 指導としての教育

Chapter Three: Education as Direction




1. 「指導」として働く環境 (1. The Environment as Directive)

■ 指導 (direction)、管理 (control)、先導 (guidance)の概念区分

⇒"Direction", "control", "guidance" をそれぞれ「指導」、「管理」、「先導」と訳した。柔らかい"guidance" - 中立的な"direction" - 固い"control"という連なりを表現するためには、先導・指導・管理という語が適切かと判断したからであるが、これらの訳語の適切性については今後も考え続けたい。



Guidance (先導) - Direction (指導) - Control (管理)



追記 (2015/10/21)
Guidance - Direction - Controlを、誘い・誘う - 導き・導く - 制御・制御する、と訳してもいいのかなと思い始めました。下の訳はまだ変えていませんが、今後、変更も検討しようかと思っています。




以下は全訳である。なお"from within"は、UsingEnglish.comの説明にしたがって"outside"の意味とした。

今度は、教育の機能が形をとる特殊な形態について考えたい。つまり、指導、管理、先導という形態についてである。これら指導、管理、先導という三つの語のうち、最後の先導 (guidance)は、「導かれる個人が、協力関係 (cooperation)を通じて、その人の天与の応用力 (natural capacities) についてのの手助け (assist)を受ける」という考えをもっともよく伝えている。管理 (control)は、それとは異なり、「外部からもたらされた力 (energy)が、管理される者の抵抗を受けている」という考えを伝えている。指導 (direction) はもっと中立的な用語で、「指導される者の能動的な傾向が、無目的に (aimlessly)消失してしまうのではなく、ある一定方向に切れ間なく導かれる」ことを示唆している。指導が基本機能を表すのだが、その指導も、一方の端では先導的な手助けとして、反対の端では規制や支配になりがちである。

We now pass to one of the special forms which the general function of education assumes: namely, that of direction, control, or guidance. Of these three words, direction, control, and guidance, the last best conveys the idea of assisting through cooperation the natural capacities of the individuals guided; control conveys rather the notion of an energy brought to bear from without and meeting some resistance from the one controlled; direction is a more neutral term and suggests the fact that the active tendencies of those directed are led in a certain continuous course, instead of dispersing aimlessly. Direction expresses the basic function, which tends at one extreme to become a guiding assistance and at another, a regulation or ruling. (pp. 22-23)



■ 教育の、三側面である先導・指導・管理のどれにも、強制的な管理の意味が読み込まれることがある。国家や教育についても、この強制的な管理のイメージで考えられることが多い。

But in any case, we must carefully avoid a meaning sometimes read into the term "control." It is sometimes assumed, explicitly or unconsciously, that an individual's tendencies are naturally purely individualistic or egoistic, and thus antisocial. Control then denotes the process by which he is brought to subordinate his natural impulses to public or common ends. Since, by conception, his own nature is quite alien to this process and opposes it rather than helps it, control has in this view a flavor of coercion or compulsion about it. Systems of government and theories of the state have been built upon this notion, and it has seriously affected educational ideas and practices. (p. 23)



■ 確かにある人が他の人とは異なったことに興味をもつこともあるが、人は主には、他の人々が行っている活動に参加し、共同して協力しながら物事を行うこと (conjoint and cooperative doings)に興味を持っている。だから、教育の三側面である先導・指導・管理に強制の意味を読み込む必要はない。

But there is no ground for any such view. Individuals are certainly interested, at times, in having their own way, and their own way may go contrary to the ways of others. But they are also interested, and chiefly interested upon the whole, in entering into the activities of others and taking part in conjoint and cooperative doings. Otherwise, no such thing as a community would be possible. And there would not even be any one interested in furnishing the policeman to keep a semblance of harmony unless he thought that thereby he could gain some personal advantage. Control, in truth, means only an emphatic form of direction of powers, and covers the regulation gained by an individual through his own efforts quite as much as that brought about when others take the lead. (p. 23)

⇒最後の管理の部分は重要なので、一文全体を訳してみる。

「管理が本当に意味していることは、権力 (powers) によって指導が行われていることを強調していることだけである。管理は、他人が主導している規制 (regulation) を意味するが、それと同じぐらいに、個人が自ら行う規制をも意味している」。



■ 刺激とは、導きであり、先導そして指導である。

⇒全訳(中略あり)

一般的に言うなら、どんな刺激 (stimulus) も、活動を指導するものである。刺激は、単に活動を喚起 (excite)したり、呼び起こしている (stir up) だけでなく、ある対象に向けて活動を指導しているのである。逆に言うと、反応 (response) とは単なる反動の行為 (re-action)、あるいは、刺激による撹乱に対するいわば反抗 (protest)ではない。反応とは、応答 (answer) である。反応は、刺激に出会い、刺激と調和する。刺激と反応はお互いに対して適応 (adaptation)する。(中略)そうなるとある程度までは、すべての指導および管理は、活動が自らの到達点 (end)にまで到達できるように先導することだと言える。指導も管理も、ある生命体がすでに行う傾向性をもっていることを十分に行うように手助けすること (assistance) である。

In general, every stimulus directs activity. It does not simply excite it or stir it up, but directs it toward an object. Put the other way around, a response is not just a re-action, a protest, as it were, against being disturbed; it is, as the word indicates, an answer. It meets the stimulus, and corresponds with it. There is an adaptation of the stimulus and response to each other. ... To some extent, then, all direction or control is a guiding of activity to its own end; it is an assistance in doing fully what some organ is already tending to do. (pp. 23-24)

⇒"To direct"は、あくまでも"direction"と同根のことばとして考え、直訳的に「指導する」と訳してみた。

この箇所で、デューイがいわゆる「行動主義」とはまったく異なることが明白になる。また、彼の「指導」 (direction) や「管理」 (control)についても、「先導」 (guidance)とつらなり、学習者の傾向性や自発性を重視していることもわかる。



■ (本能的な反応を別とするならば)ある刺激からある反応が必ず生じるわけではなく、私たちはある反応を引き出そうとすれば、指導によって不要な動きを取り除いてやらなければならない。

⇒一応全訳

指導は、行為が真なる意味での反応となるようにするため、行為を集中させ定めることである。このために、無駄で混乱のもとになる動きを取り除かねばならない。

Direction involves a focusing and fixating of action in order that it may be truly a response, and this requires an elimination of unnecessary and confusing movements. (p. 24)

⇒「真の反応」とは、自らの行為から、無駄な動きを取り、行為を集中させてあるべきように定めたものである、というのは、武術オタク的にはよくわかる(笑)。



■ 反応は次の反応とのつながりを欠くものになる可能性があるから、適切な管理によって次の反応ともつながるようにしてやらねばならない。

⇒ここも全訳。ただし、ここの"control"とは「コントロール」あるいは「制御」とした方がわかりやすいかもしれないが、訳語の統一性の方を優先した。また、ここでは"action"ではなく"act"が使われているが、同意語と解釈し、「行為」と訳した。

適切な管理とは、ある行為とそれに続く行為が、連続した秩序 (continuous order) となるようにすることである。行為は、対応している刺激に出会うだけでなく、それに続く行為の助けになるようなものでなくてはならない。

Adequate control means that the successive acts are brought into a continuous order; each act not only meets its immediate stimulus but helps the acts which follow. (p. 24)

⇒原書でボクシングの例が出ているからだけではないけど、武術オタクはここでも訳知り顔で大きく頷く(笑)。



■ 指導とは、共時的には特定の反応的行為を選ばせ、通時的にはそれに続く反応的行為を選ばせること。

⇒全訳

短く言うなら、指導とは、瞬間的でありかつ連続的である (simultaneous and successive)。指導は、ある時点では、ある程度呼び起こされるすべての傾向の中から、必要な目的に力 (energy)を集める傾向だけを選び取る。しかし、通時的な連続性の点から言えば、指導は、行為が先行する行為とも続行する行為とも均衡関係にあり、活動の秩序が保たれるようにする。したがって、集中 (focusing) と秩序 (ordering) は、指導の二側面であり、前者が空間的で、後者が時間的である。集中のおかげで、的を射ることができる。秩序のおかげで、さらに行為するために必要な均衡が保たれる。もちろん、このように観念的に集中と秩序の二つを区分しても、実践の中では二つを分離することはできない。

In short, direction is both simultaneous and successive. At a given time, it requires that, from all the tendencies that are partially called out, those be selected which center energy upon the point of need. Successively, it requires that each act be balanced with those which precede and come after, so that order of activity is achieved. Focusing and ordering are thus the two aspects of direction, one spatial, the other temporal. The first insures hitting the mark; the second keeps the balance required for further action. Obviously, it is not possible to separate them in practice as we have distinguished them in idea. (p. 24)

⇒武術オタク的なコメントを続けるなら、指導とは、弟子が自らなすべきこと(=集中と秩序)をまさに弟子になさせることであり、師が勝手に思っていることを弟子に命令して強制的にやらせるではないと、つくづく思わされる。(←しみじみとした顔をするんじゃない、馬鹿www)。

あるいは、ある技をやるために、ある局面に「集中」しながらも、自分の身体という「秩序」を保ち、技への集中のために逆に身体が死に体にならないようにバランスをとり続けるというのは、う~ん、まさに武術だよなぁ (←できもしないのに理屈ばかりこねるんじゃねぇ、馬鹿www)



■ 教師が指導できるのは、学習者の中にすでにある本能や習慣に基づくことだけである。学習者に無理に何かを行わせることはできない。その意味で、指導とは、学習者の中にあることを再び指し導くことである。

⇒全訳

厳密な意味では、若者に何かを無理に行わせることは、外面的にも内面的にも不可能である。この事実を無視すると、人間の性質を歪め悪化させてしまう。既存の本能や習慣が指導の中で果たしている役割を考慮に入れると、合理的かつ賢明に指導をすることができる。正確に述べるなら、どの指導も、再び指導することにすぎない。指導は、すでに生じている活動を別の経路に移すことである。[若者の中に] すでに働いている力を知らなければ、どんな指導の試みもうまくゆかない。

In the strict sense, nothing can be forced upon them or into them. To overlook this fact means to distort and pervert human nature. To take into account the contribution made by the existing instincts and habits of those directed is to direct them economically and wisely. Speaking accurately, all direction is but re-direction; it shifts the activities already going on into another channel. Unless one is cognizant of the energies which are already in operation, one's attempts at direction will almost surely go amiss. (p. 25)

⇒人間が本来もっている性質と、学習者がそれまでに獲得してきた癖を知ることが、よき指導には必要である。(なのに、多くの教師は、人間理解を深めず学習者も見ずに、「偉い人」ばかり見て「指導法」を学ぼうとする)。



■ 慣習や規制の力でもって若者を管理するのは一時しのぎにすぎない。管理される恐れがすぎれば、若者は元の木阿弥になるだけだし、管理されることにより自律的に学ぶ機会を剥奪されたとしたら、状況はより悪化するだけである。



On the other hand, the control afforded by the customs and regulations of others may be short-sighted. It may accomplish its immediate effect, but at the expense of throwing the subsequent action of the person out of balance. A threat may, for example, prevent a person from doing something to which he is naturally inclined by arousing fear of disagreeable consequences if he persists. But he may be left in the position which exposes him later on to influences which will lead him to do even worse things.

⇒だが、多くの教師は、外的で一時しのぎにすぎない管理を繰り返すだけである(また、教育行政も外的で一時的な管理を次々に行うことを好んでいる)。教師(および教育行政者)は、自らの自己中心性と短見性を悔い改め、もっと生徒(および教師)を知ることに努めなければ、とても「指導者」とは呼べない(それは「強要者」「強制執行人」などと呼ばれるべきだろう)。



ここでたまたま本日読んだ、甲野善紀先生のメールマガジン(2013/10/07号)から引用をする。スポーツ界の暴力問題に関する文章の一部だが、学びの内発性について述べている。教育や学びをあまりにも外発的な管理で考えている現代の学校教育関係者は、どこかで根本的な反省をしなければならないのではないか。

こうした常識外の身体の使い方を養成する場合、根性などではどうにもならず、体操の内村航平選手のように自分の中から湧き起こる強い探究心が何よりも必要となる。そして、そのためには自分が取り組むものに対して、ライト兄弟が飛行機を作った時のような強い興味を持たねばならない。そして、そうなった者の上達ぶりは格別だ。例えば、私の武術に触れたT氏は30歳過ぎまで武術は全く素人であったが、その探究心に火が点いてからは、大変忙しい仕事を、しばしば徹夜で何とかやりくりしてもやって来て、月数回、数年の稽古で、柔道の国体出場選手にも驚かれる動きが出来るようになってきた。

この例を見ても明らかだが、柔道界に限らず、スポーツ界の暴力問題をなくす根本的対策は、これに取り組む者に、強い興味を湧かせ、意欲が引き出されてくるような稽古練習体系を作ることだと思う。そして、指導者、選手が一体となってこれに取り組む。そのためには、指導者が現役選手にも驚かれるような技術を身につけるべく、何よりも指導者自身が技の向上を目指さねばならない。私も現在64歳となるが、日本を代表する柔道選手と組んで驚かれるようになったのは、ホンのここ1、2年の事であるから。
http://yakan-hiko.com/kono.html








2. 社会的指導の形態 (2. Modes of Social Direction)

■ 「自分は指導している」と思い込んでいることと、よい指導をしていることはまったく異なる。

⇒全訳

大人が他人の行動を指導しているともっとも意識するのは、当然、直接的に指導しようと狙っている時である。一般的に、大人がそのような狙いを意識化するのは、他人から抵抗を受ける時、つまり、自分が望んでいないことを他人がやっている時である。しかし、そのような指導よりも永続的で効果的な管理の形態とは、そのような意識的な意図がないままに次々と連続的に作動するものである。

Adults are naturally most conscious of directing the conduct of others when they are immediately aiming so to do. As a rule, they have such an aim consciously when they find themselves resisted; when others are doing things they do not wish them to do. But the more permanent and influential modes of control are those which operate from moment to moment continuously without such deliberate intention on our part. (pp. 25-26)

⇒身体的に相手を制御しようとする時でも、私たちは相手の抵抗に自分の力を集中させている時にもっとも相手を制御していると思いがちである。しかし、本当に相手を制御しようとしたら、特定の部位に意識的な力を居付かせてしまうのではなく、次々に相手を導かなければならない。つまり相手の身体に次の動きを指導するレベルを超えて、相手に次の動きを先導してやらなければならない。そうすれば技はするりと決まる(←自分では技をまともにできない武術オタク、黙れwww)



■ 生徒の抵抗に対して、物理的な管理を執行しても、生徒は教育的には変わらない。物理的な結果と、教育的な結果は区別して考えなければならない。

A man can be prevented from breaking into other persons' houses by shutting him up, but shutting him up may not alter his disposition to commit burglary. When we confuse a physical with an educative result, we always lose the chance of enlisting the person's own participating disposition in getting the result desired, and thereby of developing within him an intrinsic and persisting direction in the right way. (p. 26)

⇒デューイも引用していることわざ"we may lead a horse to water, but we cannot make him drink"は、誰も知っているが、誰もその不可能なことをやろうとしている(私もしょっちゅうそうしてしまっている ― 反省)。教育の問題は、教師の自己中心性にあるのかもしれない。



■ 意識的に管理をしてよいのは、学習者が自分がやっていることもその帰結もまったくわかっていない時だけだろう。

In general, the occasion for the more conscious acts of control should be limited to acts which are so instinctive or impulsive that the one performing them has no means of foreseeing their outcome. If a person cannot foresee the consequences of his act, and is not capable of understanding what he is told about its outcome by those with more experience, it is impossible for him to guide his act intelligently. (p. 26)

⇒同じ教育といっても、当然ながら子どもの発達段階に応じて管理・指導・先導の度合いは異なる。



■ 学習の哲学および心理学の批判。ここで批判されている哲学と心理学は、情報処理的なもの。デューイは、心内に刻み込まれた印象が「意味」であるという、人間の知性をコンピュータに見立てた哲学と心理学を批判し、(ウィトゲンシュタインと同じように)私たちが共同体の中で物事を他者と共に社会的に使うようになることに、その物事の「意味」があるとする。

The philosophy of learning has been unduly dominated by a false psychology. It is frequently stated that a person learns by merely having the qualities of things impressed upon his mind through the gateway of the senses. Having received a store of sensory impressions, association or some power of mental synthesis is supposed to combine them into ideas - into things with a meaning. An object, stone, orange, tree, chair, is supposed to convey different impressions of color, shape, size, hardness, smell, taste, etc., which aggregated together constitute the characteristic meaning of each thing. But as matter of fact, it is the characteristic use to which the thing is put, because of its specific qualities, which supplies the meaning with which it is identified. A chair is a thing which is put to one use; a table, a thing which is employed for another purpose; an orange is a thing which costs so much, which is grown in warm climes, which is eaten, and when eaten has an agreeable odor and refreshing taste, etc. (p. 28)

⇒情報処理的心理学にしか接してこなかった人は、ここでつまづくことが多いのでゆっくり考えてみてください。

関連記事
Dwight Atkinson (2011) Alternative Approaches to Second Language Acquisition
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2011/09/dwight-atkinson-2011-alternative.html



■ 意味の有無で、私たちの単なる物理的順応と心的行為が区別されるが、この場合の「意味」とは、私たちの共同体生活での物事の連関である。

⇒全訳

物理的刺激に順応すること (adjustment)と心的に行為することの違いは、後者は物事の意味において物事に反応しているのに対して、前者ではそうではないといことだ。大きな音がして私は飛び上がってしまうかもしれないが、その際に私の心は関与していない。しかし、もし私がある音を聞いて走りだし水を汲んで炎を消したなら、私は知的に反応したのである。その音は火災を意味し、火災は消火されなければならないことを意味していた。私は石につまづき、それを道端へ蹴り出すが、それは誰かがそれにつまづいてはいけないと案じてのことであり、これは知的な行いである。私は石が有している意味に反応した。私は雷鳴に驚く - その正体が雷だとわかっていてもわかっていなくても- いや、正体がわかっていないままに驚くことの方が多いだろう。しかし、(声を出してもいいし出さなくてもいいのだが)、もし私が自分に対して「これは雷だ」と言い聞かせるなら、私は雷鳴の意味に対して反応している。私の行動には心的な性質がある。物事が私たちにとっての意味を有している時に、私たちは自分の行動を意味する(意図する、目的とする)。物事に私たちにとっての意味がない場合、私たちはわけもわからずに、無意識的に、知的とは呼べないやり方で行為する。

The difference between an adjustment to a physical stimulus and a mental act is that the latter involves response to a thing in its meaning; the former does not. A noise may make me jump without my mind being implicated. When I hear a noise and run and get water and put out a blaze, I respond intelligently; the sound meant fire, and fire meant need of being extinguished. I bump into a stone, and kick it to one side purely physically. I put it to one side for fear some one will stumble upon it, intelligently; I respond to a meaning which the thing has. I am startled by a thunderclap whether I recognize it or not - more likely, if I do not recognize it. But if I say, either out loud or to myself, that is thunder, I respond to the disturbance as a meaning. My behavior has a mental quality. When things have a meaning for us, we mean (intend, propose) what we do: when they do not, we act blindly, unconsciously, unintelligently. (pp. 28-29)

⇒私たちは物事に反応するのではなく、物事の意味に反応する。

また、物事の意味は、私たちの生活様式によって決まる。同じH2Oでも、火災の時には大量のH2Oが必要となる(火災現場に水をコップでもってくる者は馬鹿者扱いされるだろうし、お客をもてなす時にH2Oをバケツでもってくる者は正気を疑われるだろう)。



■ 訓練と教育の違い。単なる訓練は、私たちを訓練で獲得した習慣の奴隷にするかもしれない。

⇒全訳

単なる物理的な順応でも心的な反応でも、私たちの活動は指導されるか管理されている。しかし、たんにわけもわからず反応している場合は、指導もわけのわからないものになる。そこには訓練 (training) はあるかもしれながい、教育 (education) はない。何度も到来する刺激に対してある反応を繰り返すことによって、行為をあるやり方に固定することはできるかもしれない。中身がまったくわかっていない習慣が私たちには多くあるものだ。私たちが何をやっているかわからないままに形成されたからだ。その結果、私たちが習慣の主人となるのではなく、習慣が私たちの主人となる。習慣が私たちを動かし、私たちを管理する。そういった習慣が何をもたらすかを自覚し、その結果の価値を判断しない限り、私たちはそういった習慣を管理することはできない。

In both kinds of responsive adjustment, our activities are directed or controlled. But in the merely blind response, direction is also blind. There may be training, but there is no education. Repeated responses to recurrent stimuli may fix a habit of acting in a certain way. All of us have many habits of whose import we are quite unaware, since they were formed without our knowing what we were about. Consequently they possess us, rather than we them. They move us; they control us. Unless we become aware of what they accomplish, and pass judgment upon the worth of the result, we do not control them. (p. 29)



■ 物事の観念 (idea) を知るとは、行為の図式の中でその物事が占める位置に適ったやり方でその物事に対応できることである。物事から、いつもある感覚を得ても、その物事の観念を知っているとはいえない。

To have an idea of a thing is thus not just to get certain sensations from it. It is to be able to respond to the thing in view of its place in an inclusive scheme of action; it is to foresee the drift and probable consequence of the action of the thing upon us and of our action upon it. (p. 29)

⇒英単語の小テストなどでは、しばしば英単語に対して訳語(日本語)を答えることで、その英単語を知っていることの証左としている。別種の小テストでは、は英単語の音声を聞いて、そのスペリングを書くことができることで英単語をちゃんと知っているかを判断しようとする。これらの例では、確かに学習者はある英単語に接した瞬間にある感覚(ここでは訳語やスペリング)を得ることができるが、デューイによれば、それだけではその英単語の観念 (idea) がわかっているとは言えない。

⇒それでは、ある英単語の観念がわかっているということはどういうことか、デューイ流に説明してみてください。



■ ある物事について、他の人と同じ観念をもつことがなければ、共通理解も共同体生活もありえない。

To have the same ideas about things which others have, to be like-minded with them, and thus to be really members of a social group, is therefore to attach the same meanings to things and to acts which others attach. Otherwise, there is no common understanding, and no community life. (p. 29)

⇒ここでデューイは"the same ideas"と表現しているが、これは強すぎる表現だろう。私なら"more or less"といった婉曲表現を入れる。とはいえ、デューイは"like-minded"とも言っているから、彼が"the same"にこだわっているわけではないと考えるべきだろう。



■ 行動において心を共にする、あるいは意を共にする (there is a common mind; a common intent in behavior)とは、自分の行為が相手の行為に及ぼしうる結果、および相手の行為が自分の行為に及ぼしうる結果の両方を理解して行動すること。

But if each views the consequences of his own acts as having a bearing upon what others are doing and takes into account the consequences of their behavior upon himself, then there is a common mind; a common intent in behavior. There is an understanding set up between the different contributors; and this common understanding controls the action of each. (p. 30)

⇒ここでも"this common understanding"といった表現があるが、この場合の"common"とは、狭義の"the same"を意味しないと解釈するべきだろう。さもないと、いかにして異なる二人がまったく同じ理解を共有できるのか、といった問題が生じてしまうように、私は思える。一つの解釈方法は、ある二人が支障なく共同体生活を過ごしてきたら、その場合は、事後的・遡及的にその二人は同じ理解を共有していたといっても過言でない、ぐらいに表現することだろうと私は考える。



■ 赤ん坊が、単に生理学的に不快な状態(空腹)に反応している場合と、赤ん坊なりに母親とコミュニケーションをしている場合を区別することができる。

An infant is hungry, and cries while food is prepared in his presence. If he does not connect his own state with what others are doing, nor what they are doing with his own satisfaction, he simply reacts with increasing impatience to his own increasing discomfort. He is physically controlled by his own organic state. But when he makes a back and forth reference, his whole attitude changes. He takes an interest, as we say; he takes note and watches what others are doing. He no longer reacts just to his own hunger, but behaves in the light of what others are doing for its prospective satisfaction. (p. 30)

⇒言語をまだ発することができない赤ん坊が、たとえば母親とコミュニケーションを行うことができるとあなたは考えるか?もしそう考えるなら、その際のあなたのコミュニケーションの定義とはなにか?

また、そういった言語抜きのコミュニケーションがあるとすれば、それは言語獲得に不可欠なものか、それとも特段必要なものではないのか?あなたの考えを理由と共に述べよ。



■ ある物事が、赤ん坊にとっての対象 (object)となることには、知性・意味・社会性などが絡んでいる。

⇒全訳をしてみる。ちなみにこの引用は、上の引用に続くものである。

このようにして、赤ん坊は単に空腹について知ることなく空腹に屈するのではなく、空腹という自分自身の状態に気づく、あるい空腹を再認もしくは同定する。かくして空腹は赤ん坊にとっての対象となる。空腹に対する赤ん坊の態度はある程度知的なものになる。そのように他人の行為の意味そして自分の状態の意味に気づくことにより、赤ん坊は社会的に指導される。

⇒「社会的に指導される」とは直訳すぎる表現だから、「社会的に導かれる」ぐらいの方がいいかもしれない。

In that way, he also no longer just gives way to hunger without knowing it, but he notes, or recognizes, or identifies his own state. It becomes an object for him. His attitude toward it becomes in some degree intelligent. And in such noting of the meaning of the actions of others and of his own state, he is socially directed. (p. 31)

⇒繰り返すようだが、ある英単語が学習者の「対象」となるのはどういう時か?それは学習者がその英単語の訳語やスペルを覚えた時か?(私は中高の英語教育で蔓延している単語小テスト的な意味論に辟易している。あのような小テストを繰り返す英語教師は、実は英語ができないとすら私は思っている。本当に英語が使える人間なら、あのような小テストを繰り返すことは、英語習得に対して益よりも害の方が大きいとと思うのではないだろうか)。

⇒この「ただ単に物理的に反応している」ことと、「自らの物理的反応を自覚して反応する」ことの違いは決定的であるように思える。後者は、自己(システム)と環境(システム以外のもの)を区別しながら自己観察を行いつつ作動する自己言及的システム(オートポイエーシスシステム)と呼んでいいのだろうか。ルーマンもダマシオもこういったことから神経システムにおける意識の発生を説いているのではないか。このあたりを明確に理解したいのだが、なかなかうまくいかない(←オタクの独り言)。



■言語は、私たちを社会的に導く。言語獲得は、言語が物理的世界の中で社会的に使われることで容易になっている。

⇒最初の三文だけ翻訳する。

15ページでも既に確認したが、言語とは、私たちの行為と他人の行為を、共有する状況に対して共同的に関連づける (joint reference) 事例である。かくして、言語は社会的指導の方法としてもっとも重要なものとなる。しかしもし言語が、ある結果を達成するために、言語よりも精確ではないかもしれないが言語よりは実体的な物理的手段を使うという文脈の中で使われていなかったら、言語はこのように効果的な道具とはならなかっただろう。

Language is, as we have already seen (ante, p. 15) a case of this joint reference of our own action and that of another to a common situation. Hence its unrivaled significance as a means of social direction. But language would not be this efficacious instrument were it not that it takes place upon a background of coarser and more tangible use of physical means to accomplish results. A child sees persons with whom he lives using chairs, hats, tables, spades, saws, plows, horses, money in certain ways. If he has any share at all in what they are doing, he is led thereby to use things in the same way, or to use other things in a way which will fit in. If a chair is drawn up to a table, it is a sign that he is to sit in it; if a person extends his right hand, he is to extend his; and so on in a never ending stream of detail. (p. 32)

⇒しかし、日本の英語教育は、英語だけを抽出し、それだけを効果的に覚えさせようとしていないか。おそらくは効率化のためにおこなった抽出が、言語としての英語の本質を損ね、結果的に学びをおよそ非効率的なものとしているとは言えないか。



おそらくは、人間が技芸で創り出した製品と自然のままの物質を使用することにおいて、私たちの習慣が広く共有されていることが、もっとも深くもっとも行き渡った社会的管理となっているのだろう。子どもが学校に行くときには、子どもには既に「心」がある。つまり、子どもには判断のための知識と性向が備わっており、それを言語使用を通じて伝えることができる。でもこの「心」は、知的反応の習慣が体系化されたものであり、子どもはそれを他の人々が物を使うことと連動しながら物を使うことにより、自らのものとしたのである。社会的管理から私たちが逃れることはできない。社会的管理は、私たちの性向の中に満ち満ちているのだ。

The prevailing habits of using the products of human art and the raw materials of nature constitute by all odds the deepest and most pervasive mode of social control. When children go to school, they already have "minds" - they have knowledge and dispositions of judgment which may be appealed to through the use of language. But these "minds" are the organized habits of intelligent response which they have previously required by putting things to use in connection with the way other persons use things. The control is inescapable; it saturates disposition. (p. 32)

⇒情報処理的認知科学による「心」 (mind) の規定と、このデューイの規定を比較せよ。



■ もっとも根源的な管理とは、個人的・道徳的なものではなく、知的・社会的なものである。

The net outcome of the discussion is that the fundamental means of control is not personal but intellectual. It is not "moral" in the sense that a person is moved by direct personal appeal from others, important as is this method at critical junctures. It consists in the habits of understanding, which are set up in using objects in correspondence with others, whether by way of cooperation and assistance or rivalry and competition. (p. 32)

⇒「知性」や「社会性」といった、通常は肯定的な意味でしか使われない用語を「管理」という観点から規定していることに注意。



■ 具体物としての「心」とは、物事を使用の観点から理解できる力。社会化された心とは、共同もしくは共有の状況で物事を使用の観点から理解できる力。この意味で心とは社会的管理の方法である。

Mind as a concrete thing is precisely the power to understand things in terms of the use made of them; a socialized mind is the power to understand them in terms of the use to which they are turned in joint or shared situations. And mind in this sense is the method of social control. (p. 32)

⇒話が思いっきり飛んでしまうけれど、道徳という心を育てる教育は、どのように行えばいいのだろう。デューイならどう考えるだろう。







3. 模倣と社会心理学 (Imitation and Social Psychology)

■ 人の心を物理的対象物および他の人々から隔離して考える心理学への批判。

We have already noted the defects of a psychology of learning which places the individual mind naked, as it were, in contact with physical objects, and which believes that knowledge, ideas, and beliefs accrue from their interaction. Only comparatively recently has the predominating influence of association with fellow beings in the formation of mental and moral disposition been perceived. ... The purport of our discussion is that such a view makes an absurd and impossible separation between persons and things. (p. 33)

⇒くどいようだが、情報処理的認知科学の心の概念、現代日本で典型的な英語授業で育てるとされる(英語を使用する)心の概念とはどんなものか?



■ 意味や意図が生じるためには、物に接するだけでなく、物をある目的のために使わなければならない。

Interaction with things may form habits of external adjustment. But it leads to activity having a meaning and conscious intent only when things are used to produce a result. (p. 33)

⇒ある物がある物として認識されるということは、どういうことか考えてみよう。



■ 人は他人の心を直接的に変えることはできない。人が他人の心を変えうるとしたら、それはその他人からある反応を引き出そうとして、物理的条件をうまく使いこなすことによってである。

And the only way one person can modify the mind of another is by using physical conditions, crude or artificial, so as to evoke some answering activity from him. (p. 33)

⇒ここでは "condition"とあるが、これは"environment"と読み替えていいのではないか。



■ 模倣に関する旧来の社会心理学

According to this theory, social control of individuals rests upon the instinctive tendency of individuals to imitate or copy the actions of others. The latter serve as models. The imitative instinct is so strong that the young devote themselves to conforming to the patterns set by others and reproducing them in their own scheme of behavior. (p. 33)

デューイが批判しようとするこの模倣論をまとめてみてください。



■ 旧来の模倣論は、結果を原因としてしまっている。たしかに人間は、社会性を得る際に「模倣」をする。しかし模倣論は、なぜ人々が模倣をするのかを説明していない。これは、阿片が人を睡眠に導くのは、阿片に睡眠誘導力があるからだ、という説明に似ている。

The basic error in the current notion of imitation is that it puts the cart before the horse. It takes an effect for the cause of the effect. There can be no doubt that individuals in forming a social group are like-minded; they understand one another. They tend to act with the same controlling ideas, beliefs, and intentions, given similar circumstances. Looked at from without, they might be said to be engaged in "imitating" one another. In the sense that they are doing much the same sort of thing in much the same sort of way, this would be true enough. But "imitation" throws no light upon why they so act; it repeats the fact as an explanation of itself. It is an explanation of the same order as the famous saying that opium puts men to sleep because of its dormitive power. (pp. 33-34)

⇒「阿片が人を睡眠に導くのは、阿片に睡眠誘導力があるから」といった類の同語反復的な説明には、他にどのようなものがあるだろう。(結構あるはずだが、今、私は思い出せない)

⇒ルーマンの読書会で思いついたのだが、英語教育学者が愛好している"intake"という概念も、「睡眠誘導力」と同じぐらい空虚な概念ではないのだろうか。

英語教育の世界では、inputがすべてそのままoutputになるわけではないことを説明するのに、intakeされたinputだけがoutputにつながる、などと説明している。聞くと「なるほど、inputだけでは駄目で、intakeが必要なんだ」となんだか賢くなったような気がするが、実はこの説明はほとんど何も新たな知見を加えていない。

つまり、ここでのintakeとは「outputにつながることになるinput」といった意味しかもっていないので、「outputできるようになるためには、inputだけでは駄目で、intakeが必要」という説明は、「outputできるようになるためには、inputだけでは駄目で、outputにつながることになるinputが必要」と言っているだけである。

必要なのは、学習者のinputのうち、どれが、なぜ、いかにしてoutputにつながるか、を説明する理論なのだが、「intake説」は、こういった問題に何ら説明を加えず、「inputの中のある部分がintakeされるからoutputにつながるんですよ」と述べている。これは「睡眠薬で人間が眠ってしまうのは、睡眠薬に睡眠誘導力があるからですよ」という説明にほぼ等しいと思える。(ちなみに、コンピュータからの比喩で使われているinputという概念も結構怪しい概念だけど、ここではその議論は割愛する)。

「英語教育学者」あるいは「SLA研究者」として、したり顔をしてintakeについて語るのは止めるべきではないのか。



■ 大人と幼児が、お互いにボールを転がして遊ぶことが自然発生したと考えてみよう(実際、このような自然発生的な遊びはよくあることだ)。この時、幼児が「モデル」としているのは、大人がボールを転がす姿(だけ)ではなく、お互いに転がし合って楽しむという遊びの状況全体である。この状況全体によって、幼児は大人の行為の観点から自らの行為を変容しようとするのである。

Suppose that some one rolls a ball to a child; he catches it and rolls it back, and the game goes on. Here the stimulus is not just the sight of the ball, or the sight of the other rolling it. It is the situation --the game which is playing. The response is not merely rolling the ball back; it is rolling it back so that the other one may catch and return it, -- that the game may continue. The "pattern" or model is not the action of the other person. The whole situation requires that each should adapt his action in view of what the other person has done and is to do. (p. 34)

⇒ここの理解に戸惑う人もいるかもしれないので、ゆっくり納得できるまで考えてください。



■ ある行為の模倣は、その行為を部分とする全体の状況に参加するという目的のための従属的な手段に過ぎない。

⇒微妙なところなので翻訳してみる(←文章理解ストラテジーの一つとしての翻訳 ←失敗するなよwww)

たしかに模倣は生じるかもしれない。だが模倣の役割とは従属的なものにすぎない。幼児は自分自身で遊びを続けたいという興味をもっているのだ。そのうち、幼児はうまくボールを転がすために大人がどのようにボールを受け取り保持しているかについて気づくようになるかもしれない。そこで模倣するのは、行為の手段であり、行為の到達点ではない。幼児が行為の手段を模倣するのは、自分自身で率先して遊びの中に入りたいと願うからだ。

Imitation may come in but its role is subordinate. The child has an interest on his own account; he wants to keep it going. He may then note how the other person catches and holds the ball in order to improve his own acts. He imitates the means of doing, not the end or thing to be done. And he imitates the means because he wishes, on his own behalf, as part of his own initiative, to take an effective part in the game. (p. 35)

⇒大切なのは、子どもが共同の営みに参加したいと自分自身で願うこと。子どもがそう願うなら、その営みの中にあるさまざまな行為も模倣しようとするようになる。模倣は、教育の目的でなく、手段である。

⇒英語授業でも模倣はしばしば奨励される。英単語のリピートや、英文のシャドーイングなどもそうだ。そして英語教師はしばしば、リピートやシャドーイングこそが英語力獲得をもたらすと信じ、その分量やスピードを上げる。

だが、大切なのは、英語を使う営みに、学習者が参加したいと願うことではないか。それがリピートやシャドーイングや他のどんな形をとるにせよ、学習者が自然と模倣しているような学びの環境を作ることこそが、教師がなすべきことではないか。教師は学びの環境を作ることを第一の責任とし、第二の責任として指導、あるいはもっと望ましい形態として先導、をするべきではないのか。

しかし、現状の英語教師は、英語使用の環境を作り出すことも示すこともなく、分断されその目的が何であるかがもはや見当もつかない部分的行為を「模倣」するように学習者を管理(さらに言うなら強制)しているとは言えないか。



■ かといって、営みの全体を表面的に模倣しても、それだけでは模倣する人間の内部の性向はほとんど変わらない猿真似に過ぎない。

As matter of fact, imitation of ends, as distinct from imitation of means which help to reach ends, is a superficial and transitory affair which leaves little effect upon disposition. Idiots are especially apt at this kind of imitation; it affects outward acts but not the meaning of their performance. When we find children engaging in this sort of mimicry, instead of encouraging them (as we would do if it were an important means of social control) we are more likely to rebuke them as apes, monkeys, parrots, or copy cats. (p. 35)

⇒英語授業のディベートやスピーチも、猿真似だけに終わっていないか。いろいろな事例を思い起こして考えてほしい。



■ デューイの模倣論

⇒この節の結論部分ともいえるので、翻訳してみる。

他方、目的を達成するための手段を模倣することは、知的な行いである。この意味での模倣には、丁寧な観察が必要で、自分が既にやろうとしていることをよりうまくやるためには何を選んだらいいのかをよく考えなければならない。目的をもって使うなら、模倣本能は、他の本能と同じように、より効果的な行為を生み出すための一要因となるのである。

Imitation of means of accomplishment is, on the other hand, an intelligent act. It involves close observation, and judicious selection of what will enable one to do better something which he already is trying to do. Used for a purpose, the imitative instinct may, like any other instinct, become a factor in the development of effective action. (p. 35)

⇒英語授業には、学習者に観察も思考も要求しない非-知的(あるいは反-知的)な模倣ばかりが、「訓練」の名の下に強制されていないか。あるいは、そのような訓練を繰り返すと、どんな学習者も観察や思考を始め、模倣する部分を含む営みの全体に参加する意欲をもちはじめると想定されていないか?そのような学習者は、学習者全体の中からすればほんの一部だろう(そしてそのほんの一部の中の多くが英語教師になった)と私は考える。







4. 教育への応用 (Some Applications to Education)

■ 未開人が未開である原因は、彼・彼女らの知性ではなく、彼らの営み・制度である。

Why does a savage group perpetuate savagery, and a civilized group civilization? Doubtless the first answer to occur to mind is because savages are savages; being of low-grade intelligence and perhaps defective moral sense. But careful study has made it doubtful whether their native capacities are appreciably inferior to those of civilized man. It has made it certain that native differences are not sufficient to account for the difference in culture. In a sense the mind of savage peoples is an effect, rather than a cause, of their backward institutions. (p. 36)

⇒これと同じ主張は、ジャレット・ダイアモンドの名著『銃・病原菌・鉄』の冒頭で印象深く語られる(これはいい本ですから、ぜひ読んで下さい)。







■ 優れた文明とは、優れた社会的環境を有する文明である。

The advance of civilization means that a larger number of natural forces and objects have been transformed into instrumentalities of action, into means for securing ends. We start not so much with superior capacities as with superior stimuli for evocation and direction of our capacities. (p. 36)

⇒単に物理的な環境を学習者に提供したとしても、その環境を使いこなす社会的な営みがなければそれは優れた知性を誘発しない。単なる物理的環境ではない社会的な環境が教育には重要。だが、しばしば教育行政は物理的環境さえ整備すれば、学びはついてくると信じているかのごとく振る舞う(LL教室の昔からパソコンやタブレットまで、効果な物理的環境が活用されないままに終わっている事例は数多くある)。



■ なぜ教育において言語は重要なのか

⇒全訳

既に見てきたように、意図的な教育とは、特に選びぬかれた環境を意味する。この選択は、望ましい方向への成長を促すための材料と方法という観点でなされる。言語は、社会的生活のためにもっとも変わってしまった物理的条件 ―最初の質を失って社会的な道具となった物理的なもの―なので、 言語が他の道具と比べて大きな役割を果たすのは適切なことである。言語によって私たちは過去の人間の経験を代替的に共有することができ、現在の経験を広げ豊かにすることができる。、象徴的あるいは想像的に状況を予想することが可能になる。数えきれないぐらいのやり方で言語は、社会的な結果を記録し社会的な見通しを予見する意味を凝縮する。言語は人間が生きる上で価値あることを気前よく分け与えてくれるので、文字を読めないことと教育を受けていないことはほぼ同義語となった。

Intentional education signifies, as we have already seen, a specially selected environment, the selection being made on the basis of materials and method specifically promoting growth in the desired direction. Since language represents the physical conditions that have been subjected to the maximum transformation in the interests of social life -- physical things which have lost their original quality in becoming social tools --it is appropriate that language should play a large part compared with other appliances. By it we are led to share vicariously in past human experience, thus widening and enriching the experience of the present. We are enabled, symbolically and imaginatively, to anticipate situations. In countless ways, language condenses meanings that record social outcomes and presage social outlooks. So significant is it of a liberal share in what is worth while in life that unlettered and uneducated have become almost synonymous. (pp. 37-38)

⇒"have lost their original quality in becoming social tools"の部分は、「あることばを使った者が有していたクオリアは、そのことばが社会的道具として使われてしまうなかで失われてしまう」といった意味で解釈した。(だが、今ひとつ確信がもてないので、よりよい解釈ができる方は、ぜひご教示ください)。



■ 教育における言語の重要性を強調することの危険性

⇒全訳

しかしながら、学校において言語というこの特有の道具が重要であることを強調することには危険がある。この危険とは理論的なものでなく実践の中で現れてくる危険である。詰め込みや、受け身で情報漬けにしてしまうことがどこでも批判の対象になっているのに、どうしてそれらは実践の中に確固たる地位を得てしまっているのだろうか? 「教育とは、ことばで伝え・伝えられることではなく、能動的・構築的な過程である」という教条は、理論では広く認められているが、実践では広く損なわれている。この嘆かわしい状況は、この教条自身が単に伝えられているという事実に帰するのではないだろうか?この教条は説教や講義で伝えられ書き残される。しかし、この教条が実際に実践されるためには、学校環境が、行為主体性と道具・物理的材料にこれまでにほとんどないぐらいに満ち満ちていなければならない。教示の方法と教育行政が変えられて、事物と直接に関わり続けることが可能にならなければならない。だからといって教育資源としての言語の使用が減らされるべきだというのではない。しかし言語の使用は、共有する活動ときちんとつながることによりより生き生きとして実り豊かなものにならなければならない。

The emphasis in school upon this particular tool has, however, its dangers -- dangers which are not theoretical but exhibited in practice. Why is it, in spite of the fact that teaching by pouring in, learning by a passive absorption, are universally condemned, that they are still so entrenched in practice? That education is not an affair of "telling" and being told, but an active and constructive process, is a principle almost as generally violated in practice as conceded in theory. Is not this deplorable situation due to the fact that the doctrine is itself merely told? It is preached; it is lectured; it is written about. But its enactment into practice requires that the school environment be equipped with agencies for doing, with tools and physical materials, to an extent rarely attained. It requires that methods of instruction and administration be modified to allow and to secure direct and continuous occupations with things. Not that the use of language as an educational resource should lessen; but that its use should be more vital and fruitful by having its normal connection with shared activities. (p. 38)

⇒「言語は社会的生活から切り離されてはならない」というのをことばの上だけでの教条にしないために、私たちは何をすればいいのだろう。



■ 社会性のない訓練では限定的な能力の開発はできても、その能力をさらに有用な目的に向けるような知性は開発されない。

⇒全訳

技術的専門能力を代数やラテン語や植物学で得ることができたとしても、能力を有用な到達点の方向へと指導するような知性を得ることはできない。ある人が材料や道具を意図的に使用することが、他の人々がその人達の能力や道具を使用することに意識的に関連づけられる共同の活動に従事しないならば、人の性向が社会的に指導されることはない。

We may secure technical specialized ability in algebra, Latin, or botany, but not the kind of intelligence which directs ability to useful ends. Only by engaging in a joint activity, where one person's use of material and tools is consciously referred to the use other persons are making of their capacities and appliances, is a social direction of disposition attained. (pp. 38-39)







要約 (Summary)

⇒自分なりに、この要約を咀嚼し、あなたの理解をことばにしてください。

The natural or native impulses of the young do not agree with the life-customs of the group into which they are born. Consequently they have to be directed or guided. This control is not the same thing as physical compulsion; it consists in centering the impulses acting at any one time upon some specific end and in introducing an order of continuity into the sequence of acts. The action of others is always influenced by deciding what stimuli shall call out their actions. But in some cases as in commands, prohibitions, approvals, and disapprovals, the stimuli proceed from persons with a direct view to influencing action. Since in such cases we are most conscious of controlling the action of others, we are likely to exaggerate the importance of this sort of control at the expense of a more permanent and effective method. The basic control resides in the nature of the situations in which the young take part. In social situations the young have to refer their way of acting to what others are doing and make it fit in. This directs their action to a common result, and gives an understanding common to the participants. For all mean the same thing, even when performing different acts. This common understanding of the means and ends of action is the essence of social control. It is indirect, or emotional and intellectual, not direct or personal. Moreover it is intrinsic to the disposition of the person, not external and coercive. To achieve this internal control through identity of interest and understanding is the business of education. While books and conversation can do much, these agencies are usually relied upon too exclusively. Schools require for their full efficiency more opportunity for conjoint activities in which those instructed take part, so that they may acquire a social sense of their own powers and of the materials and appliances used. (p. 39)




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