2012年8月1日水曜日

教師と生徒の相互理解と相互認証 ― 広島大学英語文化教育学会での齋藤智子先生の発表




広島大学英語文化教育学会が先日(7/29)に広大東広島キャンパスで行われました。私の所属する広島大学教育学部第3類英語文化系コース(通称「教英」)の同窓会的性格の強い会です。

私にとって印象的だったのは、卒業生である齋藤智子さん (現在は徳島県海陽町宍喰中学校で勤務) の発表でした。

齋藤さんは、学部時代から「自分の頭で考え、自分のことばで語り、自分の責任で行動できる」優れた人物でしたが、就職後も果たせるかな活躍しており、今回の発表(「生徒の学びをつなげる小中連携の在り方を求めて」)となりました。

このようなタイトルの発表は最近よく見られるものですが、齋藤さんは次の方針で、小中連携をはかっています。

(1) 小学校で抱いた「知りたい・伝えたい」という思いを大切にする。
→細かな添削や指摘よりも、生徒のコミュニケーションの意欲を重視→後で復習

(2) 小学校の教材や題材を生かす
→生徒が知っていることを授業にたくさん取り入れる

(3) 小学校の指導方法をつなげる
→「音声から文字へ」 = 体験しながら学ぶ学習スタイル


これらの方針もよく聞かれるものかもしれませんが、斎藤さんはこれらを文字通り実行するため、周囲の理解を得ながら頻繁に小学校を訪れます。その中で信頼関係を得ていますから、時には電話一本で「今から行ってもいいですか?」で小学校に行くこともあるそうです。また、そこで現在中学生である生徒の小学校時代の英語活動時の作品も見つけたりして、それも巧みに中学校の授業で使うぐらいに小学校現場に入り込んでゆきます。

私は日頃、「教育方法論の知識などよりも、英語力と一般的知性と愛情の三つの融合こそが大切なのではないか。これら三つのどれか一つでも欠ければ、教育方法に関する学術的知識をいくらつけたとしても駄目ではないのか」と考えているのですが、齋藤さんも大学院進学こそはしなかったものの、持ち前の英語力と一般的知性と愛情を融合させ、思い切った行動力を発揮し、周りを活性化しているように思えました。大学教育でも、専門的と称して妙に瑣末なことばかり教えるのではなく、英語力と一般的知性と愛情といった根源的な力を伸ばすようにするべきではと再度思わされました。

齋藤先生が紹介したエピソードの中で面白かったのは、"Ms. Saito is (         )."の中にいろんな英語を入れさせる活動です。中学生は、最初は "an English teacher" や "a woman"のような無難な反応をしています ―といっても齋藤さんは短髪で活動的なこともあり、教育実習中は齋藤さんが女性であることを知った生徒の一部に動揺がはしったという伝説もあります(笑)― 。

しかしやがて生徒は齋藤先生の顔色を伺いながら "[Ms. Saito is] don't cute."と言います。もちろん文法としては間違いですが、生徒としては文法的正確さよりも、齋藤先生がどこまで自分たちの冗談・からかいを受け止めてくれるか知りたいという気持ちが勝ったのでしょう。それを聞いて齋藤先生は少しおどけた口調で「えっ、『かわいくない』って言いたいの?それならbe動詞だけでいいから"Ms. Saito isn't cute."でいいんだよ」と言います。この発話の文命題は英語指導ですが、発話のトーン(=メタ・メッセージ)は、<まあ、そのくらいのからかいなら認めてあげましょう>と言ったものです。

それを聞いた生徒は「じゃ、それなら"Ms. Saito isn't beautiful."でいいんだね」、「"She isn't pretty."も言えるよね」と次々に笑いながら発言し始めます。齋藤先生はそれらを聞きながら「う~ん、英語としてはいいんだけど、それは事実かな?」とさらに笑いを誘発する発話で、生徒の発話を(言語学的にも、コミュニケーションの点でも)肯定します。

よく「生徒理解が大切だ」と言います。それはまったくその通りなのですが、教師による生徒理解と同時に、生徒による教師理解も大切なのではないでしょうか。つまり教育で大切なのは「生徒理解」だけはなく「教師と生徒の相互理解」というわけです。教師は生徒をより理解するために様々な努力をするだけでなく、自分という人間を理解してもらうためにも様々な試みをするべきではないかと思います。

そして理解が、「お互いが同じであること」を目標とした理解ではなく、「お互いが違いながらも共存し共栄できること」を目標とした理解であるなら ―ご興味のある方は拙稿「現代社会における英語教育の人間形成について -- 社会哲学的考察」をお読みください― その相互理解は、相互認証、つまりはお互いを認め合うことになるはずです。

日々の教室の営みの中で、教師は教師としての振る舞いをし、生徒は生徒として(つまりはまだ学ぶ意欲も知識も不十分な者として)振る舞うなかで、相互理解しようとし、その相互理解に基づいて相互認証した上で、学びに向かう共同体を作ることが、(言うまでもないことなのですが) あらゆる教育方法論に先立つ大前提だと思います。

制度的な意味での「教員」には、教員免許状があり学校に採用されれば誰でもなれます。しかし「師」という意味を強調しての「教師」には誰でもなれるわけにはなりません。「教師」とは「この先生にならついてゆこう」といった形で学ぶ者が認めるものです。そしてそのような学ぶ者による認証を得るためには、通常は、教える者が学ぶ者をよく理解し彼・彼女らを自分の生徒として受け入れる必要があります。

竹内敏晴氏も名著『教師のためのからだとことば考』(ちくま学芸文庫)の最後で「教師」と「教員」の意味合いの違いについて次のように述べています。

教師とは公用語ではない。公式には教官であり教員である。教師とは、授業者に対するある尊敬と期待をこめた民間の用語なのだ。

林竹二氏は、師とはファンクショナルな概念で、七十歳の老人が十歳の子どもを氏とすることがあり得る、と言った。固定した地位や職業ではないでしょうという意見だった。

つまり、師とは「師とされる」ものであって、「なる」ものではないということだ。 (244ページ)




教師が生徒をよく理解し、自ら考える理想の生徒像ではないにせよ、彼・彼女らなりの可能性を秘めた存在として認証し、同時に生徒が教師をよく理解し、自らの師として認証する、「教師と生徒の相互理解・相互認証」は、映画『カンフーパンダ』のテーマの一つでもありますが、私たちはこういった教育における人格的側面の重要性を忘れてはならないと思います。たとえ時代が、無人格的なシステム運営ばかりに邁進しているにせよ。





話を齋藤先生の実践に戻します。齋藤先生は上記エピソードを一例とするような授業実践で「中学英語は文法があるから難しそうだ」「文字を書くのもたいへんそうだ」という英語学習への不安を軽減します。そして小学校英語活動の財産である、意欲・関心・態度を、中学校での英語学習につなげようとします。

実際、生徒も上記のような活動を続けるうちに、だんだんと学習の「達成感」を求め始め、「教科書本文を読む」や「ワークの問題を解く」といった勉強的色彩の強い授業内容を好み始めていることが齋藤先生が行ったアンケートからも伺えました。

強引な単純化をするなら、人間はその場にいることが認められ不安がなくなり、その上でその場で行われている人間的な営み(私たちの場合なら「学び」)の楽しさや意義が示されるなら、自然とその営みに興味をもち、参加しようとする存在だと言えるかもしれません。

いずれにせよ面白い発表でした。齋藤先生はこれからどんどん活躍してゆく力量のある若手ですが、そんな彼女にとっても人前で発表する最初の機会というものは必要ですし重要です。その最初の機会がなんとかうまくゆけば、若手もそのような機会を自ら求めるようになるでしょうし、また機会の方からも若手にやってくるでしょう。若手教師にとってそのような意味で重要な機会を、同窓会的性格が強く、共同体的感覚に充ちた、この広島大学英語文化教育学会で行えたことは良かったと私は思っています。

これからも様々な形で教師の共同体あるいは場を活かすことを試行錯誤してゆきたいと思います。




2 件のコメント:

ポッピーママ さんのコメント...

柳瀬先生 お久しぶりです。
斎藤先生の実践に関する今日の記事、とっても心にしみています。
生徒と教師との相互理解相互認証。師とは相手が認めてくれて初めてなれるものなんだということを肝に銘じます。
生徒指導部長として一学期が終わりましたが、とにかく450人の全校児童の顔と名前を覚えようと必死です。やっぱり、担任や学年の先生だけでなく、担任外の先生方も見ていてくれるんだ、いろんな先生が自分のことに関心を持ってくれているんだということをわかってもらいたいから。(でも半分以上はボケ防止の脳活性化体操かも)
あと、いろんな先生方がいて、驚くこと考えてしまうことは多々ありますが、やはり、欠点や限界もお互いに受け入れつつ、個々の得意分野を生かしつつ、補い合うような関係ができればいいなぁと思っています。
若い頃は組合運動に熱心だったこともあって、イデオロギーで人を見ていたように思います。でも、今は、イデオロギーではなくて、その人が持つフィロソフィーとプリンシプルが重要なのだと考えが変わりました。
うちの地方は、日本一涼しい天然クーラー地方です。一度夏に来てみてください。

柳瀬陽介 さんのコメント...

ポッピーママさん、

お久しぶりです。投稿をありがとうございます。

450人の顔と名前を覚えようとするというのはすごいですね。(私は顔(というより目の表情)を覚えるのは得意なのですが、名前をしばしば失念してしまいます)。でも、そういった基本的なことこそが一番大切なんでしょうね。

私は昨晩、たまたまジョン・ホロウェイ(John Holloway)の最新刊を読みましたが、面白かったです。(前著は http://yanaseyosuke.blogspot.jp/2009/09/blog-post_24.html です)。

私にとって彼は行動指針になるかもしれないという予感がしています。