2012年12月31日月曜日

1/12大津由紀雄先生中締め講義(言語教育編)での発表資料掲載、および大津先生へのメッセージ




■発表(投影)資料の公開

1/12(土)に慶應義塾大学で開催される「大津由紀雄慶応義塾大学教授 中締め講義 ―言語教育編―」(詳細は http://oyukio.blogspot.jp/2012/12/blog-post.html)で、私は指定討論者の一人となる身に余る光栄を受けました。その際の発表資料(投映用と配布用)をようやく準備できましたので、このブログでも公開します(当日までに、細かな追加をさらに加えるかもしれませんが、大筋はこの版と同じものとなります)。ご興味ある方はダウンロードしてください。



大津言語教育論を斬る

「大津言語教育論における身体性について」


 投映資料
https://www.box.com/s/3ogllw3mdpogu9es8ie9

配布資料
https://www.box.com/s/j4bvj79kpks751gyhmb0






私の発表は、「大津言語教育論における身体性について」と題することにしました。主な論点は次の5つです。

1 「ことばへの気づき」概念の分析不足
2 Embodiment 概念の不全 
3 ことばの情感(情動と感情)の軽視
4 形式重視の近代言語学の限界
5 文法用語の統一が優先課題では


詳しくは資料をダウンロードしてご検討いただきたいのですが、ここで概略を述べることにします。

「1 「ことばへの気づき」概念の分析不足」では、大津言語教育論の中心概念の一つである「ことばへの気づき」概念は、さらに下位分析することが可能であることを、ダマシオの神経科学(神経哲学)用語を援用することにより示します。

「2 Embodiment 概念の不全」では、上記の下位分析は単なる用語の新設のためだけでなく、大津言語教育論に不足していると考えられる"embodiment"概念を強調するためであることを論じます。"Embodiment"概念については、通常は「身体化」と訳されていますが、私はレイコフとジョンソンの記事(下記参照)では「身体的形成」と訳しました。心といった通常は抽象的・機能的にのみ考えられがちなものが、実は身体に即して形成されていることを示すのがこの"embodiment"という用語だと私は考えていますので、私はこの語は「即身的形成」と訳した方がいいのかなとも思い始めました。まあ、訳語はともあれ、この"embodiment"概念について当日はできるだけわかりやすく語りますが、発表時間は限られていますので、ご参加予定の方は上記のダウンロード資料だけでなく、下記の関連記事もご一読願えれば幸いです。(今回は、私の悪癖である早口をできるだけ抑える予定です 笑)。

「3 ことばの情感(情動と感情)の軽視」では、"embodiment"概念をさらに展開し、近代言語学では周縁的・例外的事例としかみなされない擬態語などを考えることが、ことばについて考えなおすことにつながるのではないか(しかし大津言語教育論では擬態語などの現象を扱いにくいのではないか)ということを論じます。その中で、竹内敏晴、野口三千三、内田樹の論について言及し、宮沢賢治についても語ります。

「4 形式重視の近代言語学の限界」では、こういったことばの「身体性」を、その枠組を基本的に近代言語学においている大津言語教育論は、その性質上扱いにくいのではないかと主張します。時間がないので、ここの論証はきわめて短いものとなります。

「5 文法用語の統一が優先課題では」においては、上記の4の主張に基づき、大津言語教育論の優先課題としては、大津言語教育論が(身体論よりも)得意とする文法の分野で、学習文法用語の統一を選ぶべきではないかと提言します。ご承知のように、国語教育・日本語教育・英語教育の文法用語は統一されておらず、この不整合ゆえに統合的な「ことばの教育」が困難になっているのではないかと私は考えているからです。またこの提言の背後には、大津先生の余人を持って代えがたい学界・社会でのリーダーシップへの大きな期待があります。

上記ダウンロード資料から、仮にもっとも重要なスライドを3枚選ぶとすれば次の3つになるかと思います。(クリックすればスライドが拡大します)













繰り返しで恐縮ですが、ご興味をいだかれましたら、ぜひ資料をダウンロードしてください。





■大津先生への退職記念メッセージ

ようやくこの資料が準備できましたので、http://oyukio.blogspot.jp/2012/12/blog-post_2.htmlで受付されている大津先生へのメッセージも書くことができました。これからメッセージを投稿しますが、上記の発表とも関連していますので、ここにもその私のメッセージを掲載することにします。



大津先生、

ようやく先生の「中締め講義(言語教育編)」のためのスライドを完成させることができたので、遅ればせながらメッセージをお送りさせていただきます。

思えば先生と私の最初の出会いは、先生が私の旧ホームページ掲示板に、私のホームページ記事での生成文法などに関する私の錯誤・誤解を丁寧に指摘する投稿してくださったことから始まりました。それは1998年で、私はまだ広島修道大学で勤務していました。その当時私は先生の名前こそ存じていましたが、一度もお会いしたこともなかったので、「こんなどこの馬の骨ともしれない私の掲示板に、わざわざ有名大学の教授が丁寧にコメントを書くなんて・・・」と驚いていました。

その印象が強く、私はぜひ一度この先生に直接お会いしたいと思っていたところに、1998年4月25日の名古屋での英語教育達人セミナーで大津先生がお話をなされるとの情報を得て、思い切って出かけることにしました。

「どんな人かなぁ」とややドキドキしていた私の前に現れた大津先生は、今も変わらぬ穏やかな笑顔をたたえた紳士でしたが、私の眼をひいたのは先生のネクタイでした。なんとスヌーピーのネクタイ!私がそれについて言及すると、確か先生は「いやぁ、雰囲気を和らげようと思って」などとお答えになったかと記憶しています。私は単純な人間ですので、この出会いだけで「あっ、この人は信頼できる」と直観しました。その直観が正しかったという確信はその後ますます強くなるばかりです。

達人セミナーの先生の発表の後、私は質問をしました。先生は私の質問を「筋違い」と排除することなく、「あなたの仰る○○とはどんな意味ですか」、「その議論から、△△という結論を導き出すところが納得できないんですけど」と丁寧に私の論旨を検討されました。

私は私なりにできるだけ明確に私の用語の定義を述べ、論証の根拠を示しましたが、同時に私は先生の議論のマナーにとても驚いていました。

と言いますのも、その当時の私の周りの英語教育界では、自らの領域以外からの議論を一切受け付けないような研究者が多かったからです。同好の士からの細かな質問は受け付けるが、少しでも前提や背景を異にする者からの問題提起に対しては、慇懃無礼に議論を拒んだり、「アブラカタブラ」としか聞こえないようなことばを連ねた後に作為的な笑顔で「ご理解いただけましたでしょうか」とごまかす人が多かったからです。少なくとも私が知っていたその当時の英語教育界には、開かれた知性をもった人がほとんどいませんでした(今はどうなんでしょう)。

いや、それどころか、当時は学閥的な考えが強く、大学の系列や、学会の所属が異なっていると、なんだかあまり話をしてはいけないような雰囲気があったように私は記憶しています。年がら年中顔を合わせて、懇親会になると真っ先にビールを注ぎにくるようになって、初めて「うい奴」と認められるけれど、話の中に学術的な議論を出すととたんに鼻白まれてしまうような空気を私は感じていました(もっとも、今よりも性格が歪んでいた頃の私の記憶ですから、実情がどうであったのかは定かでありません)。

ところが私の目の前の、スヌーピーのネクタイをつけた人は、私の素性などに一切構わず、私の論点に集中して話してくれるのです。しかもきわめて穏やかに、理性的に。私の驚きはすぐさま大きな深い喜びに変わりました。議論の後、ある見知らぬ参加者の方が「ひさしぶりに大学の先生らしい議論を聞きました」と私にわざわざ語りかけてくれましたから、大津先生が誘導してくれた対話が、聴衆にもきわめてよい印象を与えていたのは間違いないと思います。

その後、社交性に乏しい私の無精にもかかわらず、大津先生は私にも時折声をかけてくださいまして、大津先生のシンポジウムにも登壇させていただいたり、編著にも執筆の機会を与えてくださいました。私を含めた多くの者にとって、大津先生に声をかけていただき、機会を与えていただくことが、どれほどに光栄なことかを大津先生は想像できますでしょうか。

ここで私はジャズのマイルス・デイヴィスのことを思い出します。まだ人種差別が強かった時代に、彼は自分のバンドに白人プレイヤーを入れました。「黒人バンドに白人を入れるな」という黒人仲間からの非難に、マイルスは「眼が赤かろうが、肌が緑色だろうが、あいつよりもうまいプレーヤーを見つけてこい。そうすれば俺はそいつを入れる。いなければ俺はあいつを入れる」と語ったと言われています(この話も含めてマイルスのエピソードに関して、私は今記憶だけを頼りに書いていますので、細部は異なるかもしれませんが、大筋は間違っていないはずです)。

これに限らず、マイルスは、若手プレーヤーの演奏に常に注目しており、これはと思うプレーヤーがいたらいきなり自分と一緒に演奏をしないかと声をかけていたそうです。ケイ赤城は確かいきなり電話でマイルスに呼ばれスタジオに行き、演奏しろと言われたそうです。ケイが最初はマイルスが好きそうなプレイをしたところ、マイルスは嫌そうな顔をしたので、それならばと思い、その当時自分が一番やりたかったプレイを思い切ってやったところ、マイルスは満面の笑みを浮かべたとも言います。

このようにマイルスが発掘し、共演することで大きく育ったプレイヤーは数多く、それらのプレーヤーは「マイルス・スクールの卒業生」とも呼ばれるようになりました。マイルス・スクールの卒業生抜きのジャズなんて考えられないし、考えたくもない程にマイルスは若手プレーヤーにそしてジャズ界さらには音楽界一般に多大な影響を与えました。またマイルスは「卒業生」を決して囲い込むことなく、彼らに自由に音楽をさせました。それは彼こそが音楽の自由を欲していたからかもしれません。

マイルスをクラシックでたとえますと、ハイドンが一身一生で、ベートーベン、シューベルトに変身し、さらにはワーグナー、ひいてはドビュッシーになってしまったぐらいの進化をマイルスは遂げました(わかりにくい比喩でごめんなさい)。この進化の重要な要因は、マイルスが絶えず優れた音楽を求め、そのためには人種が違おうが、年下だろうが、誰からでも優れた音楽の可能性を発掘したことにあると思います。

若手に注目するという点では、最近の日本のお笑い界ではビートたけしがそのような役割を担っているようにも思えます。しかしビートたけしは「あんちゃん、なかなか面白いね」と言って若手を鼓舞することはあっても、彼自ら新しい笑いを開拓する姿勢は残念ながら示していません。ここがマイルスとの決定的な違いです。
マイルスは生涯にわたって創造者でした。若手とのプレイも、それは若手の将来のためというより、自分のためでした(マイルスは「共演」というより「競演」していたのでしょう)。だからこそ若手もマイルスをリスペクトし、聴衆も常にマイルスに驚嘆し続けてきたのです。だからこそ死後も彼の音楽は古びません。マイルスは何よりも音楽家でした。貪欲なほどに創造的な。

ここでマイルスのイメージを私は大津先生に重ねます。大津先生は何よりも研究者です。もちろん若手、いやそれどころか学界、さらには小学校教育といった学界を超えた社会的な動きでのリーダーでもあります。さらには都はるみを好むカラオケおじさんでもあります(笑)。しかし根幹のところで、大津先生は研究者です(貪欲なほどに創造的な)。これからもそうあり続けてようとしています。だからこそ私も、多くの人も、大津先生を尊敬し、愛しているのです。

だって、「最終講義」なんて、90分間適当に回顧談をするぐらいでお茶を濁すのが普通でしょう!(笑)

それを「中締め講義」と呼び、さらには「認知科学編」と「言語教育編」の二回に分け、合計14時間(!)でもって自らの研究を総括し、かつその中で指定討論者に自らの批判をさせ、さらに自分の研究を発展させようとしているんですから。こんな知的体力と気力の持ち主、少なくとも私は聞いたことがありません。

というわけで言語教育編の指定討論者の一人として選ばれるという身に余る光栄を得た私としては、ガチで大津先生を「斬る」ことを試みます。それが若手(といっても既に私は結構おっさんですが)としての敬意の示し方だからです。私も以前に比べたら、不必要な尖り方はしなくなりましたが、それでも当日は、「一般常識」(とくに英語教育界のそれ)からすれば無礼に思えるような論争もしかけるかもしれません。しかし根底にあるのは、大津先生の学識、創造性、そして人間性に対する徹底的な信頼です。当日はどうぞよろしくお願いします。

実は私はこの文章を書きながら、私が最も好きなジャズバンドの一つである、アコースティック最後の時代のマイルス・バンドのライブ演奏CDを聞いていました。ハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムス、ウェイン・ショーターと共演(競演)していた、マイルス自身「偉大なバンド」と呼んだバンドの演奏です。自意識過剰をお笑いください。私は自分をウェイン・ショーターになぞらえようとしています(自らの実力を客観視できない中高年というのは滑稽ですね)。でも、そのように自分を鼓舞しないと、「大津言語教育論を斬る」ことを試みることはできません。マイルスがこれまでにプレイしたことがないような音楽をプレイしてマイルスに挑んだウェインのように、当日は大津先生に挑みます。

当日がいいライブになればと願っております。

2012/12/31 柳瀬陽介




大津言語教育論を批判することにより、英語教育論ひいては言語教育論が発展することを私も願っています。多くの皆さまが参加してくださればと思っています。





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