2013年10月3日木曜日

科学者の見識と科学の限界の可能性について ―E. O. ウィルソンの『人間の本性について』から考える―





『数量化革命』についてのまとめ記事を書いたら、どうも書き足りず「全体論的認識・統合的経験と分析的思考・部分的訓練について」という記事を加えました。しかし、これでもまだ言い足りない気持ちが強いので、本日は最近読んだE.O. ウィルソンの『人間の本性について』から、ここ最近私が言いたいことのみを短く引用しつつまとめてみます。

この本を読むと、「人間にとっての自然とは何か」という甲野善紀先生の問いについてもいろいろ考えさせられました ―原題はまさしく "On Human Nature" です―。 ですが、本日はその話題は割愛します。また、本来でしたら原著を参照すべきですが、本日はそれすら行っていないことを最初にお断りしておきます。











このエドワード・オズボーン・ウィルソンE. O. Wilson)についてご存じない方はウィキペディアなどを参照していただくこととして、私が今回彼の本を読もうと思ったのは、下記のエッセイを最近読んで、こういったいわゆる「理系vs文系」の論争の古典的な作品を読んでおこうと思ったからです(ちなみにもう一つの古典はスノーの『二つの文化と科学革命』ですが、私は未読です。またウィルソンの他の作品も未読です)。




Steven Pinker "Science Is Not Your Enemy"
http://www.newrepublic.com/article/114127/science-not-enemy-humanities

Gloria Origgi "The Humanities are not your Enemy!"
http://berlinbooks.org/brb/2013/09/the-humanities-are-not-your-enemy/




この本で、ウィルソンは「反分野」 (antidicipline) という語を使います。通常の言い方ですと、ある上位分野に対する「下位分野」の意味です。紛らわしいので、この記事では下位分野と呼ぶことにします。例を出すと、分子生物学は生理学の下位分野ですが、化学にとっては上位分野となってしまいます。さらに物理学は化学の下位分野となります。つまり上位から下位にかけては(ごく単純に表現すれば)、

生理学 > 分子生物学 > 化学 > 物理学 

という順番が成立します。

科学の発展というのは、だいたいにおいて人類が次々に下位分野を開拓してきたと要約することができるでしょうが ―大きく言うと「哲学から科学へ」という流れです―、新たにできた下位分野によって上位分野とされた研究者は、それでもしばらくは自分たちの研究の独自性を確信しています。まだ下位分野の知見が浸透していないうちは、自分の研究対象である「特殊な実体やパターンの研究に生涯を捧げ、それらの現象がもう一度単純な法則性に還元されうるなどとは考えない」 (訳書 26ページ)ものです。

しかし下位分野に属する人は、上位分野よりは組織段階の一段低い単位を主要な研究対象とし、上位分野は、下位分野の法則によって改革されうるし、またそうされなければならないと信じています(26ページ)。

科学の潮流は上にも述べましたように、次々と下位分野を開拓すること(対象の細分化)ですから、往々にして新興の下位分野の研究者は、上位分野の研究者を時代遅れと揶揄します。

しかしウィルソンは、「見識の広い」科学者を次のように規定します。

(1) 自分の分野に通じている。

(2) 自分の分野の下位分野に通じている。

(3) 自分の分野の上位分野に通じている。

(27ページを柳瀬が要約)


言うまでもなく(1)は当然ですが、(2)が必要だとするのは、ウィルソンは、還元という方法を「卑小化の哲学」と等値することは「完全に間違っている」(34ページ)と考えるからです。だからといって彼は(2)によって(1)が不要になるとも言いません。

下位の分野の諸法則は、上位の分野にとっては必要不可欠な条件であり、それらは上位の分野に対して知的な意味でより効率の良い再構築を要求し、かつそれを強いるものなのである。しかしながら、下位の分野の諸法則は、上位の分野の目標にとって十分条件とはなりえないのである。(34ページ)


つまり、下位分野の知は、上位分野の知の必要条件であるものの十分条件ではないので、やはり上位分野の研究は必要であるが、下位分野の知によって上位分野の知は再構築を余儀なくされる、ということです。

ウィルソンは著書の終わりの方法で、「弁証法」という用語を導入し、実は、下位分野(=反分野)も再構築を促されることも付け足します。

本書の冒頭で私は、科学の発展がしばしば弁証法的な性質を示すことについて触れておいた。要点を繰り返しておこう。個々の分野は、その下位の反分野と隣接している。反分野は対応する上位の正分野の諸現象を自らの基本法則に還元してしまうことによって、それらを再編成してみせる。しかしこうして正分野で達成される新たな総合は、正・反分野の交流の拡大に伴って、逆に反分野自体をも根底的に変化させてしまうのである。 (372-373ページ)


これでウィルソンが、なぜ(2)だけでなく(3)も必要だと考えたかが明らかになると思います。還元主義の下位分野研究者は、その「科学性」にあぐらをかくわけにはいかないわけです。話を極めて大雑把にすれば、科学者は上位分野としての哲学から学ぶ必要があり、哲学者は下位分野としての科学に学ぶ必要があります。上記のPinkerは後者を、Pinkerに反論したOriggiは前者を主張したと言えるでしょう。しかしながら、現実には多くの哲学者は積極的に科学を学ぼうとせず、多くの科学者は哲学を軽蔑しています。ですからPinkerの立論があり、Origgiの反論があるわけです。


ついでながら述べておくと、哲学の上位分野とは何でしょう?(科学は次々に下位分野(あるいは隣接分野)を生み出すでしょうから、「科学の下位分野とは何か?」という問いは立てる必要はないでしょう)。

愚見を述べますと、哲学の上位分野は、哲学よりも自由に問いを立てる芸術 ―音楽・絵画・彫刻などだけでなく、文芸(言語芸術)や武芸(身体芸術)も含めた、広く古い意味での「芸術」― かと思います。それでは芸術の上位分野とは何か、とさらに問うなら、それは究極の根源である自然であるかと思います。もし誰かが哲学者であることを自認するなら(私にはその勇気はありませんが)、その人は、哲学に通暁することは当たり前として、科学(自然科学・社会科学)を勉強し、芸術に学び、さらに自然を忘れないことが必要だと私は考えます。





さて、こうして多くの階層にまたがる科学の諸分野が(弁証法的に)発達すると、人間の行動もすべて予測できるようになるのでしょうか?「然り」、と答えたくなるところですが、ウィルソンは以下の二つの理由を上げて、そうはならないかもしれないと態度を保留させます(というよりむしろ、完全な予測可能性に対しては否定的です)。


しかし、ある人間の行動を、たとえ短期間的にであっても、詳しく予測するためには、現在の我々には想像もつかないような高度の技術が必要なはずであり、実際にはそのような予測を行う能力は、考えるどんな高度の知性の持ち主にも、手のとどかないものかもしれない。

第一に、考慮すべき変数の数が膨大で、しかもこれらの変数のどの一つについても、測定上のわずかの不正確さが、人間の心の一部あるいは全体の働きに関する予測を大幅に狂わせてしまう可能性がある。

第二に、素粒子物理学におけるハイゼンベルクの不確定性原理と同じものが、この領域ではさらに拡大されたスケールで効いてくる。すなわち、観察者が人間の行動をより深く探ろうとすると、これに応じて観察作業自体による行動の撹乱が大きくなり、さらにまた、当の行動の内容自体が測定方法にいっそう大幅に依存するようになってしまうのである。観察者の意志や運命が、被観察者の意志や運命と密接に連動してしまうということである。  (142-143ページ。ただし「第一に」と「第二に」の箇所に引用者が段落を挿入)



第一の理由は、複雑性の議論で「バタフライ効果」として有名になったエピソードを思い出していただけたら納得できると思います。第二の理由のハイゼンベルクの不確定性原理については私はきちんと理解していないので語ることを控えるべきですが ―そもそもこの原理は数学ができないヘタレ人文系が好んで引用する原理です!―、私でもわかるような、思いっきり卑近なエピソードで語るなら、武術などで自分の手の動きを観察しようとして意識したばかりに、手の動きがかえって不自然になることがあげられます。また、教室でも特定の生徒を観察しようとしたばかりに、観察されたことを察知したその生徒の振る舞いが変わり、さらにその変化に気づいた観察者としての自分の振る舞いも変わる、といったエピソードもあげられます。

第二の理由の卑近な言い換えはともあれ、上でウィルソンが述べているのは自然科学できちんと論証されていることですから、少なくとも現時点では、人間が自分あるいは他の人間を、高度な自然科学の知見(前の記事の言い方なら「数量化モデル」)を使って完全に予測することは、極めて困難であるということが自然科学の知見から示唆されている、とまとめることができるでしょう。ウィルソンは、こうも言います。

すべての変数を考慮することが数学的に不可能であり、しかも不確定性原理という壁もあるということになると、他の知的存在が将来どのような振る舞いを示すかを十分詳しく予測するに足るだけの上方を入手することは、どんな神経系の所持者にも不可能なことかもしれない。いわばこれ自体が、一つの自然法則なのかもしれないのである。 (143ページ)


知的存在の振る舞いを完全に予測することは、複雑系の原理と不確定性原理の壁により阻まれているかもしれないというのは、もちろんウィルソンの推測です。彼はこの本に書かれていることも将来間違ったことが判明するかもしれないと、あくまでも科学者としての慎重な態度を貫いていますから、この不可知性はあくまでも仮説に過ぎませんが、確かに興味深い仮説です。

と言いますのも、神経科学の発展と共に、古くからの決定論が息を吹き返し、はなはだしい場合においては人間の自由意志の否定にまでつながりかねない議論すらあるからです。

自由意志についてウィルソンはこう言います(上の引用の続きです)。

同じ理由から、たとえどんなに高い知能の持ち主といえども、自分自身の将来を予知する、すなわち運命を予知するために必要なすべての情報を、自分自身について知り尽くすなどということは、およそ不可能であるに違いない。すなわち、この意味において、自由意志を消し去ることもまた不可能だといえるのである。 (143ページ)


この記事の冒頭で短く言及した甲野善紀先生は、「人間の運命は完璧に決まっているが同時に完璧に自由だ」ともおっしゃっていますが(甲野先生はこれを若き日に確信し、その確信を深めるために武術を始められたそうですが、私にとってはこの命題は実はまだ禅の公案みたいなもので得心がいっていません(私がそのことを甲野先生に申し上げたら、「それはそうでしょう」とおっしゃっていましたが・・・)。上記のウィルソンの見解は、「自由意志」を不可知の点で定義し、人間の自由を擁護しようとしていますが、私にとっては、このウィルソンの見解で、甲野先生の「人間の運命は完璧に決まっているが同時に完璧に自由だ」という命題は残念ながら氷解しません。私はこの命題を公案さながらずっと自らの中に抱いていたいと思います。

と、最後はまたもや話は流れてしまいましたが、つまりは自分の分野の下位分野からも上位分野からも学ぶべきであるというウィルソンによる「科学者の見識」、と科学の限界については私もこれから考えてゆきたいのでこの記事にまとめました。

英語教育研究の下位分野として考えられる分野はいくつかありますし、上位分野も同じように複数ありますが、それらの勉強を怠らず、しかしそれらにばかりかまけて、肝心の英語教育の現実を観察し考察することを忘れないようにしたいと思います。

願わくば、英語教育学界が下位分野と上位分野(そして隣接分野)から謙虚に学び、相互交流と自己再創造が豊かになりますように。英語教育学界が、これ以上知的に閉ざされた共同体になりませんように。





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