2013年10月4日金曜日

英語授業と生きること ― あるいはいかに現代の英語教育がことばの力を十分に感じることを阻害しているかについて ―



英語教育、特に最近推奨されている英語の授業スタイルは、ますます私たちが生きる実感から離れてきているような気がする。

英語教育研究者は、もっぱら情報処理的モデルに基づき「よい授業」のあり方を教師に教える。英語教育に業を煮やしている政治家や財界人は、もっぱら標準テストを導入することにより「競争」を促す ― 生徒や児童に、そして教員に ―。

無論、情報処理的モデルや競争の考え方がまったく間違っているというのではない。それらはそれらなりに正しい。しかし、それらが現実のすべてだと考えること、そしてそれらを皆に強要することは「割り切った」 (rational) 考え方かもしれないが、「現実」 (real) を十全に捉える考え方ではない

というより近年主流のこれらの考え方は、あまりにも勢いを増しすぎて、「割り切れない」私たちの人生を損ねているのではないか。人生を「割りきって」、ゲームのように過ごして勝者になることばかりを勧め(あるいは強要し)、生きることの割り切れないの深さや意味合いを忘れることを勧めている(あるいは、生きることについて感じ考えることを侮蔑する)のではないだろうか。



下の動画はNHK スーパープレゼンテーションでたまたま知った動画だが、現代の英語教育は、この動画で感じられるようなことばの力を扱いうるのだろうか?


このブログにはいろんな読者がいると思うので、下には日本語字幕が出る動画を貼り付けた。ぜひ一度見ていただきたい。






英語版のオリジナル動画・トランスクリプト・TED動画はこちらへ
http://yosukeyanase-video.blogspot.jp/2013/10/shane-koyczan-to-this-day-for-bullied.html




私は今度、「言語教育と生きること」 (10/27(日)全国大学国語教育学会ラウンドテーブル 会場広島大学)に登壇させていただくが、予稿原稿は抽象的な議論がどうしても多くなってしまっているので、当日は、こういった動画を英語授業が扱いうるかなどの話題も(時間が許す限り)入れてみたいと今考え始めている。

こういったことばを、教材として授業で使うには、教師にそれなりの力量が必要なことは私も承知している。だから「こんなの授業では使えませんよ」という声があがっても不思議はない。

だが、私が問いかけたいのは、情報処理的モデルばかりで言語習得や英語授業を考えて、教師に教授法を教える研究者は、こういった生きることに直結したことばの力を感じる授業をすることを、構造的に抑圧していないかということだ。また、標準テストの得点向上を至上命題にして、得点にならないことは無視することを事実上勧めてしまっている教育関係者(として特に教師自身)は、ことばの力をズタズタにしてしまっているのではないかということだ。



広大教英大学院の英語教育内容学講座では、文学を使った英語教育に関する研究が多くなされているが、先日の院生の発表の一つで、つみきのいえ』 の英語翻訳を教材にした教科書が紹介された。



院生の研究は発問についてのもので、その院生は英語教師志望の大学生がこれを教材にしてどういった発問を作り上げることができるだろうかを調べようとしているが、合同ゼミでは、教員と受講者は、自分ならどんな発問をするかを考える時間が(きわめて短いながらも)与えられた。

私はまずは作品のメッセージ(この場合の「メッセージ」とはヤーコブソンが述べているような意味で理解されたい)を感じるために一回読み、その次にその私なりに感じたメッセージを英語表現に即して発問にするにはどの箇所に注目するかをチェックしながら二回目を読んだ(残念ながら時間はそこで切れた)。

その後に、私はこの作品を教材に使っている教科書のcomprehension quesitions (つまりは発問)を参照したのだが、正直、唖然とした。いくつもの質問があったが、それらを読んでの私の正直な気持ちは、

知らんがな


だった。

私からすれば作品のメッセージにはほとんど関係ない枝葉末節の「情報」ばかりが問われている発問だった。正直、私は短い時間とはいえこの作品をしっかり読んだのだが、いくつかの質問には答えられなかった ―「知らんがな。そんなどうでもいいこと、覚えてまっかいな」―。

たしかにこういった「情報」を尋ねる問いなら、必ず「正解」が一つに定まる。しかし、私から言わせれば、このような問いは、この作品のことばの力をまったくとらえていない。

さらに言うなら、このような問いを "comprehension check" として英語を読むことを教えられ続けるなら、生徒は、英語からことばの力を感じることができなくなるだろう。英語を読むこと(あるいは聞くこと)は、自分の人生とは(功利目的を除けば)まったく関係ないと感じるだろう。そんな ことばがどうして「身につく」ものか。せいぜい英語は丸暗記で無理やり詰め込み、テストが終わるやすぐに忘れる情報におとしめられるだけだろう。

また教師も、このような問いで授業をすることを強要されれば ―選択肢式の標準テストにはこのような問いしかない以上、教師はテスト得点の向上ばかり求められればこのような授業をしないわけにはいかない―、そもそもことばの力を英語で感じることなく教師になった者は、ますます機械的な授業をするだろう。ことばの力を伝えたくて教師になった者は、ますます授業という自らの生業によって疎外感を感じるだろう。

ことばの力を感じることもできない生徒や教師が、ことばの力を感じさせる英語を自ら発することができないことは言うまでもない。「グローバル社会」ということで、英語を使うことが必要だということだが、こんな学校教育だけで育てられた若者は、どんな英語を使うというのか。その英語は、テスト高得点や文法や発音の正しさによるお墨付きが虚しくなるぐらいに、人の心をとらえないし、何より自分の心に即していない英語とはならないか。

上である特定の教科書を批判したかたちになったが、別にこの教科書だけが文学のことばの力を損ねているわけではない(もちろん、ことばの力をもつのは文学だけに限らないのだが、ここでは話を単純にしておく)。別の教科書は、ある文豪の小品を掲載していたが、その冒頭の日本語導入はひどかった。私からすれば、その作品がもっているどこか物悲しいトーン ―そのトーンは、代名詞の使い方などのさまざまな文体や作家の人生から推測される― を、まるでないかのごとくに、その作品を単なる勘違いについてのお話にしてしまっていた。

私は日本英文学会でお話させていただいた時にも訴えたけど (日本英文学会シンポジウム 「文学出身」英語教員が語る「近代的英語教育」への違和感:報告と資料掲載)、文学者あるいはことばの力を感じることができる者は、英語教科書の本文そして発問の扱い方にもっと注目してほしい。そこには「生徒の語彙・文法レベルに合わせるため」といった(正当な)弁明を越えたレベルで、英語表現の力が損なわれている例がたくさんあると思う。そして、できればよりよい書き換え (adaptation) や発問を提案してほしい。(私自身は、組織的な調査や提案をしたことはまだありません。念のため)



現代の英語教育がことばの力を十分に感じることを、教科書やテストといった制度で、いわば構造的に阻害しているのなら、そこに関わる生徒も教師も疎外感を覚えるだけではないのか。






追記
上記のShane Koyczanのオリジナル動画作成については感動的なエピソードもたくさんあるので、教科書編纂者の方、どうぞ教材にしてください(ただし、馬鹿な質問を加えたりしたらおじさん怒るわよwww)。
















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