2013年1月3日木曜日

ミヒャエル・エンデ『オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』『芸術と政治をめぐる対話』岩波書店





■なぜ学校教育はますます官僚化されるのか

エンデの対話集を読んでわかることの一つは、学校がどんどんと官僚化されているのは現代日本の話だけではないということだ。おそらくこれは近代社会の特徴だと言い切っていいだろう。

「官僚化」というのはもちろんここでは否定的な意味で使われている。となれば「官僚」という人種が悪意に充ちた人びとで、自己利益のために日々教育を窒息させているのであり、「官僚」を追放してしまえばいいのかと言えば、それは短絡というものである。「官僚」あるいは他の一定の人びとだけを悪者に仕立てて彼・彼女らを叩けば問題解決するというわけではない。(これはマルクスが資本主義の災厄を資本家個々人の悪徳によるものとはみなさなかったことと同じだ)。

学校の官僚化というのも、私たちのあり方、ということは社会のあり方、の反映の一つであり、私たちが何よりも(資本主義社会体制での)「競争・成功・成績」を求めているからこその現象であるといえよう。エンデは次のように語る。

最近の ― そうだな、ここ50年のあいだに ― 学校がますます官僚化しているが、それはなぜなのか?教師に質問すると、「それは法律家のせいだ」という。法律家にいわせれば、こういうことになる。「学校が資格をあたえる存在であることによって、学校は経済や社会と直接つながっている。また、子どもがうまくやっていくかどうか ― たとえば医学部に進学できるかどうか ― は学校の成績に左右される。学校がそういうシステムであるかぎり、行政訴訟があるだろう。で、どの教師も、点数をつける段階ですでに、この点数評価は行政訴訟に耐えるものかどうか、を検討することになるだろう。安全確実にやるためには、教師は授業までをも官僚化してしまうだろう。後日必要とあれば提出できるように、教師は、口頭のやりとりの平常点まですっかりメモしておくことになる」。背後に国の悪意がひそんでいるわけじゃない。そんなことをしても、ますます面倒になるだけだからだ。むしろ背景にあるのは、教育制度と「競争・成功・成績」社会とが直接につながっているという事情だ。ほんとうの問題は、「国か、国でないか」ではなく、どうやったら文化的な自由空間、あるいはまた教育的な自由空間を社会に生みだせるかということじゃないのかな。なにしろどんな社会でも、自分をモデルにして教育制度をつくろうとする。だから問題は、現代のような社会のなかに、「成績・競争・成功」社会をモデルとしない学校を、どのようにつくることができるか、なんだ。 ((エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、82-83ページ)


学校の官僚化の進行を止め、学びの場に少しでも自由を ― 創造性の涵養のためには不可欠な自由を ―もたらすには、私たちが自らの自明とする価値観を問い直し、それに代わるよりよき価値観そしてそれに基づく社会のあり方を構想する必要がある。想像力を働かせて、私たちはよりよいあり方を創造してゆく必要がある。

「よりよい社会なんて脳天気なことを」と冷笑を浮かべる方には、こう説いてもいい。「グローバル競争においては創造性こそが鍵ではありませんか?このままの学校教育では創造性は育ちませんよ!」 

幾人かはこれで頷いてくれるかもしれない。だが、もし権力者が、「創造性が必要とされるのは、一部のエリートだけであり、エリート教育は権力者の子息などが通うことができる一部の私立学校で行えばいいこと。庶民の子どもは、安価でも命令通り働く労働者となれるように教育されればいいだけのこと」と考えていれば (私の思うところ、その可能性は高い) この論法も説得力を欠く。やはり愚直に論じよう。


― 私たちは皆、幸せに暮らしたい。そしてこの地球には(私たちが無駄遣いをやめれば)それを可能にするだけの資源もあるだろうし、私たちの文明がこれまで築いてきたテクノロジーを使えば、私たちは馬車馬のように働かずとも互いに幸せに暮らせるはずだ。少なくとも若者が将来に不安ばかり感じ、結婚も出産もできないと悲観する社会はおかしい ―


それでは何をすればいいのだろう。もちろん快刀乱麻を断つような「最終的解決」手段などない(「最終的解決」ということばの禍々しさを私たちは忘れてはならない)。だから私たちは、冷笑家に鼻で笑われ「デクノボー」と呼ばれることを恐れずにいよう。回り道のように見えても実はとても確実で、しかも誰もができて、誰もがなしたら、もうものすごい力となることを行おう。そのようなことの一つは、(笑いたまえ)芸術を愛することである。



■いまこそ芸術が重要

芸術は、少なくともアメリカやイギリスといった、私たちが参考にしてやまない、しかし公教育のレベルではOECD最低の国々ではどんどん削減されている(その反面、TEDといった自由な試みでは、しばしば芸術の価値が高らかにうたわれているが)。

日本の公教育でも芸術はどんどん軽視されていないだろうか(あるところでも書いたが、私は、体育・音楽・芸術・技術家庭などこそが学校教育の基盤科目であり、その上に国語と算数(数学)の基礎科目があり、さらにその延長として社会・理科・英語といった発展科目があると考えるべきだと思っている。この話を芸術関係の教師にすると「ぜひ、そんな考えを他の人たちに伝えて下さい」と言われる。その表情からは、芸術科目が日頃冷遇され、さらにその待遇は悪くなっていることがうかがえる ― 書いていて思い出した。ある音楽教師は、学校が所有している楽器の手入れの予算すらないと嘆いていた)。

「しかし芸術なんて」と、勝ち組代表のようなしたり顔をしたスーツの男は告げるかもしれない「お金を食うだけで、ほとんどお金を稼げませんからね」。

この人たちの論法は、お金は稼ぎ続けなければならないもので、お金を使うことはたとえそれが豊かなquality of life (どうして日本語にはまだこの句のいい翻訳がないのだろう) のためだとしても悪徳だというものだ。それはまさに資本の論理なのだけれど、彼はそのことについて考えることは常に拒む。彼らの認識では「マルクス」と聞けば、まるでバイ菌の話をされたようにしかめっ面をすることが「オトナ」なのだ。

しかし芸術が、資本主義社会の論理とは合わないというのは確かに正しい。一部の芸術作品は投機の対象になることはあるが、そもそも芸術の営みというのは ―芸術が一部の者によるものでなく、生活に根ざすものであった昔日の日本を思い出してほしい(柳宗悦『民藝とは何か』講談社学術文庫)― 貨幣による交換価値の多寡でその意義を問われるものではない。いや交換価値どころか、(「実用性」を強調した意味での)使用価値でも芸術は語り尽くせない(「交換価値」や「使用価値」については、たとえばモイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房をご参照下さい)。


芸術作品は、その交換性や実用性ではなく、その存在が重要なのである。芸術作品についてエンデは語る。

なにか他のものに役立つからすばらしい、というんじゃなくて、ここにあるから、この世にあるから、手もとにあるから、すばらしいのです。なぜかっていうと、それが存在するだけで、すでに世界は変わっているからです。木を植えることができるように、詩を書くこともできる、と言えるでしょう。こんにちではつねに、環境破壊のことばかりが注目されています。しかし、ほとんど無視されている現象があります。心の荒廃です。環境の荒廃とおなじように切迫していて、おなじように危険なものです。そしてこの心の荒廃に対抗するのに、心のなかに木を植える試みが考えられる。たとえば、いい詩を書こうとする。心に植える木というわけですね。木を植えるのは、リンゴがほしいからというだけではない。ただ美しいからという理由だけで植えることもある。なにかの役に立つから、というだけでなく、存在しているということが大切なんです。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、157-158ページ)


庭の木が、特に果実をつけずとも、そこに存在するだけで、その美において私たちの心に豊かさをもたらすのと同じように、芸術作品は、その存在の美において私たちの心を荒廃から守る。

だから、ことばの芸術としての文学も言語教育において重要な位置を占めなくてはならない。「詩なんて入試に出ない」と生徒は文句を言う。「センター試験やTOEIC・TOEFLのような多肢選択法で、文学読解なんかまともに作問できませんよ」と試験作成者も嘆く。私たちは、学校と経済の接点であり、実は現在の教育について圧倒的な権力をもってしまっているテストのあり方について根底的に考え、テストを新たにデザインしなければならない。その一方で教師は文学を教え続けなければならない。



■「この作品のメッセージは」と尋ねる教師の愚

だが文学を教える教師の授業が、実はしばしばおそろしく貧困なものだ。

私が見聞きしている範囲でも、ある文学作品を収録した高校英語教科書は、その作品をおそろしく凡庸に要約し、その作品の可能性を潰してしまっていた。またあるところで見た授業では、音楽に喩えるならまるで、「はい、この曲の調性はなんでしょう?そうですね短調です。だからこの曲でモーツァルトは、悲しい気持ちを伝えたかったんです」と言わんばかりの授業をしていた。文学は、あるメッセージを不器用に伝えている表現ではないことを、エンデは次のように説明している。

シェイクスピアの芝居には、つかまえるべきメッセージなんてない。しかし私はその芝居でなにかを経験したわけです。『オセロ』から帰ってきて、「もう一度、勉強したよ。嫉妬深くしちゃいけないって」と言ったり、『マクベス』をみて、「野心をもつべきではない」と言うのは、馬鹿ばかしいことでしょう。まったくそれでは、芝居が全体として理解できなかった、と言ういようなものですからね。文学は包装の問題ではないと思います。なるほどこんにちでは、よくある大学の授業のおかげで、包装の問題になってしまってますが。かわいそうに学生たちは『バケツ騎手』のようなカフカのテキストの取り扱い方を習ってから、こう言われるはずです。「では、この作者がそもそもなにを言いたかったのか、それを探らなければなりません」。そうして、ご苦労な解釈法を駆使して、最後に引き出す結論は、「<よい>は<悪い>よりもましだ」とかなんとか、くだらないおしゃべりなんです。つまりそうやって、作者の言いたかったことが、つかまえられた。結局のところ、芸術の問題全体が、包装の問題に還元されたわけです。こんな具合に考えられてるんですね。芸術家はメッセージをもっている。彼はそれを、クリスマスプレゼント用の包装紙にくるんで、 ― まあ、その包装紙が文学の形式なわけですが ― 受取人に発送する。で、受取人は、包みをほどきさえすれば、メッセージが手にはいる。もしそういうことなら、芸術家はメッセージを直接、発送することもできますよね。 ― もっともそれでは、芸術じゃなくなるわけですが。 (エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、153-155ページ)


思うに、文学教育に理解を示す教員ですら、文学に自らの心身を根こそぎもっていかれるような体験をしたことがないのではないだろうか。あるいはたとえそれが拙く人前に出せるようなものではないにせよ、やむにやまれず自ら表現したことがないのではないか。

「書くこと」は実用はおろか、他人のためでもないかもしれないとエンデは告白する。

エンデ ほんとうに正直な話をしてよければ、私は、だれかになにかをあたえるためになんか、書いてはいないんです。それは、尋問されたときの弁明にすぎない。仕事をしているとき、結局のところ、読み手のことは考えていません。

ラップマン=コップ じゃ、なぜ書くのですか?

エンデ 手に汗にぎる冒険だからなんです。題材であれ、形式であれ、思想であれ、私を魅惑するものとの対決なわけです。 ― 私を挑発するものとの。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、163ページ)


表現をする際に、まずもって決定的に大切なのは表現者自身の存在、心身であるということは、どこかでパット・メセニーも語っていた。

しかし現在、文学は、そういった存在のすべてをかけた営み、心身まるごとの営みとしては教えられていないのだろう。学校、そして大学までもが、学ぶ者の存在をかけた学び、学ぶ者の心身を抜きにしては語れない学びを拒否し、誰にでも当てはまるはずとされるような無難な「客観主義的知識」ばかりを伝達しているのだろう。



■「専門家的思考」による大学教育の貧困化

自らの心身を主体的に関与させず、さらには制度化された枠組みを問いなおすこともしない表層的な学習は、「専門的教育」として近年の大学ではしきりに推奨されている。さすがに昨今は大学人の中から「これではまずい」と教養の見直しを求める声もあがりはじめたが、その「教養教育」が「専門的教育」を水で薄めただけのものであったりして、安心はできない。

私もかつて紹介し、江利川先生も最近のブログ記事で取り上げていた内田樹先生の『街場の教育論』は、「他の専門家とコラボレートできること。それが専門家の定義です。」(92ページ)と定義しているが、この定義をせざるを得ない背景には、多くの「専門家」が自らの専門枠(蛸壺)から一歩も出ることができない現状があることは言うまでもないだろう。

ただそのような蛸壺的な専門家であることは、学界では確固たる地位を得ることができるし、権力者からも重用されることもある。

なにしろ自らの知について疑うことを知らないから、その知の適用も無制限に認める。知の枠組みを問い直す試みに対しては躊躇なく冷笑を加える術を身に着けているから、論争で表面上勝ったように見せかけることに強い。そして専門外の者が目を白黒させてしまうようなデータの山を生産することは得意中の得意である。その専門の事柄を推進しようとする権力者にとって、そのような専門家ほど重宝するものはない。「哲学を侮蔑することこそ専門家として出世する方法である!」

エンデは、近年の大学が一面的な専門家的思考ばかりを強調する背景に、資本主義経済のシステムへの過剰適応をみる。

今日の大学での科学者教育をよく観察すれば、はっきりとわかることだが、学生は最初から特定の目標をめざして訓練されているんだ。真理を探究しながら人間形成をする場という古典的な意味での「大学」(ウニウエルシタス)は、とっくの昔に消えてしまっている。今日の大学は、ただただ専門教育の場となってしまった。化学の学生も物理の学生も、まず最初にいちど、化学とはなにか、物理とはなにか、じっくりと考えたり、そもそも自分がやっていることはどういうことなのか、と自問したりはしない。それどころか学生は、はじめから、まったく一面的な専門家的思考というものをたたきこまれる。大学入学以前でも可能なかぎり、そう教育されている。よくわかるようにね。だって現代の経済は、システムの内側ではたらく人間を必要としているんだから。いま自分がやっていることを、じっくり考えるような人間なんて、邪魔なだけだ。(エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、72-73ページ)


もし大学がこのような有り様なのなら、そこでの「文学教育」にも楽観視はできない(文学系教員よ奮起せよ!)。しかし絶望するには及ばない。大学も究極において市民によって支えられている(財務省じゃないよ。税金を払っているのは市民だよ)。そもそもこのブログだって大学制度の外の営みだ。悲観傾向のある私のような人間にとって、絶望というスタンスを取ることは容易だけれど、絶望しなければならない必然性など私たちにはない。

しかし、現状に対して、根源的に考えなおし、私たちの暮らしを変えてゆくことは必要だ。根源的に考えることは、私たちの思考に「質」を復権させることも含んでいる。



■「質」を取り戻せ

例えば日本の英語教育研究では、いまだに質的研究がさまざまな偏見で阻害されていることはもうここでは繰り返さない。ここでは、その質の軽視・否定の裏側である量化礼賛の思考の背後に、やはり資本主義社会があるかもしれないという可能性について短く語っておこう。

実は、モイシェ・ポストン著、白井聡/野尻英一監訳(2012/1993)『時間・労働・支配 ― マルクス理論の新地平』筑摩書房の記事でも書いたのだけど、モノとモノの交換(あるいはサービスとサービスの交換)の場合、交換される二つのモノ・サービス(AとB)の質は異なる(たとえば子守りをしてもらう代わりに野菜をあげることを考えてほしい)。この交換は質的に異なるものの交換であり、ここでは質の違いを理解することは非常に重要である。交換は上の子守り仕事と野菜の交換のように一対一でうまく見つかればいいが、いつもそういうわけには行かないので、お金(M)を導入する。この A-M-B の交換で、お金は単なる道具にすぎない。

ところがここで資本家の投資という営みが発生する。資本家は自ら生産せず、自ら潤沢にもっているお金を何かに投資することを生業にする。資本家の交換は、 M-A-M である。

だがここで問題が生じる。A-M-B ならば、「Aとはまったく違うし、自分では手に入れられないBが得られたのだから、まあいいか」と交換のために使ったお金(M)の価格についてはそれほどまでにはこだわらなくてすむ。しかしM-A-Mの場合、左のMと右のMに質の違いはまったくない。お金(M)とは、量的な違いしかもたない媒体であり、この世のあらゆる異なる質をすべて価格に量化する魔法でもある。さらには野菜は腐ってもお金は朽ちることがない!

資本家としては右のMが左のMよりも多くなってもらわなければ困る。表記としては M-A-M' とでも表せるかもしれないが、とにかく資本家にとってはお金は増えてもらわなけばならない。お金が増えなければあらゆる手段を使っても増やそうとする。

だから資本家による投資に基づく資本主義社会にとって、成長は至上命題であり、否定することはできない。それどころか多くの借金を負っている日本のような国家の場合、「低成長」だって認められない。借金の利子以上の「成長」をしなければ借金はますます増え続ける。資本主義システムがいったん稼働してしまうと、それを止めること、スピードを落とすことはとても難しい(これは原子力発電やガンに似ている)。

こうなると多くの人が、お金のことばかり考え、すべての物事をお金のように考えるようになっても不思議はない。お金のように考えるとは、質の違いをすべて忘れ、すべてを量化して考えるということだった。質的研究を頑なに拒み、量的研究しか認めない人は、こういった資本主義社会の考えに影響されているとはいえないだろうか(もっとも、量的研究の専門家は鼻で笑うかもしれないが。だって彼・彼女らは「専門家」なのだから)。


私たちは「質」を取り戻さなければならない。「質」を軽侮し「量」こそは真実とする現代の教育学を批判しなければならない。エンデはこう言う。

質という概念を、ぼくはいまこんなふうに理解しているんだ。つまり、人間が世界にかんして最初にもつ根源的な体験である、とね。質は、いつもいちばん最初に体験される。質の体験はあらゆる思考に先行するものだ。量的思考は、ずっとあとになってから登場する。たとえばぼくが一本の樹をみるとしよう。そのときぼくは、量的なものを、まず最初に知覚するわけではない。ぼくが知覚するのはまさしく樹の質、樹の本質といったものだ。緑色であるとか、生きいきしているとか、樹の特徴となるような目印のすべてを知覚するわけだ。それらはみんな、ぼくが計測したり、計量したり、数えたりできない質であって、ともかく最初に体験しなければならない質なんだ。もちろんそれもまた、ぼくが最初に学び、練習し、教育されなくてはならないことだ。ギリシャ人や他の文化の人たちにはそれがわかっていた。教育の目標もそこに置かれていた。現代のぼくたちの公認の教育学では逆のことが行われている。まさしく科学信仰なんだ。今日の自然科学的世界像で正しいとみなされるのは、色盲の片目が知覚する世界だけであり、しかもそのなかでも、数学で表現できるものだけが正しくて、あとはみんな幻想にすぎないとされる。赤色や青色は現実には存在してなくて、ぼくたちの脳が主観的に生みだすものでしかないわけだ。(エンデ (1982/1997)『エンデ全集(15)オリーブの森で語りあう―ファンタジー・文化・政治』、42-43ページ)


「質」が私たちの根源的な体験であるとは、「質」が私たちの身体でまずは感じられるもの(だからこそ心に立ち現れてくるもの)と私は解釈する。1/12の大津先生シンポジウムではこのあたりも語ってみたいと思っている。(時間があればの話ではあるが)。



■花を植え、音楽を奏でるという暮らしの中の小さな革命

私たちの暮らしに質を取り戻そう(Quality of Life!)。芸術を愛し、文学を感じよう。人間には経済成長以外にもやることはあることを思い出そう。

人生そのものである、私たちの時間も量化し(Time is moneyは近代の真理とされてしまった)、あなたの時間が生産する貨幣への交換価値だけであなたを評価する「灰色の男」にNoを言おう。たしかに資本主義社会を止めることはできない。でもそれを手懐けることはできるはずだ。それが暴走するのを止めることはできるはずだ(というより止めなくてはならない)。人間が自ら作り出したものの奴隷になる悲劇について、古今東西の神話・寓話は語り続けてきた。今こそ、その警告を思い出そう。

何をしよう?モーツァルトを聞くことはいかが?花を植えてはいかが?

「何の価値があるんだ」ですって? 存在ですよ。存在の価値があるんです。

モーツァルトの音楽によっても世界は、私にとって、ちがった世界になったのです。どこかでなにか作品がうまくできれば、音楽でも、絵でも、いや、小さな詩でもいいのですが、いい作品が生まれれば、その作品が存在するというだけで、世界は変革されるのです。というわけでこのことは私にとって、とてともなく重要なことなのです。たんに美的な意味においてではなく、それによって人類の精神の状況が別のものになる、という理由においても。これはきわめて重要なことだと、考えています。私にとっては、とてつもなく重要なことなんです。木を植えて森をつくるのとおなじくらいに。(エンデ (1989/1996) 『エンデ全集 (16) 芸術と政治をめぐる対話』、167ページ)


特になにもせずとも、存在しているだけで喜びを感じることが私たちにはできることを思い出そう(みんな子どものときはそうだった)。もちろんあなたは、もう子どもではないかもしれない(少なくとも身体の上では)。しかし私たちには文化がある。暮らしを楽しむ文化がある(芸術はその一つだ)。

暮らしを楽しもう。暮らしの質感を大切にしよう。量(とりわけ金銭)だけで私たちの人生を語ることは止めよう。そうやって私たちは資本主義にほころびを入れることができる(これが20世紀の悲劇によって少しだけ賢くなった私たちにとっての「革命」だ。暮らしの中の小さな革命。私たちに力はある。絶望する必要はない。













11 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

英語を質的に考えてみました。
例えば書類があります。書類という名詞は対象の中の
持続的な現れを取り出したもの。例えば書類が落ちたり燃えたりしても、書類は書類です。次は動詞。動詞は動きで、この持続的なものに差異を与える別の質。副詞は動きにさらに別の質的な差異を与える。紙が燃えると言っても、湿気た紙と乾燥した紙では燃え方が違います。メラメラ燃えるのか、弱く燃えるのか、など。タイピングの腕の動かし方も人により差異のある副詞内容です。また、文章を囲む色や文章の色は書類の現れに差異を出します。文章自体が過去分詞的な形容詞です。過去分詞は事態が過ぎ去った後の現れ、現在分詞は事態が起こりつつある現れだと考えてみる。すると、書かれた書類の文章は名詞に差異を与える現れ。

質的に品詞を考えてみました。

匿名 さんのコメント...

続き。単語が持続性を持っています。意味は空間的だけでなく時間の持続的な広がりを持つと考えます。単語は人々の間で共有されています。それが可能なのは、我々の視覚や聴覚、音声器官がそれぞれ差異がありながら我々が人類だからです。だから、ドレミや和音、子音という共通の、いわば名詞的なものがあり、音色といった形容詞的なもの、それから一つの音を発したら、波のように広がりながらも、周囲の人たちが共通の単語を聞くことができるという、音声の運搬という動きがあると思います。ありがとうございました。

柳瀬陽介 さんのコメント...

匿名さん、二つの素敵な投稿をありがとうございました。これからもよろしくお願いします。柳瀬陽介

匿名 さんのコメント...

続き
名詞とは知覚対象そのものを取り出したもの。つまり対象の普遍性。動詞とは対象の動き、つまり対象の特殊性。この特殊は普遍の中にある。名詞の中に動詞がある。形容詞は普遍性の特殊性で、形容詞副詞は形容詞の特殊性、つまり名詞の個別性 動詞副詞は動詞の特殊性、つまり名詞の個別性。だから名詞の中には形容詞と動詞という二つの特殊があり、それぞれの個別性として副詞がある。と考えてみる。文法にするとどうなるでしょうね。

匿名 さんのコメント...

さらに続きです。さて名詞は普遍性であり、これの特殊として動詞と形容詞があり、これの個別性として動詞副詞と形容詞副詞があるのだった。
それぞれの名詞、例えば扇風機と肉体という二つのものは、さらに物という普遍性の中にある。物は霊の凝縮したものであるとするならば物は霊であり、霊的世界の中の物質世界として位置づけられる。つまり霊の中に物があり、物の中に名詞がある。
この品詞の統一的な認識は世界にヘーゲルの言う概念が内在している、世界に精神的なものが内在している、と思わせる。品詞の認識は知覚構造を抽象化したものかもしれず、つまり外界に精神的な概念が内在しているのだ、と思わせる

匿名 さんのコメント...

続き 人智学という超感覚的な認識を土台に生成された認識によると言語は物質の本質を模倣したものらしいです。

私は言語を直観的に把握できたらよいと思っています。言語は世界から作られた作品だと思っています。上の記述はある名詞内部だけのものですが、この名詞は時空の中にあります。目的語や補語はある名詞の特殊性が環境と関係を持つと見られた場合に、環境の側に属するもので、名詞という普遍性の中にある特殊性である動詞に対する個別性と考えられる。それは動詞に支配されていて、動詞の変化に応じて、つまり体の変化に応じてその個別性も変化するという点で動詞の働きにとっての個別性。前置詞は環境の中にある普遍者という視点で作られていて動きを副詞とは違うやり方で特殊化する、などと考えますまだ不完全ですが。前置詞などの文法の要素、つまりたぶん世界に内在するものが直観的にわかれば、あとは文法構造も世界に内在しているのかどうかを試して見たいと思っています。まだそれができる段階ではないですが。






匿名 さんのコメント...

続きです。
主語は普遍、述語は特殊、目的語は個別とします。そして対象に名詞形容詞動詞副詞が内在しています。それらは名詞を普遍として統一されています。つまり対象の中に文が内在していると考えることができます。この統一には二種類あります。名詞形容詞副詞という統一に、名詞動詞副詞という統一です。名詞が普遍的なものなので、この統一関係を並べようとすれば副詞形容詞名詞動詞副詞となるのかもしれません。
これは形容詞副詞から出発して名詞を通り動詞の副詞に至るという一本道です。これの他に、形容詞副詞と動詞副詞、二つの始まりから名詞に至るというやり方もあると思います。これが副詞形容詞名詞副詞動詞名詞ですが、最後の名詞はわかるために削除されたと考える。主語述語目的語は統一の中で普遍から個別へ至る道であり、主語目的語述語は主語目的語述語主語の省略形

匿名 さんのコメント...

概念の説明。人がいる。人は姿勢を変えることで様々な行為をなす。この姿勢それぞれが違っても、同じ人だとわかる。また、火や水、人などがそれぞれ同じ種類に属するとわかるがそれぞれが違うこともわかる。概念は動物に含まれるものに兎や亀がありそれぞれが違うものでありながら、同じものに属しており、それらが動物だとわかる。一つ一つ感性的には違う三角形も、同じ三角形だとわかる。つまり普遍的なものを直観的に理解している。
数学にも概念を見出せると思う。それは同じものの別々の表現として概念は現れている。1+2=1+1+1は普遍の面では同じものであるが、表現の面では違うものである。連続という概念があるけど、それはコップとドーナツが同じだと見るようなもので、これも普遍的なものは同じだが表現が違う。量は同じ量として普遍だが、表現されたものとしては特殊であるという概念。
概念が自然に属するという立場なので、言葉が神であるという宗教は直観的に理解して信じられるように思う。

匿名 さんのコメント...

続き
数学の教養はないです。
箱をAと呼びBとも呼ぶと、A=Bかもしれませんが表現が違います。A領域とB領域は同じ領域であるが、それは同じ領域内部で表現形態を変容させることができるのだと捉えます。表現形態の違いも内容の一部だと捉えます。1+1+1=2+1は同じ領域内部で、自分を三つの分肢に分けた形態と二つに分けたもの、と考えることができると思います。ここに量の質があるのかもしれません。どのような表現にするかというところに美が隠れているかもしれない。

匿名 さんのコメント...

続きです。概念的なものが世界に存在していることの意味は、動物などの抽象的な言葉は現実から取られたもの、ということです。従って言葉は単なる抽象ではありません。言葉は現実の概念的、本質的なものを世界から取り出したものです。
つまり世界の本質は外の世界に求める必要がないのです。世界の中に動き回る具体的な知覚内容を思考が概念と結びつけます。この時、思考は普遍であり、知覚内容は個別です。現実は思考と知覚内容の統一です。概念存在を認めた思考を基盤にした科学は知覚内容の単なる記述ではなく、理念や概念を用いて記述するでしょう。
このいわば、地上を記述するのは彼岸を考慮する必要がないとする思考は、ヘーゲル、ゲーテ、シュタイナーに見られます。ヘーゲルは概念存在を発見しました。ゲーテは植物の中に原現象を発見しました。

匿名 さんのコメント...

話は脱線しますが、自由と社会と自然について考えました。自由とは束縛がないことだとシュタイナーの自由の哲学から読み取ります。だから自由な人は善を強制されないで、善を欲する、という面があります。つまり社会の規定と自分を一致させることで自由になるのでしょう。社会三層論についても、社会と人間を一致させることで、人間を生かしかつ自由にしていると考えます。しかし社会は自然とも関わっています。西洋は自然を克服支配しようとします。東洋はたぶん自然と調和しようとする。そのためには自然を分析して自然のアナロジーを社会に埋め込み、社会と自然を一致させることで、人間は自然からも社会からも自由になるという考えです。まだ抽象論ですけど