2013年6月1日土曜日

身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比




大学院生のS君が彼の研究の一環として、Mark Johnson著 The Body in the Mind: The Bodily Basis of Reason and Imagination (菅野盾樹・中村雅之訳『心の中の身体-理性と想像力の身体的基盤』)と、George Lakoff著Women, Fire, and Dangerous Things: What Categories Reveal about the Mind (池上嘉彦・河上誓作・他訳『認知意味論-言語から見た人間の心』)に基づき、身体性に関して客観主義と経験基盤主義をまとめてくれました。ここで、本人の許可を得て、そのレジメの該当部分だけを掲載します。

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2 先行研究


2.1 客観主義

経験基盤主義と対比するために、まずは伝統的な見解である、客観主義を以下にまとめたい。客観主義では、現実について形而上学的な見方をする。この形而上学とは、現実のすべては「もの」からなり、「もの」はどんな時点においても成り立つ固定した属性と関係を有するとする考え方である。それは明らかな真実であって疑いようもないと(客観主義者によって)思われている世界観である。また、客観主義は人間の認知にも関心をもち、人間の正しい論理的思考とは何か、意味とは何かといったことなどを説明する。

以下、理性、意味、理解、身体に関して、客観主義の取る立場をみていく。なお、これらは2.2で示す経験基盤主義と対応している。


2.1.1 理性

客観主義では、理性を行使する能力とは抽象的なものであって、必ずしも何らかの生物体の身体性に関わるものではないと考える。理性というものを文字通りのもの、つまり、何よりもまず客観的に真か偽のいずれかの値をとりうる命題に関わるものであるとする。そのような立場からすると、意味ある概念とか理性的能力といったものは、いかなる生物体の身体的限界をも超越したものであるとされる。たまたま意味のある概念や抽象的な思考が、人間・機械・その他生物体にそれらの身体の一部として組み込まれていることがあるとしても、それらの存在は抽象的なレベルのものとは関わりのないものである。


2.1.2 意味

客観主義において、意味とは、文と「客観的な実在」との関係であるとみなされる。カルナップ(1947)は「文の意味を知ることは、文が可能な事例のどの場合に真であり、どの場合に真でないかを知ることである」と主張する。言語表現が意味を得るのは、現実世界や何らかの可能世界に対応することができること、あるいは対応しないこと、を通じてのみである。すなわち、言語表現は、(名詞であれば)正しく指示したり、(文であれば)真か偽であったりすることができる。

ここで、経験基盤主義との対比で重要になる問題を挙げたい。客観主義のパラダイムは字義と比喩を区別する。字義的意味は、客観的に真か偽か決まる意味である。また比喩表現(メタファー、メトニミー、心的イメージ)といったものは想像力の産物であり、それらは真の概念の領域からは追い出されてしまう。なぜなら、それらは客観主義世界の「もの」に対応できないためであり、また、概念は現実世界(あるいは可能世界)にある「もの」やカテゴリーに直接的に対応していなければならないためである。


2.1.3  理解

客観主義では、理解を引き合いに出すのを避けようとする。なぜなら、この語は、世界とわれわれを媒介する人間の主観性の役割を思い起こさせるので、この点が意味の客観性にとって重大な脅威だとみなされるからである。よって理解の身体化は、意味論にとって全面的に不適切なものとみなされる。



2.1.4 身体

身体は、客観主義において無視されてきた。理由は2点あり、(1) 身体は意味の客観的本性とは関係ないとみなされた主観的要素を導入すると、客観主義において考えられてきたからである。また、(2) 理性は抽象的で超越的なもの、すなわち人間的理解の身体面には何一つ結びつきをもたないもの、と考えられてきたからである。

しかし、人間が存在する世界で身体に対して与えらる役割は存在し、その役割とは、(1) 抽象的概念に対してのアクセスを提供すること、(2) 超越的理性の型式を模倣する生物学的手段を提供すること、(3) 可能な概念や理性の働きの形式に対して制限を課すること、である。



2.2  経験基盤主義

次に、私が本研究にあたって身をおく立場である、経験基盤主義について言及する。まずは上述の客観主義との比較を、理性、意味、理解、身体の観点から行う。


2.2.1 理性

経験基盤主義では、理性は、身体性を踏まえて成り立つものである。理性というものの持つ想像的な側面(メタファー、メトニミー、心的イメージ)が、理性にとって中心的な役割を果たすものと捉える。客観主義のように、想像的な側面を、文字通りのものに対する周縁的で取るに足りない付加物といったような受け取り方はしない。経験基盤主義における、理性の研究にとっての中心的な関心事は、(1) 思考する生物体の本性とは何か、(2) そのような生物体が自らの置かれた環境の中でいかに機能するか、ということである。そこでは、生物体(自ら思考し機能しつつ生存するもの)にとって、何が有意味とされるかということが問題となる。


2.2.2 意味

意味とは、客観主義なら主張するような、単なる文と「客観的実在」との固定した関係ではない。一般に固定した意味とみなされるものは、沈殿し動きを止められた構造にすぎない。経験基盤主義では、意味とは常に理解の問題であると考える。理解とは一つの出来事であり、人はそのさなかで世界をわがものとする。経験基盤主義の立場において、共通世界にかんするわれわれの経験を構成するのはこの理解であり、こうしてわれわれは共通世界の意味を了解しうるようになる。

客観主義的な意味論では全体を説明しえない意味現象に関して、経験基盤主義は、意味現象を説明しうる鍵となる3つの観念を持つ。それらは、理解、創造力、身体化である。以下に、理解と身体について言及したい。


2.2.3 理解

経験基盤主義における理解とは、われわれが世界を理解可能な実在として経験する仕方である(「世界をわがものとする仕方」ともいえる)。それゆえ、このような理解はわれわれの存在全体に関わる。存在全体とは、身体能力や技能、価値、気分や態度、すべての文化的伝統、言語共同体との結びつき、美的感受性などのことである。また、経験基盤主義における理解とは、われわれが身体による相互作用、文化制度、言語的伝統、そして歴史的文脈を通して世界に位置づけられる仕方でもある。こういったものが混ざり合って、現にある通りのわれわれの世界を現出させているのである。(2.6で触れることになる、)イメージ・スキーマとその隠喩的投射はこの「混合」がもつ原初的なパターンである。


2.2.4 身体

経験基盤主義において、身体は人間の理性、思考などにおいて中心となるものである。理性の営みは、身体によって可能にされるものとされる。人間の理性は、人間という生物体、ならびにその生物体としての個人的、集団的経験に寄与する、「すべての事柄の本質」から生じてくるのである。(「すべての事柄の本質」には、それが住む環境の本質、その環境の中でそれが機能するやり方、その社会的な機能の本質などが含まれる。)また、思考も身体性と関わるものである。われわれの概念体系を構築するのに用いられる構造は、身体的な経験に由来するものであり、それとの関連で意味を生み出す。そして、われわれの概念体系の中核となる部分は、知覚や身体運動、身体的、社会的な性格の経験といったものに直接根ざしている。
このように、身体は人間の理性、理解、思考などあらゆる側面において、中心となるものである。



2.3  客観主義と経験基盤主義が共有するもの(基礎実在論)

 ここまで客観主義と経験基盤主義を対比させてきたが、両者が共有している考え方がある。それは基礎実在論と呼ばれ、基礎実在論は少なくとも以下のような特徴を持つ。
-人間にとっての外界と人間の経験から成るような、現実世界というものが存在する
-人間の概念体系と、現実の他の諸側面との間の何らかのつながり
-内的な整合性だけに基づくのではない「真理」の概念
-外界についての確実な知識の存在
-どのような概念体系の間にも良し悪しの差はない、という見解の拒否


2.4 客観性

客観主義において、客観性とは、物事を神の視点からよりよく見るために、主観的、身体的な側面の全てを排除することを意味した。それに対して、経験基盤主義では、客観主義における神の視点というものを否定した。けれども、これによって客観性ということが不可能になるわけでも、価値がなくなるわけでもない。経験基盤主義において、客観性の内容は、次の2点であるとする。

(a)自らの視点をいったん離れて、他の視点、それも、できるだけ多くのほかの視点から状況を見ること。
(b)直接的に有意味なもの-すなわち基本レベルの概念とイメージ・スキーマ的概念(下記で説明)-と、間接的に有意味な概念とを区別できるということ。

 客観主義が、「神の視点が存在し、人間はそれに近づくことしかできない」と考えるならば、客観主義は、他に考慮に値するような概念化の仕方は存在しないと考える立場を取ることになる。よって、客観主義の立場を取っていては、客観性そのものが不可能になると経験基盤主義者は言う。



2.5 カテゴリー

客観主義、経験基盤主義どちらの見解にあっても、われわれが経験に基づいて意味づけする主なやり方として、カテゴリーの形成といったことが取り沙汰される。客観主義的見解では、カテゴリーを特徴づけるに際しては、(1) カテゴリー形成を行っている生物体の身体性といったものは無関係であり、(2) 文字通りの形で行われるものであって、「カテゴリーにとって何が本質であるか」に関してはいかなる想像的な仕組み(メタファー、メトニミー、イメージ)が関与してくることはない、とされる。一方、経験基盤主義では、われわれの身体性に基づいての経験やわれわれが想像的な仕組みをいかに使用するかということは、カテゴリー形成に中心的な役割を果たすものとされる。

伝統的な見解である客観主義は、2000年にも渡る哲学的考察から生まれてきたものである。この見解今でも多くの客観主義者たちに信じられているが、その理由は以下の2点である。(1) 単にそれが伝統的に存在してきたというだけのこと、また(2) 伝統的な見解の中の正しい部分は保っておき、他方新たに修正された代案が、最近に至るまで存在してこなかったことである。ここで言いたいことは、カテゴリーに関して共通の属性を基盤としているとする古典的見解が全面的に誤りである、ということではない。全面的に誤りではないが、しかし、それはカテゴリー化全体から見ればほんの一部分にすぎない。プロトタイプ理論というカテゴリー化の新しい理論が登場し、それによって人間のカテゴリー化は、はるかに広大な原理に基づいていることが明らかになったのである。プロトタイプ理論では、カテゴリー化は、一方では人間の知覚、身体活動、文化の問題であり、他方ではメタファー、メトニミー、心的イメージの問題として捉えている。

 人間のカテゴリー化の体系に繰り返し現れる一般原理には、次のようなものがある(ここではいくつか省略されている)。

-中心性: カテゴリーの基本的成員と呼んだものは中心的である。例えば、「鳥」というカテゴリーの中心にはスズメやツバメなどが当てはまる。
-連鎖: 複合的なカテゴリーは連鎖によって構造を与えられている。すなわち中心的な成員が他の成員と結びついて、後者はさらにまた他の成員と結びついて、という具合に。例えばヂルバル語では、女性は太陽と、太陽は日焼けと、日焼けはヘアリー・メアリー・グラブ(地虫の一種)と結びつくため、これらは同じカテゴリーに入っているのである。
-経験領域: 基本的な経験の領域というものがあり、中には各文化に固有のものもある。このような経験の領域によって、カテゴリー内の連鎖を構成する連結線が特徴付けられる。
-共通性の欠如 : 一般的に、カテゴリーというものは共通の特性によって規定されなくてもよい。われわれは例えば女性、火、危険なものに共通点を見出すことができるが(どれも恐ろしい、など)、ヂルバル語話者がそれらに共通点があると思っているなどと考えるべき根拠は何もなく、実際に彼らは共通点があるとは思っていない。


2.5.1 プロトタイプ

 ここでは、プロトタイプに関して、その「基本レベル」と呼ばれるものをみていく。
例えば、英語学習の初期段階において、mammalやpoodleではなく、dogという単語を習う。これはdogが人間にとって最も理解しやすいレベルであるからであり、それを基本レベルと呼ぶ(mammalは上位レベル、poodleは下位レベル)。Rosch et al(1976)は、基本レベルを、カテゴリーの成員が同様に知覚される全体的な形状をもつ、もっとも高いレベルである、などの特徴をもつとする。基本レベルのカテゴリーは、以下の4点(知覚、機能、コミュニケーション、知識の組織化)において規定される。
知覚: 全体的に知覚された形状;単一の心的イメージ
機能: 一般運動プログラム
コミュニケーション:   もっとも短く、もっとも一般的に使用されて文脈的に中立的な語であり、子どもに最初に習得され且つ最初に語彙目録に登録される。
知識の組織化: カテゴリーの成員のほとんどの属性はこのレベルで蓄積される。


基本レベルのカテゴリー化についての研究は、次のようなことを示唆する。(1) われわれの経験が、基本レベルにおいて、概念形成以前に構造化されている。また、(2) われわれは、ゲシュタルト的知覚、身体運動、そして豊かな心的イメージの形成を通して、現実世界の事物における「部分と全体の構造」を取り扱うことのできるような一般的能力を持っている。これによって、われわれの経験に概念形成以前の構造が与えられるのである。われわれの基本レベルの概念は、その概念形成以前の構造に対応する。


2.5.2 イメージ・スキーマ

身体化された理解を説明するために、イメージ・スキーマと隠喩的投射は欠かせないものである。2.5.3で後者を述べることとして、ここではイメージ・スキーマを扱う。

まず、イメージ・スキーマとは、われわれの知覚的相互作用と運動プログラムに、繰り返し現れる動的パターンであり、これによってわれわれの経験に首尾一貫性と構造とが与えられる。われわれの身体の運動、対象の操作などには、繰り返し現れる型が伴う。こうした型がなければ、われわれの経験は混沌としたものになってしまうのである。例えば、垂直性スキーマは、われわれが経験から意味に満ちた構造を取り出す場合に、上-下(up-down)という方向付けを用いる傾向があることから創発する。われわれは毎日垂直性に触れており、例えば樹を知覚したり、立ち上がったり、子どもの身長を測ったりする。この経験に基づき想像力に媒介されたイメージ・スキーマ的な構造が、意味と合理性にとって不可欠の要素なのである。イメージ・スキーマのうち、重要度が高いとみなす(Lakoff 1987, p.255)ものには、容器/力の可能性/道/部分-全体/バランス/中心・周縁などがある。


2.5.3 隠喩的投射

ここでは、イメージ・スキーマに続き、身体化された理解を説明するために隠喩的投射の重要性を簡単に説明する。
 隠喩は理解にひろく浸透した様式であり、主要な認知的構造の一つである。これによってわれわれは首尾一貫した秩序ある経験をもつことができ、抽象的理解を組織できる。イメージ・スキーマによって構造化されたものを、隠喩によって抽象的な領域へ投射することができ、このようにしてわれわれは理解を行うのである。例えば、”more is up” という隠喩的投射の方法で考えてみる。われわれは量というものに関して、垂直性スキーマを用いて”Prices keep going up.”などということが出来る。これはわれわれが、more(増加)はup(上)に方向付けられたものとして理解している事実を示唆している。
 
 
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