2012年3月12日月曜日

『週刊ST』(2012/3/16)の胡子美由紀先生の記事と編集部のコラム



ジャパンタイムズ社が発行する英語学習紙『週刊ST』(2012年3月16日号)をご恵贈いただきました。このブログでも何回も紹介してきた、広島市立早稲田中学校の胡子美由紀(えびす・みゆき)先生の記事が載っていましたが、その胡子先生と編集部の「(玉)」氏の文章がよかったです。

ここで全文を紹介したいぐらいですが、もちろん著作権があり商品でもある文章を全文引用することなどできませんから、ここではその一部だけ紹介します。


胡子先生がエッセイで強調していることは「場所」を作ることです。もちろんこの「場所」とは、建物としての学校とか教室とかいった物理的空間ではありません。では胡子先生のいう「場所」 ―あるいは「場」― とは何か? 胡子先生がこの「場所」を築き保つために何を心がけているのか?ぜひこのエッセイをお読みください。

短い文章ですし、平易なことばで語られていますので、さらりと読み飛ばしてさえしまうかもしれないエッセイかもしれませんが、この平明な文章は、胡子先生の長年の、日々絶えることのない実践に基づいていますから深いものです。英語教育も妙に「研究」として捉えられて、やたらと小難しい用語や目新しい術語を振り回すことばかりが横行していますが、本当の言語的知性とは、平明なことばの底にある深いものを感じることができることだと思います(もちろん平明なことばとは、通俗的な常套句とも違うのですが、これはまた別の話として)。

私という人間はまだまだ小賢しさで自他をごまかすことが多い者ですが、それでもこの文章を読んでしみじみと「なるほどそうだよなぁ」と思い、「べてるの家」実践を思い出したり、最近20年ぶりに本棚の前面に出した西田幾多郎の諸作品を読み返してみたいなと思ったりしました(私は読書でことばの力を得て、実践の現場での観察をできるだけ深く的確なものにしようとしています)。


もちろんここで私が言いたいのは、胡子先生の文章がよかったというだけではありません。この文章がいいのは、胡子先生の実践がいいから(そして胡子先生がその実践について妙に小賢しい用語や術語を使わずに語っているから)です。大切なのは実践です。

その胡子実践については、編集部の「(玉)」氏のエッセイがよく伝えています。早稲田中学校では一年生の後期に校長先生が一人一人の生徒に面接をするそうですが、その時に校長先生が最初の生徒に「自己紹介をしてください」と言ったところ、生徒は思わず「英語でですか?」と聞き返し、面白く思った校長先生が頷くと、その生徒は3分間英語で自己紹介をしたそうです。それどころか胡子先生が担当していた生徒は、結局全員が英語で自己紹介をしたそうです。

胡子先生の記事を観察した「(玉)」氏は、エッセイをこう締めくくります。


楽しげに英語で自分を表現し、コミュニケーションをしている生徒たちを見ていると、これは英語の授業というよりも、人間教育の場なのだ、という思いが強くなる。生徒が習っているのは、生き方の問題なのである。



このような文章を読んだ時の反応は大きく二つに分かれます。一つは、「うん、やはりそうだよなぁ」としみじみと頷くもの。もう一つは、読んだ途端に冷笑的な表情を顕わにして、妙に落ち着かない声で「えーっ、でもたかだが語学の訓練に、『生き方の問題』もないでしょう。てか、精神論でごまかしたりするのは、日本人の悪い癖じゃないんっすか?」と、からだを斜めに傾けながら、顔を歪ませニヤニヤするものです。

「語学訓練とは、究極的には口舌運動訓練であり、『人間教育』や『生き方』の問題とは別問題である」というのは一つの考え方であり、私も英語教育のある側面はその考え方でも捉えられると思います。しかし、同時にそれは表層的な二元論 ーからだの働きと心の働きをまったく別のものと考える、デカルト以来の西洋近代の一つの流行― であり、それが唯一の考え方でもなければ、人間を考える際に有効な考えとも必ずしも言えないと思います(養老孟司氏の文章には人をくったようなところがありますから、読みにくいと思う人もあるかもしれませんが、養老氏の文章などを読んで理解できる人ならすぐに同意してくれるでしょう ―もちろん、この理解には「バカの壁」を越えなければならないのですが(笑)―)。

私は昨日、JALT広島支部で、武道と外国語学習を認識論の立場などから比較して考察するお話をさせていただきましたが、そこで紹介した西洋近代文明が入ってくる前の日本の技能論には、本当にすばらしい洞察があることをしみじみと思い知りました。

二元論を当然の前提とせずに、一元論で考えてみるなら ―心とからだを同じ「一つのもの」の別様の現れとみなすなら― ずいぶん違った光景が見えてきます。そしてその光景こそは、すぐれた実践の現場で私たちが目にするものであり、それは学校教育現場に限らず、職人の現場でもそうであることは、例えば西岡常一氏らが『『木のいのち木のこころ―天・地・人 』』などで述べている通りです(この本も私は今久しぶりに読み返していますが、本当に素晴らしい本です。その一部は英語ブログで翻訳して、武道関係の書と並んで、広く世界に紹介したいと思っています)。


この胡子先生に限らず、日本各地には優れた実践者がいらっしゃいます。そしてのこの『週刊ST』の(玉)氏に限らず、すぐれた実践者を見抜き評価できる方もいらっしゃいます。

ですが、「英語教育学」なる制度、「学会誌」なる「真理の体制」は、果たしてこのような実践者を支援しているのか。教育行政もこのような実践を育てているのか ― こういったことについて私が根本的な疑いをもっていることは、このブログを以前からお読みの方々にとっては言うまでもないことでしょう。ですから私は一人でもブログという「真理の体制」からはみ出た媒体で書き続けます。引退するまではその「真理の体制」を少しでも実践者を支援するものにできるように尽力します。


と、話が硬くなりました。まあ、『週刊ST』か以下の胡子先生の本でもお読みください。











1 件のコメント:

  1. 管理人よりのお知らせ
    この記事に対してある匿名氏による投稿がありました。
    真摯な内容と思われますが、管理人としての判断でそのコメントは管理人のもとにのみとどめ、ここでは公開しないこととします。
    投稿してくださった匿名氏ならびに読者の皆様のご理解をお願いする次第です。
    2014/03/19
    柳瀬陽介

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