2013年5月19日日曜日

マイケル・ハート、アントニオ・ネグリ著、幾島幸子・古賀祥子訳、水嶋一憲監修 (2012) 『コモンウェルス (上)(下)』 NHK出版





哲学とは浮世離れした無駄口ではなく、この世を生き抜くために私たちの前提を問い直す営みです。

この『コモンウェルス』は、『<帝国>』と『マルチチュード』に続く作品で、これらは三部作とされていますが、訳者も言いますように、この本だけを読んでも十分に理解できる書き方になっているかと思います(ただしある程度の哲学的前提知識は必要です)。

ここではこの本を通じて私なりに問いなおすことができた概念である「共有」、「生政治」、「相異性」、「近代」、「知識人」、「自由と平等」についてまとめておきます。翻訳は非常に読みやすいものでしたが、以下の引用は私なりに翻訳しました。いつものように直訳を避け、できるだけ日本語としての読みやすさを優先しています。ですが翻訳の出来は、この翻訳書の方がはるかにいいです。この本にご興味をお持ちになった方は、ぜひこの翻訳書および原書を手にとってお読みください。なお、以下の引用ページ数は、原書のページ数です。



■共有 (the common)

この本の題名は、『コモンウェルス』で、原題のCommonwealthをカタカナにしたものですが、カタカナ語というのはどうもわかったようで分からないものです。私としては「共有する豊かさ」と翻訳したく思います。

「豊かさ」について最初に述べますと、"wealth"は「富」と訳されることが多いようですが、私にとっては、「富」という日本語にはどうも生活実感が伴いません。実際、この本の著者がこのことばで意味しているものは、空気や水、知識や言語や規約などです(後述)。これらがふんだんにある状態を、私は「富んでいる(=富がある)」よりも「豊かである」と表現する方が日本語として自然だと考えます。ですからここでは、マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめと同じように、"wealth"を「豊かさ」と訳すことにします。

もう一つの部分である "common"ですが、その名詞形である "the common"をこの本の翻訳者は「<共>」としています。しかしこの「<共>」という表記はいかにも人工的で、もっぱら書きことばの中でしか生命を保てないと私は考えます。「<共>」ということばを、私たちは話しことばでどのように発音すればいいのでしょう(< >を見ぶりで表現する?)。私は重要なことばは、話しことばでの討論でも容易に使えるようにするべきだと考えています。また、そもそもこの"the common"は、翻訳者も言うように、「共有のもの」「共同のもの」「共通のもの」などを意味するものです(下、297ページ)。ですから私は"the common"を「共有」と訳すことにしました。

著者は、"the common"を、互いに異なりながらも多様な形でつながっている人びと(=「マルチチュード」)の民主政体(民主主義)にとって不可欠なものとして、次のように説明しています。

A democracy of the multitude is imaginable and possible only because we all share and participate in the common. By "the common" we mean, first of all, the common wealth of the material world -- the air, the water, the fruits of the soil, and all nature's bounty -- which in classic European political texts is often claimed to be the inheritance of humanity as a whole, to be shared together. We consider the common also and more significantly those results of social production that are necessary for social interaction and further production, such as knowledges, languages, codes, information, affects, and so forth. This notion of the common does not position humanity separate from nature, as either its exploiter or its custodian, but focuses rather on the practices of interaction, care, and cohabitation in a common world, promoting the beneficial and limiting the detrimental forms of the common. In the era of globalization, issues of the maintenance, production, and distribution of the common in both these senses and in both ecological and socioeconomic frameworks become increasingly central. (viii)
拙訳です。

マルチチュードの民主政体を想像し実行可能だと考えることができるのも、ひとえに私たちが共有するものをもち、共有する営みに参加しているからである。「共有」ということばで私たちが意味しているのは、第一に、物質的な意味での世界で私たちが共有している豊かさ --空気・水・大地の実り・あらゆる自然からの恵み-- のことであり、ヨーロッパの古典的政治学文献は、これらをしばしば人類すべてにとっての恵みであり、共に分かち合うべきものとしている。さらに私たちは、共有のより重要な意味として、社会的に生み出されたものであり、社会的な相互作用とさらなる社会的な生産のために必要とされるものを加える。この共有の例としては、知識・言語・コード(規約)・情報・情感などがあげられる。共有をこのように考えると、人類を自然の搾取者だとか管理人だとかいったように、人類を自然と切り離されたものとしてはみなくなる。共有についてのこの考え方で私たちが注目するのは、共有する世界で私たちが作用し合い、配慮し合い、共に生きて、共有の長所を伸ばし短所を抑えている実践である。グローバリゼーションの時代において、これら二つの意味での共有を、生態学的意味でも社会経済的意味でも、維持し生産し分配することは、ますます中心的課題となっている。


このように共有の概念は、ますます多極化し複合性を高めもはや無極化しながらも、すべてが何らかの形でつながっている私たち(=「マルチチュード」)が民主主義を実践するために必要不可欠なものですが、共有の概念は経済学者や政治家に等閑視されていました。彼・彼女らは、世界は私有化するか公有化するかのどちらかしかないと考えているようだからです(そして新自由主義の流れで世界の私有化がますます進行していることは周知の通りです)。ですが、経済学者は「外部性」(あるいは外部経済)という形で、私たちが共有しているものを概念化していました。その経済学概念を転用していうなら、これまでは経済活動の外部にあるとみなされていたものを、いかに経済活動の内部において非常に大切なものとしてとらえるかという考え方の転換が必要です。

It seems that economists and politicians can only see the world as divided between private and public, either owned by capitalists or controlled by the state, as if the common did not exist. Economists do recognize the common, in fact, but cast it generally outside of properly economic relations, as "external economies" or simply "externalities." In order to understand biopolitical production, however, we need to invert this perspective and internalize the productive externalities, bringing the common to the center of economic life. The standpoint of the common reveals how, increasingly in the course of the present transition, the process of economic valorization becomes ever more internal to the structures of social life. (p. 280)
経済学者と政治家は、世界を、私有されるか公有されるか、つまり資本家により所有されるか国家によって管理されるか、という目でしか見ていず、共有などあたかも存在しないように思っているようである。しかし経済学者は実際には共有を認識している。だが経済学者は共有を、厳密な意味での経済的関係の外におき、「外部経済」や単に「外部性」として認識しているにすぎない。生政治的な生産を理解するためには、私たちはこの視座を転換し、生産的な外部性を内部化し、共有を経済的営みの中心におかなければならない。共有の観点によって明らかになってくることは、移行期の現在において、経済的価値増殖過程がますます社会的営みの構造の内部に移っていることである。


しかしながら現状では、新自由主義の跋扈もあり、特に知的財産を中心に世界の私有化の流れが強くなっています。それではそれを公有化(国有化)すればいいのかといえば、それは独占的管理者を私人・私企業から官僚・国家に移行させるだけに終わりそうです。今必要なのは、私有化か公有化かという二項対立を超えて、人類で共有するべきものは何かと発想を変えることです。

現在、知的財産として特許化され私有化されている知識も、その大半の基盤は人類共通の財産である科学の知識から構成されているはずです。これまで、科学知識は私有でも公有(国有)でもなく、広く市民社会で共有されてきたからこそ、人類は科学をさらに発展させ技術を進展させてきました。もちろん、私有や国有を一切認めないといった教条的態度は非現実的であり破壊的であるとすらいえましょう。しかし私たちは、もっと共有を大切にする時期に来ているように思えます。

私たちは、私有と共有、国有と共有の違いを吟味し、「私有か国有か」という次元を超えた共有の発想をもっと具体化するべきでしょう。

The conflict of the common with private property is most often the focus of attention: patents and copyrights are the two mechanisms for making knowledge into private property that have played the most prominent roles in recent years. The relationship of the common to the public equally significant but often obscured. It is important to keep conceptually separate the common -- such as common knowledge and culture -- and the public, institutional arrangements that attempt to regulate access to it. It is thus tempting to think of the relationships among the private, the public, and the common as triangular, but that too easily gives the impression that the three could constitute a closed system with the common between the other two. Instead the common exists on a different plane from the private and the public, and is fundamentally autonomous from both. (p. 282)
共有と私有財産の対立はもっとも注目されている。特許と著作権は、近年もっとも顕著な役割を果たしてきた、知識を私有財産に変える仕組みである。共有と公有の関係も同じように重要なのだが、この関係はしばしば曖昧にされてきた。分かち合っている知識や文化といった共有と、共有へのアクセスを規制しようとする公的・制度的な取り決めを、概念上は区別しておくことが重要である。そうなると、私有と公有と共有の関係を三角の形で考えたくなるかもしれない。だがこの三角形の考え方では、私有と公有と共有が閉鎖系を構成しているような印象が生じてしまう。そうではなく、共有は、私有と公有とは別の次元で、それらから基本的に自律して存在しているのである。


以上で説明されている私有・公有・共有の関係を直感的に図示したのが下の図です。




しかし、公有(国有)と共有の違いは、まだわかりにくいかもしれません。ですが、インターネットの世界を考えるとこの違いがわかりやすくなります。インターネットを可能にしさらに発展させているさまざまな知識は、公有(国有)されると技術革新が停滞するので私有化されなければならないと、これまでしばしば考えられてきました。ですが、知識をある企業が私有化しても技術革新は停滞します。技術革新は、公有(国有)でも私有でもなく、広く市民で共有される時にもっとも起こります(古典的な例としてリナックス、近年の例として初音ミクを考えてもらってもいいかと思います。関連記事:『ウィキノミクス』『クラウドソーシング』『フリー』『コモンズ』『Free Culture』『CODE VERSION 2.0』)。

In the realm of the information economy and knowledge production it is quite clear that freedom of the common is essential for production. As Internet and software practitioners and scholars often point out, access to the common in the network environment -- common knowledge, common codes, common communications circuits -- is essential for creativity and growth. The privatization of knowledge and code through intellectual property rights, they argue, thwarts production and innovation by destroying the freedom of the common. It is important to see that from the standpoint of the common, the standard narrative of economic freedom is completely inverted. According to that narrative, private property is the locus of freedom (as well as efficiency, discipline, and innovation) that stands against public control. Now instead the common is the locus of freedom and innovation -- free access, free use, free expression, free interaction -- that stands against private control, that is, the control exerted by private property, its legal structures, and its market forces. Freedom in this context can only be freedom of the common. (p. 282)
情報経済と知識生産の領域においては、共有の自由が生産のためには不可欠であるということは明白である。インターネットとソフトウェアの専門家や研究者がしばしば指摘するように、ネットワーク環境での共有 ーー知識・コード・コミュニケーション回路の共有-- にアクセスできることは、創造と成長のために不可欠である。知的所有権により知識とコードを私有化すれば、共有の自由が損なわれ、生産とイノベーションが阻害されると、専門家と研究者は主張している。共有の観点からすれば、経済的自由に関する通説はまったく転倒している。その通説によれば、私有財産こそが自由(そして効率、規律、イノベーション)の核であり、それは公的な管理と敵対していることになる。しかし実は、共有こそが自由とイノベーションの核である。アクセス・使用・表現・相互作用の自由が敵対しているのは、私的な規制、つまりは私有財産および私有財産を強化するための法律体系・市場の力である。この背景での自由とは、共有の自由でしかありえない。


今や、共有は、私有か公有(国有)の外部にあるわけのわからない領域として考えられるのではなく、私たちの活力を生み出す中心にあるとみなされるべきでしょう。これはNHKのニッポンのジレンマでも非常に印象的な宇野常寛さんが、PLANETS vol.8で述べる、これまで「夜の世界」としかみなされていなかった自由な領域こそに私たちは日本の再生を期待できるのであり、制度化され停滞してしまった日本の「昼の世界」にはもはやほとんど期待できないといった主張と重なるのかもしれません。







ともあれ、発想の大転換が必要であるように思えます。

In the age of biopolitical production, the common, which previously was cast as external, is becoming completely "internalized." The common, in other words, in both its natural and artificial forms, is becoming the central and essential element in all sectors of economic production. Rather than seeing the common in the form of externalities as "missing markets" or "market failures," then, we should instead see private property in terms of the "missing common" and "common failures." (p. 283)
生政治的生産の時代においては、かつては外部に追いやられていた共有が、いまやまったく「内部化」されようとしている。言い換えるなら、共有は、それが自然の共有であれ人工物の共有であれ、経済的生産のすべての部門において中心的で必須の要素となりつつあると言える。共有を「失われた市場」や「市場の失敗」といった外部性の点でとらえるのではなく、私たちは私有財産の方こそを「失われた共有」や「共有の失敗」としてとらえるべきである。






■生政治 (biopolitics)

上の引用で何度か「生政治」 (biopolitics)という用語が出てきましたが、これには若干の説明が必要でしょう。

「生政治」 (biopolitics)という用語を、著者はフーコーの「生権力」(biopower)との関連で定義しています。著者によれば、フーコーの「生権力」(biopower)という用語には二つの意味が込められていました。



He [=Foucault] devotes most of his attention to disciplinary regimes, architectures of power, and the application of power through distributed and capillary networks, a power that does not so much repress as produce subjects. Throughout these books [= Discipline and Punish and the first volume of The History of Sexuality], however, sometimes in what seem like asides or marginal notes, Foucault also constantly theorizes an other to power (or even an other power), for which he seems unable to find an adequate name. ... In our view, the other to power that runs through these books is best defined as an alternative production of subjectivity, which not only resists power but also seeks autonomy from it. (p. 56)
フーコーがもっぱら関心を向けていたのは、規律を作り出す体制、権力の構造であり、はりめぐらされた毛細血管状のネットワークを通じて権力を適用することであった。そこでの権力とは、国民(臣民的主体)を抑圧するのではなく生産するものであった。しかしフーコーは、これらの本[=『監獄の誕生―監視と処罰』『知への意志 (性の歴史)』のいたるところで、時には余談や脚注のような形で、「権力にとっての他者」(もしくは、「別の権力」とさえ言えるもの)を常に理論化しようとしていた。だが彼はそれに対して適切な名前を見出すことができなかった。 (中略) 私たちの考えでは、これらの本に見え隠れしている、この「権力にとっての他者」は、主体性の新たな創出として定義するのがもっとも適切である。この主体性の創出は権力に抵抗するだけでなく、権力からの自律を目指している。


フーコーのこの二つの概念を両方ともに「権力」と呼ぶことにすると、一つは、国民(臣民的主体)を生産する規律的な権力であり、もう一つは、規律的権力に抵抗しそこから自律しようとする新たに主体性を創出する権力となります。著者は、規律的な権力を「生権力」と呼び、新たな主体性創出の権力を「生政治」と呼んで両者を区別することを提案します。別の言い方をすれば、「生権力」に抵抗し主体性を創出することが「生政治」だと著者は提言します。

The perspective of resistance makes clear the difference between these two powers: the biopower against which we struggle is not comparable in its nature or form to the power of life by which we defend and seek our freedom. To mark this difference between the two "powers of life," we adopt a terminological distinction, suggested by Foucault's writings but not used consistently by him, between biopower and biopolitics, whereby the former could be defined (rather crudely) as the power over life and the latter as the power of life to resist and determine an alternative production of subjectivity. (p. 57)
抵抗という観点から、この二種類の権力の違いが明確になる。生権力とは、私たちが抵抗しているものであり、その性質からいっても形態からいっても、この生権力を、私たちが自由を守り追求するために用いる生の権力と同じものとするわけにはいかない。この二つの「生の権力」を区別するために、私たちはフーコーの作品で見られる用語法に準拠し、生権力と生政治の間の用語的区別を採択することにする。生権力の(やや粗い)定義は、生に対する権力であり、生政治の定義は、抵抗し新たな主体性の創出を確固たるものにする生の権力である。


これまでの引用では、「生政治的な生産を理解するためには、これまで外部経済とされてきたものを、共有として内部化し、共有を経済的営みの中心にしなければならない」といった主張がなされてきましたが、上記の生政治の定義を受けて、この主張を言い換えるなら、「共有を中心とした生産は、主体性を新たに創出する形での生産である」となりましょうか。私有や公有(国有)が、生権力的に一人ひとりの人間を規律化する社会であったのに対抗して、共有は一人ひとりの人間に主体性を立ち上がらせながら生産活動をする社会を目指す、と言えるかもしれません。

このように生政治を定義すると、「生政治的理性」 (biopolitical reason) というのも明らかになってきます。生政治的理性を、著者は、(1)生への奉仕のための合理性、(2)生態学的に必要なことをなすための技術、(3)共有に奉仕するための豊かさの蓄積、に求めます。

We are now in the position to offer provisionally three characteristics that a biopolitical reason would have to fulfill: it would have to put rationality at the service of life; technique at the service of ecological needs, where by ecological we mean not simply the preservation of nature but the development and reproduction of "social" relations, as Viveiros de Castro says, between humans and nonhumans; and the accumulation of wealth at the service of the common. That makes it clear (to move now through the same three items in inverse order) that economic valorization is no longer possible except on the basis of the social appropriation of common goods; that the reproduction of the lifeworld and its physical environment is no longer possible except when technologies are directly controlled by the project of the common; and that rationality can no longer function except as an instrument of the common freedom of the multitude, as a mechanism for the institution of the common. (p. 125)
ここで私たちは、生政治的理性がもたなくてはならない三つの特徴を暫定的にでも提示することができる。生政治的理性は、第一に、合理性を生のために使わなければならない。第二に、技術を生態学的に必要なことのために使わなければならない(ここでいう生態学的とは、単に自然の保全だけでなく、ヴィヴェイロス・デ・カストロが言うように、人間と人間以外の存在との間の「社会的」関係を発展させ再生することも意味している)。第三に、豊かさの蓄積を共有のために使わなければならない。このことから明らかになることを(先ほどとは逆の順番で)述べるなら、第三点から言えることは、経済的価値増殖は、共有財を使用しない限り、もはや不可能であるということ、第二点から言えることは、生活世界とその物理的環境の再生は、共有の試みによって技術を直接に管理しない限り、もはや不可能であるということ、そして第一点から言えることは、合理性は、マルチチュードの共有の自由のための道具として、つまり共有の制度のメカニズムとしてでない限りは、もはや機能しないということである。


ここで改めて明らかになっていることは、共有とは単に経済学的な関係ではなく、政治学的な関係であり、共有の促進により科学技術も自然との関係も変革してゆくということです。





■相異性 (singularity)

さてここまでマルチチュードということばが何度も出てきましたが、マルチチュードは、しばしば「一人ひとりは異なった存在でありながらも、多種多様な形で他と結びつき合った、『多にして一、一にして多』の人びとの集まり」と説明されます。そういったマルチチュードの一人ひとりを表現するには、"identity" (アイデンティティ)よりも "singularity" (相異性)の方が適切であると著者は主張します。



With respect to identity, the concept of singularity is defined by three primary characteristics, all of which link it intrinsically with multiplicity. First of all, every singularity points toward and is defined by a multiplicity outside of itself. No singularity can exist or be conceived on its own, but instead both its existence and definition necessarily derive from its relations with the other singularities that constitute society. Second, every singularity points toward a mulitiplicity within itself. The innumerable divisions that cut through each singularity do not undermine but actually constitute its definition. Third, singularity is always engaged in a process of becoming different -- a temporal multiplicity. This characteristic really follows from the first two insofar as the relations with other singularities that constitute the social multiplicity and the internal composition of the multiplicity within each singularity are constantly in flux. (pp. 338-339)
アイデンティティと比較すると、相異性概念の定義は以下の三つの特徴をもち、そのどれもが多数性と関係している。第一に、あらゆる相異性は、自分以外の多数性を志向して定義されている。どんな相異性とて、自分自身だけで存在し概念化されることはない。相異性の存在と定義は、社会を構成している他の相異性との関係に由来している。第二に、あらゆる相異性は、自分自身の内の多数性をも志向している。個々の相異性には数え切れないほど多くの区分によって切り分けられているが、相異性はそれらの区分によって損なわれるどころか、それらによってこそ定義されている。第三に、相異性は常に、何か他のものに成る過程に関わっている。つまり、相異性とは時間的な多数性である。この第三の特徴は、第一の特徴であった社会的多数性を構成する他の相異性との関係、および第二の特徴であった個々の相異性内の多数性からなる内部構成が常に流動的ならば、自動的に生じるものである。


つまり、アイデンティティとの違いをやや強調してまとめると、相異性とは、他者との多数の違い、自己内で多数くの違い、時間経過による多数の違いの三つの違いを主な特徴とする個別性と言えるかと思います。これらの違いはどれも相対的なもので、これらの対的ななり具合が様々に変化しながら個別性が現れているのが "singularity" であると私は理解しましたので、あえて翻訳書の「特異性」という訳語を使わず、「相異性」と訳しました。マルチチュードを構成する一人ひとりの人間は、固定的な意味でのアイデンティティではなく、流転・変転する相異性によって規定されるべきかと思います。

もちろん最近の「アイデンティティ」論は、「自我同一性」という訳語を充てることが不適切に思えるぐらいに、「アイデンティティ」の複数性や変容性を語っていますので(例 B. Norton & C. McKinney (2011) An Identity Approach to Second Language Acquisition)、「アイデンティティ」(identity)の代わりに「相異性」(singularity)という用語を導入しなくてもいいのかもしれませんが、これまで「アイデンティティ」ということばに染み付いてしまった含意を払拭するためには、新語導入も許されるのかもしれません(もっとも、著者はこの語をドゥンス・スコトゥスからスピノザ、ニーチェそしてドゥルーズへといたる長い歴史をもつ語だとしています (p. 388))。





■これまでとは異なる近代性 (altermodernity)

「アイデンティティ」だけでなく、「ポスト近代」(postmodernity, postmodern)という用語もこの本では問い直されます。「ポスト近代」(翻訳書では「後近代」と訳されています)は、近代の行き詰まりを指摘した点では重要であっても、そこに終始してしまい、未来への展望が示されていないというわけです。

The term "postmodernity," however, is conceptually ambiguous since it is primarily a negative designation, focusing on what has ended. In fact many authors who affirm the concept of postmodernity can be linked to the tradition of "negative thought" and/or philosophies of Krisis. They focus on the destructive destiny of Enlightenment and the powerlessness of reason in the face of the new figures of power; but despite their strong protest and denunciation of the incapacity of reason to react to the crisis, they have no recognition of the capacities of existing subjectivities to resist this power and strive for liberation. (p. 114)
しかしながら、「ポスト近代」という用語は、主に否定的な表現であり、終わったもの [=近代] に焦点を当てているために、概念的に曖昧になってしまっている。実際のところ、ポスト近代の概念を推し進める論者の多くは、「否定の思考」の伝統か「危機 (Krisis)」の哲学の、どちらかあるいは両方に結びついている。これらの論者は、啓蒙の破壊的な宿命と新たな権力の形に対しての理性の無力さに対しては注目し、この危機に対して何の反応もできないという理性の無力さに対して激しく抗議し非難もするが、今ある主体性にはこの権力に対して抵抗し解放を目指す力があることにはまったく注目しない。


ハートとネグリは、「超近代性」(hypermodernity)にも批判的見解をいだいています。「近代」を完成させようとする「超近代性」の考え方では、私たちの営みが資本に包摂されてしまいそうになっている現在の資本主義的生産体制に対して抵抗できないとみるからです。

By "hypermodernity" we mean to group together all those concepts, such as second modernity and reflexive modernity articulated by authors such as Ulrich Beck and Jürgen Habermas, that propose in the contemporary world no break with the principles of modernity but rather a transformation of some of modernity's major institutions. These perspectives do recognize well many of the structural changes of the nation-state, the deployments and regulations of labor and capitalist production, the biopolitical organization of society, the nuclear family, and so forth, but none of this implies for them a break with modernity, and indeed they do not see that as a desirable outcome. Rather they envision modernizing modernity and perfecting it by applying its principles in a reflexive way to its own institutions. This hypermodernity, however, in our view, simply continues the hierarchies that are central to modernity, putting its faith in reform, not resistance, and thus does not challenge capitalist rule, even when recognizing the new forms of the "real subsumption" of society within capital. (p.113)
「超近代性」という用語で、私たちは、ウルリッヒ・ベックユルゲン・ハーバマスらによって提唱された第二の近代性や再帰的近代性などの概念を一括して意味している。これらの論は、現代社会は近代の諸原則と断絶しているわけではなく、近代の主要な制度のいくつかが変容しているだけだと説く。これらの立場は、国民国家、労働と資本主義的生産の広がりと規制、社会の生政治的組織化、核家族などの構造的変化をきちんと認めはしているものの、これらの変化が近代との断絶を意味しているとはみなさない。というよりこれらの変化を望ましい帰結だとはみなしていない。これらの論者は、近代性の原理を近代な制度に再帰的に適用して、近代性を近代化し近代化を完成させるという未来を構想している。しかしながら、私たちの見るところ、この超近代性は、近代性の中核にある階層構造そのものであり、抵抗ではなく改革を信じ、社会が資本の中に「実質的包摂」されるという新しい形態をたとえ語ることがあっても、資本主義的支配に対して挑もうとはしていない。






■知識人

「知識人」の概念も、現在の資本主義的生産体制に対して抵抗できるものと変容するべきだとハートとネグリは考えます。知識人は、論評だけしかしない傍観者でもなく、人びとを導く前衛でもなく、人びとと共に未来を切り拓くための具体的構想を提示者となります。

This passage from anti-to altermodernity illuminates some aspects of the contemporary role of the intellectual. First, although critique -- of normative structures, social hierarchies, exploitation, and so forth -- remains necessary, it is not a sufficient basis for intellectual activity. The intellectual must be able also to create new theoretical and social arrangements, translating the practices and desires of the struggles into norms and institutions, proposing new modes of social organization. The critical vocation, in other words, must be pushed forward to move continually from rupture with the past toward charting a new future. Second, there is no place for vanguards here or even intellectuals organic to the forces of progress in the Gramscian sense. The intellectual is and can only be a militant, engaged as a singularity among others, embarked on the project of co-research aimed at making the multitude. The intellectual is thus not "out in front" to determine the movements of history or "on the sidelines" to critique them but rather completely "inside." (p.118)
「反近代」から「これまでとは異なる近代」へのこの移行によって、知識人の現代的役割の諸側面が明らかになってくる。第一に、批判というものは、それが規範構造や社会階層構造や搾取などへの批判にせよ、相変わらず必要なものであるが、それだけで知識人の活動としてはもはや十分ではない。知識人は、新たな理論的・社会的編成を創造し、闘争の実践や欲望を規範や制度に転換し、どのように社会を組織化するかについて新たな様式を定期できなくてはならない。言い換えるなら、批判を天職とする者が、過去との断絶ばかりを強調する者から、新しい未来のための海図を描く者へと変わるように、人びとは努力しなければならない。第二に、もはや前衛のための場所はないし、グラムシ的な意味での進歩の力と結びついた知識人のための場所もない。知識人はもはや闘士であり、また闘士以外ではありえない。知識人はとりわけ自らの相異性をもって闘争に加わり、マルチチュードを創出するという共同研究のプロジェクトに加わるのだ。したがって知識人は、歴史の動きを決定する「前衛」ではないし、歴史の動きを論評するだけの「傍観者」でもない。知識人は完全に歴史の動きの中にいるのである。






■自由と平等

「近代」が問い直される以上、近代の理念である「自由」と「平等」も問い直されます。ハートとネグリは、「自由」をもっぱら個人が享受するものとは考えません。なぜなら、そのような単なる個人的自由は、共有につながらないからです。

The freedom necessary here is clearly not an individualist freedom because the common can only be produced socially, through communication and cooperation, by a multitude of singularities. ... An individual can never produce the common, no more than an individual can generate a new idea without relying on the foundation of common ideas and intellectual communication with others. Only a multitude can produce the common. (p. 303)
ここで必要とされる自由は、明らかに個人主義的自由ではない。なぜなら共有は社会的に、つまり、相異性のマルチチュードによるコミュニケーションと協力によってしか創り出されないからだ。(中略) 一人の人間が共有を創り出すことはできない。これは、一人の人間が、共有されている考えや他者との知的コミュニケーションなしに新たな考えを生み出すことができないとまったく同じことである。共有を創り出すことができるのはマルチチュードだけである。




「共有」のための自由、すなわち多種多様な人びとの間のコミュニケーションと協力の自由を得るためには、「政治的平等」が必要です。「政治的平等」とは、ハンナ・アレントも言うように、人びとの違いを無視することではなく、違う者が政治という社会を創りあげるための権力決定においては同じ権利をもつべきだということです。「政治的平等」とは、(それが何を意味するものであれ)「経済的平等」とは異なります。(アレントは、政治的な意味での平等を"gleich/equal"、経済的な意味での平等を"gleichartig/same"と呼び区別しました)。

Equality, it is worth repeating, does not imply sameness, homogeneity, or unity; on the contrary. Production is also restricted when differences configure hierarchies and, for instance, only "experts" speak and others listen. In the biopolitical domain the production of the common is more efficient the more people participate freely, with their different talents and abilities, in the productive network. Participation, furthermore, is a kind of pedagogy that expands productive forces since all those included become through their participation more capable. (p. 304)
何度も言っておく必要があるが、平等とは同一性や均質性や統一性を含意するものではない。まったく逆である。差異により階層構造が創りだされて、例えば「専門家」だけが発言し他の者は聞くだけとなったならば、創出は制限されてしまう。生政治の領域では、多くの人々がさまざまな才能や能力を持ち寄り、創出のためのネットワークに自由に参加すればするほど、共有の創出がより効率的になる。さらに言うなら、参加とは、創出のための力を超えた一種の教育でもある。なぜなら参加することにより参加した人々はより能力を開花するからである。


単に個人的な意味での自由でなく、共有のための自由を促進し、相異性を否認する平等ではなく、相違性を活用する平等が、ハートとネグリが追求する自由と平等です。

私たちの身の回りを見回しても、国有も私有もされていない、共有 --さまざな人々が活用し大切に思っている共有財産-- が、私たちの暮らしを豊かにしていることに気づきます。ウェブはその好例でしょうが、ウェブも一部の者の情報発信から、Web2.0を経て、TwitterやFacebookなどのSNSへと進化し、私たちがより多様に情報を共有し活用できるようになっています。

もし社会のあり方が既に大きく変わっているとしたら、私たちの哲学も大きく変わる必要ああります。現代を生き抜くために、こういった本を読み続けたいと私は思っています。























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