■たいていの人はマクドナルドが大好き
マクドナルド・ハンバーガーに代表される社会の過度の合理化を批判するこの本の著者も、合理化を全面否定しているわけではありません。合理化されたシステムが、商品・サービスの入手・利用可能性や安定性などにおいて、それ以前の仕事のやり方よりも優れていることは著者も十分認めています(例えば36-37ページ)。そもそもマクドナルドは多くの人に愛されてるようです(それとも私はテレビCMを見過ぎなのかなぁ。実際に中で働いている人に話を聞かなくっちゃ)
しかし著者は、彼が「マクドナルド化」と称する、効率性、計算可能性、予測可能性、制御の追求の影の部分も正しくみようとします。本書の狙いは「社会批評」です(4ページ)。
■マックス・ウェーバーの「形式合理性」と「鉄の檻」
著者はマクドナルド化を、ウェーバーが「形式合理性」と呼んだ、近代西欧世界に特有な合理性の拡張とみます(47ページ)。ウェーバーの「形式合理性」を著者は以下のようにまとめます。
形式合理性とはいかなるものであるか。ウェーバーによれば、形式合理性とは、与えられた目的に対して最適な手段を探ることが、規則や規定やより大きな社会構造によって共有されていることを意味する。ある目標を手に入れるための最良の手段を探るさいに、個人は自分で工夫を凝らす裁量をもっていない。ウェーバーは、このことを世界史上大きな発展と特筆している。かつて、人びとはみずからの方針、もしくはより大きな価値体系(例えば宗教)に由来する曖昧で、しかも一般的な指針に基いて、そのようなメカニズムを見つけだす余地があった。形式合理性の進展以降、彼らは何をなすべきかを決めるために規則を利用できるようになった。もっとはっきりいえば、人びとは自分が何をすべきかを指令してくれる社会構造にすでに位置づけられていた。そのため、人びとはある目的にとって最適な手段を自分の手で見つけだす必要はもはやなかった。むしろ、最適な手段がすでに発見されており、規則や規定や構造に制度化されていた。人びとはそれらに従いさえばよかったのである。このように、形式合理性のひとつの重要な側面は、目的を実現するための手段の選択を個々人にさせないという点にある。手段の選択は指令されたり決定されたりしており、実際に、すべての人が最適な同じ選択をなしうる(あるいはしなければならない)のである。(47-48ページ)
この形式合理性を追求したシステムが、ウェーバーによれば官僚制なわけで、官僚制はこれまでには考えられなかった大規模の仕事を迅速にこなすことを可能にしました。しかしホロコーストの悲劇性が、あれだけの人数の人間をおよそ合理的に迅速に効率よく殺したことにより一層高まっていることからもわかるように、形式合理性は、システムの内で働く者にも外でその影響を受ける人間にも、「脱人間化」(50ページ) -- 人間らしくふるまうことがますます阻害されること -- を促します。このように人間が合理的なシステムによりますます生産性を高める一方、人間性を否定されてしまうことが「鉄の檻」です。
そしてこの形式合理性は、マクドナルド化により一層進行し、私たちは「鉄の檻」をもはや「ビロードの檻」(281ページ)とみなし、「人間が人間的であること」について考え想像する能力を失っているのではないか、というのが著者のメッセージかと私は理解しました。
マクドナルド化の4つの次元である効率性、計算可能性、予測可能性、制御についてもう少しまとめてみます。
■効率性
マクドナルド化における効率性には、「多様な社会状況で効率の最大化を追求するという意味が含まれている」(71ページ)と著者は語ります。つまり、個々人がそれぞれ固有の状況で効率を上げるために創意工夫をするというのではなく、状況や関係者の個性を捨象し、できるだけ一般化した形で効率性を追求し、その追求の中で見つけられた目標達成のための最適な手段を従業員に指示するというのがマクドナルド化での効率性のようです。
■計算可能性
私の考えるところ、この計算可能性がマクドナルド化においてもっとも警戒すべきことかと思います。計算可能性を著者は次のようにまとめます。
マクドナルド化する社会では、ものごとを数えられること、計算できること、定量化できることが重視される。実際、量が(とくに大量であれば)質にとってかわる傾向がある。 (106ページ)「質を『わかる人にはわかる』とか『個々人が実感するもの』などと言ってしまえば議論が進まないのでなんとか数量化しましょう」、というのはたとえそれが善意からの判断であったとしても、その果てには恐ろしいものが待っているように私には思えます。質を量に還元してしまうことに慣れてしまった人たちは、やがて数字ばかりを見つめ、質感ということを忘れがちだからです。さらには「質」を数字でなく実感で語ろうとする人を、教育を受けていないように蔑むこともしばしばあります(「あのね、そんなこと言ったって仕方ないでしょう」という苦笑や冷笑を私は今思い浮かべています)。便法としての質の数量化がいつの間にか、「科学的手続き」、「科学」、ひいては「真理」と認識され始めている現代に私はどこか恐ろしいものを感じています。芸術や自然、ひいては教育も、数量化し最終的には金銭換算しないと理解できないような「偉い人」が私はどうも苦手です。
■予測可能性
計算可能性を高めれば、マクドナルド化の第三の次元である予測可能性も高まります。効率もますます高まります。いいことづくめのようですが、一方で人びとは、物事が期待通りに動くことを当然視しはじめます。人のからだも、計画通りに動いてもらわなければなりません。昨今は、風邪がひどかったり急にお腹の調子が崩れてしまった人でも計画通りに仕事ができるように人間の身体を生理学的に制御する薬がCMでもさかんに宣伝されています。私たちのからだも心も今や予定通りに動いてもらわなければ困るのです。
-- でも誰が困るの? -- あなたの同僚が -- いや私の同僚はむしろ私の心身を心配しているんですけど -- システムがです!システムを止めることは許されないのです!!
■制御
かくしてマクドナルド化が進行するところ、人間の心やからだといった予測を裏切るふるまいをするものはできるだけ排除し、「人間の技能から人間によらない技術体系への置き換え」 (165ページ) が進められます。人間がロボットやコンピュータのようになりきれないのなら、人間をロボットやコンピュータに換えるまでです。人間と違ってロボットやコンピュータは文句も言いませんし、制御もしやすいですから。
-- 「人間性」などといった芸術家や人文学者きどりの怠け者がいう曖昧なものを相手にしていれば、仕事なんかできません。仕事について来れない者は脱落する、これが社会じゃないんですか! --
■資本主義
-- そう、私たちは仕事が大好きなんです。仕事をどんどん強化し、生産性を高め、競争に打ち勝つことが大好きなのです。いやこれは野心を満たすだけのことではありません。何よりお金が得られます。より多くのお金を。なぜ多くのお金が必要かって? 何をそんな当たり前のことを聞くんですか? 自分と家族を幸せにするためじゃないですか!--
あまり資本主義ばかりを悪者に仕立て上げて、その悪口を言っていれば正義をなしていると思い込む思考の短絡に私は陥りたくありませんが、やはり西洋近代の形式合理性の推進の背後は、西洋近代思想だけでなく、資本主義的生産体制があることは否定できないと私は考えます。
私たちはもはや私たちが社会の姿として「当たり前」と疑わなくなった、資本主義的生産体制の社会を問い直し、それを一気にひっくり返そうなどとするのではなく、少しでも人間らしい社会を目指すべきかと思います。そのためには「人間らしさ」とは何かを追求する人文学、芸術、そして日々の生活の営みが大切なことは言うまでもありません。
現代において「革命」が起こるとしたら、それは資本主義的生産体制の中で働きつつも、人間らしさを追求する多くの人びとが、同時多発的に仕事や暮らしの場で小さな革新の試みをさまざまに行い始めた時かもしれません。その新しい無数の試みの動きが、さらに多くの人びとの心を捉え、ひろがり、誰もその相互作用による自己組織的発展を止めることができなくなったとき、私たちは「革命」が成就されたと思うのかもしれません。
いや「革命」ということばも不要なのかもしれません。私たちは人間らしくあろうという望み、お互いに対する愛、そして創造性、を失わなければいいだけなのかもしれません。
-- 何を言っているんだ! 愛も創造性も望みも、資本主義的生産体制あってのことではないか。資本主義からはみ出したところで語られる愛とは何か、創造とは何か、望みとは何か? システムの維持と発展こそが私たちの務めだ。なにしろ私たちは資本主義システムによって幸福を発明したのだから! --
もし「偉い人」がこう信じて疑わず、市井の人びとがそれを「仕方ない」としか考えないのなら、私たちはまさに「最終段階の人間」 (der letzte Mensch) にまで進化したのかもしれません。資本主義バンザイ!
追記
この記事は、翻訳書を読んだだけで書き、原書でのチェックしていません。現在、本当に仕事に追われていて、この記事は、そのストレス解消のために半ばヤケになって書きました(苦笑)。
おはようございます、柳瀬先生。
返信削除-10℃の中、犬と散歩へ40分ほどいってきました。
若い同僚や保護者が、数字で表せる結果にしか興味を持たないっていうか、直感や質感、雰囲気といったものを感じたり伝えたりすることを面倒がるっていうか、そういうのを感じることがままあるので、それも、『マクドナル化』に関係するのかなぁと思いました。
子どもを見るのではなくて、その子のデータを見るっていうか、学ぶ全過程を丸ごと見ようとせずに結果しか見ようとしないとか。
少子化で大学数が変わらない(本当は増えているそうですね)中で、点数による順位競争をさせて何の意味があるのか、意味どころか、害悪にさえなっているのではないかと危惧します。
ポッピーママさん、
返信削除コメント掲載が大変に遅れて申し訳ありませんでした。今、仕事に追われて、多方面の方にご迷惑をお掛けしております。「マクドナルド化」は、やはり重要な指摘だと思います。