2013年9月20日金曜日

「言語教育と生きること」 (10/27(日)全国大学国語教育学会ラウンドテーブル 会場広島大学)





標記のラウンドテーブルに話題提供者の一人として登壇します (10/27(日)全国大学国語教育学会 会場広島大学)。国語教育、日本語教育、英語教育の登壇者が、それぞれの立場から、しかしそれぞれの立場の通念的自己理解を超えて「言語教育」について、「生きる」ということから考えてゆきます。

詳しくは後日、全国大学国語教育学会のホームページで告知されるはずです。非会員も大会当日に直接会場で参加申し込みをすれば参加できるとも伺っています。もしご興味のある方がいらっしゃいましたら、ぜひお越しください。ラウンドテーブルの席上で、そしておそらくはそれに引き続いて起こるはずのインフォーマルな議論の場で色々とお話しましょう。

以下は、そのラウンドテーブルの予稿集原稿です。関係者の許可を得て、本日、このブログにも転載します。(なお、私の原稿にはスペースの関係で予稿集には含めることができなかった注も加えています)。






言語教育と生きること



コーディネーター  広島大学     難波 博孝
話題提供者     早稲田大学    細川 英雄
          広島大学     柳瀬 陽介
福岡女学院大学  原田 大介
梅光学院大学   永田 麻詠
指定討論者     プリンストン大学 佐藤 慎司


キィワード:言語教育、生きる、国語教育、英語教育、日本語教育






0. ラウンドテーブルの趣旨 (難波博孝



このラウンドテーブルは、「言語教育が、人が生きていく上で救いになるのか、それとも、抑圧や迫害になるのか、もし後者のことが起こるとしたらそれはなぜか、それを防ぎ、前者のような言語教育を行うにはどうしたらいいか」そのことを探るものである。

 このラウンドテーブルでは、日本語教育から細川英雄氏、英語教育から柳瀬陽介氏をお呼びし、国語教育の側から原田大介・永田麻詠両氏とともに、また、日本語教育研究者でありながら広く言語教育に関心のある佐藤慎司氏を討論者に迎えて、フロアの皆さんとともに考えて行きたい。  







1. 一個の言語活動主体としての充実へ (細川英雄)

 
戦後、外国人のための日本語教育の出発点において強く意識されたことは、国語教育の文学鑑賞に重きを置く、いわば内容主義からの離脱だった。その結果として、日本語教育は、合理的な精神に基づく形式主義を標榜するようになる。それはすなわち、日本国家がたどった植民地主義への批判であり、新しい出発としての「国際化」への道筋だった。 しかし、形式主義を標榜するあまり、文型・語彙等の学習項目リスト作成が目的化し、「見える」評価への執着が客観性神話と合体して、きわめて技術実体主義的なドグマに陥ってしまう。「教師養成」もまたこのドグマから抜け出せなくなったのは、いわば当然のことだとも言えよう。

このことは、1970年代後半から80年代初頭にかけてのコミュニカティブ・アプローチの洗礼によっても変わるものではなかった。1990年代後半からのポストモダンの潮流から、近年、そうした技術実体主義を批判的に見る方向が生まれたが、大方は、まだ80年代の学習項目と場面の組み合わせの方法技術論に終始している。

もちろん、ことばの教育にとって、構造とシステムへの省察は重要な課題である。むしろ、この構造とシステムの関係を明らかにすることがことばの科学の使命であると言えよう。しかし、学習とは、決して知識の集積ではないし、また、構造とシステムの獲得は、決して一方向的な教授によって身につくものではなく、その個人の全身によって活動の全体として体得されるべきものである。

このように考えるとき、ことばの教育とは、「ことばを教える」ことではなく、「ことばによって活動する」場をつくることとなろう。このことは、「教師養成」にとっても同様である。「教師養成」というシステムを実体化させ,そこで,これこれのことを行うという制度自体,あまり意味のないことがわかる。

「教師」は実践そのものの中にあり,「養成」も実践そのものの中にあるからだ。「教師」になるために必要なことは,その職業としての実体的な知識ではなく,混沌たる「全体」の中に身を置く行為そのものだといえる。混沌とした「全体」を生きること,これ以外に術(すべ)はなしと私は考えるからである。もちろん,その「全体」の環境は周到に準備されなければならないが,これは「教師養成」に限ったことではない。教育実践そのものが,混沌とした「全体」なのだ。この「全体」の中で,どのように他者を受け止めつつ,自己を主張し,どのような議論を展開できるかが,すべての個人に課せられた「生きることを考えるための」実践研究なのである。

インターカルチャー(相互文化性)とは、いわゆる「異文化能力」などではなく、複数のアイデンティティを保持しつつ行われる、個人から地球規模までのさまざまな文脈における、他者との相互関係性そのものを指し、「言語教育」とは、この地球上の、さまざまな人々と、ともに生きていくための社会を形成するための、基盤的な、ことばによる活動の場とその形成を指す。したがって、ここでいう「言語教育」とは、言語を教えることを目的化しない、しかし、言語による活動の場(共同体)を保障し形成する教育のことである。

ここでは、教師・学生・学習者という行為者の活動を結ぶものとしての教育実践が問われることになるだろう。それは、それぞれのアイデンティティを問う意味でもある。 言語教育として考えたとき、言語習得を目的としない言語活動とその活性化が一つの意味を持つことになる。それは、ともに生きる社会において、一人ひとりが充実した言語活動主体として、個人と社会を結ぶにはどうしたらいいかという課題でもある。 個人一人一人が、自分の問題関心から問題意識へという方向性を持ち、ことばによる活動を軸に、他者を受け止め、テーマのある議論を展開できるような場(共同体)を形成することこそ、いま必要であろう。それは、母語話者・非母語話者という区別を超える活動、つまり統合的な学習/教育をめざすことであり、そのことは、日本国内の文脈で言えば、国語と日本語という境界の解体を意味する。







2.英語教育と生きること(柳瀬陽介)

 
英語教育の主体 ―生きる主人公― とは誰(あるいは何)だろう?

近代学校のための教育学の発想では、しばしば主体は学習者ではない。近代教育学の多くは、教師という主体が学習者という客体(対象)をどう管理・操作するかという発想で展開されているからだ(注1)。多くの授業で学習者は管理・操作の対象としてしか見られていない。では教師が英語教育で生き生きとした主体となっているかといえば、そうでもない。いまだに日本の英語教育学の主流である教授法比較などの実験研究は、実際は生態学的観察なしの少数の事例研究に過ぎないのに、あたかも二重盲検法での大規模のランダム化比較試験のように結果を一般化し、教師に「実証された」教授法を採択することを迫る(注2)。学習指導要領も教育内容だけでなく教育方法(「授業は英語で」)にまで指示し(注3)、教師は定められた内容と方法を忠実に実行すべき存在としてますます想定され主体性を奪われている。

言い切ってしまうなら、現代の英語教育の主体は、貨幣化しさらに資本化しつつある英語である。貨幣とはすべての商品の質を捨象しその「価値」を一元的に量化する特殊な商品であるが(注4)、英語はいまや世界のさまざまな言語表現の質を捨象しその「命題」を一元的に表現できるグローバル言語として認識されている。資本とは投資・運用された貨幣であり量的拡大を運命づけられた商品であるが(注5)、英語もいまや学校教育では標準化された数値で必ず量的拡大を達成せねばならない商品(=学校の「売り」)と認識されている。無論、学校教育の成果を問うことが間違いというのではない。問題は、成果がほぼ一元化すらされようとしている数値(例えばTOEFL)だけでしか評価されないことである。現代社会を動かす主体が、生活者や労働者どころか資本家ですらなく、生活者・労働者・資本家を、資本の量的拡大のために急き立てる資本主義の論理であると言えるなら、英語教育を動かしている主体は、学習者でも教師・教育学者・政策決定者でもなく、学習者・教師・教育学者・政策決定者を特定数値の量的拡大に急き立てている英語―より正確に言えば、そういった英語観(グローバル資本主義的英語観)―であると言える(注6)。もしこれが正しいのなら、グローバル資本主義への対応を通り越した順応(過剰適応)を必ずしも望まない者にとって、現代日本の英語教育は、救いではなく抑圧(時には迫害)となるだろう。

打開の途は、まず、教師・教育学者・政策決定者から主体性を奪っている、グローバル資本主義的英語観、そして、コミュニケーション能力を一元的に数値化できるとする数値フェティシズムを克服することにある(注7)。克服のためには、外国語習得を学習者の社会的主体化に求める複言語主義(複合的言語観)の認識を深め(注8)、次に教師の主体性を回復する教師の語り(注9)による実践研究(当事者研究(注10))で教育の質を探究しなければならない。特定の数値の増大だけに着目するいわば"monoculture"(単一栽培)的な量的研究(教育実践への工学的アプローチ)の限界をよく理解し、教育実践への生態学的アプローチへの理解を深めなければならない。英語の学びをめぐって相互に影響しあっている個々の学習者・学級・教師・社会の相互関係性をよく観察し、授業は教師が特定の数値で表現される英語力を向上させる営みではなく、個々の学習者・学級・社会を同時に育む試みであることを理解しなければならない(注11)。

さらに本来英語教育の主人公であるべき学習者の主体性を回復するためには、学習者の身体(=主(あるじ)である体(からだ))を授業で発見しなければならない。英語教育は従来とかく「知的教科」として身体を軽視するか、「トレーニング」(注12)として身体を意識に隷属化させていたが、神経科学のダマシオ(注13)も言うように、言語は身体内の情動、その感知である感情、そしてその発展である思考に基づいている。言語の基盤は(身体から隔離されたとしばしば誤って認識されている)脳ではなく、身体である。英語教育は竹内敏晴(注14)や野口三千三(注15)の洞察にも学ばなければならない。英語教育が生きることにつながるためには、多くの認識的展開が必要である。

(注)
1. 辻本雅史(2012)『「学び」の復権――模倣と習熟 』(岩波現代文庫)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/05/2012_14.html

2. 「英語教育実践支援のためのエビデンスとナラティブ」
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/blog-post_05.html

3. 高等学校学習指導要領(外国語)へのパブリックコメント提出
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/01/blog-post_14.html

4. マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/08/blog-post_14.html

5. モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/20121993.html

6. 7/14講演会「英語教育、迫り来る破綻」に参加して
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/07/714.html

7. 「コミュニケーション能力」は永遠に到達も実証もできない理念として私たちを導く
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/blog-post_5.html

8. Common European Framework of Reference for Languagesの摘要
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/common-european-framework-of-reference.html

9. 「ナラティブが英語教育を変える?-ナラティブの可能性」(2009/10/11-12、神戸市外国語大学)
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/08/20091011-12.html

10. 石原孝二(編) (2013) 『当事者研究の研究』医学書院
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/04/2013.html

11. 教育研究の工学的アプローチと生態学的アプローチ
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/08/blog-post_7.html

12. 集中的入出力訓練(Intensive Input/Output Training)の具体的方法に関する整理
http://ha2.seikyou.ne.jp/home/yanase/inservice.html#021223

13.Emotions and Feelings according to Damasio (2003) "Looking for Spinoza"
http://yosukeyanase.blogspot.jp/2012/12/emotions-and-feelings-according-to.html

14. 竹内敏晴 (1999) 『教師のためのからだとことば考』ちくま学芸文庫
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/04/1999.html

15. 野口三千三氏の身体論・意識論・言語論・近代批判
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/02/blog-post_21.html



当日投映スライド







当日配布資料









関連記事
英語授業と生きること ― あるいはいかに現代の英語教育がことばの力を十分に感じることを阻害しているかについて ―
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/10/blog-post_4.html








3.生き延びるためのことばの学び ―障害当事者の立場から―(原田大介)
 

3.1. 学習者の実態から  通常学級に在籍する約6.5%の児童生徒に発達障害の傾向が見られる現状において、国語科授業はどう変わるべきなのか。発達障害者は自傷やうつと親和性が高く、自殺率も高い。このため、障害当事者が生き延びるための新たな「ことばの学び」観を早急に構築しなければならない。

このような現状をふまえ、本発表の目的は、障害当事者の立場から「ことばの学び」観を問い直し、国語科授業の可能性を考えることにある。

3.2. 障害当事者の内面では何が起きているのか

 本発表ではまず、個別の事例を検証することで障害当事者の内面で起きていることを探る。対象者は発表者自身である。発表者は精神障害者保健福祉手帳(3級)を持ち、医師より高機能自閉症とADHDと診断されている。また吃音の自覚症状がある。  

3.2.1. 高機能自閉症について

身体感覚の極端な過敏さと鈍感さがある。また、ことばを遠く感じ、理解するのに時間を要する。集団行動の場面において状況を把握できないことが多く、把握するには極度の集中力を要するため常に強いストレスに晒されている。

3.2.2. ADHD(注意欠陥多動性障害)について

注意力を持続させることが困難であり、会話場面では断片的にしか聞こえないことが多々ある。このため、ことばを記憶することが難しい。

3.2.3. 吃音について

音そのものを発生することが困難であり、自分が本当に言いたいことは言わず、発音・発声しやすい別のことばに言い換えてきた経緯がある。

3.2.4. 学童期をどう生きたか

上記の障害特性から、学童期における発表者の身体には次のようなサイクルが生じた。 (1)他者(とのかかわり)に怯え続ける?(2)自己肯定感が著しく低下する(一方で自身を守るための極端な自己万能感と歪んだ上下思想が生まれる)?(3)ことばが遠い上に、よりことばが上滑りするようになる?(4)自分のことばも含め何を信じてよいかわからず、存在としての「私」の輪郭が曖昧な状態が続く。

3.2.5. 国語科授業の時間をどう過ごしたか

正確な発音や発声を求める学習指導要領、正解の読みを求めるテスト、教科書は活字中心のため理解が困難、自分が学びたいことと国語科の内容が解離している等、授業に参加できない日々が続く。

3.3. 障害当事者が救いに感じたことばの学び

 国語科の時間に救いはなく、その時間以外の場で発表者が救いに感じた出来事が次の2点である。  

3.3.1. 出来事①

吃音スタタリングフォーラムで吃音の子どもや大人と出会い、初めて自分と「同じ」特徴がある者たちを知る。と同時にその者たちとのあいだにある「差異」に気づくようにもなる。「同じ」と「差異」を知ることで「私」の輪郭が少しずつ見え始める。合わせて吃音の本を読み、知識を得ることで、ことばを学ぶことの意義を知る。

3.3.2. 出来事②

大学院生の立場から論文作成の一環として、ライフヒストリーを作成して信頼する者たち(主に大学の指導教員や友人)の前で語る。そこで問いかけられたことをもとに、再度ライフヒストリーを作成して語る。この作業を繰り返したことで、断片的にしかなかった自分の記憶を再構築する。

出来事①②以降、「私」の輪郭を自覚し始めた発表者は信頼する者たちの前で「自分の思いや経験の言語化」を試みるようになる。閉じた「私」のことば(他者を寄せつけないことば)ではなく、開かれた「私」のことば(コミュニケーションのことば)を、対話を通して生み出そうとする意識が生まれる。

3. 4  国語科授業はどう変わるべきか―「生き延びるためのことばの学び」という観点の導入に向けて

「同じ」を知ることで「差異」を知り「私」の輪郭をことばで浮かび上がらせること、また、「私」と他者とのあいだにあるゆるやかな「つながり」を実感することが国語科授業の基本的な目標になる。当日の発表では、その具体的な方向性を論じたい。







4.教材論から考える国語教育の「救い」と「抑圧」―両義性に着目して―(永田麻詠)



4.1. はじめに

言語教育は人が生きていく上で「救い」となるのか、それとも「抑圧」となるのか。学習者にとって言語教育が「救い」として機能するためにはどうすればいいのか。このことについて発表者は、国語教育と性をめぐる問題を絡めつつ、特に教科書教材を取り上げて論を展開する。

本発表において国語教育と性をめぐる問題を関連させるのは、発表者自身、幼少期から女性であることの居心地の悪さや、徒労感と絶望感を抱えて生きてきたこと、またそうした性をめぐる居心地の悪さや徒労感・絶望感は、中・高・大学教員として勤務する中で多くの学習者に見られたことが理由である。国語科は学習者の「ものの見方・考え方」の形成や深化拡充に寄与する教科であるということは、学習指導要領解説国語編でも言及されている。この点からも「性をめぐる見方・考え方」は国語教育で扱うべき問題であると考える。

また、国語科において教科書教材は学習する上で大きな影響力を持つ。特に「読むこと」の学習では、何を読むのかが学習者の「ものの見方・考え方」の形成や深化拡充に直接影響すると思われる。こうした点から本発表では、教科書教材を考察対象として国語教育の「救い」と「抑圧」について論じる。

4.2.教材論から見える国語教育の「抑圧」

たとえば小学校国語科の教科書教材を見てみると、「話すこと・聞くこと」や「書くこと」の教材では具体的な言語活動を示す際や、話し手・聞き手・書き手として児童が自分自身を表現する場面で、「~さん」「~くん」「わたし」「ぼく」という語が用いられることが多い。また、伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項にかかわる教材「わたしたちのくらし」(三省堂二年副読本)では、くらしとかかわる語と絵が掲載されている。たとえば「生活する」「働く」「大人になる」などが挙がっている。なかには「結こんする」「子どもを産む」などがあり、「結こんする」という語の隣には男女の花婿・花嫁姿と思われる絵が示されている。これらのことから小学校国語科教科書では男女二元主義や異性愛主義が見られ、多様な性を生きる学習者にとっては国語科の学習が「抑圧」と機能すると言えよう。

また「読むこと」の教材には、女性/男性らしさの固定化や性別役割規範につながるものがあった。「女ながらも」という表現(長崎源之助「父ちゃんの凧」[学校図書4年上])など、好ましくない表現が確認できる教材もあった。さらに中学校の教材では、三田誠広「いちご同盟」が資料編として未だ採録されている(東京書籍3年)。本教材では、「病院で直美が苦しんでいるのに、俺が女に囲まれて笑っているのが、気に入らないんだろう」「直美は俺の心の支えなんだ。直美がいるから、女たちに囲まれていても、俺の心はぐらつかない」という記述がある。この記述からは直美という女性の神聖化が見られ、しかし結局はその他の「女たち」と同様、女性の他者化が起こっている。また登場人物・徹也の言動はステレオタイプの男性性に満ちており、強さやたくましさを男子生徒に押しつけかねない。こうした女性/男性らしさの固定化や性別役割規範、女性の他者化という価値観も、学習者に「抑圧」として機能する。

4.3.国語教育が「救い」となるために ―「抑圧」と「救い」の両義性―

以上のような「抑圧」をふまえ、国語教育が学習者にとって「救い」と機能するためには、「抑圧」と「救い」を両義的にとらえることが有効である。そして「抑圧」と「救い」の両義性を国語科授業で成立させるためには、学習者の「生活」に支えられた批判的思考力の育成が鍵となろう。当日の発表では、「エンパワメントとしての読解力」や文学教育における「虚構」と「生活」の両義性に触れながら、学習者の「生活」に支えられた批判的思考力の育成と、「抑圧」と「救い」の両義性について具体的に論じていく。





0 件のコメント:

コメントを投稿

注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。