2012年8月23日木曜日

「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた、授業における生徒への接し方(学部生SSさんの文章)





以下は、学部生SSさんの文章です。もしよかったら皆さまも読んで、「からだとことば」という質的な観点から英語教育を考えなおす契機にしてください。自分のからだで感じることの多くは、誰にでもわかる形で対象化してエビデンスにできないものですが、だからといってそれを「ない」ものにすることは知的怠慢であるし、それを抑圧・排斥することは知的傲慢であると私は考えます。


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「教師のためのからだとことば考」を読んで考えた
授業における生徒への接し方


SS


1. はじめに

 私がこの本を読もうと思ったきっかけは、もうすぐ教員になる者として、どのように生徒と接していくべきか漠然とした不安を抱いているためです。実際に授業をしたのは教育実習でやらせていただいた9回のみです。ほぼ毎回担当するクラスが違っていたので、担当したクラスの生徒たちのことを深く知れないまま授業をしたためか、自分が投げかけている発問や一つ一つの働きかけが、ひどく形式的で、儀式的なものに感じられました。生徒の間をすり抜けて、教室を出て行くような感じがしたのです。自分はこんな形式的な授業をしたくて教師になるのか?答えはもちろん、否です。

  塾講師の経験のない私は、これから生徒との間に「教師と生徒」という、今まで自分が経験したことのない関係を築いていかなければなりません。それは友達になったり、先輩後輩の関係を深めるのとも全く異質なものなのだと感じています。そのために、生徒が体じゅうから発しているメッセージを理解し、歩み寄っていくべきだと考えました。先日行われた教員採用審査で、「1つの教室には色んな背景や性格をもった生徒が集まってきます。そんななかで、あなたはそういった生徒たちとどう接していきたいですか?」と質問されました。私は、「集団の中で完全に個に応じた指導をするのは難しいので、机間指導を積極的に行って、それぞれの生徒の状況を的確に把握したいと思います」と答えましたが、実際に自分がそれができるのかな?と面接会場を後にしながら不安になりました。目を合わせて話をしてくれたり、私が横を通る時に「先生、ここがわかりません」などと生徒からかかわってくれればそれができるでしょうが、そうではない生徒も大多数いるものだと推測します。なかには「教師」という人種が嫌いな、反抗心をもった生徒もいるかもしれません。そうした生徒たちときちんと向き合い、何とか血の通った授業をしたいと考えるとき、少しでも生徒の体や態度から発せられる声のない声を拾うべく、この本を読むことに決めました。


1.2 自分自身の経験から

 本書は主に姿勢や身体論のお話だったので、「自分が生徒だった頃、そういえばいろんな場面で姿勢のこと、注意されたなぁ」と思い出していました。そのなかでもっとも印象的だった先生の発言が2つあります。1つは、小学校高学年の時の担任が常々言っていた、「先生が話しするときは、目に穴が開くぐらい先生のこと見て!」という言葉です。この言葉は当初、落ち着きのないクラスの注意を先生に向けさせるためだと思っていました。ですが時が経つにつれ、目と目を合わせて話を聞き、話をすることが相手と「伝え合う」ことのもっとも根底にある大事なことだと気づいたとき、先生のあの言葉の真意はここにあったのかと気づきました。高等学校の頃、英語の授業でよくスピーチやプレゼンを行う機会がありました。そのたびに友達や先生からフィードバックをもらっていましたが、アイコンタクトについては常に一番いい評価をもらっていました。先生の言葉に感謝したいです。

   そしてもう1つは、高校時代の部活の顧問の先生の「腰を立てろ!」という言葉です。とても抽象的なだけに、最初は全く意味が理解できず、今でもはっきりとは理解できていません。楽器を演奏するうえで、腰が立っていないと息がきちんと行き来できないということぐらいしか理解できませんでしたが、それでも腰を立てるということだけで、ずいぶんと楽器を吹きやすくなったように感じました。



 2. 「教師のためのからだとことば考」より

今回読ませていただいた中から、自分が特に「これは大事だな」と感じた部分をピックアップしてそこで考えたことを述べていきたいと思います。


2.1 「並ぶ」のは「並ばせられる」こと?

 まず、授業をしようと教室に入ったとき、真っ先に見えてくるのは6列程度に並べられた机と椅子です。生徒だった頃は何も違和感を覚えませんでしたが、いざ見習い教員としてその光景を前にしたとき、あまり整然としていたので私は圧倒されてしまいました。そして授業が始まると、その整然と並んだ机と椅子に生徒たちが座ります。このとき、彼ら彼女らは「並べられて」いるのではないかとこの部分を読みながら考えました。その形態からして、すでに生徒たちは無意識の『「授業を受けさせられて」いる』感を持って授業に望んでいるのではないでしょうか。

そこで頭に浮かんだのが、高校時代の英語授業でペアワークやグループワークをする時間が多くあったことです。これらの活動をしている間、少なくとも私や私のまわりにいた友人は「やらされている」感を持たず、目の前にいる友人と多く英語を話したいという意志を持って授業に望んでいたように思います。「とりあえずペアワークやグループワークだけさせておけ」とやみくもに授業形態を変えるのでは無意味でしょうし、生徒が教師ときちんと活動の目的を共有し、教師が明確な指示を与えないとただのおしゃべりの時間に変わってしまいます。先に述べた机と椅子が並べられその間に「並べられて」いることで無意識に受身になってしまいがちな生徒をいかに自らそこに「並び」、授業を受けてやろうという気にさせてやれるか。それはやはり生徒同士が生徒自身の声をもってふれ合うこと、そして教師がいかに自分の声を生徒たちにぶつけ、また生徒も声を教師にぶつけてもらえるように向き合うかが最も重要なことだと考えました。


2.2 話しかけるということ

 この章に、「自分の言葉を、他者とふれ合い、交流しつつ、変容し成長してゆくものとしてはとらえていない」、「まるで一本の材木か石みたいにまとまった文章をそこへつき出し、置いておくだけ」の人がとても多いと書かれています。私はここを読んで、またしても自分の教育実習での経験を思い出しました。中学生の授業を担当させていただいたときでした。私は会話文から読み取れる生徒の気持ちを生徒に発表してもらっていました。少し自分の意図と違う答えを発表した生徒がいたとき、私はそのままほかの生徒を指名してしまいました。その授業の批評会で「教師の意図と違う意見は尊重してもらえない勝ち抜きトーナメントのような授業でした」と指導教官の先生からコメントをいただいたとき、私は初めて自分のしてしまったことに気づいたのです。先に私が引用したような、そのままのことを私は授業でしていたのでした。自分の発問を生徒に「置いて」、後はほったらかし、という状況だったのです。生徒の間に生まれた意見差を、彼らのことば同士がふれ合い、交流しながら変容し成長してゆくものとして捉えることができませんでした。自分自身が生徒のことばとふれ合うことを恐れていたのだと今では分かります。声だけは昔からよく通る、教師向きだね、と言われてきましたので、活気ある授業をできる「つもり」でいました。その時、私は声、そして言葉について何も分かっていなかったことにこの本を読んだ今やっと気づきました。


2.3 ことばとふれ合う

 この章に、「相手のからだに、声がぶつかってない!」と竹内先生が怒鳴る場面があります。私はこの言葉を「どこかで聴いたことがあるな。」と感じ、しばらくどこで聴いたのか思い返していました。そして私はこの言葉を高校時代の部活動で聴いたことを思い出しました。(部活動で言われた時には「声」ではなく「音」でしたが。) 体育館で練習をしたとき、「お前らの音には方向性が全くない」とのことで、体育館の端々に部員が散らばりました。「誰に音をぶつけるか決めてそいつにめがけて吹け」と、一人一人演奏させられたのです。するとほとんどの部員が上の言葉を先生に投げられました。それまで「右上の、あそこらへん」といった曖昧な対象に向けて吹いていた私たちでしたが、それからというもの、「あそこの木に止まっている鳥」だとか、「グラウンドで練習しているソフト部員」といった具合に、洒落かと思われるほど細かい「対象」を設定して練習するようになりました。これを授業に置き替えて考えたとき、例えば誰かを指名したいとき、「○○さん、」という文字を声に乗せ、その声をその○○さんにきちんとぶつけないと、その指名はきっとむなしく宙を彷徨うだけになってしまうのではないでしょうか。そのままの状態で発問を投げかけたり、説明をしても、その発問は生徒たちの体に触れられず、体の中に入ることもなく、「胸に沁み」、「腑に落ちる」ことはないのだと考えます。


2.4 からだは常に語っている

 この章の始めに、たくさんの「目」にまつわる慣用表現が紹介されています。「目を丸くする」「伏し目がちに」、「目くばせをする」「目の色が変わる」…。これらの目が伝えるメッセージというのは、生徒の反応がより濃く現れていると感じました。口では同意していても、伏し目がちであればきっと本心はそうではない。あの子とあの子がさっき目くばせをしていた。きっと何か企んでいるんだろうな。など、生徒の目を見るだけでも多種多様な反応が見て取れます。それと同時に、きっと教師の目も、生徒に語りかけたり、優しいまなざしで見守ったりするためのものでなければならないのだとこの章を読んでいて感じました。

   私が今までお世話になった先生のなかに、いつもスーツをシャキっと着こなした、背筋がピンと伸びた髪の短い女の先生がいらっしゃいました。彼女は、私たちがどんなに言うことを聞かなくても、そのピンと伸ばした背筋のまま注意しつづけます。やがて私たちはその背筋から発せられる「あなたたちには動じませんよ」というメッセージを受け取り、彼女に従いました。この例は先に述べた目の話とは少し離れますが、「からだが常に語っている」ことを私が教師から感じた一番印象的な場面だったのです。

  この章を読んでいると、人の体の姿勢と声というものは、そのままその人の心の方向や、心の中を表していることに改めて気づかされます。声のことについてはこれまで述べているので、ここでは姿勢のことについて述べたいと思います。私はファッションサークルに入っていて、年に何回かファッションショーで服を出させてもらうことがあります。その際、モデルさんのウォーキング練習を行うのですが、やはりそこにもモデルさんそれぞれの気持ちが、ポージングや歩き方に如実に表れるのです。今まで何度もショーに出てそれなりのキャリアも自信もあるモデルさんは、歩き方にも「自分をいかに魅力的に見せられるか」を見せる余裕がありますし、ポージングにも「みんなどうやったら私に釘付けになるか」といった貪欲さといいますか、自信を感じる人が多いのです。一方で、入りたてでいまいち自信がなく、せっかくの可愛さや美しさを台無しにしてしまっているモデルさんも何人か見てきました。歩いているときも顔が下を向いてしまって、肩が内側に向いている。だからポーズもいまいち決まらない。このようなモデルさんには、物理的なアドバイス(「肩を後ろにグルッと回して、そのままキープするようなかんじで」や「顎をもう少し上げて顔を見せてください」など)をするのと同時に、「頭のてっぺんからワイヤーで吊るされているような感じで。そうすると自然と胸も高くなりますよ」というと、途端によくなるモデルさんがほとんどですが、やはりそう長くは続きません。その時にはとにかく自信をつけてもらうよう、褒めたり、繰り返し練習をしたりしています。

   教師も、モデルと同じ程度からだをもってメッセージを放つべきだと思います。よく、問題行動に対する対処のしかたなどの答申を読んでいた際、「毅然とした指導」という言葉を見ました。「毅然とした」というと非常に抽象的ですが、やはり私が想像したのはしっかりと背筋を伸ばして、しっかりとした目線を生徒に送り、腹の底から声を出してその声をまっすぐ生徒にうつけている教師の姿でした。姿勢を直すのは簡単なことではないですし、時間もかかることですが、教壇に立つまでには、背筋がスッと伸びた立ち姿で授業に臨めるようになりたいと考えました。



3. 具体的にどのように生徒と接していくべきか

 ここまでで考えたこと、感じたことを通して現段階で私が考えるこれから教師として生徒に接していく際に心がけたいことを述べていきたいと思います。


3.1 自分の声を全身で「生徒」にぶつける

 授業を行う際、生徒をすりぬけて壁や天井に声がぶつからないよう、目の前の生徒一人一人に声が届く教員でありたいと思います。もちろん、そのためには声だけではなく、「目」のもつ力や、からだ全体で訴えかけることも重要だと考えます。きっと先に述べたように、教員に対して漠然とした反抗心や単に英語という科目が嫌いという理由で、授業に対してネガティブな生徒も相当数いると思います。そこで「あの子は英語嫌いだし」や「あの子は何回注意しても聞いてもらえないから」という理由でその子たちと向き合おうとすることから逃げては断じていけないと考えます。一度そうしてしまうと、きっとその生徒たちに私の声がぶつかることはないでしょうし、そうすればますます距離は広がります。やはり根気強く生徒に声をぶつけ続けていきたいです。


3.2 自らも生徒の言葉に「ふれる」

 私自身が発問を「置く」だけで終わってしまわないよう、生徒のことばや、表情から発せられるメッセージにふれることができる感受性を持ちたいと思います。これができなければ、先にも述べたような「勝ち抜きトーナメント」式のおおかた授業とは呼べないものになってしまいかねません。そのために日ごろから生徒を「観る」ことが必要だと考えます。ただ表面的に活動に取り組んでいるかどうかを「見る」のではなく、例えば、「今この子は I think so too.って言ったけど、本当はそうは思ってないな」などと、生徒のこころの内まで「観る」ことのできる「目」を養っていきたいです。この「目」は、やはり普段から友人と話す際、きちんとその友人を観てあげて、声色や目の動きといったほんの小さな変化に違和感を覚えることで養えるのではないでしょうか。



4. おわりに

 この本を読み始めた時、最初の体育座りのお話が非常に自分にとってセンセーショナルでした。小学校や幼稚園で当たり前のように教えられてきた体育座りですが、これが一世代前のいわゆるヤンキーと呼ばれていた少年たちがコンビニの前でいわゆる「ヤンキー座り」をしている時よりももっと危機的な状況だということを知れたことが、私にとってはとても大きな財産となりました。確かにあの頃のヤンキーたちは、「先公」にはむかったり、反抗していました。その動きにはまだ「向かい合おう」「立ち上がろう」という意欲がありました。しかし現代のより複雑な問題を抱えた子どもたちが体育座りを教えられることで、その問題から「立ち上がる」「なんとか抜け出そうとする」志向を失ってしまっているように感じます。そういった子どもたちに、少しでも多くことばがぶつかりあう英語の授業を提供できるようになりたいなと考えます。









2 件のコメント:

  1. 自分も最近「教師のためのからだとことば考」を読み、「声」の重要性について考えていました。その折に所属している学部の先輩の文章を目にすることができて光栄です。先輩の経験を知った上で自分の教育実習にも本書の考え方を取り入れられればと思っています。自分が感じたことを下に書かせて頂きます。

    まず本書を読んで、自分の今までもっていた声に対する考え方について大きく違和感を感じました。なぜなら、模擬授業の打ち合わせなどで「大きな声を出さないと」と言ってきたからです。しかし、竹内先生は声を「出す」という表現よりも声を「届ける」という表現を多く用いてます。これは、自分が今まで声を出しさえすれば良いと考えていたことを表わしているように思えます。本書を読んでいた時期に、所属しているサークルで小学生対象の紙芝居を練習していました。紙芝居は立派な表現活動だと思うのですが、子供たちは読み手の顔や動きにあまり注目しません。従って、如何に声だけで場を作り出すかが鍵となります。しかし、ぼぉっと立ったまま無理やり登場人物っぽい声を出そうとしても、子供たちの反応は今まであまりよくありませんでした。そこで、つい先週の公演では子どもたちの顔を見て、無理やり声をつくらずに自然に話そう、そして伝わるような話し方をしよう、と心がけました。すると、不思議なことにいつもの子どもたちの反応と明らかに違いました。1つ1つの台詞で笑ったりショックを受けたような顔をしたり、そしてその反応を見ながら練習の時とは違うしゃべり方をしてみたり・・・。最後の拍手を受けた時、今までで一番成功したと実感しました。

    私はこれこそが本来の声の出し方なのかな、と感じました。相手を意識せずにただ出すものではなく、声とは他者へ伝えるためのものだと再認識しました。これは模擬授業の練習を誰もいない教室でしている時にはなかなか気づけないことで、私たちstudent teachersには意識しづらいですが、教育実習で実際の子供たちを前にしたときに実感できたら、と思います。

    最後に竹内先生の文章の中で印象に残った部分について感想を述べたいと思います。

    「もともと話しかける気のない子どもなぞ絶対いない…その子のからだの語りかけることばをまっすぐ受け止めていれば、こんなことば(話す意欲がないようだ)は出ないし、問題はすぐに、『話しかけてもいい』という気にさせるにはどうすればいいか、という地点で始まるはず」(pp.59-60)

    ボランティアなどで中学生や高校生と関わっていますが、皆が皆自分に話しかけてくれるわけではありません。むしろこちらから話しかけても素っ気ない態度で返してくる子も当然います。そのような子を見ているとたまに昔の自分を思い出します。初めて会った人に話しかけられて、本当はしゃべりたいけど恥ずかしくて返事をしないということもあったはずです。なので、その子が話したいと思えるような内容を親しみやすい接し方で話すように考え方を変えなければならないと感じました。話しかけてこない子もからだではメッセージを自分に投げかけていると忘れずに、これからもボランティアに参加したいです。

    拙い文章ですいませんでした。

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  2. mochi君、コメントをありがとうございました。

    確かに「大きな声を出す」 ではなく、「確実に声を届ける」ことが必要なんですよね。
    ただ「大きな声」は、うるさいだけですから。

    しかし模擬授業の訓練では、どうしても「声を届ける」ことが軽視されているというのは重要な指摘ですね。私は模擬授業の指導などはしませんが、確かにそうでしょうね。

    あと、子どもがこちらに「話しかけたい」「話しかけてもいい」と自然に思うような心とからだのあり方というのも、本当に重要ですね。これもにわかに言語化・理論化できませんが、確かにありますもの。

    どんどん具体的な経験を積み重ね、それに上記のような省察を加えて、力量をつけてくださいね。成長を期待しています。

    それでは!
    柳瀬陽介

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