ここではマーク・ジョンソン著、菅野盾樹、中村雅之訳(1991)『心の中の身体』(紀伊国屋書店)およびその原著であるMark Johnson (1987) The Body in the mind. (The University of Chicago Press)を私なりにまとめます。翻訳は大いに参考にさせていただきましたが、下に翻訳を示しているのは拙訳です。信頼できる翻訳については『心の中の身体』をご参照下さい。
1 はじめに
この本はもちろんMetaphors we live by.やWomen, fire and dangerous thingsの流れで読まれるべきですが、この本の特徴は、著者のジョンソンが、認知言語学・認知意味論が、いかに「客観主義」(Objectivism)を超克し、ヨーロッパの現象学と通底する問題機構を明らかにし、さらにカントの哲学を批判的に再生させて想像力(imagination)の理論を認知科学として打ち立てようとしているか、を示した書であるとまとめられるかもしれません。
そうやってまとめると「なんだ哲学者の与太話か」と短絡される方もいらっしゃるかもしれませんが、これは近代的な西洋学問に影響を受けた者・受けすぎた者への解毒剤としても読める本かと思います。「優秀な学生」というのは、しばしば、大学や大学院で金科玉条のように教え込まれた考え方を、奇異とも窮屈とも思う間もなく獲得しますが、その考え方の特異性について反省することを不得意にします(時に端的に憎悪します)。ですが、一つの教条に縛られていては、教育などという複合的な現実に対応できません。大学・大学院時代にならった考え方を捨て去るためではなく、相対化し超克し現実的に活用するため、そして何よりも新しい考え方を身につけるためにこの本を読めばいいのではないかと私は考えます(まだ「客観主義」を学んでいない学部生は予めのワクチンとしてこの本を読めるのではないでしょうか)。
1.1 客観主義
それではその超克されるべき「客観主義」(Objectivism)とは何でしょう。「そもそも『客観主義』とは科学の不動の前提であり、それを批判するというのは悪しき相対主義者の蛮行ではないか」と思われる方もいるかもしれません。ここで私なりに整理しておきますと、次のようになります。
・客観主義(Objectivism)とは、意味や合理性に関するヨーロッパ近代(特に19世紀以降)に特徴的な、客観主義者的な意味理論 (the Objectivist Theory of Meaning) や客観主義者的な合理性観 (the Objectivist View of Rationality) などに影響を受けた一つの認識論・哲学に過ぎず、それを不動・不問の前提とすることはできない。
・非-客観主義者(non-Objectivist) は、人間の身体および人間がすむ世界の客観性(客体性・対象性)(objectivity)を重視した理論を展開する。この理論は、客観主義のように人間にとって不可能な神の視点 (God's perspective) を要請することなく、人間にとって公的(public)に共有できる客観性を理論の基盤としている。したがって非-客観主義者は「なんでもあり」の相対主義者ではない。むしろ、非-客観主義者の方がことばの適切な意味において「客観主義者」よりも、「客観的」(objective)である。
かくしてジョンソンは非-客観主義者としての、新しい「客観的」な認知理論を展開します。ジョンソンが批判する「客観主義」の見解を今一度確認するために、下に客観主義者的な意味理論と客観主義者的な合理性観の骨子を抜粋引用します。
THE OBJECTIVIST THEORY OF MEANING
1 意味とは、記号による表象(ことば、もしくは心的表象)と、(人間の心とは独立しているという意味で)客観的な実在との間の抽象的な関係である。
1. Meaning is an abstract relation between symbolic representations (either words or mental representations) and objective (i.e., mind-independent) reality.
2. 概念とは、一般的な心的表象(カント)、もしくは論理的存在物(フレーゲ)であると理解されている。
2. Concepts are understood as general mental representations (Kant) or as logical entities (Frege).
3. 概念は、例えばイメージがそれを経験するある特定の心との結びつきをもっているようには、特定の心と結びついておらず、その意味で「脱身体化」している。
3. Concepts are "disembodied" in the sense that they are not tied to the particular mind that experiences them in the way that, say, images are.
4. 意味の理論の課題とは、ナンセンスではない記号の連なりの有意味性を説明することである。
4. The task of a theory of meaning is to be able to explain the meaningfulness of any string of symbols that is not nonsense.
5. 意味の分析はそれがいかなるものであれ、究極的には字義通りの概念によってなされなければならない。最終的な分析において、それ以上の還元が不可能な隠喩的あるいは比喩的概念が残っていてはいけない。
5. Any analysis of meaning must be given ultimately in terms of literal concepts. There can be no irreducibly metaphorical or figurative concepts in the final analysis.
6. 客観主義者の意味論は、「神の目」の視点が存在するという認識論上の主張と整合的であるだけでなく、積極的にその主張をしていることを自覚することが重要である。この視点は、あらゆる人間の限界を超越し、普遍的に妥当な反省的立場を構成する。
6. It is important to notice that the Objectivist theory of meaning is compatible with, and supports, the epistemological claim that there exists a "God's-Eye" point of view, that is, a perspective that transcends all human limitation and constitutes a universally valid reflective stance.
(xxii-xxiii)
この意味理論に重なるようにして教条化されているのが、客観主義者的な合理性観です。
THE OBJECTIVIST VIEW OF RATIONALITY
1. 推論とは、規則にしたがって記号結合を操作することである。
1. Reasoning is a rule-governed manipulation of connections among symbols.
2. 合理性の中核は形式論理である。
2. The core of rationality is formal logic.
3. 客観主義者的な意味観と同様に、合理性はここでも本質的に脱身体化されたものである。合理性は、推論を行う人間の心の主観的過程とは独立した、まったく抽象的で論理的な関係と操作から構成されている。
3. As with the Objectivist view of meaning, so here, too, rationality is essentially diembodied; it consists of pure abstract logical relations and operations independent of subjective processes in the reasoner's mind.
4. 客観主義者による意味の説明と同じく、超越的合理性の観念も神の目の視点から知識を説明する認識論を支持している。
4. The idea of transcendent rationality also supports a God's-Eye-View account of knowledge, parallel to the version reinforced by the Objectivist account of meaning.
(xxiv-xxv)
ジョンソンはこうした客観主義的な意味観(そして合理性観)を批判し乗り越えようとします。
私が狙っているのは、語と文だけが意味をもち、かつ意味とは伝統的な意味で命題的なものでなければならないという想定を疑問視することである。確かに、言語的な意味が人間の志向性を精緻化すること、またその精緻化は命題と発語行為の複合的な構造がなければ不可能であるということに疑いはない。しかし、そうだからといって、すべての意味が命題的な性質しかもっていないということにはならない。
My strategy is to question the assumption that only words and sentences have meanings and that all of these meanings must be propositional in the traditional sense. There can be no doubt that linguistic meaning give rise to elaborations of human intentionality that would no be possible without the complex structure of propositions and speech acts; it does not follow from this, however, that all meaning is merely propositional in nature. (p. 2)
これらの「客観主義的」な哲学を批判する、ジョンソンの哲学は、「記述的もしくは実証的現象学 (descriptive or empirical phenomenology)とも呼べますが、かといってこれはヨーロッパの現象学伝統をそのまま受け継ぐものでもありません(xxxvii) 。ジョンソンは、記述性および実証性を重視しているからです。
1.2 想像力
ジョンソンの身体的な意味論・認識論・哲学においては想像力(imagination)が重要な働きを担っています。ジョンソンの「想像力」とは、後にも述べますが、カントの"Einbildungskraft"を基にした概念です(なお、カントの"Einbildungskraft"は「想像力」とも「構想力」とも訳されています。また言うまでもなく、英語で論考する場合"imagination"(想像力)と"image"(イメージ)は同根の語として考えられます)。序論の一節は、想像力の働きを含めた本論をうまく要約していますので、以下に拙訳と原文を示します。
この本で、私は[抽象的概念化や命題的判断よりも]より重要なやり方について解明するが、そのやり方では身体経験の構造が抽象的意味と推論パターンへと展開されてゆく。特に注意を払いたいのは想像力による構造化と投射である。というのもそれらは人間にとっての意味・理解・合理性に影響を与えているからである。最初に議論で示すのは、人間の身体運動・対象操作・知覚的相互作用には再帰的に繰り返されるパターンがあり、それなしでは私たちの経験は混沌として把握不可能になってしまうということである。これらのパターンは主にイメージの抽象的構造として機能するので、私はこれらのパターンを「イメージ図式」と呼ぶことにする。イメージ図式はゲシュタルト構造であり、構造を構成する各部分は相互に関係し合い、統合的な全体へと組織化されているが、この全体により私たちの経験に認識可能な秩序が出現するわけである。この秩序を把握しそれについて推論しようとする時に、上記の身体に基盤をおいた図式は中心的な役割を果たす。というのも、たとえあるイメージ図式がまず身体的相互作用の構造として創発するにせよ、イメージ図式は比喩的に発展し構造として拡張され、それによって意味が認知のより抽象的なレベルで組織化されるからである。この比喩的拡張と精緻化は典型的には、物理的な身体的相互作用の領域から、反省や前提からの推論といったいわゆる合理的な過程への、隠喩的投射という形を取る。しばしば抽象的意味や推論的過程として考えられているものは、実は私たちの身体的経験と問題解決から生じる図式に依拠しているのだということを私は示そうと思う。
In this book I am going to explore some of the more important ways in which structures of our bodily experience work their way up into abstract meanings and patterns of inference. Special attention is devoted to imaginative structuring and projection, as they affect human meaning, understanding, and rationality. My argument begins by showing that human bodily movement, manipulation of objects, and perceptual interactions involve recurring patterns without which our experience would be chaotic and incomprehensible. I call these patterns "image schemata," because they function primarily as abstract structures of images. They are gestalt structures, consisting of parts standing in relations and organized into unified wholes, by means of which our experience manifests discernible order. When we seek to comprehend this order and to reason about it, such bodily based schemata play a central role. For although a given image schema may emerge first as a structure of bodily interactions, it can be figuratively developed and extended as a structure around which meaning is organized at more abstract levels of cognition. This figurative extension and elaboration typically takes the form of metaphorical projection from the realm of physical bodily interactions onto so-called rational processes, such as reflection and the drawing of inferences from premises. I shall try to show that what are often thought of as abstract meanings and inferential patterns actually do depend on schemata derived from our bodily experience and problem-solving. (xix-xx)
かくして想像力の働きにおける、「イメージ図式」 (image schemata) と「隠喩的投射」 (metaphorical projection)の重要性が浮かび上がってきました。次の節ではそれらについてまとめます。
2 イメージ図式と隠喩的投射
2.1 イメージ図式
「図式」は"schemata/schema"の訳語ですが、この英語は現在の認知科学などではしばしば「スキーマ」と訳され、「概念ネットワークから活動のスクリプト、語りの構造、ひいては理論的枠組にいたる、一般的知識構造」として理解されていますが、ジョンソンはこの語をカント的な意味で使います(p. 19)。ジョンソン/カント的な意味での「イメージ図式」(image schema)とは「イメージの抽象的構造のように機能し、その働きによってこの再帰的に繰り返される同じ構造を出現させる広範囲の異なる経験を結びつける動的パターン」"a dynamic pattern that functions somewhat like the abstract structure of an image, and thereby connects up a vast range of different experiences that manifest this same recurring structure." (p. 2)です。
このイメージ図式に基づく意味観により、命題的な意味観の限定性が批判的に超克されます。命題的意味とは限定的で派生的なものに過ぎません。
私は発話の概念的・命題的内容について語ることについてやぶさかではないが、しかしそれはこの命題的内容は、私たちの身体的経験から創発する非命題的図式構造の複合的な網の目の働きによってのみ可能になっているということを私たちが自覚している限りにおいてである。意味を一度このように従来よりも広く豊かに理解するなら、合理性の構造も、私たちの環境内そして環境との物理的相互作用とはまったく独立に考えられた抽象的論理パターンのどんな集合よりも、はるかに豊かなものであることが明白になるだろう。このスキーマ図式の非命題的な構造は、ゲシュタルト構造をもっており、それにより定常性・一貫性・把握可能性が生まれてきます。非命題的だからといってでたらめというわけではありません。
I am perfectly happy with the talk of the conceptual/propositional content of an utterance, but only insofar as we are aware that this propositional content is possible only by virtue of a complex web of nonpropositional schematic structures that emerge from our bodily experience. Once meaning is understood in this broader, enriched manner, it will become evident that the structure of rationality is much richer than any set of abstract logical patterns completely independent of the patterns of our physical interactions in and with our environment. (p. 5)
これ [=イメージ図式] を同定可能なイメージ図式ゲシュタルトにしているのは、繰り返し生じるパターンである。パターンが繰り返されることにより、私たちの経験と理解の定常性・一貫性・把握可能性が高まる。ゲシュタルトが「経験的な基盤」であると言うことは、そうなると、ゲシュタルトが環境内で行動する生命体にとっての組織化された統合性の再帰的レベルを構成すると言うことになる。私が使っている意味でのゲシュタルトとは、分析不可能な所与もしくは原子構造というわけではない。ゲシュタルトには部分や次元がある以上、ゲシュタルトを「分析」することはできる。しかしそのような還元を試みるなら、そもそもゲシュタルト構造を重要なものとしている統合(有意味な組織化)を破壊してしまうだろう。
What makes this an identifiable image-schematic gestalt is its repeatable pattern -- a pattern that can therefore contribute to the regularity, coherence, and comprehensibility of our experience and understanding. To say that a gestalt is "experientially basic," then, is to say that it constitutes a recurring level of organized unity for an organism acting in its environment. Gestalts, in the sense I am using the term, are not unanalyzable givens or atomistic structures. They can be "analyzed" since they have parts and dimensions. But, any such attempted reduction will destroy the unity (the meaningful organization) that made the structure significant in the first place. (p. 62)
身体化されたイメージ図式の特徴がだんだんとわかってきました。イメージ図式は客観主義者が想定するような命題ではありませんが、単なる個別のイメージではありません。イメージ図式は、命題構造と個別イメージの中間で作動するものです。
まとめるなら、イメージ図式は、一方に抽象的命題構造を、他方に個別の具体的なイメージを置いたときに、その間の心的組織化のレベルで作動するものである。
私が提案している見解は以下の通りである。私たちが把握できそれらについて推論することができる、有意味で互いに結びついた経験をするためには、私たちの行為・知覚・概念化にはパターンと秩序がなくてはならない。図式は、これらの進行する秩序形成活動の中で再帰的に繰り返されるパターン・形状・定常性である。(注1)これらのパターンは私たちにとって有意味な構造として創発するが、その創発は私たちの空間内の運動、対象物の操作、知覚的相互作用のレベルで生じる。
イメージ図式の動的性格を認識しておくことは重要である。私はイメージ図式を、私たちの経験と把握を「組織化する構造」として概念化している。
In sum, image schemata operate at a level of mental organization between abstract propositional structures, on the one side, and particular concrete images, on the other.
The view I am proposing is this: in order for us to to have meaningful, connected experiences that we can comprehend and reason about, there must be pattern and order to our actions, perceptions, and conceptions. A schema is a recurrent pattern, shape, and regularity in, or of, these ongoing ordering activities.. These patterns emerge as meaningful structures for us chiefly at the level of our bodily movements through space, our manipulation of objects, and our perceptual interactions.
It is important to recognize the dynamic character of image schemata. I conceive of them as structures for organizing our experience and comprehension. (p. 29)
2.2 隠喩的投射
以上説明してきたイメージ図式を通じて、私たちの身体的意味感覚 (bodily sense) (p. 87) は、より抽象的な領域へと隠喩的に投射されます。抽象的な意味は、身体的な意味感覚が隠喩として投射された形で理解されるというのがこの隠喩的投射 (metaphorical projection) の考え方です。原著87-96ページでは、私たちが身体で感じている平衡感覚 (balance) が、「体系のバランス」 (systemic balance)、「心のバランス」(psychological balance)、「合理的な議論のバランス 」(balance of rational argument)、「法律・道徳のバランス」 (legal/moral balance)、「数学的等式」 (mathematical equality) という抽象的領域に隠喩として投射されているさまを記述しています。
身体の意味感覚が、私たちの生態の性質上、再帰的に繰り返されるイメージ図式となり、その図式が隠喩としてさまざまな(より抽象的な)領域に投射されることにより、私たちは意味の理解を広げ、その図式的な意味理解に合理性を見出しているということになります。この人間の認知において、私たちはこれまで例えばロマン主義的過ぎるとして避けられてきた「想像力」の働きを見なおさなければならないとジョンソンは論じます。次の節ではその想像力についてまとめます。
3 想像力と合理性
これまで想像力はしばしば「ファンタジー」などとして理解され、合理性とは対極のものとすら考えられてきました。しかしジョンソンは想像力こそが私たちに人間にとっての合理性に不可欠であることを論じます。
3.1 想像力
「図式」と同じように、ジョンソンは基本的にカントに倣って想像力を次のように定義します。
想像力とは心的表象(特に知覚像、イメージ、イメージ図式)を有意味で一貫した統合体に組織化する活用力である。したがって想像力には新しい秩序を生み出す私たちの力も含まれている。
Imagination is our capacity to organize mental representations (especially percepts, images, and image schemata) into meaningful, coherent unities. It thus includes our ability to generate novel order. (p. 140)
さらにジョンソンは私たちの認知での想像力の働きを適切に考察することにより私たちは、mind/body, reason/imagination, science/imagination, science/art, cognition/emotion, fact/valueなどの西洋的二分法を克服できるとします(p. 140)。
加えてジョンソンは、カントによる想像力の四つの機能 ― (1)再生的 (reproductive)、(2)産出的 (productive)、(3)図式化 (schematizing)、(4)創造的 (creative)(注2)― に即して、想像力の働きをまとめます。
想像力には四つの関連する機能がある。再生的機能により、想像力は、私たちの経験がでたらめで混沌としたものとならないように、私たちに統合的な表象(例えば心的イメージや知覚像)を [実生活の活動に] 間に合うように与え、統合的で一貫した経験をある一定の時間に対して与える。想像力によって私たちは一連の知覚入力が結びついたものとして把握することができ、それにより私たちは時間を通じて存在する対象物を経験することができる。
There were four related functions of imagination. As reproductive, it gives us unified representations (such as mental images and percepts) in time, and unified, coherent experiences over time, so that our experience is not random and chaotic. It allows us to grasp a series of perceptual inputs as connected, so that we experience objects that persist through time. (p. 165)
産出的機能により想像力は、私たちの意識の時間を通じての統合を生み出す。私の意識は構造をもっており、私が自覚(意識)できるすべての経験をその構造に押し込む。何かが私の経験の対象になるためには、その何かは私の意識の性質によって作られたある一定の条件を充たさなければならない。[意識の統合を] 組織化するこれらの条件が想像力の構造である。
As productive it constitutes the unity of our consciousness through time. My consciousness has a structure that it imposes on all experiences that I can be aware (conscious) of. For something to be an object of my experience, it must satisfy certain conditions established by the nature of my consciousness. These conditions of organization are structures of imagination. (p. 165)
図式化機能により想像力は抽象的概念と感覚内容をつなぎ、私たちが感覚知覚で受容するものを概念化することを可能にする。この結びつきが可能になるのは、想像力が形式的でありかつ身体化されている(つまり感覚につながっている)からである。イメージイメージもそれなりの構造を作り出すが、想像力は豊かなイメージよりも抽象的な組織化構造である。しかし想像力は抽象的概念でも命題でもない。
As a schematizing function, imagination mediates between abstract concepts and the contents of sensation, making it possible for us to conceptualize what we receive through sense perception. Imagination can make this connection because it is both formal and embodied (i.e., tied to sensation). It is a more abstract organizing structure than rich images (it generates their structure), yet it is not an abstract concept or proposition. (p. 165)
最後に、創造的機能として、想像力は自由で規則に支配されていない活動であり、この働きにより私たちは経験において新しい構造を手に入れることができ、既存のパターンを作り変えて新しい意味を生成できる。この創造的な構造化は、記号提示および隠喩的投射によって生じる。この構造化は、意味・理解・言語の私たちのシステムすべてを通じて作動している。さらに、創造的想像力は、概念や規則で決定されない限りにおいて、非アルゴリズム的であり非命題的である。
Finally, as creative, imagination is a free, non-rule-governed activity by which we achieve new structure in our experience and can remold existing patterns to generate novel meaning. This creative structuring occurs as symbolic presentation and as metaphorical projection. It operates throughout our entire system of meaning, understanding, and language. Moreover, creative imagination is nonalgorithmic and nonpropositonal, insofar as it is not a process determined by concepts or rules.
3.2 合理性の諸側面
想像力を上のように理論的に理解すると、理解・意味・実在論・認識論・客観性といった、通常私たちが合理性と強く関連する諸側面も、私たちの身体が私たちの環境の中で行為する中で生じたイメージ図式が隠喩的投射されたことによって成立している部分を多くもつことがわかります。
3.2.1 理解
「客観主義」なら例えば言語理解を、「言語からの命題構築、命題からの推論、字義通りの命題と推論された命題の統合」のように考えるでしょうが、身体化された認知科学では理解を、私たちがいかにして世界に有意味に存在するかという問題としてとらえます。これはハイデガー『存在と時間』の「世界内存在」(In-der-Welt-sein, Being-in-the-world)に重なる考え方です。
ここで大切なのは、理解とは有限演算の命題を、予め存在し既に決定された経験に対して使う、反省ということにとどまらないということである。むしろ、理解とは私たちが「世界を有する」やり方、私たちが私たちの世界を把握可能な現実として経験するやり方である。そのような理解は、ゆえに、私たちの全存在にかかわる。つまりは、私たちの身体的活用力・技能、価値、気分や態度、あらゆる文化伝統、言語共同体との結びつき、美的感性などなどのすべてがかかわっているわけである。換言するならなら、理解とは、私たちの「世界内存在」のあり方に他ならない。理解とは、私たちが、身体的相互作用、文化的制度、言語的伝統、歴史的背景を通じて、いかに有意味に世界に位置づけられているかということである。これよりも抽象的な、理解の反省的行為(これには有限演算の命題を把握することが必要かもしれない)は、この「世界を有する」というより基礎的な意味での理解を単に延長したものにすぎない。
A crucial point here is that understanding is not only a matter of reflection, using finitary propositions, on some preexistent, already determinate experience. Rather, understanding is the way we "have a world," the way we experience our world as a comprehensible reality. Such understanding, therefore, involves our whole being -- our bodily capacities and skills, our values, our moods and attitudes, our entire cultural tradition, the way in which we are bound up with a linguistic community, our aesthetic sensibilities, and so forth. In short, our understanding is our mode of "being in the world." It is the way we are meaningfully situated in our world through our bodily interactions, our cultural institutions, our linguistic tradition, and our historical context. Our more abstract reflective acts of understanding (which may involve grasping of finitary propositions) are simply an extension of our understanding in this more basic sense of "having a world." (p. 102)
3.2.2 推論
推論 (reasoning)などは、客観主義的な前提(典型的には、身体論が登場する前の古典的な認知科学)では、まさに形式論理学的な命題の演算と考えられていましたが、私たちが実際の生活でおこなっている推論は、ただ命題的だけでなく、イメージ図式の隠喩的投射を伴う想像力に満ちたものです。ジョンソンは、セリエが、それまでのTHE BODY AS A MACHINEという隠喩に換えてTHE BODY AS HOMEOSTATIC ORGANISMという隠喩 (p. 129)を採択することにより推論を重ね、現代的なストレス理論を生み出し発展したさまを記述しています。
3.2.3 意味
ジョンソンは、非-客観主義者的な意味論、すなわち認知意味論(cognitive semantics)を次のようにまとめています。認知意味論は理解の理論でもある意味の理論です。意味の理論は、人間から切り離され脱身体化された抽象的な記号と命題の理論ではないわけです。私たち人間の身体そしてその身体が活動する世界に基づいた認知意味論の方が実は(ことばの適切な意味で)「客観的」(客体的・対象的, objective)であるとジョンソンは論じます。
非-客観主義者にとって、意味とは常に人間の理解に関する問題であり、理解により私たちがそこから意味感覚を見出す共通世界の経験が構成されるわけである。意味の理論は理解の理論である。そして理解には、命題だけでなく、イメージ図式と隠喩的投射がかかわっている。これらの身体化され想像力を伴う意味の構造はこれまでも、共有され、公的であり、ことばの適切な意味で「客観的」であることが示されてきた。
For the non-Objectivist, meaning is always a matter of human understanding, which constitutes our experience of a common world that we can make some sense of. A theory of meaning is a theory of understanding. And understanding involves image schemata and their metaphorical projections, as well as propositions. These embodied and imaginative structures of meaning have been shown to be shared, public, and "objective" in an appropriate sense of objectivity.
しかしこの身体的意味論を、英米の分析哲学は客観主義の影響から特に排除してきました。認知科学および認知科学に基づく考察を発展させようとするのならば、私たちはハイデガーやガダマーなどの大陸哲学を再評価するべきでしょう。いや、そのように高尚なことを言わずとも、「単語の意味」と言えば単語集の訳語だけを指すような授業と学習を繰り返している英語教師と英語学習者は、その極めて原始的な意味で客観主義的な意味論を批判し、より私たちの実感に近い身体論的な意味論を身につけるべきでしょう。
「世界内存在」あるいは「世界を有する」やり方と関連づける理解の観念をこのように定式化することにより、理解(および意味)の動的で相互作用的性格が明らかになる。意味をつかむのは、理解という出来事である。意味は、客観主義が信じるような単なる文と客観的実在との固定的な関係ではない。私たちが典型的に固定的意味とみなすものは、私たちの理解の中に再帰的なパターンとして創発する構造が堆積または固定したものであるにすぎない。理解とは出来事であり、この出来事の中で人間は世界を有する、あるいはもっと適切な言い方をするなら、人間が一連の関連する意味の出来事を経験しそこからその人間にとっての世界が立ち現れてくるという観念は、大陸では以前から認められてきたものであり、特にハイデガーやガダマーの作品にそれは顕著である。しかし英米の分析哲学は頑なにこの考え方を拒み、意味をことばと世界の間の固定的な関係とすることを好んできた。人間の身体性・文化的埋め込み・想像的理解・歴史的に進化する伝統内での位置づけをすべて超越した視点だけが、客観性の可能性を保証すると考えたのは、英米分析哲学の間違った想定であった。
This particular formulation of the relevant notion of understanding, as a way of "being in" or "having" a world, highlights the dynamic,interactive character of understanding (and meaning). Grasping a meaning is an event of understanding. Meaning is not merely a fixed relation between sentences and objective reality, as Objectivism would have it. What we typically regard as fixed meaning are merely sedimented or stabilized structures that emerge as recurring patterns in our understanding. The idea that understanding is an event in which one has a world, or, more properly, a series of ongoing related meaning events in which one's world stands forth, has long been recognized on the Continent, especially in the work of Heidegger and Gadamer. But Anglo-American analytic philosophy has steadfastly resisted this orientation in favor of meaning as a fixed relation between words and the world. It has been mistakenly assumed that only a viewpoint that transcends human embodiment, cultural embeddedness, imaginative understanding, and location within historically evolving traditions can guarantee the possibility of objectivity. (p. 175)
こうして英米分析哲学およびその影響を受ける客観主義的諸学問が前提としている意味論を批判的に超克すると、意味論における「意味」を言語的(命題的)意味だけに限定する必要もなくなります。近代的言語学の意味論では、客観主義に従い、例えば"Smoke means fire", "Life means nothing", "She means to leave", "The Revolutionary War means a lot to Americans."などはすべて意味論が取り扱わないものとし、"The word 'triangle' means a three-sided closed plane figure."などだけを意味論の対象としましたが、そのように限定する必要もなくなります。意味とは人間の理解の問題であり、その理解の対象が言語であろうと言語でなかろうと関係ないからです(p.176)
3.2.4 実在論
そうなると"reality"つまり「実在」(あるいは「現実」)とは何かを規定する"realism"「実在論」も変わってきます。「実在」、「現実」とは、もはや人間の観察や活動とはまったく独立に存在する物体や事象だけではありません。
この「現実に接している」こと、これこそが実在論として私たちが必要としていることのすべてである。私たちの実在論は、私たちが身体的行為で世界に接しているということ、および私たちがこの世界で何とかうまく機能することができる程度に現実を理解していること、この二つによって構成されている。私たちの理解とは、私たちが私たちの世界に位置づけられることであり、身体的理解こそが実在論者としての私たちの責任を示しているのである。
This "being in the touch with reality" is all the realism we need. Our realism consists in our sense that we are in touch with reality in our bodily actions in the world, and in our having an understanding of reality sufficient to allow us to function more or less successfully in that world. Our understanding is our way of being situated in our world, and it is our embodied understanding that manifests our realist commitments. (pp. 203-204)
3.2.5 認識論
こうなると「何が知識なのか」という認識論 (epistemology)も当然に変わります。以下は抜粋引用です。
1. 客観的知識に関する適切な見解とは、人間に関する見解であり、神の視点からのみ得られる絶対的な神の目からの知識の見解ではない。
1. It [=an adequate view of objective knowledge] wold be a view of human knowledge and not one of absolute, God's-Eye knowledge that could only be accessible from God's point of view.
2. すべての知識は理解によってつながっている。知識を得るということは、あるやり方、つまりは理解の共同体にあなたとともに参加する他者と共有できるやり方で理解することである。
2. All knowledge is mediated by understanding. To know is to understand in a certain manner, a manner which can be shared by others who join with you to form a community of understanding.
3. 理解を共有することは単に概念や命題を共有することではない。理解とは理解の身体化された構造の問題でもある。理解の身体化された構造には例えばイメージ図式があるが、これは私たちが経験で「形式」そのものとしていることの大部分を構成している。
3. Shared understanding is not merely a matter of shared concepts and propositions. It is also a matter of embodied structures of understanding, such as image schemata, which constitute a large part of what we mean by form itself in our experience. (p. 206)
4. しかし生命体とその環境を二つのまったく独立し無関係の存在物として考えることは誤りである。自らの環境を離れて生命体が生命体として存在することはない。生命体にとって環境全体は、生命体の「内部」にあるものと同じように、生命体のアイデンティティの一部である。
4. It is a mistake, however, to think of an organism and its environment as two entirely independent and unrelated entities; the organism does not exist as an organism apart from its environment. The environment as a whole is as much a part of the identity of the organism as anything "internal" to the organism.
5. 私たちは進化の過程で環境に適合し環境を変えてもきた生命体である。私たちは生き残るという必要性および私たちの経験の質を高めるという目的に適うようになんとかうまく機能するやり方を進化させてきた。
5. We are organisms that have adapted to and transformed our environments in the course of our evolution. We have evolved ways of functioning that are more or less successful given our purposes and needs, both for our survival and for enhancing the quality of our experience. (p. 207)
6. したがって、私たちの概念システムは二つのレベルで、私たちにとってもっとも関連性の高い経験に組み込まれている。(a)基本レベルと(b)イメージ図式レベルの二つである。(注3)
6. Thus, our conceptual system is "plugged into" our most relevant experiences very accurately at two levels: (a) the basic level and (b) the image-schematic level. (p. 208)
3.2.6 客観性
客観性(objectivity)の観念も変わらざるを得ないことを述べてジョンソンはこの本を終えます。私たち人間にとっての客観性は、身体と基本レベルを共有し、さらに身体に基づくイメージ図式と隠喩的投射を共有するという意味で、個人を超えて公的に開かれていることに求められます。逆に言うなら、意味・理解・想像力・推論・認識論・実在論・客観性といった私たちの認知にかかわるすべてのことに関する身体性と想像力の働きを解明することが私たちにとっての客観性を解明することになるかと思います。
客観性とは、こうなるなら、公的に共有された適切な理解もしくは視点を採択することから構成されることになる。このことは、個人的偏見、独りよがりな見解、主観的表象を超えることも含んでいる。私が提示してきた説明によるなら、客観性とは、理解のイメージ図式と基本レベル構造の公的性格、およびそれらにもとづく隠喩的・換喩的投射によって可能になっているものである。客観性は神の視点を採択することを要求しない。その要求は人間にとって不可能なことである。そうでなはく、客観性が要求するのは、実在に結びついた、適切に共有された人間の視点を採択することであり、それは私たちの身体的で想像的な理解によってなされるのである。
Objectivity consists, then, in taking up an appropriate publicly shared understanding or point of view. This involves rising above our personal prejudices, idiosyncratic view, and subjective representations. On the account I have sketched, objectivity is thus made possible by the public nature of image-schematic and basic-level structures of understanding, and the metaphoric and metonymic projections based upon them. Objectivity does not require taking up God's perspective, which is impossible; rather, it requires taking appropriately shared human perspectives that are tied to reality through our embodied imaginative understanding. (p. 212)
ここまでお読みいただいた方には同意していただけると思いますが、この本は単なる認知意味論の哲学的正当化のための本ではありません。学問あるいは教育という知識にかかわる仕事に従事している人にはぜひ理解するべき内容を含んだ本かと思います。ご興味をおもちになった方はぜひ翻訳書および原著を手に取ることをお勧めします。
注
(1)原文の"in, or of"はうまく訳し分けることができず、まとめた訳になっています。
(2)想像力の創造的(creative)な働きは、反省的判断によるもので、この概念を説明するにはカントの『判断力批判』を引用することが必要ですので、ここではその説明は割愛します。
(3)「基本レベル」(the basic level)についての解説は、ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店のまとめ記事(http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html)をご参照ください。
Mark Johnson's homepage
http://pages.uoregon.edu/uophil/faculty/profiles/markj/
The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason
『心のなかの身体―想像力へのパラダイム変換』
http://pages.uoregon.edu/uophil/faculty/profiles/markj/
The Body in the Mind: The Bodily Basis of Meaning, Imagination, and Reason
『心のなかの身体―想像力へのパラダイム変換』
The Meaning of the Body: Aesthetics of Human Understanding
関連記事
ジョージ・レイコフ著、池上嘉彦、河上誓作、他訳(1993/1987)『認知意味論 言語から見た人間の心』紀伊国屋書店
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/10/19931987.html
ジョージ・レイコフ、マーク・ジョンソン著、計見一雄訳 (1999/2004) 『肉中の哲学』哲学書房
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2012/12/19992004.html
身体性に関しての客観主義と経験基盤主義の対比
http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2013/06/blog-post.html
0 件のコメント:
コメントを投稿
注: コメントを投稿できるのは、このブログのメンバーだけです。