以下は、ある機会に書いてもらった学部生MMさんの文章です。もしよかったら皆さまも読んで、「なぜ英語を勉強するのか」という素朴な疑問を、英語教育を考えなおす契機にしてください。
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なぜ英語を勉強するのか
―フリースクールでの経験から―
―フリースクールでの経験から―
MN
0. はじめに
今回のエッセイで私は「なぜ英語を勉強するのか、なぜ英語を教えるのか」ということをテーマに、フリースクールでの経験―不登校児童に対する英語のボランティア講座―をふまえたものを書こうと思いました。選んだテーマは私が高校生の頃から漠然と、そして大学生になってより意識的に考えてきたものです。そして就職を民間企業というある種、英語教育とは全くかけ離れたところに決めた今、私と英語教育を一番強く結んでいる場所はおそらく、このフリースクールだと思います。ここで日々感じる「英語とは何か」という問いは、これまでと同じように私を悩ませ、苦しめるのですが、同時にとても新鮮な感覚を味あわせてもくれます。
もしかしたら、残りの大学生活において、私が英語教育と最後に向き合っているのはこのフリースクールで生徒たちと一緒に英語を勉強している時かもしれません。だからこそ、今わたしが考えている事をこの機会に書いてみようと思いました。
1. フリースクールに通うようになるまでの、私と英語教育
1.1 なぜ勉強をするのか、という永遠の問い
私はこれまで「なぜ英語を勉強するのか、なぜ英語を教えるのか」ということに対して悶々と考え続けてきました。自らが受けてきた教育を踏まえて、英語は楽しい、外国の文化を知れる、英語を学ぶことで日本語と比較することができる、などといったように、いろんな意義を見いだしてきました。そういった意味では「なぜ勉強をするのか」といった問いへの答えに近かったのかもしれません。勉強とは決して進学や就職のためにやるものではない、という価値観が自分のなかに強くありました。「学問は最高の遊びである」という言葉にあるとおり、学問を通して自らの感性を磨くことこそが勉強をする理由であると思っていました。そのため、受験に特化したような参考書も好みませんでしたし、また大学名や偏差値で頭が良い、悪いなどと言い、その中で一生懸命勉強している人たちのことを勝手に評価しようとする人のことも嫌いでした。今思えば、とても偏っていたかもしれません。
だからこそ英語を勉強することも、進学や就職以上に価値のある目的や理由が存在すると思っていました。そしてそれを、頭の中だけでなく、肌で強く実感したのは2年次でのイギリス留学、そして3年次での教育実習でした。
1.2 イギリス留学での生のコミュニケーション体験
イギリス留学では生の英語のシャワーを初めて経験しました。相手の話す言葉がわからず、自分の気持ちがうまく伝えられず、悔しい思いをすることが何度もありました。いわゆる「カタコト」と呼ばれる英語で、すばらしいスピーチをする日本人にも出会いました。日本語なまりの英語を話す私を、現地のイギリス人は剣道という共通の言語を通して受け入れてくれました。イギリスで食べた料理はうまかった。グルメの世界は言語以上にグローバルだと感じました。親しくなった人たちと、言葉を交わさずともコミュニケーションができるようになりました。異なるバックグラウンドを持つ世界中の英語学習者と、同じ時間を共有することができました。彼らは私とはdifferentであるけれども、同時にsameでもあるのだと思いました。どれも私が英語を勉強してきたからこそ経験できたことであり、英語学習者の特権であると思いました。英語という語学を学ぶと同時に、実際にその言語が使われている世界を触れてみる必要性を感じた経験でした。
1.3 教育実習で感じた、教師の役目
教育実習では、私の人生ではじめて、だれかに英語を教えるという経験をしました。目の前の生徒たちが何を考えているのかわからず、とても苦しみました。生徒たちの能力を決めつけ、「きっとできない。きっと理解しない。」と教師である私自身が考えてしまっていた時期もありました。しかしある授業を行っていた際、生徒に音読をさせる場面で、私がとっさに出した一言がきっかけで、生徒たちは私が思ってもみなかったような力を見せつけてくれました。その時、教師は生徒の可能性を判断、評価するためでなく、その可能性を引き出すためにいるのだ、ということがわかりました。英語教育の現場で、表現すること、そしてそれを理解し、再び表現することの素晴らしさを生徒に教えてもらい、それこそ英語教育が目指すべき道だ、とも思いました。
1.4 進路の決断
3年の冬が近づいてきた頃、昔から大好きだった学校への愛着をさらに募らせ、また教師、そして英語教師という職業のすばらしさを実感しながらも、海外も含めた自分の知らない外の世界への好奇心、そして教育実習で出会った生徒たちや日本のこどもたちがいずれ飛び込む一般社会というものへの興味から、私は民間企業への就職という進路を視野に入れ始めました。3カ月間以上、就職活動というものにどっぷり浸かり、英語教育へ思いを巡らす時間がめっきり減ってしまった頃に、私は不登校の高校生たちが通っているあるフリースクールに、英語の講座を担当するボランティアとして、週に1回通いはじめるようになりました。
2.フリースクールに通うようになってからの、私と英語教育
2.1 スクールの生徒たちと接してみて
フリースクールでのボランティアは1年以上前から希望しており、念願でもありました。ボランティアへの単純な興味ももちろんありました。しかし、今の日本の教育の最大の問題点は経済格差による教育格差があると自分なりに考えており、そこから発して何らかの理由により、勉強についていけなくなってしまった生徒をサポートしたい、という思いがあったことも理由の1つです。実際に教英の先輩たちが英語の講座を行っている様子を見学することからはじまり、徐々に私自身も生徒たちや、フリースクールの先生たちと関わるような形をとりながら、私のボランティアはスタートしました。
通いはじめてみてわかったのは、彼らには知的発達障害があるということでした。普段、彼らと話し、接するなかでは今でもあまりピンとはこないのですが、講座を通してなんとなく、こういうことなのかなと感じることがしばしばあります。どこまでが障害によるもので、どこまでがその子の特性であるのかは私の勉強不足ゆえわからないのですが、人の話をなかなか最後まで聞くことができない子、わざとか無意識なのかもわかりませんが、周囲の生徒の学習の邪魔をしてしまう子、それを注意しようとして逆に火を付けてしまう子など様々で、どういった言葉をかけて良いかわからないことがほとんどです。一言かけてみては様子を見てもう一度ことばを選びの繰り返しで、しばしば良い言葉が浮かばず黙ってしまうこともあります。
決められた時間には講座に参加するかレポートに取り組むのがスクールの決まりなのですが、それをせずにゲームに没頭する子がいるかと思えば、休み時間でもノートにびっちりと板書や教科書を写す作業をする子もいます。最近、印象的だったのは「この学校は数字を出さない。比較して順位を出さない。だってそれがいじめにつながるから、めちゃくちゃ徹底している。」と皮肉交じりに生徒が話していたことです。このスクールが生徒ひとりひとりにとって、どのような場所であるのか、それを知るにはまだまだ彼らと共有する時間が私には必要なのでしょう・
2.2可能性を引き出すことと、疑ってしまうこと
講座を通して英語を教えることについて言えば、難しいの一言です。何を知っていて何を知らないか、もまちまちです。私の勝手な感想にはなるのですが、英語を教わることには慣れているようで、講師が聞きたいことややりたい活動を予想したり、実行したりすることは比較的容易であるように思うのですが、そこで学んだことを本当に理解しているか、身についているかが私にもわからないので、ある問題に対して「これ、完璧。」と言ってみて、1週間後に同じ内容のところで「この前、パーフェクトだったやつだよ~」と言ってみたり、ゲームが好きな子には例文にポケモン(Pokemon)を入れてみたりなどして、詰め込みといわれても何とかして英語の大事な基本ポイントを覚えてもらいたい、と試行錯誤しています。教育実習では「可能性を引き出す」ことを学びましたが、もしかしたら今のわたしは「これわかってるかな」「大丈夫かな、難しすぎて嫌にならないかな」と、生徒の能力を下へ下へ疑っている部分があるのかもしれません。
2.3 世間知らずだった、「なぜ勉強をするか」という問いへの答え
そんな風に生徒と接する中で、生徒が将来のことを話してくれる機会が何度かありました。生徒は普通の高校生とは変わらない、いろんな夢をもっていることがわかりました。ある日、お昼休みに昼食をとりながら生徒と話していたときのことです。勉強の話になり、「○○くんは勉強熱心だね。お昼くらい休まないと!」と話していたら、「でも勉強がんばらないと。」と返ってきて、「勉強すきなの?」と問うと「う~ん・・・」と首をかしげました。そしてしばらくして「仕事に就きたい。そのためには勉強をして試験に通らないと。」という答えがかえってきました。
以前の私は、試験に合格して良い大学に行くために、あるいはその先のいい就職先を得るためにという目的のためだけに勉強をすることに対して、とてもゆがんだ感情をもっていました。
「そんなもののために勉強してどうするんだ」
とさえ思っていました。しかし、彼の言葉を聞いた時、そんなことを言っていた自分がとても恥ずかしく思えてきました。不自由なく勉強できる機会を与えられ、恵まれた環境で育った自分自身の経験の範囲でしか世界を想像できず、物事を語れず、22歳にもなって世間知らずのまま生きてきてしまったと感じました。
日本という世の中にも、さまざまなバックグラウンドを持った人たちがいろんなところでそれぞれの目的を持って勉強しています。勉強をする目的はそのままやる気につながるでしょう。勉強をする際のやる気、モチベーション、動機付け、それには効果的なものもあれば、そうでないものもあるかもしれません。しかし、どの動機付けが良くて、どれは良くない、といった良し悪しを決めることまでは私にはできないのだ、ということを思い知らされました。少なくとも生徒の前ではそんなことはとてもしてはいけない、と思いました。
思えば、勉強をすれば仕事を得ることができる(少なくとも就職に有利になる)、というのはある意味、恵まれたことなのかもしれません。だからこそ、改善されるべきは、一人ひとりの学習環境である、とも思います。学びたい人が学べる社会こそが、日本の教育がこれからも目指していくべき場所であると感じました。
3. 残りの大学生活、そしてフリースクール講師ボランティア
3.1 英語の楽しさを教えたい
フリースクールでのボランティアに通い始めて5ヶ月目になりました。生徒とも少しずつ顔なじみにはなってきましたが、いまだにどう接して良いか、迷ってしまう事もあり、毎回の訪問が手探り状態です。しかし毎回、発見があり、とても楽しいというのも事実です。どういう形であれ、勉強をしたいという気持ちを持っている生徒たちと同じ時間を過ごせるのは、私にとってもすごく刺激になるのだと思います。
わたしは英語を彼らに教える者として何を目指すべきなのか、それはボランティアを始めた時から考えていたことでした。今はとにかく「英語の楽しさ」を生徒と共有できれば、と思っています。しかし同時に、ただ表面的な楽しさをアピールしたり、「英語を楽しいのだ!」という押しつけをする方向へいかないように気を付けなければならない、とも考えています。
生徒の勉強への目的は様々です。なかには、しんどい思いをしながらする生徒もいるのかもしれません。そういった生徒にとっては、表面的な「楽しさ」はもしかしたら一時的なごまかしになってしまうかもしれない、と思っています。さらにいえば、学習における本当の「楽しさ」は、「自分ひとりでできる」ということとイコールではないか、と今は思っています。たとえしんどい勉強でも、「ひとりでも勉強したい、学習を進めたい」と思えるようになれば、それはその学習者にとっては大きなアドバンテージになると思います。
だからこそ基礎基本を身につけることが大事でもあります。しかし基礎基本はただ楽しいだけでは身に着かない、ということもまた事実です。基礎基本を身につけることは、英語を教える側の私にとっても、学習する側の彼ら生徒たちにとっても、1つの壁であると感じています。
3.2彼らにとっての「英語教師」として
私は、フリースクールに通う生徒たちの一つの特徴として、「自信がない」ということを感じています。これは前述の基礎基本がまだしっかりと身についていないことも、一つの理由なのではないかと私は思います。だからこそ個別に指導をしていく中で「できた、わかった」経験を覚えさせてあげることで、次回おなじ内容を学ぶ際にも「前できていたところだよ!」とか「それであってるよ!」と言って、「できた」記憶を繰り返しインプットできれば、と思っています。手探りではありますが、そのなかでも必死に探り当てた自分のひとことで、生徒が少しずつ「できた、わかった」経験を重ねていってくれている姿をみると、自己満かもしれませんが、とても嬉しくなります。
「『知的におもしろい』と、うっすらとでも良いから生徒に感じさせてあげたい。でも教える側のエゴにならないように気を付ける。」当面の私が目指すのは、そんな英語教師です。
ある方からメールをいただき、その中に上記記事に関することが書かれていました。その方の許可を得て、その部分を以下に転載します。
返信削除*****
さて、ブログ「英語教育の哲学的探究2」に掲載されている
「なぜ英語を勉強するのかーフリースクールでの経験から―(学部生MMさんの文章)」
を読み、気になる点が2つありましたのでメールを差し上げる次第です。
基本的には共感できる文章であり、MMさんの今後の健闘を祈りたいと思っています。
また、文章の趣旨とはあまり関係がありませんのでコメントではありません。
こういうことを考えるときにはこういうことも知っておいてほしいなという老婆心とでも言いましょうか…
1つ目:「知的発達障害」。
「知的」+「発達障害」という日本語のコロケーションは成立しないこと。
私は現在勤務校で特別支援教育コーディネーターという校務分掌を担当しており、「発達障害」や「特別支援教育」に関する研修会・講演会等に参加する機会を多数得ています。
それらから言えることは、「発達障害」は、知的障害を伴うこともあるが、現在使用されている「発達障害」という語は、「知的障害を伴わない発達障害」という意味で用いられているということです。
制度的にも、知的障害を伴う発達障害の児童・生徒は特別支援学校で教育を行けることが多く、知的障害を伴わない発達障害の児童・生徒は通常の小・中・高等学校で教育を受けています。
発達障害の生徒の推計在籍率も算出されており、高校の場合、全日制課程=1.8%、定時制課程=14.1%、通信制課程=15.7%となっています。
私の勤務校の定時制では、在籍率は平均よりも高いかなという印象です。
MMさんの文章のからも、「(知的障害を伴わない)発達障害」の生徒がいるんだろうなと想像できます。
この項の最後に「発達障害」という言葉について一言。
「発達障害」というと「障害の有無」が問題とされがちですが、英語では “Developmental Disorder” ですので、以下のような定義が適切であろうと思います。
「発達障害とは、子どもの発達の途上において、何らかの理由により、発達の特定の領域に、社会的な適応上の問題を引き起こす可能性がある凸凹を生じたもの」
できれば筆者としてはすべて〇〇失調と書きたいところであるが、読者のよけいな混乱を招かないよう、本書では以下の記述において、心ならずも一般的な呼称である障害を用いることとする。
(杉山登志郎(2007)『発達障害の子どもたち』:講談社現代新書)
2つ目:「フリースクールに通う高校生」。
日本で「フリースクール」と呼ばれるほとんどの学校は、学校教育法第一条に定める正規の学校とは認られていません。
ですから「フリースクール」に通っているだけでは、正式には高校生とは言えません。
ところが、MMさんの文章中に「決められた時間には講座に参加するかレポートに取り組むのがスクールの決まり」とあります。
この部分を読んでいて、この「レポート」とは通信制高校に提出する「レポート」ではないかと考えました。
私は通信制高校にも勤務した経験がありますので、通信制高校に在籍する生徒の学習や生活習慣を支援する「サポート校」という教育施設(正式な学校ではありません)があることを知っていました。
(サポート校の実態をよく知っているわけではありませんが。)
ですから「不登校の高校生たちが通っているあるフリースクール」とは、「通信制高校に在籍する不登校の高校生たちが通っているあるフリースクールの形態をとるサポート校」とすると、MMさんの文章の「フリースクール」の性格がはっきりするのではないかと思います。
「1つ目」のところで書いたように、発達障害がある生徒の推計在籍率は通信制高校では15.7%ですから、MMさんが関わった高校生たちの不登校の背後に発達障害がある可能性は高いと思います。
とここまで書いてきて、「それでは発達障害のある不登校傾向の高校生にどう関わればよいのか?」という疑問が生じるかと思います。
「この疑問に正解はない。」が答えとなります。
私は特別支援教育コーディネーターを務めていると書きましたが、現勤務校ではまだ発達障害のある生徒に対して組織的な関わりが持てているわけではありません。
2学期以降「個別の教育支援計画」を作成していくことがコーディネータの仕事となります。
そういえば次のようなことを研修会の講師が述べていたことを思い出しました。
1つの答えかと思います。
「発達障害のある児童・生徒は一人一人異なった認知で日常を生活している。
それぞれの認知をそのまま受容・尊重し、適切な支援を行うことにより、
発達障害のある児童・生徒の学校での適応を促進することが可能である。」
異文化理解教育に通じる考え方かと思います。
以上長々と書いてきましたが、あくまで老婆心からです。