2013年9月13日金曜日

MOOC(大規模公開オンライン講義)による英語文化圏の巨大な力に、他の言語文化圏は対抗できるのか?



米国を中心としたMOOC (Massive Opne Online Course) ―ここではとりあえず「大規模公開オンライン講義」と訳しておく― の流れはますます大きくなっている。周知のように(Wikipediaウィキペディア)、MOOCでは、ウェブを使い基本的に無料で大学の講義を視聴できるしコンピュータを通じて問題に解答もできる。

先日はGoogleが、ハーバードとMITなどのMOOC連合であるedXと提携したことを発表した。「MOOCにとってのYouTube」というのがウリ文句である。




edX 

Take great courses from the world's best universities





このニュースを受けて、私も取り急ぎ登録して、edX Demonstration Courseを受講してみた。

講義では、画面(講師の顔や、白板上に次々に書かれてゆく文字や図)だけでなく、講義音声が書記化されている。(講義で話されている文が目立つようになっているのだが、私が見た画面ではうまく同期していなかったが、おそらくこういった技術的問題は早晩解消されるだろう)。

宿題提出では、たとえば分子構造を自ら専用エディターで描き出すことができるなど、単なる多肢選択式クイズに答えるだけではない。また、学習仲間を作り出すSNS機能もある。端的にすごいとしか言いようがない。



もちろん批判はないわけではない。たとえば、ここ数日で私がFeedlyやTwitterなどで知ることができただけでも、オンライン講義だけで学位を取得した人には、大学で涵養されるべき対人関係能力 (interpersonal skills) に欠ける場合が多いので、採用したくないというアメリカ企業人の声がある (The Recruiter's Tale: The Chronicle of Higher Education)。また、'Open'であることを絶対的価値として扱うことを疑問視する声もある(What Does 'Open' Mean? One Academic Weighs In: The Atlantic)。



しかし、テクノロジーは人間の行動も考え方も変える。「MOOC万能!」とは言わないが、この流れはここ数年のものでなく、長年の人類の夢であり、この流れは止まらないだろうと私は予測する。



Googleは次のように述べているという。

We support the development of a diverse education ecosystem, as learning expands in the online world. Part of that means that educational institutions should easily be able to bring their content online and manage their relationships with their students. Our industry is in the early stages of MOOCs, and lots of experimentation is still needed to find the best way to meet the educational needs of the world. An open ecosystem with multiple players encourages rapid experimentation and innovation, and we applaud the work going on in this space today.

Google and EdX Are Building a "YouTube for MOOCs":Slate


多数の参加者により、教育のエコシステム (educational ecosystem)は多様性を増し、発展をするという(よくある)主張だ。



だが、私にとって怖いのは、この「教育のエコシステム」の「多様性」は、(少なくとも今のところは)英語という言語の中だけのことだということだ。もしこのまま、教育言語としての英語がますます力を得て行ったら、他の言語 ―私は当然のことながら日本語のことを第一に考えている― はどのようになるのだろう。

もちろんこれは、水村美苗(2008)『日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で』筑摩書房らが問いかけている問いだが、折しも『週刊「日本語教育」批評』2013年9月15日号 ―購読をお勧めします!- は、「学問の英語化」により、日本に留学してくる学生に日本語を教えることを主な仕事としてきた大学日本語教育は不要になるかもしれないことを述べていた。

「学問の英語化」は周知のように自然科学の分野で著しい。それは教育学部や文学部などのの英語講座での状況とは比べものにならない。日本人も、日本に来る留学生も、高度な知識を得ようとしたら、もっぱら英語で読み書き、語り合うようになるかもしれない可能性はますます高まってきたとは言えないか。



もし私が今、日本の大学生だったら、やる気のない講義などはひたすらサボり、edXあるいは、そこまでいかなくともiTunes UAcademic EarthCoursera、あるいはKhan AcademyTED (またはそれらのサイトの情報を使いやすく整理したDigitalCastOops!Study) もしくはTED-EdMIT+K12TeacherTubeもなどで、ひたすら知識と英語を同時に学ぶだろう(実際、30年前の私はとても生意気で、面白くない授業は可能な限りサボり、サボれない場合は自分でひたすら本を読んでいた。学部時代の勉強は、自らの読書以外なら、ESSでの英語学習ぐらいだった。正直言って面白い授業は片手で数えるぐらいしかなかった)。もし今、私が学生なら、日本の大学は、友達を作り、図書館で本を借り、卒業資格を得るだけのところと割り切るかもしれない(もちろん、いい先生に出会えなければの話であるが)。もし大学院に行くつもりなら、最初から英語圏の大学院を狙うかもしれない。



しかし、もしそのように「学問の英語化」がどんどん進行したら、日本語の未来はどうなるのだろうか?日本語は、日常生活を送るには十分だが、知的な話題を語るには極めて不十分で不如意な言語に成り下がってしまうのだろうか。



もし私が今、文部関係の政治家か官僚なら、英語教育はもちろん推進するが、それ以上に日本語での大規模公開オンライン講義を徹底的に推進するだろう。





追記(2013/09/16)

625 Free MOOCs from Great Universities (Many Offering Certificates)

http://www.openculture.com/free_certificate_courses



追記 (2013/09/19)

NHKテレビ「クローズアップ現代」が、2013年9月17日(火)にあなたもハーバード大へ ~広がる無料オンライン講座~」を放送したそうです。私は見逃しましたが、下のサイトでは(少なくとも現時点では)その番組の書き起こしを読むことができます。



それから、数日前に英語での教育動画を集めたTeacherTubeの存在を知りました。これはCLIL (Content and Language Integrated Learning)のために、日本でも使えそうです。下(および上の本文中)にその情報を追加しておきます。


TeacherTube





追記 (2013/10/12)

日本でも、日本語によるMOOCの動き (JMOOC) が出てきました。


IT mediaニュース:大学講義を広く無償公開、希望者には対面学習の機会も 「JMOOC」発足、来春から配信へ
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/1310/11/news139.html

日本オープンオンライン教育推進協議会: JMOOCとは
http://www.jmooc.jp/about/




4 件のコメント:

  1. Suzuki9/18/2013

    畏友です(笑)。

    今年の4月、香港に行った帰り道、バスを途中下車して香港島めぐりを2時間ほどしてから帰国しようと思っていた矢先、乗り換え駅で、香港のすぐ隣の市に住む中国人から、「空港までの道を教えて」と言われ、香港島巡りが遠のくことに「なぜ初めて香港に来た日本人が、中国人に香港の道案内をせなあかんねん」と思いつつも、困っているだろうなあと思って結局、一緒に空港まで行きました(泣&笑)。バスの中で彼と話したところ、彼はマレーシアだったかタイだったかに行くとのこと。物流関係の仕事についていると言っていました。で、「現地の言葉を学んだのか?」と尋ねると、「いや。現地の人はみんな、中国語を学んで、中国語を話している」と言いました。香港での学会では、英語のリンガフランカのことについて議論があり、議論内容はいま飛ばして簡単な結論を言えば、このままの状況がしばらく続くだろうとのことでした。「そうなのか」と思っていた矢先の、思わぬ物流商社マンとの出会いでした。少なくとも、いまの言語状況、また人文学研究状況を俯瞰すれば、ちょうどジョージ・オーウェルの『1984』に出てくる地球上に存在するようになった三つの国の状況とまったく同じ気がし(英語圏、中国語圏、その他(ここは争っている))、どこかの公の場でそんな見方を話した覚えもあります。いま、どのような分野の理論でも、理論と言えば、西欧理論のことを無意識にさし、それがそのまま世界のあらゆる地域で吸収されていっています。私(と中国の私の″同士″たち)は、そうした状況を打破すべく、西欧理論がそのままあてはめられて定説となってきたことを、ひっくり返す仕事をしています。もちろん、英語で、なのですが…。しかし、そうしたことを通じて、まずは、「理論=西欧理論」だと、無意識のうちに「理論」という言葉を用いている状況だけでも抜けだし、その後で、言語の多様化へと持っていこうと考えています。今度、アメリカのジャーナルにある論文を書きました。紙媒体も電子版も両方ありますので、またリンク貼ります。グローバルだからこそローカルが重要になること、そして、言語はローカル性の根幹の一つにあること。この先は、複数言語を話すことは免れないと思いますが、その複数性が、日本の今の「島宇宙」的なコミュニティのようになること(したがって、ミリオンセラーが次々に生まれる状況が起こること)によって、複数の言語が多様に、かつ平板に、同時に、あちこちで、メジャー化していけばと祈っている次第です。長文お許しください。

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  2. あっ、「畏友」だ(笑)

    コメントありがとうございます。
    現在の言語の状況が覇権争いのような様相を帯びていることは間違いないと思います。
    しかし、そこで気になるのが、多くの日本人(および日本人英語教育関係者)が、日本語のこれからについてあまり真剣に考えていないような気がすることです。
    リンガ・フランカとしての英語の有用性は否定することなど不可能ですが(というより、私はそれで飯を食っているようなものですが 苦笑)、日本語および日本語文化を大切にしておかないと、多くの日本人が英語がそれなりにできるようになった時に、ただ単に他の世界の大多数の人々と同じように英語が使えるだけで、なんら優位性を持てないままになるのではないかと懸念します。
    日本語文化には、感動するぐらいの文化的遺産があります(少なくとも私はそう信じています)。英語教育を行うにせよ、その遺産の活用ということを、どこかで考えておくべきだと私は考えています。

    2013/09/19
    柳瀬陽介

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  3. Suzuki9/19/2013

    祝中秋節快楽、花好月圓、萬事如意!

    お月様が本当に綺麗ですね!

    おっしゃる通りだと思います。中国ではいま、ご指摘の点で、ここ10年強、色々と模索しています。

    はじめて海外の学会に出かけたとき、「日本語文化に生きる者として、(欧米生まれの)これをどう考えるか?」という質問をたびたび受けました。その質問自体に、「なるほど、こういうことか」と私は納得しました。と同時に、「世界はそれを待っているのだ」と思いました。以降、「ではどうするのか」ということを色々と考えてきました。ずいぶんぼやかして書いているのは、そのことを論じたものが数点、公になるためです。お許しください。

    一つ前のコメントで、途中の説明が不足しているところがありましたので、補足させてください。香港で一緒に空港まで行った流通商社マンとは、途中まで拙い中国語、その後、英語で話しました。私は彼が英語を話すとは思わず、彼は彼で私の中国語の拙さに我慢ならなかったのでしょう(笑)。彼が少し英語の単語を使ったので、「話せるの?」と尋ねてから、英語になりました。その後で、「現地の言葉を覚えて仕事をしているの?」と尋ねると「いや」と答えられ、「じゃあ、英語で仕事をしているのか」と尋ねたところ、「いや、現地の人はみんな中国語を学んでいるので、中国語でやっている」と言われました。つまり、英語を学ばず、中国語を学ぶ人が急増している、ということです。そこで、オーウェルの『1984』を思ったということです。

    サンスクリット語(読めませんが)を少しかじってみると、インド仏教の誕生について、なるほど、と思わされます。フランス語をじっくり考えてみると、かつてのデリダの主張について、なるほど、と思わされます。では、日本語の場合は? そう考えると、世界は万華鏡のごとくで、しかしながら、ある言語が圧倒的になることによって、別の言語ならではの色々な事柄や事象が抑圧されるのだなあ、と思いざるを得ません。抑圧される限り、違和感が残り続け、その違和感の解決を求める結果、ある現象を生み…。でも、平常は、やはり違和感を抱え続け、解決や癒しは永遠に訪れない。そんな感じのことが、これから「個」の中でますます強くなっていくのではと想像しています。

    長い連投、お許しください。

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  4. 鈴木さん、
    「世界はそれを待っているのだ」というのはその通りだと思います。
    (良識ある)英語母語話者も含め、世界の人々は、文化の多様性を望んでいると思います。多様性の抑圧が、ろくな事にならないことを人々は人間の歴史から、そして自然の生態から学んでいるはずだからです。
    しかし昨今の日本の英語教育熱は、ちょっと短兵急すぎるようにも思えるので、私としては警戒している次第です。
    柳瀬陽介

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