2012年7月2日月曜日

「英語教育研究法の過去・現在・未来」(中部地区英語教育学会課題研究プロジェクト)



第42回中部地区英語教育学会岐阜大会のシンポジウムでコミュニケーション・モデルの再検討から考える 英語教師の成長を発表させていただきました。比較的大きな会場に立ち見がでるぐらいの大入りで、それなりに面白いシンポジウムになったのではないかと思っています。同大会の実行委員長である亀山太一先生と事務局長である杉野直樹先生をはじめとする皆様には大変お世話になりました。私自身、そのシンポジウムでの議論や懇親会でのお話などから大いに学ぶことができました(同時に中部地区英語教育学会の勢いを感じました。残念ですが、私が所属する中国地区英語教育学会にはこれだけの活気はありません)。

その中でも特に勉強になったのが、同学会の「課題研究プロジェクト」(三年計画の一年目)として発表された「英語教育研究法の過去・現在・未来」です。この資料は、北海学園大学の浦野研先生のサイトに掲載されています。



課題別研究プロジェクト:英語教育研究法の過去・現在・未来

http://www.urano-ken.com/research/project/index.html


プロジェクトメンバーは、浦野研先生(北海学園大学)、酒井英樹先生(信州大学)、髙木亜希子先生(青山学院大学)、田中武夫先生(山梨大学)、藤田卓郎先生(福井県立坂井農業高校)、本田勝久先生(千葉大学)、亘理陽一先生(静岡大学)で、当日は本田先生を除く方々がご登場なさいました(髙木先生は、他の発表との関連で、遅れて登場)。どの方も聡明な知性をもってらっしゃるので、このセッションは非常に充実したものとなりました。

ここではそのセッションに参加した私の主観的なまとめを報告します(詳しくは上記サイトから資料をダウンロードしてご自分の目で確かめて下さい)。なお「英語教育研究法」とありますが、今年度は実証研究と実践報告に関するものだけで、理論研究と調査報告は扱われていませんでした。





亘理陽一 

 「論文の分類、分析方法の提案」


亘理先生は、実証研究論文をとりあえず、 (1) 研究目的が探索的か検証的か、 (2) データが量的か質的か、 (3) 提示されている結論が探索的か検証的か、という三つの観点から分類し、2 x 2 x 2で8通りの類型を出しました。その結果、好ましくない類型とされるのは以下の二つとなります。
・研究目的は探索的であり、明確な仮説も仮説検証方法も提示されていないのに、結論部分では「検証した」との主張がなされている論文で、データが量的なもの。

・同じく、研究目的は探索的であり、明確な仮説も仮説検証方法も提示されていないのに、結論部分では「検証した」との主張がなされている論文であり、データが質的なもの。






浦野研 

「紀要論文の分析」


中部地区英語教育学会紀要36-41号の実証研究151本を分析したところ、以下のようなことが判明した。

・61.6%が探索的なものであり、仮説とその検証方法を明確にした仮説検証型(30.5%)より多かった。

・特に多かったものはアンケート調査を中心としたものであり(49.0%)、中部地区英語教育学会の実証研究の約半分はアンケート調査である、と言っても過言ではない。

・質的データを扱った研究は13.9%と少なかった。


ここから浦野先生はご自身の考察として次のようなことを述べました。
・探索型研究が多いのは、 (1) ページ数制限などから先行研究の総括が十分に展開できないか、 (2) 「とりあえずデータを集めました」的な研究が多いからではないか。

・質的研究が少ないのには、(1)そもそも質的研究法が浸透していない、(2)ページ数制限が足かせになりthick descriptionができない、(3)査読者が質的研究に精通していないため、適切な審査ができていない、といった理由があるからではないか。






髙木亜希子 

「実証研究 (主に質的データを扱っているもの)」


髙木先生はリン・リチャーズ、ジャニス・モース著、小林奈美監訳 (2008)『はじめて学ぶ質的研究』(医歯薬出版)を参照文献に挙げ、質的研究の二つのタイプを示しました。

(1) 研究者の立ち位置は問題にせず、質的データを用いている研究

(2) 解釈的な (interpretive)、および批判的な (critical)な視点に立ち、現象を深く詳細に理解したい、複雑な状況や変化しながら移ろいゆく現象の意味を理解したい(小林, 2008)などの目的を明確にして、質的な方法論を選択し、質的データを用いた研究


ここで私見ですが、これは非常に大切な区分で、私は (2) こそが「研究」の名前に値すると考えています。別の言い方をしますなら、研究者が対象を観察する(=一次的観察)をするだけでなく、その研究者の対象観察自体を、反省的に・自己言及的に二次的観察することが、広い意味の「客観性」を得るためには重要だと考えているからです。(参考:言語教師志望者による自己観察・記述の二次的観察・記述 (草稿:HTML版))。

この区分は、質的研究だけでなく量的研究でも大切であることは、次の発表からも伺えたように私は思っています。





酒井英樹・藤田卓郎 

「過去数年間の掲載論文で見られた方法論上の問題点の整理」

酒井先生と藤田先生は、「過去の論文には、以下のような点での「自覚」がない論文があった。研究者が自らの研究アプローチに対して自覚を欠いていることは、研究論文の価値を大きく損ねると思われる」と述べられました。
・知の創造の歴史的な過程の中で、自分の研究の貢献するところを明示することを怠っている。

・「哲学的に見れば、研究者が行う定義(クレイム)は、知識とは何か(存在論)、私たちはそれをどのように知るのか(認識論)、そこにはどんな価値が持ち込まれているか(価値論)、それをどのように書き起こすか(レトリック)、そして、それを研究するプロセス(方法論)に関して明言することを意味している。」(Creswell, 2007, pp. 6-7)のに、その明言を怠っている。


参考文献:John W. Creswell著、操華子・森岡崇(訳)(2007) 『研究デザイン-質的・量的・そしてミックス法』日本看護協会出版会





田中武夫 

「中部地区英語教育学会紀要における「実践報告」論文の傾向と課題について」


田中先生の発表は、実証論文ではなく実践報告についてのことでした。田中先生は「日頃の授業で教師がどう問いを立てどうデータを集めどう分析しどう解釈すれば、公的な授業研究となるか?」という公共性を本発表の研究動機の一つとしてあげていました。

田中先生はEllis (2012) Language Teaching Research and Language Pedagogy (Wiley-Blackwell) の枠組みを使い、"Practitioner Research"の下位区分として、(1) Action Researchと(2)Exploratory Practiceを提示しました。

私はこのEllisの本を読んでいませんが、この下位区分には少し違和感を覚えます。私自身もExploratory Practice (EP)についてはこれまで考えてきて(参考:柳瀬のブログ記事のExploratory Practiceカテゴリー論文も上梓しましたが、私の理解は、EPはあくまでもExploratory Practiceであり、教師と学習者が疲弊してしまうことなく実践を続けること、およびその続ける実践が惰性的なものでなく探究的であることが重要であるというものです。ですから極限すれば、EPはpracticeであり、researchではありません。もちろんEPからリサーチに発展することはありますし、それは実践者に余裕がある限り奨励されるべきでしょうが、EPはあくまでも日常的なものだと私は考えています。


こういった流れを受けて、私は(前にもお知らせしましたように)今年8月4日に全国英語教育学会で研究課題フォーラムを開催します。


英語教師が書くということ
-日本語あるいは英語による自らの実践の言語化・対象化-



さらに附言しておきますと、私が書いたEPに関する上記論文を受けて、「柳瀬はアクション・リサーチを批判・否定・敵視している」といった誤解をされていらっしゃる方がまだいらっしゃるようです。この誤解を解くための文章は、過去にもこのブログで書いてきましたが、ここで改めてそのような誤解をきっぱり否定します(というより私の論文をきちんと読んでくださったら、そのような誤解は生じないのではないかと思っているのですが、まあコミュニケーションというのは話し手の意図を超えて展開するものでしたね (笑)←自らの文章能力の欠如に鈍感な者による、僅かな二次的観察の試みwww)。

ともあれ、「英語教育学」といった実学では、どう実践者の方に参画していただくかというのが大切になってくると思います(これは、このセッションの後に話をした多くの方も異口同音におっしゃっていたことでした)。この「実践報告」に関する今後の総括を楽しみにしたいと思います。



***

私は以前「英語教育学には本格的な歴史 (=学史) がない」と述べていました。研究する自分達に対する自己省察(言い換えるなら、(一次的観察を行った)研究に関する二次的観察)の本格的なものがなかったように思えたからです。しかし、このようなセッションは、自らの立ち位置や研究方法なども十分に自覚した上で、この自己省察を行い「英語教育学とは何であったのか」を検討し、これからどうあるべきかについての指針を得ようとしています。

私はしっかりと勉強をしている(というより私なんかよりはるかにきちんと勉強をしている)英語教育学の若い世代には期待をしています。





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