2012年8月14日火曜日

マルクス商品論(『資本論』第一巻第一章)のまとめ




■「学力の商品化」を考えるために、マルクスの「商品論」を読む

「英語学力および学力一般が、どんどん商品化しているような気がする」と私はかねがね思ってきたが、そう言いながら自分が「商品」についてきちんと考えたことがなかったことに気がついた。そこでこの夏の一つの課題としてマルクス『資本論』第一巻の第一章「商品」を読んでみることにした。

この読解の目的は、上記の類比的思考を精緻にすることだが、ここではその準備作業として、私の読解ノートを作ることにする。上記の類比を介入させない読解ノートを作っておくことで、この商品論読解を、これから他の目的のために使用することも可能になるので、以下、マルクスの商品分析にご興味のある方はお読みください(英語教育との直接の関連を強く求める方は、今の時点では読むのをお控えになった方がいいかもしれません。英語教育に関連させた文章は後日書きます)。



■商品・資本主義・近代に対する私の基本的態度

私は商品・資本主義・近代のどれも全面否定しないし、それらを転覆させようとも思っていない。だがこれらのあり方を冷静に見つめなおすことが現代の課題だとは思っている。私は「現実を破壊さえすれば幸福になれる」もしくは「現実は変えられないのだから適合するしかない」といった思考放棄を嫌っている。



■ノートの凡例

以下、■に私なりの小見出しをつけて、マルクスの商品論をまとめる。『資本論』読解に関しては五種類の邦訳、二種類の英訳、およびドイツ語原本を使用した(注1)。だが、まとめでは、思い切って私なりの言い換えや翻訳を使っているし、さらには若干の加筆もして、わかりやすさを優先している。『資本論』の忠実(あるいは厳密)な読解なら、良書がすでにたくさん公刊されているからである(注2)。しかし、もちろん、マルクスの趣意を裏切らないよう、できるだけ諸訳を参考にしながら原文を大切にすることを試みた。その一環として、以下若干の原文と英訳(ペンギン版)およびその部分の拙訳を提示している。原文と英訳の末尾につけられた( )内の数字は、引用元のページ数を表す。ただし私のドイツ語の語学力はひどいものなので多くの間違いも含まれているかもしれない。お気づきの方はご指摘くだされば幸いです。





ERSTES KAPITEL Die Ware

Chapter 1: The Commodity

第一章「商品」



■第一章全体の概要

資本主義的な生産体制が支配的な私たちの近代社会では、商品が社会の「豊かさ」を構成するものと考えられている。だから商品について分析することが私たちの社会を理解するために重要である。

商品の価値を「商品価値」(Warenwert / commodity value)と呼ぶなら、その商品価値は2つの側面― 使用価値 (Gebrauchwert / use-value) と 交換価値 (Tauchwert / exchange-value) ― を同時に有している(主に第1節)。

人間の労働とは、本来、自然に働きかけて、生きるために役立つ価値(使用価値)をつくりだすための有用労働 (nützliche Arbeit / useful labor) である。しかし使用価値をもつ「もの」(äußerer Gegenstand, ein Ding (49)/ an external object, a thing) が商品として交換されると、それは抽象的人間労働 (abstract menschliche Arbeit / human labour in the abstract)を体現するものという側面をもちはじめる。(主に第2節)

以上の関係を単純に図示すると以下のようになる。


ものが交換されることにより、ものの商品化が進展するのだが、その交換形態は、(a)単純・個別・偶然的な交換、(b)商品群全体に展開してゆく交換、(c)一般的な交換、(d)貨幣による交換、の順で進展してゆき、それぞれの段階で交換価値をあり方を変えてゆく。(主に第3節)

商品は、近代の資本主義的社会で支配的な存在であり、私たちは商品関係をあまりにも当然視しているが、商品関係にあまり支配されない社会のあり方もある。その一つは前近代的社会のあり方であり、また脱近代的なあり方であろう。(主に第4節)





1. Die zwei Faktoren der Qare: Gebrauchswert und Wert (Wertsubstanz, Wertgröße)

1. THE TWO FACTORS OF THE COMMODITY: USE-VALUE AND VALUE (SUBSTANCE OF VALUE, MAGNITUDE OF VALUE)

第一節 商品の二つの要因:使用価値と価値(価値の実体、価値の大きさ)


■社会の豊かさ

私たちの多くは、より多くの商品を消費できることを社会の豊かさ、ひいては人間の幸福と信じている(この信念は福島の原発事故以降も、多くの日本の権力者から消え去ることはない)。しかし、この商品を基礎とした考え方 ― 言ってみるなら「商品信仰」― は資本主義によって育まれたものである。

私たちが資本主義的あり方にどっぷりと使っている以上、この社会のあり方、特に「商品」のあり方、について分析を加えることは、格別の困難を伴うことかもしれない。しかし、技術革新と共に楽になるかと思えばますます忙しくなり、会社の繁栄と共に雇用条件が良くなるかと思えばますます過酷になり、人間が社会システムを制御するのではなく社会システムが人間を支配しているようにすら思える今の社会のあり方を振り返るためには、商品について分析的に考察することは重要である。

Der Reichtum der Gesellschaften, in welchen kapitalistische Produktionsweise herrscht, erscheint als eine „ungeheure Warensammlung", die enzelne Ware als seine Elementaform. (49)

The wealth of societies in which the capitalist mode of production prevails appears as an 'immense collection of commodities'; the individual commodity appears as its elementary form. (125)

資本主義的生産体制が支配的な社会では、社会の豊かさとは「商品が満ち溢れていること」であるように見える。これらの社会では一つひとつの商品が、社会の基礎的な形態であるように見える。



■使用価値

商品には使用価値と交換価値という二つの側面があるのだが、このうち使用価値 (Gebrauchwert / use-value)は、人間にとってより根源的なものであり、これはただ単に「あるものが役に立つこと」 (die Nützlichkeit eines Dings (50) / the usefulness of a thing (126)) と説明することができる。



■「真価」

17世紀の英国での語法では、使用価値は「真価」 (worth) 、交換価値は「価値」 (value) としばしば使い分けられていた。これは直接的な概念には古英語の単語を使い、反省的な概念についてはロマンス語の単語を使う当時の習慣にかなったものである(50/126)。「真価」(worth)という用語はアレントも『人間の条件』で使用している。(詳しくは「アレント『人間の条件』による田尻悟郎・公立中学校スピーチ実践の分析」を参照のこと)

„Der natürliche worth jedes Dinges besteht in seiner Eignung, die notwendigen Bedürfnisse zu befrieden oder den Annehmlichkeiten des menschlichen Lebens zu dienen." (John Locke, „Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest", 1691, in „Works", edit. Lond. 1777, v. II, p.28) Im 17.Jahrhundret finden wir noch häufig bei englischen Schriftstellern „Worth" für Gebrauchswert und „Value" für Tauschwert, ganz im Geist einer Sprache, die es liebt, die unmittelbare Sache germanisch und die reflektierte Sache romanisch auszudr¨cken. (50)

'The natural worth of anything consists in its fitness to supply the necessities, or serve the conveniences of human life' (John Locke, 'Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest' (1691), in Works, London, 1777, Vol. 2, p. 28). In English wirters of the seventeenth century we still often find the word 'worth' used for use-value and 'value' for exchange value. This is quite in accoreance with the spirit of a language that likes to use a Teutonic word for the actual thing, and a Romance word for its reflection. (126)

「ものごとの自然な真価は、人間の生活の必要性を満たしたり人間の生活を便利にしたりすることにより成立する」(ジョン・ロック  'Some Considerations on the Consequences of the Lowering of Interest' (1691), in Works, London, 1777, Vol. 2, p. 28)  17世紀の英国の著作家は、使用価を表すために「真価」(worth)、交換価値を表すために「価値」(value)をしばしば使っていた。これは、直接的なものを表すのにチュートン [ゲルマン] 語を使い、それを省察した概念を表すのにロマンス語を使うという英語の慣用法にかなったものであった。



■交換価値 

他方、交換価値 (Tauchwert / exchange-value) については、これから少しずつその意味を説明するが(特に抽象的人間労働の説明には注目していただきたい)、まず、交換価値とは、他の使用価値をもつ他のものと交換される量的関係であると説明しておく。この量的関係は時代や場所によって異なる。

Der Tauschwert erscheint zunächst als das quantitative Verhältnis, ide Proportion, worin sich Gebrauchswerte einer Art gegen Gebrauchswerte anderer Art asutauchen, ein Verhältnis, das beständig mit Zeit und Ort wechselt. (50)

Exchange-value appears first of all as the quantitative relation, the proportion, in which use-value of one kind exchange for use-values of another kind. This relation changes constantly with time and place. (126)

交換価値は、まずは、別種の使用価値と交換する際の、量的関係として現れる。この量的関係は時や場所により常に変動する。



■質的な使用価値と量的な交換価値

「使用価値は質的な違い、交換価値は量的な違い」とも説明することができる。量的な交換価値において、使用価値の質的な違いは捨象される。

Als Gebrauchswerte sind die Waren vor allem verschiendner Qualität, als Tauschwerte können sie nur verschiedner Quantität sein, enthalten also kein Atom Gebrauchswert. (52)

As use-values, commodities differ above all in quality, while as exchange-values they can only differ in quantity, and therefore do not contain an atom of use-value. (128)

商品は、使用価値の点では主に質的に異なると言えるが、交換価値の点では量的に異なるとしか言えない。ゆえに、交換価値の点から考えられた商品には、使用価値の要素はまったく含まれていない[と考えるべきである]。



■抽象的人間労働

交換価値の量とは、抽象的人間労働 (abstract menschliche Arbeit / human labour in the abstract) である。抽象的人間労働とは、特定の人間の労働ではなく、あるものを作り出すために必要とされる労働時間を、社会的に平均して抽象化した概念の労働である。

Gesellschafaftlich notwendige Arbeitszeit ist Arbeitszeit, erheischt, um irgendeinen Gebrauchswert mit den vorhandenen gesellschaftlich-normalen Productionsbedingungen und dem gesellschaftlichen Duruchschnittsgrad von Geschick ndt Intensität der Arbeit dazustellen. (53)
Socially necessary labour-time is the labour-time required to produce any use-value under the conditions of production normal for a given society and with the average degree of skill and intensity of labour prevalent in that society. (129)
 社会的に決定される必要労働時間とは、ある社会の標準的な生産条件下で、その社会でよく見られる技術的熟練度と労働強度でもって、ある使用価値を生産するために必要とされる労働時間である。



■商品価値

商品の価値を量的に考えるなら、抽象的人間労働(あるいは社会的に決定される必要労働時間)がその商品に体現しているからこそ、その商品には価値があるとなる。ある商品がある個人にとって役に立つ、といった使用価値の特定の質的な側面を捨象して、抽象的に量的のみに考えるなら、商品には人間の労働が込められているからこそ価値があるとなる。この価値とは社会的な価値である。

マルクスは、この商品の価値を、時折「商品価値」 (Warenwert / commodity value) と述べるが、たいていの場合はただ単に「価値」(Wert / value) と呼ぶ。これは『資本論』が近代の資本主義的社会の分析なので、近代資本主義社会での「価値」とは、「商品価値」を基本とするものである以上、正当化される省略的な用語法であるが、少なくとも私は当初この用語法にとまどった。したがってこのノートはできるだけ「価値」の代わりに「商品価値」という用語を使用する

Betrachten wir nun das Residuum der Arbeitsprodukte. Es ist nichts von ihnen übriggeblieben asl dieselbe gespenstige Gegenständlichkeit, eine bloße Gallerte unterschiedsloser menschlicher Arbeit, d.h. der Veaausgabung menschlicher Arbeitskraft ohne Rücksicht auf die Form ihrer Verausgabungn. Diese Dinge stellen nur noch dar, daß in ihrer Production menschliche Arbeiotskraft verausgabt, menschliche Arbeit aufgehäuft ist. Als Kristalle dieser ihnen gemeinschaftlichen gesellschatflichen Substanz sind sie Werte - Warenwerte. (52)

Let us now look at the residue of the products of labour. There is nothing left of them in each case but the same phantom-like objectivity; they are merely congealed quantities of homogeneous human labour, i.e. of human labour-power expended without regard to the form of its expenditure. All these things now tell us is that human labour-power has been expended to produce them, human labour is accumulated in them. As cristals of this social substance, which is common to them all, they are values - commodity values. (128)

労働の生産物から [使用価値に関わる物質的基盤を除いた後に残る]残滓について考えてみよう。もうここには幻のような対象しか残っていない。残っているのは、均質化された人間労働、つまりはどのような形で行使されたかはすべて捨象してしまった形での人間労働が、凝結した量だけである。これらのことから言えるのは、この [幻のような対象でしかない] 残滓に、人間労働の行使結実し、人間労働が蓄積しているということである。これは社会的な構成体であり、その結晶が、すべての商品に込められている。これこそが価値、すなわち商品価値である。



■使用価値があっても商品ではないものがある

人が自分のために何か使用価値があるものを創りだしても、それが、(1)他人のための使用価値(社会的使用価値 (gesellschaftlichen Gebrauchswert / social use-value)であり、かつ(2)交換されなければ、それは商品とは言えない。

Ein Ding kann nützlich und Produkt menschlicher Arbeit sein, ohne Ware zu sein. Wer durch sein Produkt sein eignes Bedürfnis befriedigt, schaft zwar Gebrauchswert, aber nicht Ware. Um Ware zu produzieren, muß er nicht nur Gebrauchswert produzieren, sondern Geburauchswert für andere, gesellschaftlichen Gebrauchswert. {Und nicht nur f&uumlr andre schlechthin. ... Um Ware zu werden, muß das Produkt dem anderen, dem es als Gebrauchswert dient, duruch den Austasch übertratgen werden.} (55)

A thing can be useful, and a product of human labour, without being a commodity. He who satisfies his own need with the product of his own labour admittedly creates use-values, but not commodities. In order to produce the latter, he must not only produce use-values, but use-values for others, social use-values. (and not merely for others. ... In order to become a commodity, the product must be transferred to the other person, for whom it serves as a use-value, through the medium of exchange.) (131)

あるものが、有用でかつ人間労働の産物でありながら、商品ではないということはありうる。みずからの労働でみずからの必要を充たす者は、使用価値を生み出しているとは言えるが、商品を作り出しているとは言えない。商品を作りだすためには、ただ単に使用価値を生み出すだけでなく、他人のための使用価値、すなわち社会的使用価値を生み出さなければならない。(さらに言うなら、他人のための使用価値を作りだすだけでは不十分である。・・・労働の生産物が商品になるためには、それは他の人に交換を通じて移譲され、その人にとって使用価値のあるものとして役に立たなければならない)。



■そもそも使用価値がまったくなければ、それは商品とは言いがたい

いくらある人が苦労してあるものを作ったとしても、それが誰の役にも立たないならそれは商品とは言えないし、その苦労も労働と呼ぶべきではない。

Enldich kann kein Ding Wert sein, ohne Gebrauchsgegenstand zu sein. Ist es nutzlos, so ist auch die in ihm enthaltene Arbeit nutzlos, zählt nicht asl Arbeit und bildet daher keinen Wert. (55)

Finally, nothing can be a value without being an object of utility. If the thing is useless, so is the labour contained in it; the labour does not count as labour, and therefore creates no value.

最後につけ加えておくと、もしあるものが、何の使用の対象でもありえなかったら、それは商品価値 [を有するもの] ではありえない。もしそれが役に立たないのなら、それを作るための労苦も役に立たなかったのであり、その労苦は労働と考えられるべきではない。したがってその労苦は商品価値は生み出さなかったのである。





2. Doppelcharakter der in den Waren dargestellen Arbeit

2. THE DUAL CHARACTER OF THE LABOUR EMBODIED IN COMMODITIES

第二節 商品に体現している労働の二重性




■有用労働

商品は商品価値をもち、その商品価値には使用価値と交換価値の二つの側面があるのであった。このうち、後者の交換価値を基礎づけて社会的な関係の中で生み出しているのは、抽象的人間労働であった。他方、前者の使用価値を生み出しているのは、有用労働 (nützliche Arbeit / useful labor)である。

有用労働は、抽象的人間労働と違って、なんら特別なものでない。私たちが日常行なっている、特定の目的のために特定の手段で行う、何か役立つもの(例、コート)を作り出す労働である。(56/132)

Der Rock ist ein bebrauchswert, der ein besonderes Bedürfnis befriedigt. Um ihn hervorzubringen, bedarf es ener bestimmten Art produktiver Tätigkeit. Sie ist destimmt duruch ihren Zweck, Operationsweise, Gegenstand, Mittel und Resultat. Die Arbeit, deren Nützlichkeit sich so im Gebrauchswert ihres Produkts oder darin darstellt, daß ihr Produkt ein Gebrauchswert ist, nennen wir kurzweg nützliche Arbeit. Unter diesem Gesichtpunkt wird sie stets betrachtet mit Bezug auf ihren Nutzeffekt. (56)

The coat is a use-value that satisfies a particular need. A specific kind of productive activity is required to bring it into existence. This activity is determined by its aim, mode of operation, object, means and result. We use the abbreviated expression 'useful labour' for labour whose utility is represented by the use-value of its product, or by the fact that its product is a use-value. In this connection we consider only its useful effect. (132)

コートはある特定の必要を充たす使用価値 [を有するもの]である。コートを作り出すには、特定の種類の生産活動が必要とされる。この活動は、コートを作る目的、作業方法、対象、手段、結果によって決定される。生産物の使用価値 (あるいは生産物そのもの) で自身の有用性を示す労働を私たちは「有用労働」という用語で呼ぶことにする。この観点では、私たちは生産物がどれだけ役立つかということだけを考えている。



■有用労働は資本主義社会だけでなくどのような社会にも見られる

商品を作り出し、商品価値を基礎づける抽象的人間労働はもっぱら資本主義社会に見られるものだが、有用労働はどんな社会にも見られる。

Als Bildnerin von Gebrauchswerten, als nützliche Arbeit, ist die Arbeit daher eine von allen Gesellschaftsformen unabhängigen Existenzbedingung des Menschen, ewige Natuurnotwendigkeit, um dem Stoffwchsel zwischen Mensch und Nature, also das menschliche Leben zum vermitteln.

Labour, then, as the creator of use-values, as usefl labour, is a condition of human existence which is independent of all forms of society; it is an eternal natural necessity wich mediates the metablism between man and nature, and therefore human life itself.

使用価値を作り出す有用労働としての労働は、いかなる社会形態でも見られる、人間が生き残るための条件である。これは人間と自然の間の代謝関係、すなわち人間の生命を媒介するものである。



■商品/労働の二重性:交換価値/抽象的人間労働と、使用価値/有用労働

商品と労働は、それぞれに二重の側面をもつ。商品は交換価値と使用価値を、労働は抽象的人間労働と有用労働の側面をもつ。これら二つの側面は、どちらか一方が他方に還元できる性質のものではない。だが交換価値は抽象的人間労働と、使用価値は有用労働と通底している。

Alle Arbeit ist einerseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft im physiologischen Sinn, und in dieser Eigenschaft gleicher menschlicher oder abstrakt menschlicher Arbeit bildet sie den Warenwert. Alle Arbeit ist andereseits Verausgabung menschlicher Arbeitskraft in besonder zweck-bestimmter Form, und in dieser Eigenschaft konkreter nützlicher Arbeit produziert sie Gebrauchswerte. (61)

On the one hand, all labour is an expenditure of human labour-power, in the physiological sense, and it is in this quality of being equal, or abstract, human labour that it forms the value of commodities. On the other hand, all labour is an expenditure of human labour-power in a particular form and with a definite aim, and it is in this quality of being concrete useful labour that it produes use-values. (137)

すべての労働は、ある一面からすれば、人間労働力の生理学的な意味での行使であり、この特性において労働は、 [ある社会の構成員にとって] 同等の人間的労働あるいは抽象的人間労働であり、この特性において商品価値は形成される。[しかし] 別の面からすれば、すべての労働は、人間労働力の、ある目的によって決定された特定の形態での行使であり、この有用労働の具体性という特性において、労働は使用価値を生み出すのである。





3. Die Wertform oder der Tauschwert

3. THE VALUE-FORM, OR EXCHANGE VALUE

第三節 価値形態もしくは交換価値



■商品の交換価値は、物質的なものではなく、社会的に構成されるものである。

Im graden Gegenteil zur sinnlich groben Gegenständlichkeit der Warenk&oumlper geht kein Atom Naturstoff in ihre Wertgegenständlichkeit ein. Man mag daher eine einzelne Ware drehen und wenden, wie man will, sie bleibt unfaßbar als Wertding. Erinnern wir uns jedoch, daß die Waren nur Wertgegenständlichkeit besitzen, sofern sie Ausdrücke derselben gesellschaftlichen Einheit, menschlcher Arbeit, sind, daß ihre Wertgegensändlichkeit also rein gesellschaftlich ist, so versteht sich auch von selbst, daß sie unr im gesellscaftlichen Verhätnis von Ware zu Ware erscheinen kann. (62)

Not an atom of matter enters into the objectivity of commodities as values; in this it is the direct opposite of the coarsely sensuous objectivity of commodities as physical objects. We may twist and turn a single commodity as we wish; it remains impossible to grasp it as a thing possessing value. However, let us remember that commodities possess an objective character as values only in so far as they are all expressions of an identical social substance, human labour, that theri objective character as values is therefore purely social. From this it follows self-evidently that it can only appear in the social relation between commodity and commodity. (138)

物質体としての商品がもつ、ざらざらとした感覚的な対象性とまったく異なり、商品価値の対象性には、自然物の原子は一切入っていない。ある商品をどれだけこねくりまわしても、商品価値物としての商品に直接触ることはできない。しかし、商品が商品価値としての対象性をもつのは、商品が同じ社会的単位すなわち人間労働である限りのことであること、故に商品価値の対象性とは純粋に社会的なものであることを思い出せば、商品価値の対象性とは、商品と商品の社会的関係の中にしか現れえないことは自明となるであろう。



■四種類の価値形態

この節では四種類の価値形態が順に説明される。A) 単純・個別・偶然的な価値形態、 B)全体的・展開的な価値形態、 C) 一般的価値形態、 D) 貨幣形態である。これらはこの順番で進展すると論理的には考えられる。



■ A) 単純・個別・偶然的な価値形態

単純・個別・偶然的な価値形態 (Enifache, einzelne oder zufällige Wertform (63) / The simple, isolated, or accidental form of value (139))は次の形を取る。ある商品が、他のある商品と単純に、そしてたまたま、交換されるだけである。

x Ware A = y Ware B oder: x Ware A ist y Ware B wert.

x commodity A = y commodity B or: x commodity A is worth y commodity B.

商品AのX量 = 商品BのY量。 すなわち、X量の商品AがY量の商品Bと同じ商品価値をもつ。




■ B)全体的・展開的な価値形態

全体的・展開的な価値形態 (Totale oder enfaltete Wertform (77) / The total or expanded form of value (154))は、次の形を取る。ある商品が他の商品と交換されるが、後者もさらに他の商品と交換され・・・と、交換関係は次々に展開され、やがては商品群全体にまで及ぼうとする。

z Ware = u Ware B oder v Ware C oder w Ware D oder = x Ware E oder = etc.

z commodity A = u commodity B or = v commdidy C or = w commodity D or = x commmodity E or = etc.

z量の商品A = u量の商品B、または = v量の商品C、または = w量の商品D、または = x量の商品E、または = その他諸々。




■ C) 一般的価値形態

一般的価値形態 (Allgemeine Wertform (79) / The general form of value (157))は次の形を取る。あらゆる商品が、特定の商品と交換されるようになる。逆に言うなら、その特定の商品が、あらゆる商品の交換価値を体現するものさしのようなものになる。





■ 一般的価値形態においてはじめて商品世界が十全に現れる

Die neugewonnene Form drückt die Werte der Warenwelt in einer und derselben von ihr abgesonderten Warenart aus, z.B. in Leinwand, und stellt so die Werte aller Waren dar durch ihre Gleichheit mit Leinwand. Als Leinwandgleiches ist der Wer jeder Ware jetzt nicht nur von ihrem eignen Gebrauchswert unterschieden, sondern von allem Gebrauchswert, und ebendaduruch als das ihr mit allen Waren Gemeinsame ausgedrückt. Erst diese From bezieht daher wirlkich die Waren aufeinander als Werte oder läßt sie einander als Tauschwerte erscheinen. (80)

The new form we have just obtained expresses the values of the world of commodities through one single kind of commodity set apart from the rest, through the linen for example, and thus represents the values of all commodities by means of their equality with linen. Through its equation with linen, the value of every commodity is now not only differentiated from its own use-value, but from all use-values, and is, by that very fact, expressed as that which is common to all commodities. By this form, commodities are, for the first time, really brought into relation with each other as values, or permitted to appear to each other as exchange values. (158)

今、確認したこの新しい形態 [=一般的価値形態] は、他の商品とは切り離された一つの商品 ―例えば亜麻布― を通じて、商品世界の商品価値を表現する。かくして、すべての商品の商品価値は、亜麻布と同等であることで表される。亜麻布と同等とされることによって、それぞれの商品の商品価値は、それぞれの使用価値から区別されるだけでなく、すべての使用価値からも区別され、そのことにより、すべての商品に共通なものとして表現される。この価値形態によって商品ははじめて現実に互いが商品価値であるように見え始める。言い換えるなら、この価値形態によってはじめて現実に互いを交換価値として見えさせるようになるのである。



■ D) 貨幣形態

貨幣形態 (Geldform / The money form) は、上記の一般的価値形態の「20ヤードの亜麻布」が、「2オンスの金(きん)」に換わった形を取る(図は省略)。一般的価値形態と、この貨幣形態の違いは、後者では金が、交換価値を表現するための独占的な役割をはたしている商品になっていることである。この独占的な商品が貨幣である。

Gold tritt den andren Waren nur als Geld gegenüber, weil es ihnen bereits zuvor als Ware gegenüberstand. Gleich allen andren Waren funktionierte es auch als Äquivalent, sei es als einzelnes Äquivalent in verreinzelten Austauschakten, sei es als besondres Äquivalent neben andren Waren-äquivalenten. Nach und nach funktionierte es in engeren oder weiteren Kreisen als allgemeines Äquivalent. Sobald es das Monopol dieser Stelle in Wertausdruck der Warenwelt erobert hat, wird es Geldware, und erst von dem Augenblick, wo es bereites Geldware geworden ist, unterscheidet sich Form IV von Form III, oder ist die allgemeine Wertform verwandelt in die Geldform. (84)

Gold confronts the other commodities as money only because it previously confronted them as a commodity. Like all other commoditiesit also functioned as an equivalent, either as a single equivalent in isolated exchanges or as a particular equivalent alongside other commodity-equivalents. Gradually it began to serve as universal equivalent in narrower or wider fields. As soon as it had won a monopoly of this position in the expression of value for the world of commodities, it became the money commodity, and only then, when it had already become the money commodity, did form D become distinct from form C, and the general form of value come to be transformed into the money form. (162-163)

金(きん)が他のすべての商品に貨幣として対峙するのも、ひとえに金が以前は他の商品に対してひとつの商品として対峙していたからである。他のすべての商品と同じように、金は [Aの単純・個別・偶然的な価値形態として] 孤立した形で単独の等価物として交換されていたか、 [Bの全体的・展開的な価値形態として] 他の一連の等価物と並ぶある特定の等価物として交換されていた。[しかしながら] やがて金は、様々な圏内で、普遍的な等価物として機能し始める。そして、金が商品世界の商品価値を表現する地位を独占した瞬間、金は貨幣商品となる。金が貨幣商品となった時はじめて、このDの貨幣形態はCの一般的価値形態と区別されるようになる。この段階で一般的価値形態は、貨幣形態へと変容するのである。





4. Der Fetischcharaketer der Ware und sein Geheimnis

4. THE FETISHISM OF THE COMMODITY AND ITS SECRET

第四節 商品への倒錯的信仰とその秘密



■社会的構成体に過ぎなかった交換価値が、商品という物体に内在していると錯誤することから、商品への倒錯が始まる

本来、私たちは、商品の交換から、抽象的人間労働の量というものを社会的に構成(想定)し、それをもって交換価値としていた。つまり交換価値は労働と交換という社会的関係に存していたのだが、やがて交換価値は商品という物体そのものにあると私たちは考え始める。私たちは商品世界の基盤である人間の労働そしてその労働生産物の交換という社会的関係を忘却し始める。そうなると商品とは物体でありながら、(社会的関係という)物体を超えたものでもある不思議なものに思えてくる。



Das Geheimnisvolle der Warenform besteht also einfac darin, daß sie den Menschen die geselschaftlichen Charaktere ihrer eignen Arbeit als gegenständliche Charaktere der Arbeitsprodukte selbst, als gesellschaftliche Natureigenschaften dieser Dinge zurückspiegelt, daher auch das gesellschaftliche Verhältnis der Produzenten zur Gesamtarbeit als ein außer ihnen existierendes gesellschaftliches Verhätnis von Gegenständen. Durch dies Quidproquo werden die Arbeitsprodukte Waren, sinnlich übersinnliche oder gesellschaftliche Dinge. (86)

The mysterious character of the commodity-form consists therefore simply in the fact that the commodity reflects the social characteristics of men's own labour as objective characteristics of the products of labour themselves, as the socio-natural properties of these things. Hence it also reflects the social relation of the producers to the sum total of labour as a social relation between objects, a relation which exists apart from and outside the producers. Through this substitituion, the products of labour become commodities, sensuous things which are at the same time supra-sensible or social. (164-165)

商品形態の秘密は次のことにある。商品形態は、人間の労働の社会的性質を、労働生産物自体が客観的に有している性質、物自体に存している社会的属性として人間に写し出してしまう。かくして、生産者という人々の社会的関係が、商品という物体の間の社会的関係として、つまりは生産者という人々とは離れて人々の関係の外部にある対象の間の社会的関係として写し出されてしまう。この錯誤により、労働生産物は商品となり、感覚で捉えられるものでありながら同時に感覚で捉えられない社会的な物体となるのである。



■本来ないものがあると信じてしまうことは倒錯である。

本来は物体としての商品そのものに存していない、人間の社会的関係を、商品そのものにあると信じてしまうことは、倒錯(Festischimus /fetishism)である。

Um daher eine Analogie zufinden, müssen wir in die Nebelregion der religiösen Welt flüchten. Hier scheinen die Produkte des menschlichen Kopfes mit eigem Leben begabte, unter-einander und mit den Menschen in Verhältnis stehende selbständige Gestalten. So in der Warenwelt die Prodkte der menschlichen Hand. Dies nenne ich den Festischimus, der den Arbeitsprodukten anklebt, sobald sie als Waren produziert werden, und der daher von der Warenproduktion unzertrennlich ist. (86-87)

In order, therefore, to find an analogy we must take flight into the misty realm of religion. There the products of the human brain appear as autonomous figures endowed with a life of their own, which enter into relations both with each other and with the human race. So it is in the world of commodities with the products of men's hands. I call this the fetishism which attaches itself to the products of labour as soon as they are produced as commodities, and is therefore inseparable from the production of commonidites. (165)

これ [商品] と類比関係にあるものを見つけようとするなら、私たちは宗教という曖昧模糊とした領域に飛び込んでゆかねばならない。宗教という領域では、それ自身の生命をもち、お互いにそして人間とも関係を結ぶと人間の頭が想像したたまものが、自立した形成体として現れる。これと同じことが、人間の手が作り出したものにすぎない生産物である商品の世界でも生じている。これが倒錯である。労働生産物が商品として生産されるやいなや、すぐにその労働生産物に貼り付き、商品という生産物から剥がせなくなってしまう。



■商品に関する倒錯が、資本主義社会の基本的は思考形態となってしまっている。

商品に商品以上のものを読み込んでしまい、商品を崇めてしまう思考法は、商品交換(による資本の増大)を基盤とする資本主義社会においての基本的な思考形態となってしまう。私たちはこの思考形態の倒錯性をなかなか見抜けなくなってしまい、商品の背後にある人間の営みを忘却してしまい、商品そのものを倒錯的に偏愛してしまう。



Derartige Formen bilden eben die Kategorien der bürgerlichen Ökonomie. Es sind gesellschaftliche gültige, aslo objective Gedankenfromen für die Produktionsverhältnisse dieser historisch bestimmten gesellschaftlichen productionsweise, der Warenproduktion. (90)

The categories of bourgeois economics consists precisely of forms of this kind. They are forms of thought which are socially valid, and therefore objective, for the relations of production belonging to this historically determined mode of social production, i.e. commodity production. (169)

この種の形態こそが、ブルジョア経済学 [=生産手段を有する資本家のための経済学] の思考範疇を形成している。この形態は、商品生産という歴史的に形成されてきた社会生産様式での生産物の関係を示すためには、社会的に妥当であり、ゆえに客観的な思考形態だとされている。



■中世という前近代的な、しかしもっぱら人格的関係で編み上げられた社会には、倒錯はなかったはずだ

近代資本主義社会は、生産物を交換のために分業的に生産し、交換関係を無人格的なものにしてきた。そこでは生産者や購買者も、固有の人格として現われずに、無人格的な存在として現われている(あるいは生産や購買という経済的行為が人格化した存在として現れている)。生産者や購買者という人間を無人格化するまでに労働と交換の関係を拡大させた近代資本主義社会では、上記の倒錯が生じる。

しかし、労働や交換が無人格化されずに、いわば人の顔と顔が見える範囲で労働や交換が行われていた社会(例えばヨーロッパ中世社会)では、労働の生産物は倒錯化した商品として現われない。労働生産物をめぐる社会的関係は、固有の人格的関係として現れる。マルクスは中世世界について以下のように書く。


Persöniche Abhängigkeit charakterisiert ebsososehr die gesellscahtlichen Verhältnisse der materiellen produktion als die auf ihr aufgebauten Lebenssphären. Aber eben weil persönlche Abhängigkeitsverhältnisse die gegebne gesellschaftliche Grundlage bilden, brauchen Arbeiten und produkte nicht eine von ihr Realität verschiendne phantastische Gestalt anzunehmen. Sie gehn als Naturaldienste und naturalleistungen in das gesellschaftliche Getriebe ein. Die Naturalform der Arbeit, ihre Besonderheit, und nicht, wie auf Grundlage der Warenproduction, ihre Allgemeinheit, ist hier ihre ummittelbar gesellschaftliche Form. (91)

Personal dependence characterizes the social relations of material production as much as it does the other spheres of life based on that production. But precisely because relations of personal dependence form the given social foundation, there is no need for labour and its products to assume a fantastic form different from their reality. they take the shape, in the transactions of society, of services in kind and payments in kind. The natural form of labour, its particularity - and not, as in a society based on commodity production, its universality - is here its immediate social form. (170)

[中世世界では] 人格的依存関係が、物質的な生産物およびおよびそれに依拠する生活領域の特徴をなしている。しかし人格的依存関係が、その社会の基盤を形成してるので、労働と生産物は、現実から切り離された幻影的な形態をとる必要がない。労働はあるがままの奉仕として、生産物はあるがままの産物として社会の構造の中に組み込まれている。労働のあるがままの形態は、商品生産を基盤とした社会のように一般性でなく、具体性であり、この具体性が直接的な社会の形態となる。



■ 中世社会の労働関係は、人格的関係として認識され、商品関係としては認識されていなかった。

資本主義社会ほどに労働と交換が、無人格的になるまでに拡大されていなかった中世社会では、労働は人と人との人格的関係として認識されており、商品世界の倒錯的関係は見られなかった。(もちろん、これは中世社会の無批判的な肯定ではない。中世社会にはそれ固有の欠点があったはずであることは、近代資本主義的社会に固有の欠点があることと同じであり、また近代資本主義社会に固有の良さがあることと同じである)。

Wie man daher immer die Charaktermasken beurteilen mag, worin sich die Menschen hier gegenübertreten, die gesellschaftlichen Verhältnisse der Personen in ihren Arbeiten erscheinen jedenfalls als ihr eigen persönlichen Verhältnisse und sind nicht verkleidet in gesellschaftliche Verhältnisse der Sachen, der Arbeitsprodukte. 891-92)

Whatever we may think, then, of the different roles in which men confront each other in such a society, the social relations betwen individuals in the performance of their labour appear at all events as their own personal relations, and are not disguised as social relations between things, between the products of labour. (170)

[中世世界で] 人々がどのように自らの性格を覆い隠していたかについてどのように判断するにせよ、人々の労働における社会的関係は、つねに固有の人格的関係として現われ、労働生産物という物の社会的関係というように形を変えないのである。



(ノートを完成させたら疲れてしまったので、上記に含まれているだろう誤植のチェックは後日にします)

以上





(注1)

日本語翻訳としては、岩波文庫、大月書店、新日本出版社、筑摩書房、日経BP社による翻訳書を参照した。このうち私にとって一番役に立ったのは、日本語が一番自然な中山元氏による日経BP社の翻訳である。




英訳については、Marx and Engels Internet Archive (http://www.marxists.org/archive/marx/)の英語翻訳が無料で使えるが、例えば原典52ページのWarenwerteの訳を消失させていたりなどと今ひとつ信頼しがたかったので、ペンギン版の翻訳を使った(結局、紙媒体とKindle媒体の両方で書い、読むためには紙媒体、原文をエディタに書き写すためにはKindle媒体を使った。Kindle媒体からのコピー・ペーストができなかったのは残念である)。

このペンギン版の翻訳は、英語圏では定訳となっているようであり、また、実際非常に読みやすいものであった。(ある意味、日本語訳よりも読みやすかったとすら言えるかもしれない)。






(注2)

マルクス『資本論』の入門書として、私はこれまで池上彰『高校生からわかる「資本論」』集英社を一番重宝していたが(笑)、デヴィッド・ハーヴェイによる『〈資本論〉入門』は圧倒的にわかりやすかった。今回、『資本論』を翻訳で読み、重要箇所を原典で確認する前に、この『〈資本論〉入門』を読んでおいたことがどれだけ役立ったかわからない。





ちなみにこの本は、オンラインの無料講義の書籍化(の翻訳)である。


Reading Marx's Capital with David Harvey

http://davidharvey.org/




また、マルクスが校閲・加筆修正した『マルクス自身の手による資本論入門』 もわかりやすいものであった。



ちなみに、20年ぶりぐらいに再読した廣松渉の次の本も、わかりやすかった。廣松の日本語は、巷で言われるほどに晦渋ではないと私は考える。






ついでながら述べておくと、これだけの本を日本語翻訳で読めることを私は心底ありがたく思うし、これだけの翻訳文化を作り上げてきた先人の努力に心からの敬意を抱いている(昔の人は本当に頭がよかった)。

また、今回、自分なりの日本語訳を作ろうとする中で、原文の理解が深まった。翻訳は、精読の唯一のとは言わないまでも、最良の方法の一つであることを再認識した。





参考:柳瀬ブログの中のマルクス関連記事









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