2013年2月7日木曜日

卒論・修論のテーマの決め方: 表の方法と裏のやり方





卒論・修論を書こうとする皆さん、論文執筆には莫大な時間がかかります。だったら、ぜひいいテーマを選んで論文執筆を充実した時間にして、(数こそ少ないかもしれないけれど)他人にもお世辞でなく「面白い!」と言われる論文を書きましょう。

ここでは卒論・修論のテーマの決め方を二通り示します。標準的というか無難な「表」の方法と、自分に正直だけど危険もいっぱいの「裏」 のやり方の二つです。



■表の方法

次の作業を(前後重複しながら)進めていってください。

・興味ある分野の総説を、定評ある英語のレファレンス(EncyclopediaやHandbookなど)や本で読み、キーパーソンとキーワードを複数メモする。(以下ではとりあえずキーパーソン中心で作業を進めるが、適宜、キーワードも使いながら同じように作業をやってください)。

・キーパーソン(その分野の研究で重要な貢献をしている研究者)の名前でウェブ検索し、その人がホームページをもっていたら、そこからできるだけの情報を得ておく(情報保存は、Evernoteなどをうまく使ってください)。

・キーパーソンの名前で各種学術電子データベース(学術雑誌ごとの電子データベースおよび学術出版社ごとの電子データベース)を検索し、その人の関連論文はとりあえず全部ダウンロードしてしまう(PDFのファイルの名前のつけ方は、「名前_出版年_タイトル」が無難)。

・学術電子データベースでしばしば示される、「この論文を引用した論文」をチェックし、それもダウンロードしておく(案外、そういった新しい論文に、より重要なキーパーソンやキーワードがあるかもしれない)。

・ダウンロードした論文をアンダーラインを引きながらどんどん読む(最初からノートを作ろうとすると、無駄に巨大なノートを作りがちだから、はじめのうちはアンダーラインぐらいに留めておく)。

・ダウンロードした論文が重要論文として引用している昔の論文もダウンロードして読む(もちろんアンダーラインを引く)。

・アンダーラインを引いた箇所をとりあえず全部一つのファイルにコピペする。そのファイルを何度も読みながら、重要箇所にハイライトをつけたりして、そのテーマに関する重要情報をさらに精選する。(色分けに原則をもたせて論点が直観的にわかるようにすること。またそのように編集したファイルの重要部分だけを、さらに新しいファイルにコピペして一層精選したファイルを作るとよい)。

・そのテーマに関する研究論文の書き方のパターンを見つけ、そのパターンの細部をちょっと変えて「オリジナルな」研究ができないか考える。(要は、代表的な研究方法をパクって、そのパターンに乗っかってしまう)





この「表」の方法は、それまでの学界の学術遺産を最大限利用して、最短時間でそのテーマに関しては最先端の知識を得るものです。研究方法も整備されているし、英語で論文を書くときも(もちろん剽窃なんかしてはいけないけれど)、まあだいたい似たやり方で書いていけば、結構サクサク書ける。短時間で自分の頭が良くなり英語もうまくなったように思えるから、自信がつき、さらに論文を書いていこうとする意欲が湧くから、まあ、この方法は賢いやり方というか、正攻法です。





■しか~し

運悪く、従来の研究論文に自分が面白いと思えるものがなかったらどうするか。

英語教育研究・応用言語学なんて、学問の歴史は恐ろしく短いのに、対象・関連領域は果てしなく広いのだから、自分が心身の深い所で予感している面白さを、これまでの研究論文がうまくとらえてくれていないことは、実は結構起こりうる(てか、オイラがそうだった)。

さらに運悪く、その時たまたま『ツァラトゥストラ』なんか読んでしまって、完治しないままであった中二病が悪化し、

すべての書かれたもののうちで、わたしは、人が自分の血でもって書いているものだけを、愛する。血でもって書け。そうすれば、きみは、血が精神であることを経験するであろう。



とか言い始めたら、覚悟を決めて、「裏」のやり方で論文テーマを決めようと思ってもいいのかもしれない。

もちろん「裏」のやり方は、アナキン・スカイウォーカーみたいに「ダークサイド」に陥ってしまう危険性をもっている(笑)。いい歳こいて中二病を悪化させ、自ら黒歴史を作ることもないではないかと慎重になる善男善女は、悪いことは言わないから「表」のやり方で無難に論文をまとめた方がいい。

でもどうしても自分の全身で実感し納得できるような問題を見つけたいと思うのなら、さらにニーチェにはまって、次のように語ってもいいかもしれない。

すべての偉大なことは、市場と名声から離れたところで起こる。昔から、新しい諸価値の創案者たちは、市場と名声から離れたところに住んだのだ。



と、無料で読めるこんなブログ記事に煽られて、実際に人前でこんなことばを口走ったら友人減らすし、下手したら恋人まで失うかもしれないけれど、もし、学生時代はやっぱり徹底的に知的冒険をしてみたいと思うのなら、もう覚悟を決めて「裏」のやり方でやってみよう。





■「裏」のやり方

危険いっぱいだけれど自分の直感や情動、感情に忠実なのが以下のようなやり方です。

・自分の直感を信じる。今まで生きてきて、いろいろ考えたり感じたりしてきて、どうもここらあたりに謎があるのではないか、と身体の奥で芽生えてきた直感に耳を澄ます。「今、学界ではこんなのが流行っている」とか「そんなテーマでは査読に通らない」とか「助言」してくれる人から遠ざかり、一人で静かに考える。

・自分の直感の正体を極める。直感を言語化することは実はとっても難しい。少なくとも数ヶ月かかるし、下手をしたら数年、数十年かかる。その間、ずっと考え続け、観察し続け、そして本を読み続ける。なぜ本を読まなければならないかというと、言語という人類がもつ最大の認識装置をできるだけ身につけ、それを精妙に使い分けないと、きちんと観察することも考えることもできないから。おざなりのことばでは、凡庸な観察と惰性の思考しかできない。だから本を現実世界での思考と観察と絡めながら徹底的に読まなければならない。この時、本を「英語教育の本」だけに限るとかバカなことは決してしないこと。効率よく読書しようとかいった横着な心を捨てて、自分の直感と縁を頼りにひたすら読んで、考えて、観察し、自分の直感にだんだんと形を与えて形式化してゆく。

・形づけられた自分の直感が、それ自身のきちんとした体系をもっているか確認し、もっていなかったら直感の形式化を修正する。身体で感じた自分の直感が正しく、かつそれを的確に言語化(もしくは図式化)できたのなら、その言語・図式表現は、それ自身の体系をもち、自己生成的に発展するようになる(発展する際に矛盾が生じるようになったら、よく考えながら言語化・図式化を修正し、矛盾が出ないようにする)。

・体系化され理論となった自分の直感を、改めて現実世界と照らし合わせたり、他人に説明したりして、その直感に基づく理論が妥当性を失わないことを確認する(妥当性が損なわれるようなら、言語化・図式化を修正し理論を洗練させる)。

・聴衆や査読者と闘う。多くの人は、あることが有名でないという理由だけで、「興味ない」とか「価値がない」と即断する(悲しいかな、これが認知的限界をもつ私たち人間の現実だ)。それでも話を聞いてもらうと、少なからずの人は、自分がよく理解できないという理由だけで冷笑や皮肉で反応する(悲しいかな、これが自分のプライドを何よりも大切にする私たち俗人の性だ)。査読者の一部は、論文に瑕疵が見つからなくても「これはもはや英語教育研究ではない」と、勝手に自ら英語教育研究の領域を定めて、新しいものを抹殺しようとする(悲しいかな、これが学ぶ力も意欲も感性も失った時に陥る私たちが年老いた時の姿だ)。「裏」の方法を取るからには、そんな聴衆や査読者とは闘わなくてはならない。無関心な聴衆には、より魅力的な導入や問いかけで。冷笑や皮肉で自分を守るだけの聴衆には、その作った表情を壊すぐらいの説得力で。自分の古い認識だけを既得権益化しようとする査読者とは、徹底的に具体的で怖くなるぐらい冷静な反論で。


このように「裏」のやり方は、労多くして世俗的見返りが少ない(いや無い!)かもしれない博打のようなやり方で、友人よりも敵ばかりを作るかもしれません。いや、それよりも怖いのは、実は自らの知的努力(思考・観察・読書・理論化)が足りないのに、「世間に見る目がない」とどんどん自分をごまかして、自分で自分の魂を腐らせてしまうかもしれないことです。黒歴史を自ら作り出しながら、それが黒歴史であることを決して自分で認めようとしないというのは、このうえない悲劇です(そして周りからすれば、このうえない喜劇です)。

ですから、特に「ゆとり世代系お子ちゃま」は「裏」に憧れるべきではないでしょう。たとえ少々つまらないと思っても「表」のやり方に留まっているべきでしょう、よほど覚悟がない限り。いや、「自分には、本当に覚悟があるのか」などと自問しているようでは駄目で、もう考える前に、からだの方が動いてしまって貪るように本を読み、気がついたら一心不乱に考え、生活のあらゆる側面の観察が勉強になっていて、はじめて「裏」の道を歩くことを自認すべきなのかもしれません。

ですが、「裏」の道は、自分と世界に対する正直を貫き通し、自己欺瞞という罠に陥らなかったら、この上ない喜びに充ちたものです。また、思いもがけない人が、何の利得も求めずに、救いの手と励ましの拍手を与えてくれます。そこにあなたは「友」を見出すでしょう(利権仲間や同病相憐れむ知人ではなしに)。「裏」の道は、莫大な苦労に裏づけられた形容しがたい愉悦をもたらしてくれるでしょう。





■駱駝・獅子・子ども

再び中二病的に、ニーチェに戻ると、ニーチェは、駱駝・獅子・子どもという「三つの変化」を語ります。駱駝とは、重荷に耐え、最も重いものを欲する心です。やがて駱駝は獅子に変わります。竜と闘うためです。竜は既存の価値をすべてとし「汝、なすべし」と命令します。新しい価値の創造を求める「われ欲す」の心を踏み潰そうとします。駱駝は、創造のための自由を勝ち取るために獅子に変身しなければなりません。そして獅子が竜に勝ち、自由を得たら、獅子は子どもに変身します。無邪気そのものであり、忘却であり、遊戯であり、新たな始まり、神聖な肯定である子どもとなるわけです。

もちろん、これに失敗すると黒歴史となります。駱駝は重荷に耐えかねて動けなくなるかもしれません。駱駝は竜と闘う獅子になるどころか、新たに来る獅子が倒れた時を竜の足元で待つハイエナになるかもしれません。ハイエナは、自由な子どもでなく、自ら演ずる弱さで周りを支配しようとする「お子ちゃま」になるかもしれません。何度も言いますが、「裏」の道は危険でいっぱいです。





■植松努さんという人間

と、ニーチェを引用すると胡散臭さ満点ですが(笑)、しかしやはり人間は、何かをやろうとすると、必然的に危険を受け入れ、時に周りの人達を敵に回しても、自分に正直でいなければならない、そうしないと本当の友も得られないと私は強く思うようになりました。植松努さんの本を読んだからです。

植松さんは北海道の田舎で従業員20人という企業で、しっかりと利益を上げて、その利益をもとに、一切の利得を求めずロケット開発・宇宙開発をしています。それは「『どうせ無理』という言葉をこの世からなくす」ためです。そうして世界各地の研究者、日本各地の子どもと大人の心をつかんでいます(まずは下のビデオを見て、そして本を読んでください。私のこの短い説明では植松さんのことを冷笑で迎える人もいるでしょう。ビデオだけでも皮肉しか言わない人もいるでしょう。どうぞ本を読んでことばを失ってください)















植松さんはこう言います。

夢とは、大好きなこと、やってみたいことです。

そして仕事とは、社会や人のために役に立つことです。

NASAより宇宙に近い町工場』(170ページ)


もしあなたが夢を失わず仕事を楽しみたいのなら、せめて学生時代の論文執筆ぐらいには、思い切って自分の直感にかけるべきなのかもしれません。それは甘えを捨てることです。

誰かが信じてくれることを期待してはいけません。信じるというのは、自分自身の覚悟のはずです。誰かが信じてくれないと不満を言ってもしかたがありません。自分で信じることです。自分を信じて、自分が裏切らないということが、一番大事なことかもしれません。

NASAより宇宙に近い町工場』(170ページ)


他人に期待せず、自分に期待し続け、苦労を厭わないこと、苦労を苦労と思わず(いや、まったく苦労と思えず)ひたすらに試行錯誤を続けること、これが「裏」の道かと思います。未来は、過去の事例からの確率計算の上にあるのではなく、今の自分の行動にあると考えるわけです。

本当の未来というものは、やってみたいことをどうやったらできるかなと考えて、やり始めることです。ただこれだけで、未来に到達することができます。選ぶことではないんです。どうやったらできるかなと考えて、それをやることです。そうすれば、自動的に未来に向かって進み始めます。

NASAより宇宙に近い町工場』(85-86ページ)






論文執筆に関して、あなたが「表の方法」と「裏のやり方」のどちらを選ぶべきか、それは私にはわかりません(そもそもこれは二者択一の選択でもないのかもしれませんし)。これは生き方の問題ですから。振り返ってみると、私は「裏のやり方」がほとんどです。博士論文を書く時だけ、「表の方法」(に近いやり方)を取りました。そしてこの「表の方法」は、単に学位取得に役立っただけでなく、自分の「裏のやり方」ばかりで自家中毒になりかけていたかもしれない自分にとってのいい薬になりました。私はこの裏と表の選択を自ら行いました(というより、状況の中でそういう選択をしていたと後で気づきました)。この経験に基づき、これに限らず、何かを決めるときには、決して「誰それが言ったから」と口を尖らせることなく、自分の身体に聞いてみるべきかと考えています。





きみの身体のなかには、きみの最善の知恵のなかにあるより、より多くの理性がある。







本当は、大好きなことを掘り下げて学ぶのが、大学や専門学校です。大学や専門学校というところは、かたよった知識を伸ばす場所であり、研ぎ澄ます場所です。だから、かたよっていなければいけません。万能な人をつくる場所ではないはずです。

NASAより宇宙に近い町工場』(99ページ)








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