2013年1月29日火曜日

菊池省三先生のワークショップ(主催 グラスルーツ)に参加して




子どものからだが伝えること

菊池省三先生という名前や、「ほめことばのシャワー」という表現は私もこれまでしばしば耳にしていましたが、もちろん何かが有名でそれを耳にするだけではその方の実践の様子はわかりません。有名人だからといってすばらしいとは限らないというのはこの世の常ですから。

ですが、私が敬愛する池亀葉子さんが理事長を務める特定非営利活動法人グラスルーツが、その菊池先生を招いてワークショップを開催すると聞き、池亀さんがいいと思う方の話なら聞きたいと思い、そのワークショップに参加しました。

よかった。想像以上によかった。菊池先生は単なる有名人(安売りされた表現としての「カリスマ教師」)なんかではありません。本物の教育者でした。

「本物の教育者」と言いますのは、菊池先生が子どもをすばらしく成長させていらっしゃるからです。その成長は菊池先生がお見せくださった映像で明らかでした。たとえば小学生が、互いに正対して眼を見つめながら語っています。姿勢は「下半身どっしり、上半身ゆったり」です。しかも語ることばが、おざなりな常套句ではありません。大人が聞いても「おおっ」と思う創造的な表現(例えば「行動の敬語」)などがすっと出てきています。ディベートや討議(「熟議」では、きちんと人と論を区別して、相手ではなく相手の論拠に対して検討を加えていました。

最近の日本の政治家は、例えば中国の政治家と対談するときなど特に眼を伏せたまま、相手の視線を受け止めることもできずにことばを発していますが、そんな情けない態度とは反対の極にあるすばらしい姿を子どもは体現していました。また日本の「論争」の多くは、ひたすら相手を貶めるために、相手の片言隻句だけ取り上げ、執拗に相手を攻撃するだけのものですが、そのように恥ずかしい態度とは無縁の理性的な言動を子どもは示していました。

その子どもは、決して恵まれた教育環境にいたわけではありません(その様子はここでは書くことを控えます)。そんな環境で心を枯らしてしまった子どもと、菊池先生は毎日つき合います。考えてみましたら、小学校教師は毎日朝から夕方まである学級集団と付き合います。当たり前のことを言って恐縮ですが、中・高・大といった専門教科中心の接し方をしている教師からしますと、子ども、しかもその子どもが大勢で予期できないような相互作用さえ起こす学級集団と朝から夕方まで毎日・毎週・毎月つき合い導く小学校教師は本当にすごいと思います。

親も、決して全員が教師に対して協力的ではなかったのですが -- これはunderstatementです -- そんな親も、子どもの表情や言動の変化に気づきます。子どもがからだで示す成長の様子に、親が驚きます。他の教師も教育行政者もマスコミも驚きます。かくして現在、菊池先生のお名前が全国に知られているわけです。



HOWよりWHAT、WHATよりWHY

しかし有名といっても、ほとんどの人の理解は、セミナー参加前の私と同じように、非常に表面的なものです。ですから「ほめことばのシャワー」と聞いても、「そんなにほめてばっかりで甘やかしてしまいませんか?」、「私もほめるようにしていた時期がありましたが、結局打たれ弱い子どもを育てただけです」、などと勝手に「ほめことばのシャワー」という表現を誤解しがちです。しかし菊池先生はしっかりと子どもを叱ります(感情的に怒るのではなく、道理に基いて叱ります)。菊池学級の子どもは打たれ強い子どもであるように思えます。それらは菊池先生の「ほめことばのシャワー」を一端とする、考えぬかれた、大胆にして細心の働きかけがあるからです。子どもが菊池先生を信頼するからこそ、叱責を契機に子どもが大きく成長するのです。

菊池先生の「ほめる」は、おざなりの「ほめる」ではなく「真剣にほめる」ことです。菊池先生は、「まさかこんなことでほめられることはないだろう」と子どもが自分でも気づいていない成長の兆しを見抜いて、それを懸命にほめます。「100点を取ったから」といった通俗的な観点ではなく、子どもの人間的成長という観点で、子どものからだの微妙な変化を見抜いてほめます(菊池先生は、時折「教師の身体的能力」という表現も使っていらっしゃいました)。

だから菊池先生が子どもを「ほめる」ことができるのは、菊池先生が子どもの成長を見抜く観点を見出しているからです。観点を見出すために、菊池先生は日頃からご自身の生き方を深め、人間の成長・成熟とは何かということを考え、自他を観察しているのだと私は思っています。

このようなセミナーに参加すると、参加者はとかくHOWに注目しがちで、「どのようにほめればいいですか」などと質問しがちです。もちろんHOWへの注目は重要ですが、それよりも大切なのは、「この実践は実際は何をやっているのか」という分析的なWHATです。

菊池実践に対する私の粗い分析は、「『ほめる』とは、教師が実人生を通して見出した人間の成長・成熟に関するさまざまな観点での変化を、子どもの微妙な身体変化に見出す」というものです。もちろん私はこの粗雑なまとめが菊池実践のすべてを捉えているなどとはまったく思っていません。しかし私たちは、ある実践を見ても、それを名づけられた表現で自分勝手に解釈してしまうことを避け、しっかりと自分が眼にしている実践の姿を自分で納得でき他人にも共感してもらえることばで分析しなければなりません。菊池実践を「ああ、『ほめことばのシャワー』ですね」と言うだけでは、菊池実践のWHATを理解したとはいえません。私たちは、実践のHOW以上にWHATを大切にしなければなりません。

しかしWHATよりも大切だと私が考えているのが、WHYです。菊池実践にしても、菊池実践の正体であるWHATを考える際には、なぜ菊池先生が菊池実践をこのように育ててきたのか・育てなければならなかったのかというWHYを考えなくてはならないと思います。

そしてWHYを考えると、菊池実践とは異なる自分なりの実践(WHAT)が生まれ、そのWHY-WHATの連関から、HOWは自然と編み出されてゆきます。あとは子どもをよく観察してHOWを適宜変更するだけです。教師は、他人の実践を見るとき、HOWよりWHAT、WHATよりWHYを大切にしなければならないと考えます。これは、多くの先生がHOWばかり追求して失敗し、最後には自分はダメだと自分を責める様子を見てきた私が得た結論です。(詳しくは、『リフレクティブな英語教育をめざして―教師の語りが拓く授業研究』の中で私が書いた「自主セミナーを通じての成長」をお読みいただければ幸いです)。

菊池先生は、子どもに対してもWHYを大切にします。今、多くの教師は、子どもに活動のやり方は指示しても、その活動の目的や価値は伝えません(小学校の英語活動もその一例かもしれません)。しかし菊池先生は、活動の目的や価値を子どもに発見させます。こうやって納得するから子どもは活動に真剣に取り組むのでしょう。



教えやすさより学びやすさ

菊池先生は、セミナーで珠玉のことばを数多く残されましたが、その中でもひときわ参加者の心に残ったのは、「教えやすさより学びやすさ」でした。「教えやすさ」とは教師の都合です。例えば、一斉授業の形式は、教師がとりあえず(表面的に)生徒を管理し、情報伝達をするには便利な形式です。ですがそういった管理と情報伝達が「教育」の名に相応しいかは、最近どんどんと疑問視されています。そんな「教えやすさ」よりも、子どもの「学びやすさ」、どうやったら子どもが学ぶ実感を覚えやすい環境になるかという根源的な問いかけは必要だと思います。これを決して「ああ、協同学習ですね」と短絡してはいけないというのは、上で述べたHOWだけを追い求める愚を警戒してのことです。「教えやすさより学びやすさ」についても、HOWよりWHAT、WHATよりWHYを大切にして考え、試し、観察し、修正してゆこうと思っています。



土を耕し、庭を作る

田尻悟郎先生(3/9(土)に博多でセミナーを開催されます)を見ていても思ったのですが、菊池先生も「工場長」ではなく「庭師」に喩えるべき教師だと思いました(これらの喩えについては、『生徒の心に火をつける―英語教師田尻悟郎の挑戦』の中に書いた私の短いエッセイをお読みいただければ幸いです)。菊池学級の子どもたちを見ていると、学級が一種の生態系のようになり、相互作用を通じて、子どもたちがお互いの(学級の)力を通じて自ら育って行きます。庭は庭師が基礎を作るものですが、後は庭が自分自身を作り、庭師と庭は共にその成長を喜ぶものかと私は考えます。。

菊池先生がなさったことは、「こんなところで植物が育つわけがない」と誰もが諦めていた土地から小石や岩を取り除き、耕し、水を引き、陽があたるように周りの環境を整えたことに喩えられるのかもしれません。菊池先生はさらに、そこにたどり着いたさまざまな種に「ようこそ。ここで成長できるよ」というメッセージを自らの言動で伝え、それらの種が根づき芽吹くのを注意深く見守り、植物がしやすいようにいろいろと庭の環境を整えたと言えましょうか。そうすると庭は豊かに自らを育てます。さまざまな植物がお互いにとってのよい環境を作り出し、蝶や蜂を招き、豊かな花を咲かせます。教師という学びを支援する存在は、庭師メタファーから、さまざまな洞察を得ることができるのではないかと私は思っています(私はこの庭師メタファーの着想を『奇跡のリンゴ―「絶対不可能」を覆した農家・木村秋則の記録』から得ました。私はさまざまな実践家の話を読むことが大好きです)。



正直で謙虚な人たち

このセミナーの参加者の中で、私が前から存じ上げていたのはグラスルーツ理事長の池亀さんだけだったのですが、受付そしてセミナー・ワークショップから、お昼休みそして懇親会に至るまで、私は初対面の方々ととても楽しい時間を過ごしました(帰りの新幹線に乗って、私はようやく「あぁ、そういえば今日は一日中のセミナーだったんだ。あっという間に過ぎた充実した一日だったなぁ」と心中でつぶやきました。私は丸一日、俗世界の憂さをすっかり忘れていました(苦笑))。

セミナーの一日を通じて、私は疲れではなく、元気を得ました。それも、講師の菊池先生、スタッフの皆さん、参加者の一人ひとりが正直で謙虚な人だったからかと思います。講師もスタッフも参加者も、それぞれに子どもの成長を願い、休日を返上して集まった人間です。その志を共有しながら、互いに率直に発言し、誠実に耳を傾けます。そんな時空が楽しくないはずはありません。正直でも謙虚でもない人たちが多く集まる時空では私たちは、心身ともに消耗するだけですが、正直で謙虚な人たちが、私心・邪心のない志を共有できたら、私たちはそこで大きな活力を得ます(その活力で、私は忙しい中に時間を創りだしてこの文章を書いています)。

こんな時空を創り出してくれたグラスルーツ、そして講師と参加者のすべての皆さんに心から感謝します。私はこれからも優れた実践者に学び続けたく思います。それが教育学部に勤務する大学教員の重要な仕事の一つと信じてやまないからです。











菊池先生の講演会は、2月23日にも開催されます(場所は横浜)

詳しくはhttp://grassroots-edu.com/event130223/を御覧ください。





追記

グラスルーツの池亀さんも、菊池先生のセミナーの振り返りを書いていました。ここにその一部を引用します(詳しくは下のURLをクリックしてください)。

先生は、「ほめる」というより、「見つけている」のだ、と。
こどもたちの素晴らしさを発見し、それを言葉にして、我々人間は、素晴らしい存在なんだ、ということを、あらゆる言葉を使って伝えておられるのでした。
どんな人間にも、良い部分はある。
どんなにやる気のないように見える人間でも、実は、どこかで頑張っている。
それを、先生は、見つけて、認めて、言葉にされるのです。
ですから、やみくもに褒めたり、とりあえず褒めたりはされません。
そんな大人の嘘は、こどもたちはすぐに見破ります。そして失望します。

先生は、こどもたちが仲間の良いところを探して見つけられるように導きます。
つまり、愛情深い人間を育てているのです。
いいところ、頑張っているところを見つけるには、観察が必要です。
関心がなければ、見つけられません。
愛情の一歩目は、関心。
愛情の反対言葉は、無関心。
そして、どういうことが素晴らしいことで、どういうことがそうでないのか、こどもたち自身て判断できるように導きます。

先生は、それを、価値付け、という言葉で説明されます。
「ほめる」という行為そのものが素晴らしいのではありません。
それは、単に表現の一部であります。
先生は、「ほめる」という事を通して、こどもたちに、価値基準を学ぶことを教えておられるのです。
その前提には、先生の強い信念がある。
つまり、北極星がある。
それが無いほめ言葉には力がない。
信念のない指導は届かない。
そういうことを、今回のご講演で学びました。
http://ameblo.jp/kodomoeigorakugo/entry-11460224004.html



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